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由無し一家番外編  作者: しめ村
王都の学生の日々
8/13

3年生・3


 三度目の冬の長休みに入り、リベカは実家の祖父母から届いた土産物を携え、友人のアンジェリンとエイジアとともに三度目のヴォジュラの地を踏んだ。

 見晴らしだけは良い広大な荒野を、飛ぶようにひた走る馬車から眺め遣る。街道は人里を離れると整備が行き届かないところもままあり、でこぼこした足場がもたらす振動音と尋常ならざる速度がもたらす風切り音が馬車の箱の中を不協和音で満たす。領土こそ広いが街と街の間隔が広いヴォジュラ領では、やむを得ないことだとリベカは同情的な寛容で受け止めた。

 道中すれ違う車や旅人が皆無だったわけではないが、あまり見掛けなかった。見かけた気がしても、あっという間に通り過ぎてはるか後方へ遠ざかってしまうのだ。

 実家から土産とともに届いた祖母からの手紙は、少し長かった。リベカの健康祈願と学業成就を気遣い、ヴォジュラご領主とご家族の皆様によろしく――そんな年末最後の手紙のいつもの文面に加えて、リベカが勉学に励み順調に進級を果たしていること、学友と仲睦まじく過ごしている様子を嬉しく思う、おじい様もお喜びですよ、都合がつけばでいいのでこちらにも里帰りしませんかと書き添えてあった。

 気まずいようなくすぐったいような思いに囚われ、目を逸らしてしまったが、しばらくしてから改めて読み返しても、その文章は見間違いではなく、忽然と消えたりもしないのだった。

 最後の一文には呻吟した。実際に顔を合わせて、今までのぎごちない態度がなかったかのように、あるいは隔て心を素直に詫びて甘えられるかどうか自信がない。折角の長期休暇なので、しばらくは心の棚に上げておくことにする。

 友人の家族は皆あたたかく歓待してくれ、一人一人が護衛を兼ねている屈強で身ごなしに隙のない使用人たちは親切。身を切るように寒いヴォジュラの冬のさなか、いつでも快適を保った温かい室内は去年にも増してリベカの好みの設えになっていて、おいしいお茶とお菓子が用意されている。食事は華美ではないがおいしく、いつも充分な量が用意されている。食べきれない量が大皿に盛られて出てくるのは土地柄であるようだった。

 アンジェリンはヴォジュラ貴族の子女たちが挨拶をしに来たり招待を受けたりと多忙な日々を過ごすようになったが、空いた時間はできるだけ王都の友人二人が平穏な休暇を楽しめるよう心を配った。過激でないものという条件で選んでもらった観光先や王都では珍しい雪景色の見どころを案内してくれ、時折猛吹雪に見舞われて部屋に籠っていても風の唸り声しか聞こえない夜に肝を冷やすリベカの下にやってきて励まし、気が紛れるようにと同じ部屋に泊まっていってくれるのだった。もちろん、そんな毎日の中でも、日に決まった時間を消化する運動は欠かさない。

 リベカも少しばかり芽生えた克己心を発揮して、時々はヴォジュラ貴族子女の小規模の集まりに参加しては演技力を磨いたりもするようになった。ヴォジュラ貴族の少年少女は王都の高等学校と比べると、純朴で古風な物の考え方をし、清々しくも直情的だった。リベカのことを中央貴族の高貴なご令嬢と称賛してくれるので、少しの気分の良さと気まずさをリベカは味わった。そのうち、武を尊ぶヴォジュラ貴族の子女の中にあっても、アンジェリンの果断さと優美さは群を抜いていると内心で番付をできるくらいには、気持ちに余裕が生まれるようになっていた。

 騒がしい気配が館の外を震わせ、魔物が襲ってきたという叫びやら大勢の人馬が出動していく轟きやらが聞こえる日もある。1年目の滞在にはぎょっとしていたものだが、3年目の今ではもう慣れた。

 そんな中で、リベカの周囲はおおむね平穏に過ぎて行く。



 きたかぜの月の積雪が途切れたある日、リベカが館内の廊下を歩いていると、向こうの角からアンジェリンの華やいだ声が聞こえてきた。

「弟ですって!? あなた、弟さんがいるの!?」

 リベカが立ち止まって首を傾げていると、向こうの角から友人が二人の男性と連れ立って現れた。

 男性のうち一人は、一目でアンジェリンの親族と分かる顔立ちと瞳で、今まですれ違い程度にしか顔を合わせたことのなかった彼女の下の兄であると分かる。髭を蓄えているアンジェリンの上の兄から髭を取り去って少し若くしたようにも、アンジェリンに男性的要素を一通り盛ったようにも見える青年は、一言で表すならば美男子だ。

 リベカは友人の兄ではないもう一人が、去年使用人の仕事場で遭遇した男性だと分かった。昨年の彼は屋外で遭遇したため帽子を目深に被り顔を覆面で覆っていたが、王都では滅多に見かけない大柄な体格ばかりではなく、近づくことを躊躇われる威圧と同居する侵しがたい静謐は、他では覚えのないものだった。

 アンジェリンは二人の青年をかわるがわる見上げていかにもウキウキとした様子でいたが、リベカの存在に気づくと、これまでのアンジェリンの笑顔の中でもいっとう愛らしいはにかみ笑いを浮かべて場を繕った。

「ごめんなさい、あたくしったら。兄上、ジェオフレイ、彼女は王立高等学校のいちばんの友人でリベカ・コルネイユです。リベカ、あたくしの下の兄のイズリアルと、兄の側近のジェオフレイよ。彼はとっても強いの。あたくしの知る限りいちばんよ」

 とっても、という一語を強調して、まるで自分のことのように自慢げに胸を張るアンジェリンのしなやかな指先が示す先で、感情のうかがい知れない薄青の瞳でリベカを見返した大きな人は、礼儀にかなった丁寧な礼をとった。

 昨年会った時と同じ、朝靄の中静かに佇む超然とした霊獣のようだった。無造作に伸ばされた灰色の髪を背に流しているさまも、なびく鬣を想起させる。リベカの中で怯えにも似た近寄りがたさを生むのは、その威圧感ゆえか、異質さのせいか。

「私のことも覚えてほしいな。どうぞよろしく、リベカさん。妹の友達と挨拶ができて嬉しいよ」

 愛想よく微笑むアンジェリンの兄イズリアルは、外見は王宮騎士団の巷の女性人気首位を誇る騎士サヴィアに引けを取らない近寄りがたいまでの美形でありながら、態度は案に相違して打ち解けやすいものだった。握手のために差し出された手を、リベカが抵抗なく握り返してしまえるくらいには。本人の気さくな振る舞いもあるだろうが、よく似た妹の顔を見慣れたために、リベカの中である程度の耐性が培われているようだ。

「お話し中にお邪魔いたしましたのに、ご丁寧にありがとう存じます」

 まだ兄達と話し足りない様子の友人を見て、リベカは気を利かせてその場を辞した。正直なところ、灰色の髪の人の近くにいるのが息苦しいほどに気づまりで、怖かったのだ。

 精一杯丁寧な中央風のお辞儀をしてゆっくりと踵を返し、少し歩いて自分に宛がわれている客室のある棟への渡り廊下に向かう角を曲がる背中で、リベカは再びアンジェリンが青年たちに話しかける声を聞いた。

「ねえ、ジェオフレイ、あなたの弟さんに、あたくしも会える? ぜひ仲良くなりたいわ」

 アンジェリンの、あんなに浮ついた、甘えるような声を初めて聞いたリベカは、友人の憧れの人を推測した自分の直感が間違っていなかったと確信を深めた。彼の方がどう思っているかは知らないが、あまり現実味のない組み合わせだなと感想を抱く。身分差を置いておくにしても、一目見ただけで熱量の差異があからさまで、ちぐはぐだったのだ。

 あの人がそういった人間的な恋情に身を窶す人ではないことがリベカにすらわかったのだ、アンジェリンとてわかっていよう。未だ淑女になり切らず、この屋敷のお嬢様でいる間だけ許されている子供らしさを、許される範囲で発揮していることに。

 友人の、はじめから決定していた失恋が、懐かしく思い返せる美しいものになればいいと、リベカは密かに祈った。


 その日、夕食の席で、アンジェリンは開口一番こう言った。

「エイジア、あなたに会いたいと言う人がいるのだけれど、明日にでも時間をもらえないかしら?」

「それだけの情報じゃ会う気がしないとしか答えられない。どこの誰が、何の用で言っているんだ」

 アンジェリンの家族も同席しているので、エイジアの言葉遣いはやや穏便だ。

 ちなみに、アンジェリンの両親は彼女たちと入れ替わりに王都にいて不在、上の兄は西のなんとかいう街に危険度の高い魔物の群れが出たとかで、領主代理である彼自ら討伐隊を率いて出て行った。アンジェリンが言うには兄の身は心配していないが自分たちがいる間に戻っては来ないかもしれないということだった。下の兄も仕事中で都合がつかないと連絡があり、上の兄嫁であるペトラ夫人がもてなし役を務めている。

 一家の唯一の大人となっている状況が続き、彼女の淡褐色の目元にはわずかに疲れが見て取れる。それでも、どちらかといえば地味な面輪に浮かべた優しい微笑みを絶やさず、彼女の小さなお客たちが心地よく食事できるよう細やかに満遍なく言葉を交わし料理を勧め、それを決して押し付けがましくないと感じられる程度に留めるさりげない心遣いを示してくれる。こうありたいものだとリベカは好もしく思った。

 友人たちの会話は続いている。

「兄の知己で、今この館で預かっている人なの。魔法の研鑽のかたわら、種族の枠に囚われず交友関係を広げて知識を得たいという考えを持っていて、この街に住んでいる妖霊人と積極的に関わりを持っているのだけれど、特に同年代の知人がいないそうで、あなたとぜひ話をしたいのですって」

「そういう好奇心旺盛な奴にはロクな思い出がないんだがな」

「魔法の特色や掟などで禁じられていない範囲で構わないし、あなたが嫌なら断ってくれていいと言っているわ。あたくし、先んじて会ってきたけれど、隔て心のない、感じのいい方よ。剣士としても魔術師としても優秀で、その分礼節を弁えることを知っていらっしゃるわ」

 アンジェリンの言葉からは、エイジアと、エイジアに会いたがっているという人、双方への気遣いが窺えた。

「……まあいい。世話になってる立場だし、特に予定もないからここはアンジーの顔を立てる」

 その段階では、リベカには関係のない話だったので、リベカは口を挟まなかった。



 リベカがその少年に会ったのは、その翌々日。

 本館の自室に引っ込むアンジェリンとお休みの挨拶をして、客用棟に戻ったリベカの視界に、玄関広間の隅に設置された待合用の椅子に座るエイジアと黒い髪の少年が映った。

 前回も、相手は仕事を抱える身でこちらは主家の客という立場なので、相手方の身が空く夕食後に、館の客用棟に彼が出向いてくるという形で面会が行われたと聞いている。

「ようコルネイユ、せっかくだからこっち来いよ、紹介すっから」

 黒髪の少年の視線を追ってリベカの存在に気づいたエイジアが、座ったままぞんざいに手招いたので、リベカはせっかくだから関わりを持ってみることにした。エイジアが、彼の言う好奇心旺盛な奴との面会に渋々と向かった割には、また会うにやぶさかでないと感じたならば、人柄は悪くないのだろうと判断したのだ。

 少年は立ち上がり少し堅苦しい礼をした。鍛錬の結果であろう穏やかな無表情は、エイジアと差し向かいで話していた直前までは笑顔だったことから、目上の相手への対応の方向性を用心深く測っているものと思われる。彼の礼の仕草は、不思議と灰色の髪の大きな人のそれと似ていた。

「コルネイユ、こいつが、この前アンジーが言ってた奴。エミ、こっちはアンジーの友達の王都貴族のお嬢様だ」

 仲立ちを務めるエイジアの紹介はざっくりとしている。くつろいでいるのか、緑にきらめく頭髪と瞳は生き生きとした若葉色だ。

「お初にお目もじつかまつります。わたしはケイセイ・エミと申します」

 黒髪の少年はリベカより少しだけ背丈が高いくらいの中肉中背で、鳥の子色の肌のあっさりした顔立ちと濃い色の瞳、額を覆う黒髪というありふれた見た目だ。王都以東では珍しくもない体格だが、大柄な人間の多いヴォジュラにあっては一際小柄に見える。

 少年の隣に黒い毛皮の仔ヤギが隠れるように立っているのを見て、リベカは彼が昨年使用人の作業場で見かけた荷運びの少年であること、彼がリベカのことを覚えていないと知った。

「……リベカ・コルネイユと申します。去年も、あなたとその仔ヤギちゃんを見かけましたわ。荷運びをなさっていました。その時も仔ヤギを連れていましたね。同じ子ですか?」

「はい、お嬢様。これはわたしの使い魔のゴーディアスです。使い魔は、成長や老化をいたしません。これは5年近く、この姿でおります」

「メエ」

 ケイセイは、身を寄せる仔ヤギを撫で返すこともなく、かしこまってそう答える。しかつめらしいヴォジュラ訛りが混じるものの、館の他の使用人たちと比べれば訛りは少なく、中央寄りの言葉遣いであるように思われた。そう判断するリベカとて、東訛りを排して話すには未だに注意が必要な身の上なので、人のことをどうこうは言えない。

 主家の客である貴族相手にがちがちに緊張しているふうでもなく、まずは反感を招きにくい口調と声音で話して相手の出方を見るといったところだろうか。慎重な少年だとリベカは思った。

 魔法に詳しくない彼女は、同年代の少年が5年も前から使い魔を有するという事が、彼が魔術師業界にとって逸材であると示す事実だとまでは気づかなかった。黄色いリボンを首に巻いた仔ヤギは、かわいがられているのだろうとわかるだけで、使い魔として凄そうな何かを秘めているようにも見えない。

「どうぞ、そのように隔てなく、お楽になさってください。アンジーのお友達としてシェイファーさんにご紹介されたのでしょうから、私のこともどうぞリベカと名前でお呼びになって、お友達としてお話ししてくださいな」

 リベカは、昨年こそ諦めたものの、平民階級を懐かしく思う心を捨て去ってはいなかった。してはならないとされることを敢えて冒そうとまでは思わなかったが、縁あって堂々とこの下働きの少年と親しく話ができるなら、その機会を逃したくないと思った。

「ご寛容、ありがたく存じます、リベカ様」

 エミ少年は、にこりと笑った。まるきり普通の男の子の笑顔だったが、リベカがこれまで見てきたそれらと比べて粗野でなく、幼げにすら見えて、ひどく純真なものを見たような心地に囚われた。

「お二人で、何のお話をなさっていらしたの?」

 エイジアが、ここでは堂々と晒している裸足の足を組み換えながら答えた。目を逸らされる。

「魔法についてとか、妖霊人についてとかの色々な」

 あまり突っ込んで聞いてほしくはなさそうだったので、リベカはすぐに了解の眼差しをエイジアに向ける。彼はそれに応じて話題を転じた。

「こいつ、ここで住み込みで働きながら組合員目指してるんだってよ」

「魔術師組合ですの?」

 これにはエミ少年が答えた。

「いいえ、観光組合です。地域や人によっては、傭兵組合や治安補助組合などとも呼びますが、このヴォジュリスティでは観光を危険や滞りなく完了できるためのお手伝いをするためという抱負を掲げて、この名称を名乗っています。ヴォジュラでは、組合は尊敬されています。だからこそ、登録するための審査が厳しいのです。一方、王都では、組合に登録するのは簡単ですが、価値が低いと聞きました」

 自分で尋ねておいてなんだが、リベカの興味をそそる話題ではなかった。それでも話を振った手前、礼儀正しく相槌を打つ。

「必要とされていない、というわけではありません。騎士団やその下の警備隊などの公的機関を頼るとすれば、さまざまな条件や煩雑な手続きが必要で、一市民からの訴えのために即動いてくれるということが難しいので、お悩みの種類問わず市民が相談を持ちかける所という位置づけなんですの。特に周辺の小さな村落では正規の兵士が駐在していないところも多いので、そういったところでは組合は頼りにされています。言うなれば何でも屋ですわね」

「お前さらっと毒吐くようになりやがったな」

「言葉を取り繕って誤りを植え付ける方がお気の毒ですわ。若くして組合員になればご苦労なさるのが目に見えていますもの」

 エイジアの真顔の突っ込みにリベカも真顔で答える。するとエミ少年は相好を崩してそれに同意した。

「なんでも屋とは、光栄な呼び名です。いかなる物事に軽重の別なく、助けを必要としている人にお力添えすることが、組合の理念であると学んでおります。わたしはたくさんの人が幸せと安全になるために、何でも挑戦し、お役に立ちたく存じます」

 きらきらした目で力強く言い切られて、思わずリベカとエイジアは沈黙した。二人の間では常態化した斜に構えた応酬が、やけに汚れた態度であるかのように思えてくる。こそりと見合わせば、双方が思いを等しくしていると伝えた。


 それから、何度かケイセイと、エイジアやアンジェリンを交えて会い、交流を重ねた。

「ところで、おまえ、黒山羊って呼ばれているんだってな。昼間、通りすがりのおっさんに今日はケイセイに来てもらえるかって聞いたら、誰のことだって顔してから『黒山羊でございますな』ときた。魔術師なりたてのくせしてもう通り名が定着してるのか」

 エイジアが最近増えたニヤニヤ笑いを交えてからかえば、ケイセイは「偶然だったのですよ」と弁解した。

 黒山羊の通り名は、いつも黒い毛皮の仔ヤギを連れ歩いていることに由来する。それが資格魔術師でもある彼の使い魔であることも同様に知られているが、一般的に斥候活動に適している猫や蛇や鳥などではなく、仔ヤギの使い魔というのは珍しいのだそうだ。

 本人はやや気まずそうに、だが隠しだてもせず、制御不全の魔法事故によるものだったと打ち明けた。

「上洛した時から使い魔がいたので、知り合いの人々からは二人一組という風に見られているのですね。ですが、今はこれでよかったと思っています。このとおり、小さくてできることが少ないので進んで危ないことをさせなくて済みますし、危険から守らなくてはと思うから、ひいては自分を含めて安全重視の考え方になりますからね。この子はいい意味でぼくの手綱を引いてくれるのです」

 リベカは、ふと、アンジェリンにとっての自分という存在も、また同じような意義を持っているのかもしれないと思った。

 ケイセイはアンジェリンによれば彼女が束になってかかっても勝てないくらい腕が立つ剣士であり、エイジアいわく王立高等学校の魔法学講師よりはるかに優れた魔術師であるとのことだったが、リベカの見るところ見た目からも雰囲気からも全く凄さが伝わってこない、至って普通の少年だ。

 仕事中は真面目に働いて過ごし、余暇で魔法の勉強と武芸の鍛錬を重ね、合間に積極的に人との交流を深めて知識を吸収しようとし、人の親切を感謝し、自分に好意的でない人との接し方を模索するのも大人として必要なことを学ばせてもらっているのだと謙虚に受け止め、それらの全ての事柄を楽しんで、貪欲なほどに限りある日々の時間を実りあるものにしようと努めていた。

 彼を見ていると、自分の拘りや躊躇いが取るに足りないものであるかのように思われ、いつしか気分が先々まで見通せそうなくらいに澄み渡るような気になる。彼はヴォジュラ男子としての例に漏れず、年配の家族へ深い尊敬を寄せているようだったが、働き始めて実家を離れると家族への愛情は深勝るばかりだと真率に語った。

 彼の話を聞いているうちに、リベカは祖父母へ手紙を書きたいと思った。

 こんなことがありました、こんな風に思いました、おじい様・おばあ様はいかがお過ごしですか――そんな風に書いてみたいと。

 ずっと幻滅されることを恐れてきた。期待に応えられないと予防線を張って、来るかもしれない拒絶に怯えて備えていたに過ぎないのだと、それはつまり期待をしていることの裏返しなのだと、唐突に気付いたのだ。自分から歩み寄る努力をせずして、向こうから無条件の愛情を求めるのは虫が良いではないか。彼らだって拒絶を恐れ期待をし、手探りなのだ。そんな風に思えた。初めてのことだった。

 小川の側で小さなきらきらする小石を見つけて、それを大事に握りしめて両親に見せようと逸る気持ちを持て余しながら帰路を急いだ小さな頃の自分の、わくわくするような面映ゆいような気持ちを胸の奥に見出して、今またその灯を大切に心の中で抱え込んだ、そんな気持ちは。



 次の日、朝食の席でアンジェリンは今日は所用で出かけるので、昼食は同席できないと詫びた。そういう日は今までにも時々あったので、リベカもエイジアも特に詮索せずに頷いて別れた。

 しばらくの後、エイジアが庭の端から、アンジェリンが暗い色のドレスを着て歩いていくところを遠くから目撃したことで、いつもと違う様相を呈することとなった。

「なにかあったのかしら」

「屋敷の他の人間には、いつもと違った様子はないんだけどな。喪服着てたのもアンジーだけだったぜ」

 その日の昼食時、ペトラ夫人と譲り合うような挨拶を交わしてから、言葉少なに食事をする。彼女は気掛かりがあるのかどこか上の空で、食もあまり進んでいないように見えた。

 早く食事を終わらせてお開きにした方が彼女のためにはよいのかもしれないがと、リベカは申し訳なく思いながらも彼女に尋ねてみることにした。後でアンジェリンと顔を合わせた時にお悔やみを言おうにも、正確なところがわからなければ実のないものになってしまう。

「実は、今朝、アンジーが喪服をまとってお屋敷を出て行くところを見たのです。遠くからでしたので声をかけることもなりませんでしたが、なにか急なご不幸でも……?」

 おずおずと尋ねたリベカに、夫人は少し疲れの窺える目元をなよやかに緩めて、落ち着いた物腰で答えた。

「わたくしも人伝に聞いたお話になりますが、あの子の乳姉妹が、6歳の時に辺境風邪を拗らせて亡くなったそうですの。今日がその命日なのですよ」

「まあ……」

「その子のお墓と、今は隠棲している乳母の慰問に参っているのです。乳母も娘を亡くしてからというもの、その子の分までアンジーを慈しんだそうです。その子が生きていれば、王都の学校にも供に参らせていたのでしょうが、義妹はもう自分のことは自分でできると申して、一人で旅立ちましたの。リベカさんとエイジアさんが義妹と仲良くしてくれて、わたくしども、ほんとうに救われる思いでおりますのよ」

 そういえば、ジリアンとブラムも乳兄弟だと聞いている。その他にも、王都の高等学校にいる貴族学生の中には、同じような主従関係の学友がいる者は多かった。

 アンジェリンはなんでも一人でできてしまうしそれを故郷の気風だと言われてそんなものかと信じていたが、王都から一番遠い辺境領の姫が一人で来ていることがそもそもおかしかったのだ。リベカは己の不明を恥じた。昨年と一昨年の長休み中にはそれらしい話を聞いてもいないし、目撃情報もなかったが、アンジェリンはあえて口にしなかっただけで、毎年命日に合わせて出かけていたのだろう。

「辺境風邪は重いと聞き及んでおります。乳姉妹を亡くされたアンジーも、お小さいお子様を亡くされた方も、さぞかしお辛かったことでしょう」

「ええ、特にヴォジュラでは、生涯に一度はかかって耐性を育んでおかないと、大人になってからより重篤になるとのことで、若い、できることならば子供のうちに罹患しておいた方がよいとされております。それでも、子供のうちであれば治りやすい、というわけではございません。大人になってから罹るよりましとはいえ、幼い子が苦しむ様を見るのは耐えがたい思いがいたしますの」

「……あの、もしかして、お子様が今辺境風邪を召していらっしゃるのですか?」

「……ええ……朝まではいつも通りにしていたのですが……急に体調を崩してしまいましたの。お医師と医療を事とする魔術師を呼んで対応させておりますが、わたくしにしてあげられることが何もなくて……せめてと傍についていてあげようとするのですが、わたくしも辺境風邪には未だ罹った事のない身、子から移っては大事だと説得されては私意を押し通すこともならず……あっ、もちろん、皆さまには決して病をお移しすることのなきよう、十全の対策を図っておりますから、どうかご安心くださいませね」

 こうして丁寧に歳若い義妹の友人に応対してくれるペトラ夫人は、本当は気が気でないに違いない。リベカとエイジアは心からのお見舞いを述べて、席を立った。


「何か、お見舞いを差し上げられればいいのだけれど……」

 エイジアと並んで客用棟に戻りながら呟くと、言葉少なに考え込む素振りだった彼が、唐突に言った。

「おれは風邪ってのを引いたことがないから、その症状や辛さがわからん。お前は、風邪にかかったことあるか?」

「ありますとも。呼吸器系の疾患で、私の時には発熱や鼻詰まりや喉の炎症とかが起こるの。でも、さっきも言ったように、辺境風邪は国内のよその風邪とは違ってかなり重いらしいわ。ご領主様のお孫様だから、ヴォジュラ一のお医者様や魔術師様が手を尽くしていらっしゃるとは思うけれど……」

「なあ……ちょっと、思い付いたことがある。手伝ってくれるか。外行きのカッコして来てくれ」

 リベカは首を傾げながらも言うとおりに着脹れて戻った。

 エイジアは外套と帽子を身に着け、その辺の花瓶から引っこ抜いてきたものと思われる切り花の束を掴んで別れた地点で待っていた。彼は廊下の向こうにいた使用人に庭へ出ると声をかけてから出て行くと、庭へ下りる石段の下の雪を足で蹴散らし始める。

「どうしたの?」

「薬学の実習で薬を作ってみたことあったんだが、あれ、具合の悪い人間には飲みにくいだろ。しかもアンジーの甥っ子はたかだか2歳児だ。意識があるかどうかもわからねえ。喉だの鼻だの詰まってるんじゃ猶の事だ。飲まずに効く薬が作れるんじゃないかと思ってよ」

「……そんな物があるの!?」

「ガッコで習った物の中にはなかったが、多分できる。表証を掃う薬効を発散型で再現するだけだ。ただ、おれは風邪ってのがわかんねえからさ。おまえ、ここで効きそうかどうか判断して助言をしてくれ。微調整が必要になる」

 空気に触れる生身がすぐに感覚を忘れてしまう寒さの中、躊躇いなく手袋とブーツを脱ぎ捨てたエイジアは、石段の一番下の段に腰を下ろし、先程雪を除いて現れた凍った土を踏み締めた。足指が堪りかねたように縮こまり、小さく呻き声を漏らしたが、それ以上の防衛反応を耐えて、早くも指先が緑色に染まりつつある両手で、持ってきた切り花の束を握り締める。

 魔法力が乏しく一つしか魔法を習得していないうえに一日一回の行使がせいぜいのリベカには、魔力の流れや魔法の発動を知覚することはほとんどできない。そんな彼女にも、エイジアの中で目に見えない何かが膨れ上がったことだけはわかった。

 魔法の効果を実現させるには、多大な集中力と魔力の道を拓き維持する、その魔法の強さと長さに比例した意思の力を必要とする。魔力の少ない者が等級の高い魔法を使えない理由である。必要な魔法消費量を用意できないところで無理に試みた場合、発動させられようとする魔法が大きすぎる消耗を贖うために、手近な物質からその原動力を得ようと暴走を始めることがあるのだ。大抵は魔法行使者の肉体をその魔法の実行に適した動力に勝手に変換し、損なってしまう。これが更に悪化すると術者は肉体が変異しすぎて魔物化してしまうという。

 魔法とは、本来は使わずに済むならばそれが一番いい危険な行為なのだと、アンジェリンは言っていた。そんな彼女も手っ取り早くぷりんにありつくために温度変化の魔法をちょこちょこと使うなどのズルをするが、本人の力量の範囲内で責任を持ち得るならば、何に影響を与えることもない、許容の線引きのこちら側だというのが、大抵の者の認識だ。

 実際には精緻な作業を絶え間なく続けて、目の前の切り花に注いでいるのだろう。エイジアの毛糸と毛皮の帽子の下、頭髪の生え際に白い霜が絡みつくようにして立っている。汗が浮いた傍から凍ってしまうのだ。

 彼の眉間の皺が深まったのを見て、リベカはそっと手を伸ばして手巾を当ててやった。ぶわっと湧き起こったエイジアの吐息は熱く、彼の顔は血が上って灰色がかった緑色から、緑色になっている。吐息の煙が凍ってきらきらと日の光を弾いた。それはエイジアの顔を包み込み、薄い薄い氷の膜となった。

 と、鼻をつんと刺す、清涼感のある匂いが立ち上った。驚いて見下ろせば、エイジアが魔法を注いでいる花束から漂ってくる。

 白い小さな杯形の花には、何の変化も見られない。しかし、確かに匂いの元はこの花だ。時を経るにつれ、匂いがいや勝った。あまりにつんと刺激的で、目からは涙が、鼻からは水っ洟が滲んできた。同時に、すっと息の通りがよくなる。澄んだ、清々しい空気が鼻を抜けて喉を慰撫しすっきりとした感覚を残して胸に落ちて行った。呼吸器を洗い流すようなこの清涼な匂いは、一束の茎の数だけその先端に開いた白い花が、周囲の空気を塗り替えて満ちたものだ。確かに、枕元に飾っておくだけで、効きそうな気がする。

 体が浮き上がりそうなほど軽く感じるも、それは異様な高揚を伴って束の間体の芯に蟠ったかと思うと、破裂する勢いで体中の熱が末端の方々に逃げて行き、体を千々に引き裂いてしまいそうな急落した虚脱感を生んだ。入れ代わりに寒気がどっと肺を満たして息が止まり、ごほごほと噎せ返る。

「シェイファーさん、においが、きついです。楽に、なるけど、すぐに、反動がきちゃう……」

 途切れる言葉でなんとか体感を伝えようとするリベカをエイジアはちらと睇眄し、すぐに集中に戻った。一瞬視線がかち合った彼の瞳は、磨き上げられた緑柱石に光が注がれているかのように激しく輝いていた。

 あっという間に匂いが弱まっていく。清涼感ではなく猛烈な寒さばかりが気管に押し寄せて、その落差で呼吸器を傷めそうになる。襟巻を鼻の上まで引き上げながら、もごもごと訴えた。

「今度は弱すぎます。これじゃ効きません」

「鼻の通りはよくなりますが、匂いが刺激的すぎます」

「涙がさっきから止まりません。目への刺激だけなんとかなりませんか。これでは小さい子には辛いと思います」

 リベカは言うだけだが、実際に心身の消耗という代償を支払って現実を変容させているのはエイジアだ。彼の顔色はいつしか血の気が失せて灰色に変わっており、むき出しのままの手足からも彼の血の色を示す緑色が引いて白んでいる。凍傷の危機が迫っているのではないか。しかし彼の生身で地中の精気を吸い上げるという特技がなければ、これだけの時間魔法を行使し続けることはできないのだ。

 リベカは自分の襟巻を解いてエイジアの足の甲を覆い、手袋を抜いた自身の掌の熱を彼の手に分け与えようとした。屋内に戻れば、廊下の端に使用人の詰め所がある。誰かに温石なり湯なり、エイジアの体を温める物を用意してもらった方がいいのかもしれない。しかし、やたらと人を呼び込んで、ここまで真剣に風邪払いの薬を作り出そうと精神を研ぎ澄ますエイジアの気を散らしてよいものか。

「止めないでくれ……あと少し、あと少しで……見えそう……掴めそう、なんだよ……」

 歯を食いしばりながら押し出すような声を、実際には歯を鳴らしながら絞り出す、どこか訴えかけるような口吻に、リベカはそれ以上手出しを出来なくなった。

 庭を眺める石段に並んで腰かけたまま動こうとしない自分たちの姿は、遠目には微笑ましいものとしか映らず、邪魔をしようなどとは思いも染めぬため誰も近づいてこないのだということにまでは、リベカは気付けなかった。

 そこへ、庭の端から飛び込んできてまっしぐらに駆け寄ってくる小さな影があった。

 足先だけが白い黒い毛皮の仔ヤギは、エイジアの側で足を止める。彼の集中を妨げないようにであろう、問い質すような目で見上げた相手はリベカだった。

 リベカは周囲を見回したが、ゴーディアスの主人はいない。しかし耳目を通じて見聞きした事柄を主人に伝える能力を使い魔は持っている。この仔ヤギは魔法の行使を察知したケイセイが遣わしたのだと判断したリベカは小声で、できるだけ手短に、自分たちの目的を伝えた。

 ゴーディアスはエイジアの足元に置かれたリベカの襟巻の隙間に潜り込んだ。むき出しの足首を温めているつもりらしい。首を捻って彼を見上げ、高く一声、「メエ!」と鳴いた。

 エイジアの苦悶に歪んでいても繊細に整った顔がはっとしたように下向き、小さな生き物と視線がぶつかりあったようだった。輝く緑柱石の目をわずかに瞠り、必死の形相を形作っていた皺がゆるりと解け、肩のこわばりが和らぐ。一度顎を引いて荒い、長く引き延ばした息を吐き、再度目を上げて両手に握った花束を見詰める。自分の内なる嵐に見失いかけていた、必要な何かを見出したかのように。

 エイジアとケイセイはこれまでに、魔法に関しての意見を様々に出し合って話し合っていた。どちらかというと、早くに死に別れた母親以外の根の氏族の同胞を知らず、妖霊人としての力の使い方がわからずにいたらしいエイジアのために、ケイセイが伝手を頼って仕入れた知識を指南しているという形で、独自に魔法の訓練を重ねていたようだ。

 ようだ、というのは、エイジアはケイセイ以外の人目があるところでは力を使いたがらず、話をしていてもすぐに話題を変えてしまっていたから、リベカには彼らがどんな専門的な講義や訓練をしてきたのか知らないのだ。

 しかしエイジアが思い返し、あるいは彼の中で組み直したケイセイの助言または力添えは的確だったらしい。

 リベカには体に影響のある匂いという一点でしか捉えられなかったそれが、見る間に落ち着いていき、芳しい甘やかさがすっと鼻腔から喉を通り抜け爽やかな空気で肺を満たしていく。洗われるように喉が潤い息がしやすくなった。心が落ち着き、寒さに張りつめていた頬もほんのりとあたたかくなったと感じられた。体が軽く、皮膚は束の間寒さを忘れた。

「……シェイファーさん、これ、いいと思う。とってもいい香り……元気が出てくるみたい……」

「……そうか。おれも、今のが会心の出来だと思った。やっと、やっとわかった……」

 満足げに口角を上げたエイジアの瞳から急速に光が失せゆき、口調が緩慢になりつつある。彼はのろのろと手を持ち上げ、馥郁たる癒しの香を放つ花束をリベカに差し出した。緑色の血が引いたその指先は濃い灰色になっている。

 がくりと落ちそうになった手を両手で支えたリベカは、その冷たさに怯みそうになって初めて、自分も手袋を外しっ放しだった事を知る。慌てて石段に腰かけたままの彼の足元を見た。手指にも増して白くなった足指が腫れ上がり凍った地面に貼り付いているではないか。

「こいつを、アンジーの甥っ子に届けてくれ。おれたち連名の見舞いだっつって、な……」

 そう言う間にも、彼の瞼は落ちようとしている。疲労と衰弱が限界に達したに違いない。

「おまえらも、ありがとうな……」

 最後に呟いた言葉は、足元に小さな毛皮の体を押し当てたまま、頻りにメエメエと鳴いている仔ヤギとその主人に向けたものであることは間違いなかった。

 リベカは人を呼びに行くなどというまだるっこしい真似はしなかった。その場で深く息を吸い、ありったけの大声を空に向けて放ち助けを求めたのだった。


 エイジアの救助と治療は、有事に慣れているヴォジュラ領主邸の使用人たちには個々の判断で対処可能なものだったらしく、その道の熟練者がてきぱきと事態を処理する場にリベカが居座り続けても、できることはなかった。

 だからリベカは、アンジェリンの兄嫁であるペトラ夫人に面会し、いつまでこの清浄な香りが続くか定かでない花束を差し出した。いずれ不在の領主夫人の代理として屋敷を取り回す彼女にも事の顛末は上がってくるだろうが、今はエイジアの様子について事細かには話さず、彼が友人の幼い甥の快癒を願って魔法を施したものとだけ、説明して。

 夫人は手ずからリベカの見舞いの品を受け取り、顔を寄せるまでもなく鼻腔を満たす甘やかさに頬を緩めた。

「まあ……すてきな香り。身も心も軽くなるようですわ」

 食卓を挟んで顔を合わせた昼食時よりも、花を手渡せる眼前に近づいた今、夫人を苛む疲労と悩みは如実に顔つきに現れていることが知れた。しっかりと化粧を施していても隠しきれなかった顔色、笑顔ではなく細められる目尻、意識して引き締めているのだろう口元。それが見る間に晴れやかに、上向いていく。

「どうぞ、お子様の枕元に活けてくださいませ」

「どうもありがとうございます。エイジアさんにも、後ほどお礼を申し上げに参りますわ」

 早速息子の傍へ駆け付けたいだろう夫人を慮り、リベカは長居せず退室しようとした。

「ああ、そうですわ。今し方、アンジーが帰宅いたしましたのよ。私の下へ挨拶に来てくれたのですが、お友達の身に何かが起こったと聞いて、急いでそちらへ向かいましたの。行き違いになりませぬよう、お会いできればよろしゅうございますね」


 リベカが足早にエイジアの客室に寄ってみると、普段使いのドレス姿のアンジェリンと、使い魔を連れたケイセイが寝台脇に立っていた。

 リベカの入室を認めるなり、アンジェリンは両腕を広げて急ぎ足に近寄ってきて、リベカを力一杯かき抱いた。

「ああ、リベカ! あたくしの留守中にこんな大事が起こったというのに、何の助けにもなれずに本当にごめんなさいね。まさか義姉上お一人の時に甥が倒れるだなんて思いも寄らなくて。義姉上にもご負担をおかけしてしまったわ。エイジアが事なきを得てよかったこと」

 他に来客や付き添いの姿はなく、話が出来るくらいには元気でいるのだろうと胸を撫で下ろす。

 エイジアは寝台上に身を起こして、ごてごてと貼り付けられ巻き付けられた両手を布団の上に投げ出していた。布団の下の足はそれにも増して厳重に梱包されているのだろう。

「う、うん、私はなんにもしてないから全然平気よ。シェイファーさんの手当てはこのお屋敷の方々がして下さったし、魔法の方も、ケイセイさんが使い魔を遣わして力添えをしてくれたようだし、私は本当に、なんにも」

「何にもってことはねーだろ」

 エイジアがぶっきらぼうに言った。それ以上言葉を費やしはしないが、彼なりの労いと感謝なのだと受け取ってリベカはほっとする。今の口ぶりからすると、体調も危惧していた程ひどくはなさそうだ。

 しばらくはエイジアを除く3人の間で謙遜のし合いとお礼の応酬とエイジアへの無事の確認と念押しが取り交わされた。

 会話が落ち着いた頃を見計らい、ケイセイが生真面目そうに腰を折る礼をしてから、口を開いた。

「このような場で申し上げるのは心苦しくもあるのですが、わたしは今月下旬から来月上旬にかけて休暇をいただきまして、里下がりに先立ち、ご挨拶に参りました。明朝には出発いたします。わたしが戻る頃には、皆様は王都への帰途上にいらっしゃることでしょう。短い間でしたが、お話し相手としてご指名くださいまして、ありがとうございました。エイジア様の恙無いご回復と皆様の道中のご無事をお祈りしております」

「まあ」

「……」

 リベカとアンジェリンは揃って口を開け、エイジアは言うべき事を見つけられないかのように押し黙った。真っ先に彼に歩み寄ってその手を取ったのはアンジェリンだった。

「ケイセイ、あなたと出会えたことはあたくしにとって様々なご縁が結実した幸せなものでしたわ。どうかお元気でいらしてね。来年の冬にまた会えることを楽しみにしています」

「さようならケイセイさん。あなたとお話しできて楽しかった……です」

 リベカも言葉という言葉が頭の中から抜け落ちたような心許ないもどかしさに身を捩りながら、咄嗟ながらも心から告げた。彼と接していて、気兼ねなく笑い合える友人が一人増えたと感じられて嬉しかった。また会いたいと思ったが、口に出して約束を求めるのは、なんとなくためらわれた。

「おれも……おまえと会えて、よかった」

 エイジアは、リベカと同じで言いたいことを言い尽くせないように、溢れそうな気持ちの中からこぼれ落ちてきた物を拾い上げて、つっかえながら言葉にした。本当はたくさん伝えたいものがある、言葉にならずに不悉に留め置いた思いもあるのだと、彼は全身で語っていた。

 ケイセイは彼を見て、励ますように目元を引き締め、頷いた。

「お力になれてよかったです。ぼくは、あなたがぼくにはできない多くのことを果たせる人だとわかっていましたから」

 どうしてか確信に満ちた笑顔でそんなことを言った彼は、リベカの胸中に不思議な人だったという不思議な存在感を残し、去っていった。



 翌日、ペトラ夫人から、例の花を息子の枕辺に飾ったところ、見る間に症状が和らいでいき翌朝には起き上がって食事を取れるまでに回復した、花は役目を果たし終えたかのように芳香を絶やし枯れてしまったとの、涙ながらの報告とお礼を重ねて受け、また館勤めの魔術師と薬師から詳しくお話を伺いたいとの申し込みが相次いだエイジアは辟易し、王都への帰還の日まで病床人のふりをして部屋に籠って過ごすことになった。

 実はケイセイの最後の挨拶を受けた時に、彼が見舞いに持参した霊薬を飲んで、手足の凍傷はその日のうちにきれいさっぱり完治していたらしい。

「どうして下働きの彼が、そんな高価なお薬を持っていたのかしら?」

「知らね」


 リベカは騒ぎの中でアンジェリンの乳姉妹へのお悔やみを忘れてしまっていたことに気付いて、気まずい思いをしながらも伝えた。

 アンジェリンは思いもかけぬことを言われたという顔で目を瞠り、ややあって、ほろ苦さと愛おしさが綯い交ぜになった微笑でそれを受け入れた。

「実は、あの子が亡くなったのも随分と昔のことだから、そんなには覚えていないの。それでも自分にとって縁ある人たちだから、疎かにはしたくなくて。それに、兄とジェオフレイや、サヴィア様とバスティード様のご様子を拝見していて、時々羨ましいな、って感じることはあったの。アネリが生きていればあんな風だったのかしらって。覚えていないって言った舌の根も乾かないうちに、勝手でしょ。遊び相手の女の子は何人も紹介されたけれど、やっぱり、血の繋がらないきょうだいのよう、とは思えなくて。あたくしは特待生で楽に入学できるところに、相手の子には猛勉強をさせてまで王都の学校に連れて行く気にはならなかったの。対等ではない気がして。要するに、あたくし、寂しかったんでしょうね。それなのに、寂しさをちょっと拗らせていたのだと思うわ。今だって、こんなことを長々と打ち明けているんですもの」

 明け透けにそんなことを言うアンジェリンは、白手袋に包まれた節の目立つ指を顎先に押し当て、うーんと唸りつつ考え込む姿勢をとった。上向いた焦げ茶色の瞳の中で、橙色の火花は消え入りそうなほど小さく明滅している。

「フェルビースト家の者が人付き合いが悪いって言われる要素はあたくしにもしっかりとあったのよ。傍からはさぞお高くとまって、無軌道に、恣意的に見えたのではないかしら。だけど、自分では何がどうよろしくないのかがわからないのよね。そんなあたくしに呆れていると表明しながらもついてきてくれて、中央の常識からは外れすぎていれば耳に痛い事でもはっきり言ってくれて、見放さずに見ていてくれる。リベカ、あなたに、本当に感謝しています。あなたがお友達になってくださって、あたくし、今、本当に幸せよ」

 出し抜けに愛の告白もどきをされ、リベカはお菓子を喉の奥に押しやろうとして含んだお茶で噎せそうになった。目の前の人物に対して真率な言葉を投げかける時に相手の手を両手でやんわりと握るのは、アンジェリンの癖だ。

「どうか、これからも仲良くしてください。リベカ」

「……ええ、もちろんよ。こちらこそ、これからもよろしくね、アンジー」

 この衷情を一身に注がれるのがなんで毎回自分だけなのであろうかと、真剣に考え込みながらリベカも親友の寵愛は損ないたくないので、そこはありがたく頂戴しておいた。

 この言葉一つ、接触一つとっても、自分以上に喜びそうな人物に幸あれと密かに愛のお裾分けを祈るのだった。

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