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由無し一家番外編  作者: しめ村
王都の学生の日々
5/13

2年生・2


 ある初秋の日、アンジェリンが昼食の合間にリベカに言った。

「そういえばリベカ、あなたのお家からお礼状が届いたって、実家からの手紙にあったわ。なんだか過分なお礼の品が色々と添えられていたそうだから、あなたにもあたくしからよろしく申し上げてほしいって」

 夏から秋へと移ろうこの時期は気まぐれな風雨が通ることも多いのだが今日はすっきりと陽気な秋晴れで、涼しい風と温かな日差しという過ごしやすい天気だった。

 リベカと二人の友人は食堂で持ち出し可の献立を選び、中庭の芝生に腰を下ろし、ピクニックスタイルの昼食を摂っていた。

 ちなみに気ままなお坊ちゃまお嬢様の思いつきに対応するため、食堂では食べ物を入れるためのバスケットや敷布も貸し出している。

「お礼?」

「昨年の長休みにうちに来てくれたでしょう? 我が家の孫娘がお世話になりましてということだそうよ。お礼状だけで十分なのにって家族は困惑しているみたい」

「ええと……お騒がせしまして」

 お家の付き合いがこんなところに影響を与えていたとは。それは、まあ、子供が友達の家に長い間お世話になるというなら、ご挨拶とお礼くらいするのは保護者としては当然であろう。

 本当なら、予めリベカに礼状や手土産など持たせたりするところだったろう。しかしリベカは反対されたら嫌だと思ってぎりぎりまで実家に連絡しなかったし、簡潔な手紙を書いて送ってすぐにヴォジュラ行きの馬車に乗り込んでしまったから、その準備が整わなかったのだろうと思われる。祖父母はさぞ慌てたに違いなかった。

 過分な贈り物は、その対応が遅れたことへの謝意と、辺境領主といえど大貴族たるフェルビースト家との縁を重く見てのことであろう。

 今度からはもう少し、結果を考えて行動しよう。リベカは溜息交じりにそう思った。

「シェイファーさんはどうでした?」

「おれん家も礼状くらいは普通に送ったと思う……けど、家のことはあんまわかんねえ。実を言うと、そんなこと今まで考えたこともなかった」

 リベカと同じ心境に至ったのであろう、やや逸らした目線で気まずげな回答。

「もちろん、エイジアのお家からも来たそうよ」

 アンジェリンは穏やかに、それだけを言った。エイジアは渋面で黙り込む。実家について嫌なことでも思い出したのかもしれない。

 緑がかった灰色の肌に、くっきりと刻まれている皺は濃い緑色だ。血の色が純血種の人間とは少し違うらしい。彫像のような繊細な造作はますます磨きがかかって浮世離れして見える。髪は秋でも変わらず鮮やかな若葉色に輝いていて、影を帯びると新緑に沈む。背丈はこの半年でさらにすくすくと伸び、14歳にして既に上級生を上回る高身長。

 見た目だけは本当にきれいな少年だ。中身は俗物だと知っているリベカは、これだけで詐欺に等しいわよねと甚だ失礼な感想を抱いている。勿論口にしたことはない。


 アンジェリンはお家の話はそこまでにして、少し声を潜めて話を変えた。

「お手紙といえば、二人にちょっと相談したいことがあるのよ」

「なに?」

 アンジェリンは困惑したように首を傾げて、果汁割りのカップを膝の上で両手で包み込む。

「兄が王都のご友人に宛てられたと思われるお手紙までが、あたくし宛ての小包に紛れこんでいたのよ。これをちゃんと宛名の方にお届けしたいんだけれど、こういう時はどうするのが適切かしら」

「どなたへのお手紙なの?」

「ザカリアス・サヴィア様宛てなの。多分、下の兄のご学友でいらしたという、サヴィア様のお兄様ね。ご住所はわかるわよ、王都でも有名なお家ですもの。でもそのようなお家に、先触れでも突然学生がご連絡を指し上げては怪しまれてしまうかしらと思って。でもいちいち兄に突き返していたら、お手紙が届くのがさらに遅れてしまうもの。ただでさえフェルビースト家の者は付き合いが悪いと噂されているのに」

 溜息をつくアンジェリンは、兄のうっかりを心の底から嘆かわしく思っている口調だ。長い睫毛が落とす影が憂いに満ちているが、彼女の下の兄はそんなに無精なのだろうか。

 リベカは昨年末から今年初めにかけての休みの間に、一度だけすれ違った友人の下の兄を思い出そうと努めた。

 アンジェリンにも、彼女の上の兄にも、その父にもよく似た、近年稀に見る端正な顔立ちの青年だった。あまりに一族皆が似ているため、彼独自の特徴というものを思い出せない。今王都でもてはやされている女性にしたいような線の細い美形とは一線を画す野性味漂う男性的な面差しが、特徴といえば特徴だろうか。

 しかしアンジェリン的には、フェルビースト家の男にはたくましさが足りないらしい。どんなに鍛えても、一定量以上の筋肉が付かなくて威厳が足りないことになるんだそうだ。友人の審美眼の厳しさは彼女一流のものであって、ヴォジュラ女性一般のものでなければいいと思う。

「それで、あたくしたちの同級生の方のサヴィア様に、お兄様にお渡しして下さるようお願いしようと思うんだけれど、中央ではこういうことは礼儀に反しているかしら?」

「……うーん……多分、大丈夫なんじゃないかしら。私も中央地域に来たのは二年……三年ほど前のことだから、王都の習慣の何もかもを知ってるわけじゃないのよ」

 そう言って、確かめるようにエイジアを横目で見る。アンジェリンも首を傾けて、まっすぐにエイジアを見た。

「……まあ、問題ないと思う。なにも公式の書簡の交わし合いならともかく、ダチ同士のやり取りなんだろ? 仮に普通はしないことでも、サヴィアはおまえが頼めば引き受けるだろうさ。おまえらだって友達なんだろ」

 最後の一言をこころなしか強調したのは、未だにジリアンの自分への親愛の種類が他とは異なることに気付いていないアンジェリンへの嫌味だろう。

 リベカは内心頷いた。そもそもアンジェリンがジリアンにものを頼んだということが未だかつてないのだ。その信頼の振幅に大きな影響を持つ最初の選択なのだから、彼が彼女からのお願いを断れるわけがない。

 ごく初期に拘っていたらしい、互いの兄同士の悶着とやらの話も、最近は持ち出さなくなっていたことだし。

「わかったわ。善は急げというし、早速行ってくるわね! 申し訳ないのだけれど、食堂に返しておいてもらえる?」

「いいわよ」

 アンジェリンは肉包み麺麭の最後の数口分を急いで、それであっても優雅な仕草で平らげ、急いで去って行った。

 残された二人は、互いに窺い合うような物言いたげな沈黙を背景に、しばし食事を続ける。

 知り合ってそろそろ一年になるが、リベカとエイジアの関係はアンジェリンがいなくなると会話が途切れてしまう程度のものなのだった。かといって、そそくさと解散するほどそりが合わないでもなく、黙って近くにいるだけでストレスになるほどでもない。

 会話の糸口を探しつつ、どこまで踏み込んでいいものやら間合いを掴みかねている状況だ。

 やや考えて、ぽつりとリベカは言った。

「……アンジーのお兄様、きっとわざとだと思うわ」

「……おれもそう思った」

 それでも、会話の一往復くらいは成立する。一年前は挨拶の返事すら億劫そうだったエイジアの様子を思えば、随分と当たりが柔らかくなったといえよう。

 目立つ男子と親しくなり過ぎないようにという自衛の心から線引きをしたリベカであったが、今では彼とは普通の友達くらいにはなりたいなと思っている。

 学園入学前、東方領の小村で両親と暮らしていた頃には、近所の悪ガキどもと普通の友達づきあいをしていたのだ。

 中級貴族の子息でありながら庶民派のエイジアとは価値観を共有できる部分が多く、気は合う方だと思う。

 多分彼は、いわゆるいい育ちはしていない。家庭環境を詮索しようとは思わないので、この辺は推測だが。

 村時代の喧嘩友達みたいな間柄になれるんじゃないかと思ったりもするのだ。

「フェルビースト家の人ってわりと倹約志向よね」

「そこで出すかってとこで無駄に出すのにな」

 二人は揃って遠い目になって、昨年末から今年初めにかけての小旅行を思い返した。



 ヴォジュラ領主軍とヴォジュラ組合との合同演習はVIP席などというものは存在せず、普通に一般の観客席に領主家の方々と紛れ込んで観戦した。最前列の席を確保できたのは特権を駆使してのものだったのだろうが、いかんせん臨場感がありすぎた。

 土煙や怒号や汗臭さや男臭さや鉄臭さとかその他諸々のわけのわからない形なき何かが押し寄せて来て、耐えきれなかったリベカは途中で卒倒した。

 それなのに、すぐそばで歓声を上げていたアンジェリン始めフェルビースト家の方々は、その日全試合が終わるまで客が座ったまま気絶していたことに気付きもしなかったのだ。ひどくないか。

 エイジアは、あの時先に戦線離脱したリベカを羨ましいと今でも思っている。フェルビースト家の人々が全然気づかないので、仕方なくリベカの頭を自分の肩に預けてかなり長いこと姿勢を固定される羽目になった。

 選手のへし折れた剣先がくるくると物騒な回転音をたてて向こう側の客席に落下した時など、精神的についていけない展開になるわ耳が麻痺するほどの大歓声を浴びて頭が痛くなるわで散々だった。

 寸でのところで落ちて行った剣先の直撃を食らうところだった大して強そうにも見えない作業着姿の青年が、どういうわけか立派な金属製の籠手を着けた腕をさし伸ばしてそれを受け止めようとし、それを突き飛ばして代わりに迎え撃とうとした逞しい男がやはり着けていた籠手で弾いてしまい剣先を取り落した。

 とにかく近くの観客一同が大喜びして、客席に飛び込んだ武器の破片に群がっていた。理由は分からない。

 とったどー! と煌めく刃の破片を掲げる男と巻き起こる拍手喝采。勿論アンジェリン達も惜しみない拍手を送っていた。

 あれが一体なんだったのかはエイジアにはついぞわからなかったし、知りたいとも思わないが、意味不明とはああいう情景を指すのだと思う。


 ヴォジュラ領有数の景勝地の一つである氷晶樹の森まで氷狼橇に乗って行った時には、領内でも腕利きの組合員の護衛が8人もつけられた。

 護衛をつけてもらうだけでも恐縮しきりだというのに、組合の聖地ヴォジュラ領で腕利きということは、雇用料は桁外れの高額であるはず。それも8人。

 恐ろしいのは、そんな扱いが決して過剰なんかではなかったことだ。

 これはおとぎ話の魔物王討伐の旅ですかと天に問いかけたくなるような激戦が、日に何度もリベカ達の周囲で繰り広げられた。厳冬の雪原をひた走る氷狼の強靭な脚力に支えられた猛速度の橇に食らいついてくる魔物とか魔物とか魔物とか!

 魔物ではなく野獣もいたと護衛のおっちゃんたちは言っていたが、そんな区別つけようもない。とにかくどこからともなく見たこともない様々な獰猛そうな魔物が湧いて出て、ひっきりなしに彼女らを襲ったのだ。

 それを護衛の組合員たちは危なげなく退け、または倒し、護衛対象である少年少女三人無傷のまま氷晶樹の森とヴォジュリスティを往復してのけた。

 アンジェリンだけが、学校では教えてもらえない実戦を見学できるいい機会だ見なければ損だと前向きなことを言って目を輝かせていた。戦いに関しては素人のリベカ達も、これに比べれば学校での模擬訓練など儀礼用の型をなぞるばかりのまさしく児戯であると理解せざるを得なかった。

 寿命が縮む思いで到着した氷晶樹の森の景観は見事だったが、正直言ってリベカもエイジアも景色の感慨など頭の片隅にも残っていない。

 領主代理を務めていたアンジェリンの兄は観光業界の活性化が課題の一つだと言っていたが、あんな危険な観光地が流行るわけがない。


 きわめつけは王都へ帰還する際に川下りルートをと勧められて乗船したメドオドゥラ船であった。

 メドオドゥラとはヴォジュラ領の河川や沼沢地に棲む大型水棲馬である。それを飼い馴らして川を下る船を牽かせるのだ。

 あれに至っては思い出したくもない。思い出そうにも記憶がろくすっぽ残っていない。



 リベカとエイジアは、わずか一呼吸分の記憶旅行で死んだ目を見合わせ、互いに乾いた笑いを零した。

 アンジェリンの兄は間違えたのではなく、王都にいる妹への荷物を送るついでとばかりに、わざと自分の手紙を加えたような気がしてならない。恐らくこういう手っ取り早い展開になるのを見越して。

 北方領域のヴォジュラ領から中央地方の王領へは、一般的な馬車便で一月近く要する。手紙を受け取る場所は一か所だけではなく、色んな街を巡って集配するのだから、直線距離を移動する以上の時を要するのは当然なのだ。

 昨年の長休みに娘を迎えにいらした領主様が用意したマズリ馬の馬車は非常に特殊な、高価なものであり、荷や手紙の運送は役所の定期的な馬車便か、急ぎの際は自家で急使を立てるなり腕の立つ組合員を雇うなりするのが普通だ。それにはもちろん余分なお金がかかる。

 要はアンジェリンの兄君は、ちょっとばかり楽をして、経費も節減したのだ。

 なんともしっかりした経済感覚をお持ちの大貴族一家でいらっしゃる。吝嗇ともいう。



 後ほど聞いたところ、案の如くジリアンは使い走りの真似事を引き受けてくれたそうだ。

 話の途中で『お兄様宛てに』と示された手紙を、アンジェリンから自分の兄への恋文と勘違いしてちょっと挙動不審になりかけた程度だったらしい。まあこの辺はお約束の範疇か。

 ちなみにそれらの情報は、例によって口の軽い従者からもたらされた。

 あの付き人は、真面目一徹の面の皮の下で、主の恋路を楽しんでいるんではないだろうか。もしかして、こういう余計な情報を横流されては持て余しているリベカの迷惑さえも肴にしているんではないだろうかと思われる節がある。

 それが彼なりの鬱屈の解消法だと思えば、まあ、実害がないうちは黙認していようかと寛大な態度を心がけているリベカである。

 捌け口がなくなったせいで若禿なんてできてしまったらかわいそうだし、そうなるとさすがに負い目を感じなくもない。



 それから数日経って、騎士様との合同訓練の日が半年ぶりにやってきた。

 ちょうど去年の今頃、1年生の時にもこの授業があった。今年は初夏に一度あって、昨年と同じく騎士オルセンと騎士ジュノーが指南役として出向して来られた。

 今年度二度目となる今回は、ちょっとばかり異なる点があった。

 それに気付いた学生たちの驚愕が漣のように演習場を伝播したのを、リベカは感じた。

 この程度で済んでいるのは、選択制でしか受講できない剣術科目の課外授業中という状況下ゆえ、女子学生が極端に少ないからだ。そうでなければ、たちまち黄色い悲鳴が巻き起こっていたことだろう。

 そんな風に分析している彼女とて、今はある人に目が釘付けである。

 その先に立っているのは白く輝く鎧と真紅のマントに身を包む、逞しくもすらりと洗練された所作の王宮騎士たち。ここまでは今までと同じだ。

 しかし秋の淡い光を弾いてまばゆいほどにきらめく金の髪を戴く、聖霊が絶妙の均整でもって形作ったとしか思えない天上の造作。ひとたび目にすると否が応にも目を惹きつけられてしまう美貌は、これまでにこの場で見たことのないものである。その容色ばかりでなく、剣技でも騎士志望の少年や夢見る乙女たちの話題を席巻する、恐らく王都で最も有名な王宮騎士だった。

 今日の指南役の王宮騎士は、騎士オルセンと騎士サヴィアだったのだ。

「諸君、気もそぞろになるのは分かるが、授業はこれからだぞ。騎士サヴィアに見とれるのは渾身の力を出し切り疲れ切って動けなくなってからでもよくはないかね?」

 笑い含みに物騒なことを口走る騎士オルセンは、別に当て擦りを言っているわけではなく、むしろ親しみを湛えて冷やかすような口吻だ。その対象は学生たちのみならず、気難しい無表情を保っている後輩にも向けられているようであった。周りの人間のこうした反応に辟易しているであろう騎士サヴィアを労わっているかのようだと、リベカは思った。

 そして、リベカは、ジリアンを一回り大きくしたらこのようになるであろうという麗しい騎士サヴィアが、先程からアンジェリンに視線を注いでいることに気付いた。

 人間的な感情には鈍感な面があるアンジェリンだが、不穏な眼差しには感じるところがあるらしく、気付いて見返している。リベカからは今は横顔しかわからない友人の目は、平常時の焦げ茶色からちかちかと橙色の火が灯りつつあった。

 ジリアンは――まあ、言うまでもない反応を示している。自分の兄が現れた時の驚きようと今の慌て具合からして、騎士サヴィアが来ることは知らなかったようだ。

 ブラムは見た限りでは何を考えているのかわからない。


 授業自体は、これまでと変わりない内容だった。監督役が入れ替わっただけで、訓練内容が変わるわけでもないのだから当然だ。

 いつもの訓練の最後に、王宮騎士の剣の型を披露してもらうのも、予定通り。

 しかし今回は王宮騎士団次期筆頭騎士の呼び声高い騎士サヴィアである。こう言っては大変失礼だが、前回と前々回に来てくださった騎士ジュノーより技のキレとか速度とか、目を惹きつける何かというべきものが違った。リベカの動体視力と護身術のとっかかりの域を出ない剣の知識では的確な表現ができないが、とにかく華があって、見ていて飽きない。

 呼吸すら忘れて見惚れる時間が飛ぶように過ぎ、気付いたら授業は終わっていた。

 騎士サヴィアが、演習場と更衣室を結ぶ回廊に佇んでいるのを見た時、リベカは、彼がアンジェリンを待っているのだと思った。根拠はないが、なぜかそうだろうと思ったのだ。

 案に相違せず、騎士サヴィアは表情に目立った動きを見せぬままアンジェリンに向かって話しかけてきた。

「君はヴォジュラ領主家のご令嬢だね。先程は訓練に際して名を聞いただけできちんとした紹介を経てはいないところを不躾にすまない。改めて名乗ろう。私は王宮騎士団員のザカリアス・サヴィアという」

 ここで鎧をガチャリと鳴らして物堅い礼を取られる。秀でた額を冠の如く飾るきらびやかな金の髪は軍人めかして短めに整えられていて、こんな時にあれば絶妙の視覚効果なのにと惜しくなる、はらりと額にかかるひと房の前髪といった気障な要素はない。

 リベカはこの方は髪をもう少し伸ばされた方がお顔立ちが映えるだろうにと思ったが、本人はそれを嫌って髪を刈り込んでいるのではないかと気付いた。

 一昨年出回った絵姿を一枚確保しておいてよかった。その頃の彼は前髪が額にかかる程の長さだったのだ。

「ご丁寧にありがとう存じます。ヴォジュラ領主イサク・フェルビーストの一女アンジェリンでございます。あたくしに御用がおありでしょうか?」

 礼儀として一応リベカも名乗ったが、騎士サヴィアは鷹揚に頷いて儀礼的な返答をしただけで、大して気に留めていないようだ。予測できた反応なので、特にがっかりもしない。

 いや、彼は礼儀正しい態度を一貫してくださったので、リベカの被害妄想に過ぎないのかもしれない。

「私は君の兄上のイズリアルとは、この学園の同級生だった。先日、弟経由で君の兄上の書簡をいただいた。君が仲介してくれたそうだね。どうもありがとう」

「まあ、どういたしまして。王都とヴォジュラとでは習慣に異なる点が多くあると聞いておりましたもので、正式の使者を立てずにお身内に託すやりかたは非礼にあたるのではないかと案じておりましたの。杞憂とわかって幸いですわ」

 にっこり笑って淑女の礼を返したアンジェリンを見て、騎士の堅苦しい表情が和らいだ。

 これはお邪魔虫かと察したリベカは、角が立たないようになるべくさりげなく一歩退いた。

「アンジー、私、お先に教室に戻っているわね」

「ああ、待ってくれ。すまない。立ち話をそんなに長引かせるつもりはないんだ。アンジェリン嬢が友人とそっくりなものだから懐かしくなってしまって、顔を見るだけのつもりだったというのに声をかけずにはいられなかったんだ。直接お礼を言えてよかった」

 そこまで行って、騎士サヴィアの秀麗な面差しが人間味を帯びて顰められた。眉間に皺を寄せても麗しい。

「まったくあの筆不精は、卒業以来一度もこちらに顔を出さないし、手紙の返事すら滅多に寄越さない。先日受け取った手紙も、内容は一年近くも前の日付になっていた。恐らく書きっ放しで出し忘れていたんだろう。加えて、明らかに関係のない反故やら新聞の切り抜きやらが大量に混じっていた」

 続く言葉の奔流は、リベカが今までに見聞きしたことのある、些細な理由からはじまった喧嘩に一段落ついたあと家族に悪態の限りを尽くさずにはいられない村の少年の、子供じみた口吻と何ら変わりなかった。

 リベカは、つまり彼らは仲がいいのだと気付いた。少なくとも、学生時代は仲が良かったのだろう。

 ジリアンが昨年度々口にしていた兄同士の悶着というのは、音信の滞りがちな友人への愚痴を聞き慣れて刷り込まれた悪印象であり、それによる弟妹の衝突は不幸な事故とでもいうべき結果だったのではないか。

「まあ、それは……申し訳ありません」

 さすがのアンジェリンが思わず口ごもって謝ってしまう、なんとも赤裸々な愚痴である。それだけ騎士サヴィアがアンジェリンの兄と気安い仲だということなのだろうが。

 アンジェリンの兄が家にも碌に帰れないほど忙しいと彼の弟に言ったことを、騎士サヴィアは伝え聞いているのだろうか。

 それにしたって、アンジェリンの兄もいい加減きわまる。一年前の手紙をそのまま今になって出すのはあんまりだし、どういう管理をしていれば、仮にも親友に宛てて書いた手紙に無関係の紙切れが混入するのだろう。

 リベカは一つ考えを改めた。

 アンジェリンの兄は、単に経費節減の観点から手紙を妹の荷物に紛れこませたのではない。

 面倒くさかっただけだ、きっと。

「……いや、こちらこそ、淑女に出会ったその日にご家族のことを悪し様に言うなど。なぜだろうね、君を見ていると、童心に帰るというのか、子供の頃出会ったばかりの彼と無茶をしでかしていたことを思い出すよ。よければ今度、ゆっくり話す機会をくれないか。私とイジーともう一人の友人とは、学生時代からの親友でね。彼女もイジーの近況を知りたがっているのだ。とてもね」

 やんわりとした申し出のかたちではあったが、騎士サヴィアのその言葉はかなり強い要請に等しい力を孕んでいた。昔を懐かしんで細められたかに見える目元は微笑んではいたが、獲物を定める強者の眼光を放ってもいた。

 こころなしか強めの語調で言い放たれた最後の一言に、更なる含みを感じたのはリベカだけだったのだろうか。

 もし互いの都合がつけば、弟を通して招待すると締め括って、騎士サヴィアは踵を返した。演習場から校庭に抜ける通用口で騎士オルセンが待っているのが見える。

 会釈して見送る少女二人の視線の先で、騎士たちは軽く手を振って去って行った。

「……ああ、今思い出したわ」

 ふと、アンジェリンが呟いた。剣の柄革の汚れが浸み込んだ手袋の指先を額に当てて、自分の内側を見詰めている目つきで。

「兄が面白おかしく話してくれた学生時代の話の中に、度々ザックというご友人が登場していたの。ザカリアス様のことだったのね。あだ名だったみたい」

「親しいご友人はもう一人いらっしゃる風に言われていたけど?」

 リベカはつい便乗して尋ねてしまった。

「ええ、聞いているわ。もうお一方はクラルと呼ばれていらしたけれど、そちらも愛称でしょうね」

「女性なのよね」

「ええ、そうみたいね」

「へえー」

「……どうかしたの? リベカ。楽しそうよ」

「あら、そんなことないわ」

 常日頃、他人の個人的な事情に興味を示さぬ態度を貫いているリベカとしては、確かに珍しい反応である。しかしそれは我が身を守るため慎重を期しているだけであって、自分と無関係の範囲で繰り広げられる人間関係については考慮の外であったりする。そこまで徹底して自分の個性を作り上げるほど、リベカは特殊な背景の持ち主ではない。

 リベカだって、今をときめく美形の騎士様や人気の舞台俳優や流行の発信源となる数人の美人令嬢などといった、話題の人々に関する興味は人並みにあるのだ。そんな話題できゃっきゃと盛り上がれる同性の友人がいないから、それを主張する必要がないだけで。

 唯一の同性の友人であるアンジェリンは興味の方向性がリベカとは全く違うので、根本的に話が噛み合わない。それを踏まえたうえで、親友と流行話を共有しようという無駄な考えをリベカはとうに捨てている。

 だから余計に日頃そんな話をすることがないというだけだ。

 そうしてその人となりのイメージというものは形作られていくのである。遺憾なことに。



 ある日の放課後、ジリアンがアンジェリンのところに兄からの伝言を持ってきた。

 学校が休みとなる次の15日に招きたいという。

 都合が悪ければよい日取りを弟に言ってほしいということだったが、王宮騎士としていつなんどき緊急出動があるともしれない多忙な大人と、寮生活を送る一学生とでは、休日の貴重さが違いすぎる。アンジェリンは勿論、騎士サヴィアの指定した日に伺いますと返答して、15日の午後のお茶の時間に丁度良い頃合に差し向けられたサヴィア家からの迎えの車に乗り込んで行った。



「あら、コルネイユさん」

「モス先輩、お久しぶりです」

 その日の午後、リベカが少ない選択肢の中から選んだ居場所は、寮の学習室だった。

 ちょうどこの日に学習室委員として司書台にいたローナ先輩は黒髪黒目の素朴さはそのままに少し大人っぽくなられ、最高学年の貫録を感じさせる居住まいである。

「先輩、この度はご卒業おめでとうございます。卒業試験に合格なさったそうですね」

「ふふ、ありがとう。胸を張って故郷へ帰れるから嬉しいわ」

 六年生となっ先輩は、終業し、今年いっぱいで卒業する。

「先輩はお家に戻られてからの進路はお決まりですか? ぜひ参考にしたいのです」

「参考になるほどのものではないけれど。私の家は地元ではそこそこ知られている商家だから、ゆくゆくは然るべきお家にお嫁に行くことになるでしょうね」

 そこそこ知られていると控えめに言うが、先輩は豪商と言われる地主の長女だとリベカは聞いたことがあった。跡取りとなる男性のきょうだいがちゃんといて、彼女が家に留まり家業を手伝う必要はないらしい。

「王立高等学校卒業の箔の付いた娘ともなれば、結構強気の交渉も可能だから。今ごろ、実家では、婚約者の吟味に余念がないんじゃないかしら」

 そんな娘の結婚相手となれば、やはり縁続きになることが利となる、裕福な家の、経営の才に恵まれた、その家の総領息子が選ばれることだろう。それがローナ先輩の実家の家督相続に波紋を投げかける存在であってはならない。二男や三男といった身軽な配偶者は跡取りの兄弟の地位を脅かすからだ。一度嫁に出されれば、実家に戻ることは歓迎されないだろう。

 おっとり仰るローナ先輩本人は、そんな将来を納得づくで受け入れているらしい。

 ここで学んで巣立ってゆく女子学生の大半はそんな将来を迎えるのだろう。

 誰ともしれない男の人と結婚するために積み重ねる学校生活。既に婚約者が決まっていて相手を見知っているという貴族子女は、リベカ達二年生の中にも少なからずいる。

 もちろんそれだけでなく、他に蓄積するものもたくさんあるけれど、漠然と不安を覚える部分だけが曖昧に見えているような不明確な未来を、リベカは歓迎できないもやもやとした気持ちになるのだった。



 もやもやした気持ちが募って勉強に身が入らなくなったリベカは、学習室を出た。部屋に戻って一人でいても気分は晴れないと思ってのことで、特に何かを求めての行動ではなかったが、こういう時に一緒に過ごせる友人がいないというのは、彼女を物悲しい気持ちにさせた。

 当たり障りのない挨拶やちょっとした立ち話程度なら、寮内の女子とは交わせるようになってきた。平民上がりの貴族学生ということで遠巻きにされていたのだが、俄か貴族よろしく贅沢をしたりお高くとまった振る舞いをしてこなかったことや、生まれ付いての貴族学生との埋められない溝に難儀している様子を傍で見て、自分たちと何ら変わりない人間なのだと理解されたのだろう。

 こういう気分の時には、無心で体を動かすに限る。校舎周りを走り込みでもして汗とともに鬱屈した気分を流そうと、大分友人に毒された価値観を自問することなく手早く運動着に着替えると、軽快に寮を走り出た。

 これならば、同行者の有無を気にかける必要もない。同学年にはリベカとアンジェリンの足についてこられる女子学生はいない。

 動きのない空気を風と感じながら、全身で風を切り、熱を持った頬に風を感じる。この時ばかりは大気と大地にとけ込むような高揚を得て、学生の本分も先程まで自分を悩ませていた人間関係も、取るに足りないちっぽけなものへと変わって振り捨ててしまえる。

 校内の遊歩道から薬草園へと差し掛かる付近で、本来の目的で来る人の邪魔にならないよう茂みを抜ける脇道を選んで通っていると、エイジアと遭遇した。

「ごきげんよう、シェイファーさん。お邪魔でしたかしら?」

 何の変哲もない落ち葉敷きの湿った地べたの上に裸足の長い脚を投げ出し、木の幹と茂みに紛れるようにして無造作に座す彼の緑がかった灰色の顔と深い緑の髪が、感心するくらいに周囲の草木に調和している。うっかり躓きそうなくらい接近しなければ見つけられなかったに違いない。

 リベカは、保護色とはこういう風に働くものなのかと感心しながら、行儀よくお辞儀をした。

「いいや」

 エイジアは、特に気まずげでもなく率直に頷いた。徐に靴に足を突っ込んで立ち上がり、お尻の下に敷いていたハンカチを物入れにたくし込む。

 茂みを幾つか隔てた向こう側では、薬草学や錬丹魔術学に精を出す先輩たちが持ち回りで世話をする薬草園の区画がある。遠目ながら、かすかに動く人影も見て取れた。

 リベカは、エイジアが魔法ばかりでなく薬草学でも優秀な成績を誇る事を思い出したが、その事がここでの遭遇に関係があるかどうかもわからないし、詮索は互いに好きではないと知っていたので、それ以上尋ねなかった。

 それじゃとばかりに立ち去ろうとするリベカを、エイジアが制止して囁いた。

「ちょっとばかり、なんか話してってくれ。向こうのやつに見つかったんで、今世間話しながら来たように見える感じでひとつ」

 リベカは器用に片眉を跳ね上げ、横を流し見た。薬草園の畝を行き来していた人影が、立ち止まってこちらを見ているようだ。表情の細部までは見て取れないが、エイジアの様子からして好意的な反応ではないのだろう。

 そこで、リベカはにこりと笑顔を作って心持ち声を張った。

「わたくし、アンジーがお出かけしているので走り込みをしていましたの。有意義な休日を過ごせるお友達がいないというのは、寂しいものですわね」

「そんな胡散臭い笑顔で自虐ネタに走るほど気を遣ってくれなくてもいい」

「まあ、胡散臭いだなんて、ひどい! では、あなたからは何をお話していただけますの?」

「そうだな。人の多い場所より落ち着くからここにいる。あとは防犯だ。俺が世話した苗はよく育つんで、時々引き抜かれたり葉をむしられたりするんだよ」

 あっさりとそう言ったエイジアは、ごく真率だった。

「自虐……?」

「自虐っつか……嫌がらせというよりは、ただの盗難だな。俺んとこから引っこ抜かれてた薬草が、他の奴の畑のと入れ替わってたことがあった。むしられた葉も、何かに使われたんだろ」

「ええ? それ、普通に事件じゃないの?」

 口調を取り繕うことも忘れてリベカは声を潜めた。

「まあな。学校の規定や多数の良識で図って許されるかどうかってだけで、俺には実害はねえんだけどさ」

 肩を竦めるエイジアは盗難はさして重要視していないようだった。入れ替わった苗は彼の手にかかればすくすく育つので、遅れなどすぐに取り返せるし、むしられた葉はまた生えてくると、彼はなんでもないことのように言ってのける。続く言葉にこそ彼の苦い口吻が漏れていた。

「だが、植物たちはな。純粋な根の氏族なら、噂されてるみたいに、いるだけで植物に力を与えたり言う事聞かせられるのかもしれねえが、生憎俺にゃそんなことできねえしな。せいぜい傷つけられないように見張りをするくらいだ。それについても彼らがどう感じているのかはわからんから、言っちまえば自己満足に過ぎねえんだよ」

「教官にご相談なさいましたの?」

「しようにも、被害を立証できなければ打つ手もないだろ」

 特にそんなつもりもないらしい平坦な表情で言い返したエイジアは、自分には植物に力を与えることなどできないと言うが、彼が世話した薬草がよく育つという事実はそれを打ち消している。本人に説明ができずとも、彼が妖霊人の血を引いているからという理由一つで腑に落ちてしまう。それだけの説得力が、異能多き未知の種族には秘められている。

「根の妖霊人にも色々な能力を持つ人がいると、アンジーが言っていましたわ。これができる、あれができると決めつけられては困りますわね」

 とはいえ、生まれ持った素養を他と条件が等しくないからと、やっかまれたりズルをしているものとして扱われるのは不条理だとリベカは思う。

 片親が王都の貴族出身だからといって将来の見通しも定かでなくここにいる彼女にとっては身につまされるものの、平等な競争の場で不平等を感じている他の学生にとってはそうではないのだろう。彼の友人としての立場からは堂々としていればいいというのが掛け値なしの本音だが、気休めが口を衝いたりはしなかった。

「わたくしは、田舎で暮らしていた頃には家畜や畑のお世話を、お手伝い程度にですがしていましたけれど、逆にその頃の杵柄で学科に取り組むと、平民育ちのクセのようなものが出るのではないかと警戒して、生き物と関わる学科は選択しませんでしたの。こういう、土と草のにおいのする場所の雰囲気は好きなのですけれどね。ちょっと惜しい気もいたしますわ」

「俺も、このガッコに来るまでは園芸なんてしたことなかったよ。それまでは与えてもらうばかりだったからな」

 ぽつりと付け加えられた言葉の意味までは量りかねたが、彼も理解を求めている風ではなかったので、追究は差し控えた。

「そうですわ。折角ですから、シェイファーさんの育てている苗を見せて下さいませ!」

 突如としてリベカの胸の内に強い風が吹き荒れた。嵐というほどではないが吹き付ける風に押されるようにして、かわいこぶった仕草で両手を胸の前で合わせ、意識して茂みの向こうの畝にいる人に聞こえるように弾んだ明るい声で、そう言った。

「ああ?」

「そんな胡散臭そうなお顔をなさってはいけませんわ。わたくしは平民育ちでこの学園の皆様のように高尚な常識を心得ないおばかさんですのよ。至って無害ですわ。そんなおばかさんのお友達でいらっしゃるシェイファーさんもご同類。それを少しでもわかっていただけたらと思いますの」

 正義感ではない。克己心とも違う。ただ、突如として湧き起こった、こうあればいいのに、彼を理解し友好的に接する人間が増えればいいのにと思うばかりだったもやもやしたもの、わずかばかりでも実際の力になりたいという内なる思いの発露だった。

 次に何が起こるかわからない。妙な噂になるかもしれないし悪意が増すのかもしれない。普段ならば十分に用心して避けてきた可能性を圧して、さもあらばあれという気持ちが勝ったのだ。案に相違して、周りの人間にとっては大したことのない何気ない言葉なのかもしれない。だがリベカにとっては相当の度胸を要する冒険的な踏み出しだった。

 恐らく、何か精神の平衡を欠いてでもいたのだろう。終始おかしなはしゃぎっぷりを披露して大げさに感心し、熱心に周りの色々なものを褒め、やたらとエイジアや付近の学生に話しかけた。胡散臭そうに眉を潜めていたエイジアが終いには心配そうになるくらいにはいつも通りではなかった。

 それでも最後まで彼女を放り出さずに付き合い続け、寮の通用口まで送ってくれたのは彼にとっては最大限の友情の表れといえよう。


 エイジアと別れたリベカは、手早く運動着から室内着に着替え、颯爽と学習室を目指した。

 今日の出来事の中で気付いたことがある。努めて朗らかに振る舞ったリベカに対して、同学年でも同講座でもない通りすがり同然の学生たちは、エイジアに対しては距離を測りかねている様子であったが、リベカにはそうでもなかった。いつも自分が渦中にいたから気付けなかったが、同じ立場の他人を傍から眺めてみると、自分の殻に籠った人物の態度というものは不思議と悪目立ちするのだ。

「モス先輩!」

「あら、コルネイユさん。どうなさったの。ふふ、なんだかとってもいいお顔ね」

 学習委員として担当日は閉館までいるローナ先輩は、やはり夕方になっても穏やかな微笑を湛えてここにいた。

「先輩、わたし、改めて先輩にお礼を申し上げたくて」

「お礼?」

「わたし、入学してからずっと先輩にご親切にしていただいて。おかげさまで勉学に集中することが出来、友人に親切にしたいと心がけて過ごすことが出来ております。そのことに先程気付きました。それで、わたし、先輩のような上級生になりたいと思ったんです」

「あら……面映ゆいこと」

 思えば入学当初、右も左もわからず平民上がりの貴族学生ということで遠巻きにされていた自分を気にかけて気が楽になるよう心を砕いてくれたローナ先輩に感謝し、そんな風になりたいと思ったのではなかったか。

「光栄だわ。私のようにとは言わないけれど、あなたがあなたの目標に到達する日を、早く迎えられるといいわね」

「はい!」

 リベカは、もっと常日頃明るく、心にゆとりを持って振る舞うよう意識しようと誓った。ささやかな、曖昧なものだったが、この日、自分の将来についての指針らしきものが垣間見えた気がした。



 夕刻前に帰って来たアンジェリンは、険しい顔をしていた。彼女は帰寮の挨拶もそこそこに、勉強机に向かいすごい勢いで手紙を一通書き上げると、封をする寸前にふと顔を上げ、初めて気付いたかのようにリベカを見た。

 リベカはびっくりした。これまではどんなに友人が高揚した状態にあっても明るい橙色がせいぜいだった彼女の瞳が、凶色に瞬いていたのだ。

 アンジェリンの視線がリベカの上で焦点を結び、明るい橙色へ、そしていつもの焦茶色へと落ち着きを取り戻していくのをリベカは見守った。どうやらサヴィア家では余程彼女を激昂させる出来事に見舞われたらしいと、内心で戦慄する。

 一体どうしたのと訊いてもいいものかどうか、リベカは束の間悩んだが、話しても差し支えない問題であれば、アンジェリンは話してくれるだろうと判断し、詮索はやめておいた。むしろ今後の自分の精神の安寧のためには聞きたくない。うっかりブラムと二人になって聞かされないようにしようと心新たにする。

 校内か校外かの選択性となる三年生になってからの実技科目については、なし崩しに今年の実技の班組のまま校外実習を選択することになり、その申請が受理されたばかりだ。来年の組分けはそれを考慮された、つまり五人全員が同じ組になる公算が高いので、中々に厳しい抱負となるが、今となっては一蓮托生の腐れ縁となる予感もするし、どうしたってジリアンやブラムに憧れる女子のやっかみを買う事となる覚悟は固まっているが、できるだけ火種は作りたくないと思うのは当然である。

 アンジェリンは我を忘れた己を恥じるよう、やや視線を後退させ上目づかいになりながら、甘えるようにかわいらしく語尾を潤ませて問うた。

「ねえ、リベカ。次の長休みも、ヴォジュラへ遊びに来てくれる?」

 彼女がこんな仕草でお願いをする相手が自分だけであるという愛嬌の無駄遣いをすこぶる残念に思いながら、それでもリベカは嬉しくなって問い返した。

「むしろ、二年続けてお邪魔してもいいの? 泊まりに行ってもいいのならすごく嬉しいんだけれど」

「もちろんよ!」

 アンジェリンはうきうきと両手を組んで喜びを表した。再度便箋に向かい、猛烈な勢いで追伸をしたため、今度こそ手紙に封をした。そして配達の手続きのためだろう、飛ぶように出て行った。

 ヴォジュラ領の実家への手紙であることは間違いなかった。したためた追伸は、今年も友人を連れて戻るという先触れだろう。

 そこまで思い至ったリベカは、今年はきちんとコルネイユの家の祖父母に報せておかなくてはと思い至り、自分も机に向かいペンを取った。



 きたかぜの月1日となり、学生生活二年目の長休みに突入した。

 今回はリベカは、実家から手配されてきた手土産や挨拶状をアンジェリンの父君にお渡しすることができ、実家への義務はひとまず果たしたと胸を撫で下ろす。今年もいるエイジアも同じのようだった。

 二人は去年と同じように美中年のアンジェリンの父君の迎えと挨拶を受け、マズリ馬に牽かれた無骨な大型の馬車とそれを取り巻く山賊団のようなヴォジュラ正規兵の皆さんに護られて、いささか厳しい寒さとアンジェリンの家族のあたたかい歓迎が待つヴォジュラ領に入った。

 一年ぶりに見るヴォジュラ領の州都は、リベカの曖昧になりつつあった記憶と大きな齟齬を成す変化も突飛さもない古めかしさで、多くが石造りの灰から白で統一された町並みは振り敷く雪に沈み、住む者もない古代都市の趣さえ感じさせる。そんな静謐の支配をものともせず仕事に商売に精を出す人々の活気が燃え盛るような精彩を添えているところも、行き交う人々に妖霊人が混じっていることも変わらない。

 アンジェリンの実家もまた記憶通りの質実剛健な佇まいで、客をもてなすための別館には滞在客が何不自由なく心身をくつろげられるよう奢侈品の設えで統一されていたが、却って別世界のように感じられ、滞在する身としては気まずく感じられた。客室は昨年と同じ部屋を用意してあったが、リベカは予めもっと質素な部屋にしてほしいと要望しておけばよかったと思った。

「ウェレス兄上、先月差し上げたお手紙でもお願いいたしましたが、イジー兄上は近く戻られまして?」

 アンジェリンの家族への挨拶の席で、アンジェリンの口から飛び出したのは下の兄の名だった。

「今月はまだだ。少なくとも、おまえの帰省中に一度は戻るから、おまえと会う時間を取ってやりなさいと言い渡してはあるが、どうなることか。あいつは仕事に関係のないことはすぐに忘れてしまう、仕事の虫だから」

 家長代理のアンジェリンの上の兄は確信なさげに答えた。

 ジリアンの兄、騎士ザカリアス・サヴィアの同窓生という下の兄の事を持ち出すということは、以前サヴィア家にお呼ばれした時の何かしらを引き摺っているのだろう。

 それが今後の学校生活に影を落としたりしなければいいと、リベカは心中密かに祈るのだった。



 ある雪の通った後のきんと身の締まる朝、雪景色を見たいと思ったリベカは、館の中庭に面する廊下の端の窓辺へ行き、外を眺めていた。

 客用の別館の窓からは、フェルビースト家の内情を外来者に知らしめるような場所は見えないように設計されている。この窓から本館への通用口へ向かっているのだろうか、使用人が引っ切り無しに行き来する様が見える一角を発見したのは偶然で、生活の臭いが感じられるその光景が、粋を凝らした仰々しい中庭よりもリベカは好きだった。

 リベカに外へ出ることを断念させた寒さと堆く降り積もった雪を踏み固めた庭で、立ち働く人々。それで禄を得ている彼らの労働に、寒いだの歩きにくいだのはない。かつては自分も同じ立場だったことに後ろめたさに似た痛みを覚え、リベカは力なく首を振った。

 使用人一人とっても兵士を兼ねられそうな(実際に兼ねているのかもしれない)屈強な男たちに混じって、一人だけやけに小さいのが動き回っている。

 どうやらリベカと同じくらいの少年のようだ。それが周りの巨漢と同じだったり、一周り小さかったりする荷を苦もなく肩に担ぎ上げ、きれいに雪かきをされた道筋を、中庭の男たちと同じに足早に往復している。

 それだけならば現場の新人と思うだけで、大して気には留めなかっただろう。リベカの気を惹いたのは、少年の後をついて回る、小さな黒い塊だった。彼の飼っている仔犬か猫か、少年の歩みの邪魔をしない程度にまとわりつきながら片時も離れずついていく。

 その様子を微笑ましく感じたリベカは、それをもう少し近くで見たいと思った。

 寒さに備えてアンジェリン宅では防寒具の用意もしてくれている。厳重に我が身を包み、廊下の端の詰め所で控えていた家人へ庭を見に行きますと一声かけてから、付き添いを断って降りていった。

 客人用の庭は景色を楽しむために花壇や植木や盛り土や池などの配置が凝らされた、現在は無人の空間にしか繋がっていなかったが、リベカはどちらに向かって歩けば目的の場所へ辿り着けるかわかっていた。方向感覚は悪くない。

 リベカがその場を覗き込むなり、少年は道の脇に寄り、顔が見えないほど深々とお辞儀をした。他の使用人たちも同様にした。少年の後をついて回っていた小動物は、どこかへ隠れでもしたのか、姿が見えない。

 リベカはこの挙措には覚えがあった。礼儀作法の授業で、貴人にすれ違う時の作法として教わったものだ。下位の者は上位の者を煩わせぬよう、速やかに道を空けねばならない。求められるまで口を開いてはならない。そして許可なく仕事を再開することも、勝手に立ち去ることも許されない。

 リベカが教わったことは、侍女として、より高位の貴族に仕える場合を前提としていたが、使用人の立場であれば、本来なら貴人の視界に入ることすら不敬と見做されるのだ。主の見ていないうちに仕事を終え、主の目に映るものはその完璧な仕事ぶりだけでなければならない。

 リベカはこのフェルビースト家の令嬢の客人としてこの館にいる。下働きの少年にとっては主家の令嬢と同じ、視界に入ってはならない高位の存在なのだ。そして、彼らにとってはアンジェリンもリベカも大差ない『貴族のお嬢様』でしかないだろう。

 好奇心から近くで見てみたいなどという、そんな思い付きの望みが叶う相手ではなかったのだ。

 リベカは内心の落胆を押し隠し、せいぜい貴族のお嬢様らしく聞こえるよう高慢に言い放った。無性に悲しかった。

「……ごめんなさいね。仕事の邪魔をしたいわけではなかったの」

 王都の高等学校で教わるのはそうした人々を束ねる立場の心構えや仕事の仕方だ。学生たちはみなその気高い自覚と誇りを持ち学んでいる。

 今では自分もその一員なのだ。平民上がりだからという曖昧を自らに許す気持ちを切り替え、もっと自覚を持ち学ばなくてはならないのだと、改めて思い知らされた気持ちだった。

「少し、道に迷ってしまったみたい。しろがねの庭に戻るにはどちらへ進めばいいのかしら?」

 その時、頭を垂れた使用人たちの誰かが口を開く前に、どこからともなく一人の男性が現れた。どこからともなくとしか言いようがない。彼が、いつ、どこからこの場にやってきたのか、リベカには分からなかったからだ。

 彼が大股で、しかし乱雑ではない挙措で歩み入って来た途端、空気が塗り替わったように感じられた。

 リベカはふと、子供の頃のことを思い出した。

 住んでいた村の郊外で野イチゴを摘んでいた朝に、突如霧が立ち込め視界の隅に珍しい獣が現れたことがあった。その獣は大きくて、静かで、美しかった。後から、長らく村の守り聖霊として伝えられる霊獣で、姿を見る事のできるものは滅多にいないが、邂逅叶えば幸運を得られると信じられている存在と知った。

 村の薬師兼魔術師が――正式に魔術師を名乗れる資格は持っていない、いわゆるモグリ魔術師と呼ばれるおじいさんだったが――その日から、近く村に災厄が降りかかると夢のお告げがあったゆえ備えよと村中に警告を発して回るようになり、それから一月も経たぬうちに近隣の村々に疫病が流行ったのだ。

 あの獣は魔術師のおじいさんにお告げをするためにやって来たのだろうか。それとも病をばら撒きに来たのだろうか。

 信心深い村人は前者だと思っている。後者だと考える懐疑的な者もいるようだ。リベカは前者であればいいと思っている。

 両親の不慮の病死後見計らったようにリベカの人生に登場した父方の祖父母は、中央の名家の人だった。物語でよくある展開に胸をときめかせるより、もう少し早く迎えに来てくれていれば父母はよい医者にかかれて助かったかもしれないと、恨みがましいわだかまりを抱いてしまった。獣のせいにして恨みつらみを抱え込むかわりに。

 同時に父が貴族の座に収まったままであれば、そもそも病になど倒れなかっただろうし、自分はこの世に生まれていなかっただろうとも理解できてしまった。

 それから引き取られた父方の祖父母の屋敷の水と土に慣れる暇もなく、家族の喪失に浸る間もなく、コルネイユ家の娘としてふさわしい教育を受けるようにと突如送り込まれた高等教育機関。

 今でこそ悪いことばかりではなかったと言えるが、当時の自分はそれはそれは捻くれていた。誰にも指摘はされなかったが、顔にも挙措にもそんな内心は現れていたことだろう。

「お嬢様、僭越ながらそれがしが、しろがねの庭までご案内いたしましょう」

 朝の冷たい空気の中よく通る若い低い声が、わずかなヴォジュラ訛りを伴って淡々と毛皮の帽子に覆われた耳に届き、リベカは弾かれたように顎を持ち上げた。

 新たに現れた大きな彼はこの場でリベカに話しかけることのできる階級なのだろうか。彼もまた周りの人々と同じように毛皮の防寒具で頭のてっぺんから足先まで包み込んでいて、容姿は判然としない。静かに彼女を見据えた目元はきりりと引き締まり、瞳は薄い青だった。青年と言ってよい若さだ。

 リベカは、友人の理想の人はこの人だと一目でわかった。

 霧の草原の中に溶け込むようにしてありながら何にも紛れはしない圧倒的な存在感を漂わせていた霊獣を思わせる静謐な佇まい、どんな苦難が降りかかろうともびくともしないかのように感じられる泰然とした力強さ。厚い衣類越しにも伝わる鍛え上げられた長身の体躯。実際に武器を手にすれば、友人が語るように比類なく強いのだろう。

 リベカを先導して歩き、ほどなく元の客用の庭に辿り着くと、彼は礼を失さぬ程度に顔を上げて忠告した。

「お出かけの際には供をお連れなさいませ。近くの者に申しつけていただければ、ただちに案内と護衛をご用意いたしますゆえ」

 ぴしりと後度を突く言い草は、明らかにリベカの令嬢らしからぬ軽挙を咎めていた。命令に慣れたふうでもない、あくまで淡々とした声音で、驚くべきことに嫌味や小言とは受け止められず、その通りにしなければならないという気にさせられる、支配力のようなものを含んでいた。リベカの中に、反発する心は一切湧いてこなかった。

「……ごめんなさい」

 すみません、と頭を下げて言いたくなる心と争った末、どうにかそれだけ絞り出すことが出来た。この人の前で令嬢らしさを多少なりとも保つことが出来たなら、それだけでも快挙だと思うほどには、彼は威圧感に満ちていた。

 あんなおっかない人を恋愛的な意味で憧れの対象にできるとは、アンジェリンはつくづく豪胆だと、リベカは改めて舌を巻くのだった。


 おっかない大きな人が背を向けたのとほぼ同時に、エイジアが館から出てリベカに近づいてきた。

 同じように防寒具で長身痩躯をぐるぐる巻きにした身形の、宝石のような緑色の瞳が、驚異とも戦慄ともいえそうな不可解な感情を伴っていつもより見開かれている。その視線は大きな人が立ち去った道を追っていた。

「なあ、あの人と話したのか? 何者だ?」

「わからないわ。道を間違えてここの人たちの仕事場に入り込んでしまったから、ここまで連れて来てくれたの。お互い名乗り合いもしなかったけれど、向こうはわたしがアンジーのお客だとわかってたでしょうね」

「怒らせたりはしなかったんだな?」

「……ちょっと、咎められはしたけど。怒られるというほどではなかったと思うわ」

「……ならいい」

 渋々といった感じで頷いたエイジアの口吻は、どうにもいいと思っている風ではなかったが、ひとまず彼の中で納得の着地点に到達してはくれたようだ。

 リベカが不審も露に新緑の目元を眺めていると、彼はそれを眇め、神妙な声を出した。

「いや、多分だけど、あの人、怒らせちゃなんねえ人だ」

「でしょうね。でも、多分だけど、あの人がアンジーの憧れの人よ」

「正気か」

 同じく神妙に答えたリベカに、物理的に何かを吐き出したような呻きを零して首を振った。

 リベカは安心する。よかった、やはり友人の好みがおかしいと思った自分の感性は正常だ。

「それよか、フェルビーストがおまえのこと探してる。出張してた下の兄さんが帰ってきて、土産物とかくれたんだと。俺らにもどうぞってさ。魔境産の珍しい素材の小物とかあるっぽいぜ」

「あら、そうなの? じゃあ早速行かなくちゃ」

 そうして、しばし、胸の痛みを忘れることにした。

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