2年生・1
アンジェリンの故郷ヴォジュラ領でたっぷり一月を過ごした冬の長休みが明け、まだ冬の気配の抜けきらぬはるかぜの月の一日目。
リベカ達は、無事二年に進級した。
ちなみに長休みは二月分あるが、余裕を持たせてそのうち半月を移動と身辺整理に費やした。
いかに大領といえヴォジュラは辺境。遠いし、長く滞在すれば持ち物が増える。主にフェルビースト家の人々にあれこれと持たされた土産物で。幸いリベカもエイジアも他人への土産物で難儀する環境にはいなかったので、ごく少数の親類知人への土産物を取り置いておけば、あとは心おきなく自分のためだけに荷を吟味することができた。悲しくなんてない。
突拍子もなく、危険で、王都中央とは段違いに寒く、また活気に満ちて、家庭的で居心地のよいところだった。リベカは故郷の村で暮らしていた時分を思い出して寛いで過ごせたし、エイジアもいくつかの点において心境に変化があったようだ。
ヴォジュラでの妖霊人は、王都では半ば魔物にも等しく見做されている境遇と比べて雲泥の差だった。それをアンジェリンはエイジアに見せたかったのではないかと思う。
出張中だったアンジェリンの下の兄は、余程忙しいらしく、一度だけ戻ってきてすぐに出て行ったので、たまたま通りすがりに顔を合わせただけだ。彼も父方の家族によく似た麗しい見目の青年だった。すれ違い程度に挨拶を交わしただけだったので、人柄までは見て取れなかったが、優しい笑顔の好青年であるように思う。
ヴォジュラの自然の驚異に満ちた観光名所(組合員が仕事のために出向くような、魔物も徘徊する危険地帯でもあった。行く時にはヴォジュラ正規軍もしくは組合が認めた組合員の護衛が必要な場所ばかりだった)は一生の思い出になるだろう。
道中は厳しく寒く、魔物や野盗に襲われては護衛の皆様に振り払っていただき、体はくたくた、心は興奮と緊張が振り切れておかしな心理状態がかなりの期間持続していた。記憶がごっそり飛ばなかったのが不思議なくらいだ。正直、一部曖昧な部分もある。
エイジアに尋ねてみれば、彼も似たような状況にあるという。
組分けも改めて行われ、リベカは幸運にも再びアンジェリンと同じ組だった。また、学年が繰り上がり新入生を迎え入れるにあたって、寮の部屋組にも多少変更が行われ、リベカとアンジェリンは隣同士の一人部屋から相部屋に変わった。これは嬉しい驚きだった。
更に今年はエイジアも同じ組だ。ジリアンとブラムはいない。
これは多少過ごしやすくなるのではないかと期待しかけたのも束の間、いや組が別れたなら別れたで、あの坊ちゃまは何かとアンジェリンに絡みにこの組に来るだろうと察しがついてしまい、かえって目立ちそうだと頭を抱える。
昇降口に張り出された組分け表を熱心に見詰めていた後の彼の恨みがましげな瞳は、雄弁にその後の意向を物語っていた。
その彼が話があると言ってアンジェリンを訪ねてきたのは数日後の昼休み。
「たのもう! フェルビーストはいるか!」
常ならぬ果たし眼でのご指名に、静かに立ち上がったアンジェリンは頬を染めてまっすぐにジリアンを見返した。
道場破りでもするつもりかという勢いで突入してきたくせに、たやすくジリアンはたじろぐ。白い頬に朱が差し、あーとかうーとか不明瞭な呟きを繰り返した。咄嗟に言葉が出ないのなら、咳払いの一つもしておけばまだしも様になっただろに。
友人の対応が一般の女子学生と同じ意味合いでなされたものでないことは、傍で見ているだけのリベカにはよくわかった。アンジェリン本人は、すわ決闘かと拳を固めているのだから。
頬が紅潮し目がきらめいているのは闘争への興奮からだ。不幸なことに、リベカとアンジェリン本人以外の誰もそのことに気付かない。
見詰め合うことしばし、意味のない時間が流れる。
「ジリアン様」
ジリアンの斜め後ろにいるブラムが促すようにそっと囁いた。
「あ、ああ。あー、フェルビースト」
「なんでしょう」
「……う……あー、その、だな」
リベカは進行役を買って出るほどおせっかいではない。じりじり後退り、そそくさと外野の前列に背中で張り付いた。本当は紛れ込みたかったのだが、外野の壁が厚くて通り抜けられなかった。
姿を完全に眩ませないと、なんかの拍子にアンジェリンが友人の消失に気付いて「リベカどこー?」と場違いな声を張り上げかねない。この状況でクラスメートの視線の集中砲火を浴びたら小心者のリベカは蒸発してしまう。
たまたま教室の外に出ていたエイジアが、廊下側から中の様子を覗きこむなり引っ込んだのが見えた。とんだ薄情者だ。
幸い、アンジェリンはまだ眼前の敵(仮)への警戒態勢を解いていない。集中は続いている。
「……」
「……っ」
ブラムがジリアンの脛を軽く蹴った。外野の大多数と同じく、長引く沈黙に業を煮やしてのことと思われる。無言で表情一つ変えないままに行われた一瞬の早技。前から思っていたことだが、この従者、結構気が荒い。荒いというか大雑把だ。
普段は従者の鑑のような程よい存在感の控えぶりなのに、たまに気の置けない乳兄弟の態度を露わにしているのだろうとリベカは分析する。まあ、まだ高等学校二年生なのだ。大人のような完璧な勤務態度を求めるのは酷というものだろう。
「ぼ……僕は、狭量だった」
おや。
裏返り掛けた声での第一声は、思いがけない平和的な文言であった。
「僕の君への態度はとても褒められたものじゃなかった。僕のせいで嫌な思いもしただろう。言いがかりを付けて申し訳なかった」
これは。
「それを踏まえてだな、過去の遺恨を清算し、新しい人間関係を築いていきたいと思う」
ジリアンは思いがけない切り出しで和解を申し出たのだ。
本人の心境の変化なのか誰かの入れ知恵なのかは知らないが、長休み中に接点がなかったことを踏まえ、ライバル関係を続けるより実になると判断したらしい。その分考える時間だけはたっぷりあったはずだ。エイジアとの婚約の噂が無責任きわまるガセネタだったと即日中に広まったことも、彼にとっての追い風になったかもしれない。
顔を真っ赤にしてぜーぜーと肩で息をしながら押し出すように言う彼は、できれば目を逸らしたいくらい気恥ずかしいのだろう。でも逸らさなかった。その態度は天晴だ。
「つまり、その。とっ……とと、と、僕とっ、ゆう、友人になろう!」
言い切ったあ!
リベカは俄かに拍手したい気持ちに見舞われた。一時的にだが。
せっついたブラムまでが感心した顔をしているのはどういうわけだろう。主人にはそんな度胸はないと踏んでいたのだろうか。だとしたら相当に無礼な従者だ。
アンジェリンはぽかんとしている、のだろう。後方に退いたリベカからは顔が見えない。親指を握り込んで固めた拳が解けていたのを視認できただけだ。
やがて、手を打ち合わせて弾んだ声で是と答えた。
「あたくしとお友達になってくださるんですの? ええ、喜んで! わざわざそれを言うためにいらしてくださったんですの? まあ、ありがとうございます! これからは勉学と武芸に切磋琢磨してまいりましょうね! ……あら、予鈴ですわ。次の授業に備えませんと。それでは、サヴィア様、バスティード様、ごきげんよう」
実に額面通りの切り返しをして話を終わらせた。
むしろ、つんけんすることがなくなりそうってだけで、両者の関係そのものは今までと何ら変わりませんよと宣言しているかのような受け答えだ。言葉の上っ面以外の含みなんぞ想定外という態度を計算して仄めかせる可愛げがあればまだしも脈もあろうが、アンジェリンはどこまでも真率だ。
ほら、ジリアンが二の句が継げなくなって顔色を白くしている。さっきまであんなに真っ赤だったのに。
何度も思ったことだが、気の毒に。
アンジェリンとジリアンが『お友達』になったことは、噂などとしてではなく事実として学年中を駆け巡った。
彼に憧れる女学生たちのやっかみの視線は、形の上ではいがみ合っている状態だった一年生の頃に比べ、いや増した。そして、諦めが混じるようになった。
なにしろ、ジリアンがアンジェリンを休日に遊びに誘っても、友人としてという正当性がくっつく。今まではジリアンの方が意地を張って、因縁のある相手と友好を深めるような真似は出来ぬとばかり、踏み込んでは来なかっただけなのだ。
「28日ですか」
アンジェリンが難しい顔で顎に指を添え、首を傾げた。
「あ、ああ。丁度その日は時間が空くんだ。ゆっ、友人らしい交流もまだ持ったことがないからな、一緒に出かけないかと思ったんだが……都合が悪いか?」
言い訳がましくくどくど理由を述べなくてもいいだろうに。残念感が、美少年の気後れ顔の鑑賞に水をさす。
「申し訳ありません。あたくし、28日は予定がありますの。特に休日は」
「一体なんだ?」
寮住まいのアンジェリンに、王都在住の貴族子女のようなお呼ばれや習い事という時間の過ごし方はない。たまに学級を通じてどこやらのお茶会などといった話を受けているようだが、社交に精を出しているとはとても言えない過ごし方をしていることを、リベカは知っている。
彼女は遠い目で友人から視線を逸らした。溜息も出ない。
「毎月28日はですね、王都闘技場の特別目玉試合が組まれる日なんですの! 勿論あたくし、こまめに新聞を購入して一般対戦表と勝敗も逐一チェックしていましてよ。でも次の特別試合はなんと、ドドメス対ゴンザレスなんですの! いきなり今年一番の好カードでしてよ! それが丁度学園の休日! これを観戦しに行かない手がありまして!?」
いきなり熱く語り出したアンジェリンに、ジリアンは絶句。
リベカは窓の外を見た。鉛色の空を背景に、学園の中庭の樹が寒々しい裸の枝枝を差し交わしているばかりだ。花の気配に色づくにはまだ早い。
ジリアンの後ろに大人しく控えていたブラムが心当たりありげに身じろぎした。
「なんだ、言いたいことがあるなら言え」
主人の許可を得て、小さく目礼をした従者は、「確か」と前置きした。
「ドドメスはヴォジュラ領出身の剣闘士ではなかったかと」
「そう! そうなんですのよ! バスティード様、あなたも闘技観戦がお好きでして!?」
「はい。休日にたまに覗く程度ですが」
「まあ、嬉しい! 同学年に同好の士がいるなんて! あたくしの贔屓は勿論ドドメスですけれど、バスティード様はどなたがお好きですの?」
「自分はケアリーです。たまにしか現れないのですが、正統派の剣術と奇を衒った戦術の組み合わせが面白い剣闘士だと思います」
「勿論存じておりますわ! ヴォジュラにも、剣闘士と組合員の二足の草鞋を履く者は大勢いました。ケアリーとはまた、通な方を選ばれたものですわね。それに若い……ええ、でもあたくしも、彼は伸びしろのある闘士だと思いますわ」
アンジェリンが焦げ茶色の瞳をキラキラと橙色に輝かせて熱心にブラムを見詰め始めた横で、ジリアンがおろおろと二人を見比べて焦っている。
「そうですわ、バスティード様、サヴィア様。その日ご予定がないのでしたら、よろしければ、次の28日は一緒に観戦に参りませんこと?」
「自分はジリアン様さえお許しくだされば……」
「ぼっ……僕も」
「勿論、無理にとは申しませんわ。これが人を選ぶ趣味であることは承知しております。例えばリベカは、今まで一度も一緒に闘技場に行ってくれたことはありませんし。何度も誘っているのですけれどね」
「当たり前でしょ。闘技場が好きな女の子なんて少数派なの」
「だから、人を選ぶってことは承知してるって言ってるじゃない」
「……ぼっ……僕は、興味がある」
脇道に逸れた女子二人が遠慮のないやり取りをしていると、ジリアンが絞り出すように言った。
興味があると、初心者風の無難な返答に留まる辺りが善良だ。趣味だと言ってしまえば、ブラムと同じように好きな剣闘士は誰かと訊かれて答えられないと思ったのだろう。
「そうですの? では、バスティード様とサヴィア様もご一緒いたしましょう。ドドメスは本当に素晴らしい剣闘士なんですの。彼の戦いぶりをご覧になれば胸が梳くような思いがいたしますわ。きっとご満足いただけましてよ」
そこまで言って、アンジェリンはじっとリベカを見た。
「私は行かないわよ。闘技観戦は趣味じゃないもの」
ジリアンと違って、リベカには、彼女の心証に遠慮する必要はない。そもそも、闘技観戦には本当に興味がない。再三言っているのに誘ってくるのは、アンジェリンとしても共通の趣味で盛り上がれる同性の友人が欲しいからだとは思うのだが、あいにくそこまで無理して相手に合わせる必要のない距離感の友達づきあいができている。
第一、この三人に自分が加わって外出など、翌日の噂の種になりに行くようなものだ。考えただけで胃が痛くなる。断固お断りだ。
はっきり言い渡すと、アンジェリンはしょんぼりした。
「一度行って見てもらえれば、あなたもきっと気に入ると思うのに……」
「私はアンジーと違って、首と肩の区別がつかないくらい筋肉が盛り上がってて、野性味溢れる髭にまみれてて、襟元からはみ出すくらい胸毛が豊かで、汗と埃にまみれた男臭さを四六時中漂わせていて、戦えば野獣のように荒々しい巨漢男性を見ても心が癒えたりしないの」
どれも、アンジェリンが剣闘士ドドメスを語る時によく使う言い回しである。
視界の端っこで、ジリアンがますます顔色を失くしていたような気がするが、多分、気のせいだろう。
やってきた28日、リベカは予定通り、闘技場に繰り出すアンジェリンを送り出し、一人の休日を迎えた。
この日どうするかは決めてある。勉強なり訓練実習の対策なりを行おうと、寮の学習室に向かった。
翌月には始めての訓練実習が行われる。まだ小手調べといったところで、学園内の演習場で済むものとなるそうだが、どんな内容かはまだ知らされていない。
ローナ先輩に尋ねてみると、学生の適性を見定めるために、様々な分野の課題が提示されるらしい。
学園内の菜園と雑木林で任意の薬草採取をし、使い方と効用に関してレポートを作成するとか。街の外まで連れて行かれて、野獣や魔物の危険を掻い潜りながら制限時間内にどれだけ効率的に戻れるかとか。街の商店の協力も得て一日店員を体験するとか。教官がどこかに隠した特定の品をどれだけ早く見つけられるかとか。演習で近郊の村に滞在した時に、村が盗賊団に襲われたという想定でどう対応するか、といった問題を出されたりとか。
時期と状況さえ合えば、もっと特殊な課題も出るらしい。抜き打ちとか。なにそれ怖い。
はじめての課題はなんだろうと、リベカは難しい顔をして、書棚の間を渡り歩いた。
卒業生のレポート集が奥の方に仕舞われてあったはずよというローナ先輩の助言を元に、ふと、アンジェリンの兄のレポートが残っていないかなと考える。
一般的な参考書や、少数ながらある娯楽書などの書架とは随分離れた奥まったある筋で、リベカはそれらしい冊子の束を見つけた。乱雑に仕舞われたものか、背表紙がきれいに揃っておらず不揃いに突き出しているのが気にかかったが、深くは考察せずいそいそと手を伸ばし、適当に手の触れた一冊を引っ張った時、ぱさり、と何かが落ちた。
見下ろしてみると、それは手紙だった。
何気なくそれを拾ったリベカは、それがごく新しいものであることに気付く。『モイラへ』と一言だけの、封筒の宛名を綴るインクも、まだくっきりと色濃い。
「なんだろ……これ」
誰かが学習室で手紙を書いて、うっかり参考資料に挟んだまま持ち帰り忘れたのだろうか。忘れものとして、総務に提出するべきだろうか。
新しい気配がして、そちらを振り向くと、ヘクト先輩が立っていた。学習室で見かける時はいつもそうであるように、今日もたくさんの返却本を脇に抱えている。
「あ、こんにちは、先輩。いいところに。ちょっとお伺いしたいんですけど」
「やあ、コルネイユくん。ははあ、その手紙のことかい」
授業だけでは理解が及ばないので、余暇を勉強に充てるしかないリベカは、度々ここに顔を出すうちに、やはりここに頻出するヘクト先輩とは何度も顔を合わせていた。今では、ちょっとした立ち話くらいは気後れせずにできる。
「レポートの束を引き抜いたら間から落ちてきて。これ、学習室委員に落し物提出でいいんですか? それとも総務でしょうか?」
彼は、日によく当たっただけではない熟したリブルの実のような色の顔に、いたずらっぽい微笑みを浮かべて言った。
「ということは、それは君が書いたものじゃないんだよね。だったら、元の場所に戻しておくのがいいと思うよ」
「元に……って、本棚の中ですか?」
「あとで取りに来た人が、所定の場所に手紙がなくて困るだろうから。落し物として提出されても堂々と引き取りには行けないだろうしね」
「……そういうことですか」
これがどこかの男子学生からモイラ嬢に宛てた恋文だと気付いてしまった。
ローナ先輩が以前、学習室の中間点は逢引きに使われることがあると言っていたではないか。モイラ嬢とそのお相手は、日常生活のほとんどの場面で他人の目があるこの寮内で二人だけの秘密を持つにあたり、この目立たない書架の陰を中継点として打ち合わせてあったものに違いない。
「探せば他にも恋文が見つかると思う。この辺、学習室でも一番奥まってて利用者も少ないところだから、そういうの多いんだよ。他人の手紙を見つけても、見なかったことにするのが礼儀かな。さすがに逢引きなら程度にもよるけど、基本的に手紙は学習室委員も黙認。きりがないし、もてない僻みで取り締まってると思われたくもないしね」
「……そうでしょうね」
実際に人目を忍んで逢瀬中の男女にかち合わなかっただけ幸運だったのかもしれない。そんなことになったら、居た堪れないでは済まない。
ヘクト先輩は抱えていた冊子を近くの別の棚に差し込んだ。それを見てリベカも慌てて、手紙を元あった場所と思われる隙間に押し込む。先輩は特に気まずさを感じさせない朗らかな口調で話しかけてきた。
「ここにいるって事は過去の訓練レポートの検索かな。そろそろ2年最初の訓練実習が始まる頃だもんね」
「はい。といっても、どんな課題が来るかがわからないので、対策も立てようがないんですけど。いろんな分野の物を広く浅く目を通しておこうかなって。あと、友人のお兄さんがここの卒業生だと聞いているので、好奇心でその人のレポートが残ってないかと」
「ここにあるのは複写の一部だから、全学生の全レポートは校舎本館の資料室を検索する方が確実だろうね。でも成績優良者のとか珍しい事例なんかはここにも置くようにしてあるから、一部くらいはあるかもしれない。目当ての人の名前は分かってる?」
「フェルビーストです。ええと……イズリアル・フェルビースト?」
ヘクト先輩は短く口笛を吹いた。品のない態度だったが、リベカにはむしろ馴染みのある故郷の少年のような振る舞いでほっとする。
「我が国最強の騎士の家ときたか! うん、それなら討伐系の課題のレポートが置いてある。えーっと……ほら、これだよ。友人って、君がよく一緒にいる赤っぽい髪の子の家なんだよね? あの子もやっぱ男顔負けの猛者なの?」
「猛者……と言っていいのやら……でも剣技の授業ではいつも好成績ですし、魔法も学年二位の腕前です。強い……と思いますよ」
なにやら期待混じりの問いかけは、単純に可愛い貴族令嬢への興味を感じる。見た目だけで幻想をたくましくしているであろう先輩が気の毒なので、友人の残念な性格には触れずに、当たり障りのない返答に留めておく。
彼女は今頃、闘技場で前座試合を楽しんでいる頃であろうか。
「ときに、先輩は、訓練実習、校内と校外どっちを取ってます?」
「僕は、どっちも行ったり来たりしているよ。課題の興味深さ次第かな」
先輩はあっさりと頷いた。癖のある黒髪が額の上で揺れて、思慮深そうな黒い瞳の下まで影を落とす。ジリアンやエイジアを見慣れていたからか、リベカは遅まきながら、先輩が嫌味でない程度に整った顔立ちをしていることに気付いた。
「え? そんなやり方もありなんですか!?」
「そりゃあ、向き不向きを判断する正確な材料は多い方がいいからね。一口に校内、校外といっても、課題によってその人のやり方や適性や結果は変わってくるもんだし。結果が出せなくても、どういう課題を選ぶかってことだけでも、教師陣の評価や進路の推薦先の傾向も変わってくる」
「えええ? 卒業後の就職先もお世話してもらえるんですか?」
「そりゃそうだよ。社会に出す人材を育てるのが高等学校の役割だろ?」
それもそうだ。リベカは考えなしな己の反応に恥じ入った。
しかし、そうか。就職先の紹介もしてもらえるのか。俄然勉強に身が入る確約である。
「……ええと、つまり、卒業できたら、侍女の資格を得られるんですね?」
先程の流れに続いて、書棚の陰で立ちんぼのまま、リベカは念を押す。
このフェイディアス王立高等学校の卒業生が社会に出てどのような役割を担うのか、どのような職に就くのか、ヘクト先輩は教えてくれたのだ。
多分今のリベカの目は爛爛と輝いているだろう。比喩的に。
自分の力で働いて生きていけるかもしれない。卒業後すぐに結婚しなくても済む生き方ができるかもしれない。結婚できなくても、負い目を感じずに打ち込める仕事を得られるかもしれない……!
リベカの気迫をどう受け取ってか、ヘクト先輩は面白がっているようだ。宥めるような微笑みを浮かべ、言い聞かせるような口調になる。
「侍女になるのに、実際に資格が存在するわけじゃないけどね。人手を必要とするところが、卒業の時期に併せて求人情報を学校側に回してくるんだ。女の子なら、成績に応じて上級貴族の屋敷や王宮での侍女の求人を割り振ってもらえる。留年しちゃうと王宮勤めは無理だろうね。得意分野によっては研究機関とか魔術師組合とかも斡旋されるし、成績優秀者は名指しで引き抜きが来ることもあるそうだよ。もちろん本人の希望もちゃんと聞いてくれる。最終的に判断するのは自分だからね」
名指しで引き抜き……アンジェリンの兄はその口だったと、王宮騎士の人が言っていたっけ。断ったそうだけど。あの一家はつくづく……いや、今更あれこれ言うまい。
「先輩は、何か進路は考えてるんですか?」
「いや、僕はまだ決めてないよ」
だからあっちへ行ったりこっちを受講したりと腰が定まらないんだけどねと、ヘクト先輩はごく軽い調子でそう言った。
ヘクト先輩は、どう見ても武芸の授業で高得点が取れそうにもない文系の見た目をしている。大半は学習室で委員の業務に勤しんでいるか、寮の食堂で同学年と思しき友人と食事をしているか、たまに校舎の廊下を歩いている姿を見かける時のいずれも制服姿で、体格もわかりにくい。鎧よりもローブの方が似合う。騎士を目指しているとは考えにくい。それでも、校外実習にもためらいなく臨むからには、運動能力にも自信があるのかもしれない。
ちなみに、貴族子弟でなければなれないのは王城に詰めて要人や式典の警護を担う王宮騎士団だけで、国の王宮以外の場所で人民を守り魔物や盗賊団の討伐隊なんかを構成したりする、いわゆる通常業務に当たる騎士は平民でもなれる。この学園の平民出身者で、騎士になる卒業生は多い。それだって一般人からするとエリートコースだ。里帰りでもすればまさしく故郷に錦を飾ることになる。
彼自身の言い分はどうあれ、積極的に色々な道を模索できる意欲は褒められるべきものだと、リベカは思った。
「君は?」
「私は、考え中です」
ぽつりと答える。
コルネイユ家の娘としてのリベカに求められているのは、不幸にも他に後継ぎとなる子孫がいなかった祖父母が満足する家格のお婿さんを獲得して後継者を産むことだ。
そのためには淑女教育で及第点を取り、世間様に恥ずかしくないくらいの体裁を繕えるようにならねばならない。
本当は、そんなことしたくない。かといって、何がしたいという展望も明確には持ってないのが現状だ。
十代前半で自分の将来をしかと見据えている少年少女って、どのくらいいるものなのか。言うまでもなく、アンジェリンは除外。あれは規格外。
そして、まがりなりにも合意の上で高等な教育を受けさせてくれている祖父母がそのお金を出してくれている。性に合ってないとか、平民上がりの娘が上流階級の子女が集まる学校で居心地が悪いとか、自分の望みだけを優先してそのことを忘れちゃいけない。
高等学校の過程は年明けの1日目を起点として12~13歳から17~18歳までの6年。うち一年はもう消化してしまったから、あと5年弱。その間に、何か実りある技能なり趣味なりを見つけて習得したいと考えている。
ヘクト先輩の捕捉によれば、この学校は、いわゆる花嫁修業を目的とした貴族令嬢の淑女教育だけの場ではない。
むしろそんなのはおまけだ。それっくらい自分の家で済ませておくべきって方々ばかりだから、ここで学ぶのはもちろん学問と、そして剣や魔法などの特殊技能であり、王立高等学校を卒業したという箔であり、有利な職に就く足掛かりを得て社会に出てから成功するためなのだ。
基本的な礼儀作法くらいは祖父母が付けてくれた家庭教師という名の職人さんが突貫工事で備えつけてはくれたし、学校でも礼儀作法の授業は存在する。しかしそれについて行くのもままならないのが現状なのだ。ただでさえ出遅れている教育に加え、庶民上がりという経歴は有利に働くものでは決してない。
寮暮らしの学生のほとんどは平民出身だが、彼らは皆何らかの才能を見込まれて試験を突破した、いわば特待生だ。貴族の血筋と付け焼刃が偶然功を奏したリベカとは土台が違う。
何でもいいから手に職を付けたいというのが、今の彼女の心情だ。でも、ただ家に戻ってなし崩しに祖父母の決めた将来設計に従いたくないからという、そんないい加減な気持ちは口にしたくない。一番の友人が、とっくにはっきり決めていることだから、尚更言えないでいた。
「そうかい」
ヘクト先輩は、それ以上追及しなかった。
それから、幾種類かのレポートを見繕ってくれ、進路の話を始める前と同じように明るく爽やかに送り出してくれた。
先輩に何冊もの本を持たせたまま、長話に付き合ってもらったという後ろめたい事実に気がついたのは、先輩と別れた後のことである。
ついでに言えば、学習室の最も人の訪れの少ない奥まった一角で男女が深刻な話を長々としているという図式はどうなんだろうという点にも気付いて肝を冷やした。うっかり人に見られていなければいいけれど。
次に先輩に会った時は、よくお礼とお詫びを言おう。
その日の午後、門限に余裕を持たせて帰って来たアンジェリンは、滔々と剣闘士ドドメスの魅力について語った。目玉試合は、見事ドドメスが勝利したようだ。筋肉と髭と厳めしさと腕っ節を賛美する彼女の熱い語りは、食堂の近くの席で夕食を摂る学生たちをドン引かせた。
ひとしきりミーハー心を満足させると、続いてはじめての闘技場への同行者についての感想に移った。
「それでね、年少の部というのもあって、ごく少額の参加費用を払えば飛び入り参加もできるのよ。武器は刃を潰したものを好きな種類選べてね。それで是非一戦交えたかったのだけれど、女の子は参加できないって言うの! ひどいわ! ヴォジュラの闘技場ではそんな差別されないわよ! せっかくお友達と一緒にお出かけしたのだから対戦したかったわ」
「私は今、一緒に行かなくてよかったと心から思ってるわ」
ひどいも何も、王立高等学校の女学生となると、すなわち貴族令嬢という発想に直結するのも無理はない。髪の先ほどでも損なえばどんな弊害が生じるやら。拒否は当然だ。
そもそもジリアンだってそんなつもりで出かけたんじゃないだろうし、女の子をデートに誘って闘技場に行ってすわ対戦かという羽目に陥るとは思いもしなかっただろう。本当は自宅に招いてお茶をご一緒するとか、買い物に付き合うとか、庭園の散策とか観劇とか、普通の女の子が喜びそうなネタを提供するつもりだったことは想像に難くない。お気の毒様!
数日後のある放課後、ブラムがやってきて、リベカを呼んだ。その時、アンジェリンは教室にいなかった。
「今フェルビースト嬢はいらっしゃらないか……いや、コルネイユ嬢、あなたにもお願いしたい。ご本人よりご友人に言い含めていただいた方が、自分が談判するより効果があるかもしれない」
「それは何か、わたくしにアンジーを説得してほしいといったお願いですか?」
学級の女子の詮索好きな視線を極力避けながら廊下の隅っこに移動しつつ、回りくどい彼の言葉を質しながらも、なんかすごい嫌な予感がするリベカである。
ブラムは男らしい整った顔を沈痛そうに歪めて、さらりとした黒髪を額に流した。寄せられた眉根がそれに隠れ、青い瞳に影が差し、一際濃い青になる。
「……フェルビースト嬢のお気に入りの剣闘士がドドメスであることはご存じのことと思う。我々がそれを知ったのは前回の休日のことだったが、あれ以来彼女があまりにも剣闘士ドドメスを賛美されるものだから、ジリアン様が剣闘士ドドメスのようになると仰っておかしなことを始められた。フェルビースト嬢に、その、剣闘士ドドメスについて語られるのを控えていただけないだろうか」
「……そうですか。わかりました」
それ以上何も訊かず、リベカは快諾した。おかしなことの内容については、聞かない方がいいと思った。むしろ聞きたくない。
「筋肉を付けると体を鍛えられるところまではいいんだ。ただ、毛生え薬を探され始めたのはいただけない」
聞いてもないことを重々しく口走るのはどうなんだ。むしろ喋りたいんだろう、この従者。それとも道連れを探しているのか? 泥船に引き摺りこむ相手が欲しいのか?
「……念のためお尋ねいたしますが、バスティード様。サヴィア様のご一族は、禿や薄毛といった悩」
「そんなものはない! ご当主であられるお父君や先代も、兄君も、ついでに一族分家のお歴々もそうした悩みとは無縁の見事な頭髪を維持しておいでだ」
鬘という可能性も捨て切れないけどな! という彼の心の自己突っ込みが聞こえてきそうだ。
毛生え薬と聞いてまず思い浮かぶのは頭髪だ。しかしジリアンの金髪は額も頭頂も品よく豊かである。血族特有の特徴でもないことは、ブラムの言により立証された。
となると、リベカの脳裏にちらつくのは、友人が件の剣闘士を語る時に欠かすことのないある単語である。
それは胸毛。剣闘士ドドメスの上着からはみ出すほど豊かな胸毛。
「ああ、聖霊よ!」
リベカは思わず祈りの聖句を叫んだ。
せめて髭であってくれればどんなに心安らぐことか。でも多分違う。
「弁解させてもらうなら、自分は止めたんだ」
でも止められなかったんですね、わかります。だから元凶を封じるしかないと思ったんですね、ごもっともです。
リベカは、友人によく言い含めておくと、ブラムに約束をして別れた。
そして案の定、ブラムに呼び出されて二人きりでしばらく話をしたというので、主に組の女子たちからのやっかみに塗れた注目を集めることになってしまった。
中途半端な目撃と聴取両情報を女子たちが継ぎ合わせた結果、「毛生え薬」とか「禿」とか「薄毛」とかが漏れ聞こえたことで、ブラムにそういう将来的な悩みがあるのではないかと、痛ましそうに噂されるようになったとか。
別に自分に責任があるとは思っていないが、問われれば否定するくらいの正直さはリベカにだってある。
しかし噂の内容が内容だけに、リベカに向かってそんなことを直截に尋ねてくる女傑はいなかったため、この噂はかなりの期間学園に幅を利かせることとなる。
ある放課後の教室で、リベカとその友人たちがアンジェリンの机の側に椅子を引いて集まっていた。
教室内には他にも何組か、小集団を作っている同級生が散見される。リベカ達と同じ目的だろう。
「じゃあ、ささっと書いてしまいましょうか」
アンジェリンがペン先を携帯インク瓶に浸した。
三人の前には、二種類の書類がある。
一枚だけある一種類は、彼女たちの学年が初めて挑むことになる実技訓練の班組申請書。
三枚あるもう一種類は、屋外訓練に臨むにあたり、いわゆる『私はこれに自己判断で参加したものでありこの実習中に起きたいかなる事態に対しても異議申し立ては致しません』的な内容の文章が事細かに書き込まれたものに、自筆で名前を書くだけでいい同意書。
この場合のいかなる事態もというのは、怪我はおろか生命の危機まで想定された幅広い意味合いを持つ。これまで実技訓練で学生から死者が出たという話は聞かないが、秘されているだけなのかもしれないという怖気づいた疑念が兆したとしても無理からぬことである。
これにアンジェリンは意気揚々と自分のフルネームを書き入れた。いささかの躊躇いもない。女性らしい繊細さと潔癖さが同居する読みやすく美しい文字だ。
三人でペンを回して、リベカとエイジアもとりあえずといった感じでそれぞれ署名する。エイジアはやや殴り書きの風情のある直線的な、角ばった文字で。リベカはお世辞にも流麗といえる字ではないが、なんとも頑張った感の伝わってくる筆致で。
最後に、三人は班組申請書を見詰めた。
「構成はあたくしと、リベカと、エイジア。代表者はあたくしでいいの?」
「ああ」
「うん」
この書類にも参加者本人の署名が必要だったので、三人は記入欄の上から順に名前を書き入れた。班員名記入欄はあと二名分の余剰がある。アンジェリンは思案気に言った。
「ねえ、二人とも。あたくし思ったのだけれど、荒事が起こった時に備えて、力の強い方をどなたかお誘いしてはどうかしら」
「……前衛か」
エイジアが渋い顔で呟いた。リベカも友人の顔ぶれを見比べて同意する。
「そうかもね。アンジーもシェイファーさんも魔法科専攻だし、私も自信ないわ。腕っ節の強い男子にいてほしいところね」
「訓練の内容がどのようなものかはわからないし、荒事なんて起こらないかもしれない。ただ、実力を試すような何かは起きると思うの」
リベカが卒業生でもあるアンジェリンの兄のレポートを読みこんだのと同じように、エイジアも、どんな課題が来るか直前までわからないとされている訓練内容の当たりをつけるために、卒業生の残した実技訓練の報告書に広く目を通してきていた。
結果、上級生との訓練稽古か、リベカ達の学年の者はまだ誰も行ったことのない第二演習場での一定時間脱落せずに残り切れるかを試されるというものの、どちらかになるだろうと推測していた。前者は当然として、後者もまた模擬戦の一つも起こらないとは考えがたい。
第二演習場。それは、彼らの学年にとっては、噂の域を出ない存在であった。
リベカたちが調べた卒業生のレポートも、第二演習場に関する記述は曖昧になっている。それぞれ兄がこの学園の卒業生であるアンジェリンとジリアンも、第二演習場に関しては教えられなかったと言っているから、恐らくは彼らの自主性と良識に基づいて、母校の秘密を黙しているのだろう。
「勿論、この三人の中では前線に立つのはあたくしが一番向いていると思うわ。だから、この三人でいる時に何かと争わなければならないことがあれば、あたくしが前に立ってよ。ただ、何とどんな状況で戦いになるにしろ、敵方に前衛が二人以上いれば、あたくしだけで押し留めるのは難しいと思うの。それでね、この方なら信頼して肩を並べられるという腕利きの戦闘科の方がいらしてねっ」
「アンジー、その方、どなたか当ててあげようか?」
徐々に声と瞳に熱がこもり始めたアンジェリンの言葉を、冷めた口吻と目つきのリベカは遮る。
「まあ! まさかリベカ、わかるの!?」
「招待学級のフィンク君でしょう。合同体育の度に褒めちぎってるじゃない。いかにもアンジーの好きそうな安定感のある男子だもんね」
招待学級とは、一定の分野で突出した才能を認められて全国津々浦々から集った、あるいは学費の確保や入試を乗り越えるための教養といった難関を自力で突破してきた、数少ない平民出身の学生たちで構成される組のことだ。貴族学級の一部からは平民クラスと呼ばれることもある。
そういった背景から学級の結束は固く、フィンク君に限らず彼らは貴族学級の学生の勧誘には応じないだろうとリベカは思ったが、そのことを友人に納得させるのは難しいうえ、自分と彼女の格差を浮き彫りにするばかりだと判断したので、黙っておくことにした。
「あー。背丈はおれと同じくらいで横幅はおれの1.5倍くらいあるあいつな。座学は赤点すれすれだが、剣術・体術の成績はいいみてぇだな」
寮暮らしのエイジアは、同じく男子寮で起居する話題の少年のことを見知っているらしく、納得の体で頷いた。
「まあ、そうよ、リベカ、すごいわ……そうではなくて、そんな、好きだなんて、誤解を招くような発言は慎んでちょうだいな」
急に慌て出すアンジェリンの反応は、リベカには片腹痛い。勿論、友人が本気で件のフィンク君に恋しているなどとは思っていない。ただ、注目度合いがあからさまなので、友達ならどうしたって目につくんである。
「はいはい、そうよね。アンジーが好きなのは、一回り以上年上のたくましくて野の獣のようにしなやかで泰然としてて寡黙な超強い男の人ですものね」
「なんでいきなり棒読みなんだ」
「リベカ、何か含みを感じるわ?」
「やだ、別に含みなんてないわよ。他にも、体が大きくて髭とか胸毛とか豊かな人を男らしいと思うんでしょ? いっそ記号的でわかりやすいから誤解のしようがなくていいわ」
「まあ、それこそ誤解だわ。あたくしは別に、毛深い殿方が好きというわけじゃなくてよ。ドドメスは特別で、彼はなんでも恰好よく見えるというだけ。でも、それだって、ヴォジュラで見慣れた殿方がそういう傾向にあるというだけで、中央のお髭をたくわえていらっしゃらない方にだって、魅力的な殿方は大勢いらっしゃるわ」
離れたところで自分たちの話し合いをしていたクラスメートたちがドン引く気配を感じながら、リベカは心持ち声を張った。アンジェリンの好みが知れ渡れば、彼女がジリアンの気を惹いていると僻む女子たちの不安要素が減じるかもしれないと思って。
「そうは言ってもね。アンジーが特に頼もしいと思う……というか素敵って言う男の人って、おんなじような雰囲気の人ばかりじゃない。レイノルズ先生とか、騎士オルセンとか」
「レイノルズ先生と騎士オルセンは毛深くはないでしょう?」
「でも髭はあるわよね。お二人とも、きれいに整えた口髭が」
「お髭の剃り痕はそんなに目立たなくていらっしゃるでしょう? 体毛もきっと、そんなに濃くはないと思うわ」
ちなみに剣術科目担当のレイノルズ先生は、やはりがっしりと大柄ながらスマートさも漂わせるいぶし銀のナイスミドルでいらっしゃる。そんな見た目に反して熱血体育教師を地で行く貴族生まれらしからぬ性格の持ち主であるところが、更にアンジェリンの琴線に触れるらしい。授業中以外は至って寡黙で物腰柔らかな中年紳士でもある。
これが巷の若い女性たちの間で爆発的に広まっている、いわゆるギャップ萌えという性質なのであろうか。ちょっと理解できてしまう自分が嫌なリベカである。
「なあ、そろそろ真面目な話をしないか? 実技訓練の班組申請書をここに広げている意味を考えてくれ」
黙っていたエイジアが、とうとう音を上げて口を挟んだ。頭痛にでも耐えているかのような口ぶりだ。
「あら、そうね。ごめんなさい」
「本当だわ。ごめんなさい。でもリベカ、これだけはわかって。この学校では、ちょっとした失言が口約束ということになって、一生尾を引くような侮辱や仲違いや、家同士の揉め事にまで発展することもあるって兄に言われたわ。特に異性間では突飛な解釈をされて取り沙汰されやすいって。そんなことになってはフィンクさんもあたくしも困るわ」
「……うん。そうよね。ごめんなさい」
「おれに対するごめんなさいとは雲泥の温度差があるようだが」
「気のせいよ」
「ま、まあ、ともかくね、だから、フィンクさんに、一度声だけでもかけてみようかと」
「たのもう! フェルビースト!」
アンジェリンが弾んだ声とともに身を乗り出した時、ばーんと教室の戸が開いて、ジリアンが乗りこんできた。いつものようにブラムを従えている。
アンジェリン以外の学級中の人間が、「ああ、来たか……」という顔になったのは、いまや様式美になりつつある。
一直線にこちらに来ようとしたジリアンは勢い余って通りすがった机の足に向う脛をぶつけ、天晴にも顔にはその苦痛をほとんど出さず、束の間の硬直を恐らくは甚大な意思の力でねじ伏せ、三人の側にやってくる。エイジアを見て、ちょっと険しい目つきになった。
エイジアは迷惑そうな顔をした。彼もリベカに負けず劣らずの事なかれ主義だからだ。
「サヴィア様、バスティード様、ごきげんよう。ご用ですの?」
「今度の実技訓練、屋外で取ったんだろ? 僕と班組みしないか? 僕も屋外選択なんだ」
「まあ、実はあたくしたち、班組申請書をこれから書くところでしたの。リベカとエイジアも一緒ですわ。サヴィア様こそ、バスティード様とはお組みになりませんの?」
アンジェリンの目に、ちかりと火花が走った。
彼女は武を尊ぶ領で育ったからか、戦士の結びつきを強める友情や忠節といったものをたいへん神聖視している。どうもその延長で、ジリアンとブラムという個々の存在をひとまとめにして考えている節がある。気の毒だ。
ジリアンが軽く目を瞠る。己の言葉足らずに気付いたようだ。『僕とブラムも入れてもらえないか』と言っておけば誤解はなかろうものを。
リベカは、少し離れて立っているブラムの姿を認めて、その目を見た途端、ものすごく不憫になった。彼の想定外だと言わんばかりの目つきからして、もしかしたらブラム本人が主を焚きつけた可能性も十分にあり得た。確かめようとは思わないが。
彼らは、彼らと組みたいであろう女子からの誘いを何度も断って、ここに到達しているはずだ。それに当然のように追従する彼にも自分の意見くらいあるだろうに、それでも根本では主の意向に全力で取り組んでいるであろうことは察せられる。
「も、もちろんブラムは僕と一緒だとも。しかしだな、いかに気心の知れた者同士であっても、二人では心許ない。その点魔法の成績優秀なフェルビーストたちと班組みすれば、能力の釣合も取れようかと思ってな」
ジリアンの言い訳は、咄嗟の切り返しとしては上等だ。やたらとどもったり、目が泳いだり、頬を染めることもなくなってきた。人間、どんなことにも耐性というやつは備わってゆくものらしい。
胸を撫で下ろしているブラムが、だんだん貧乏籤が似合って見えるようになってきているのはどういうわけだろう。こんな生活が続けば、そのうち彼は本当に禿げるかもしれない。
しかし、これは個人的にまずい展開だと、リベカは内心冷や汗を流す。
学年の女子人気を二分するジリアンとブラムがまとめて同じ班に入ってきて、更に人気はともかく人目を引くエイジアとアンジェリンがいる班。一人取り柄のないリベカが混じっている状態というのは、同級生の心証をすこぶる悪くすると思う。この班で好成績を取ったとして、おこぼれに与ったと見做されるのはもはや確定だ。
アンジェリンと組む時点で、ジリアンが寄ってくるのは予測できたことではある。しかし、リベカにアンジェリンと離れるという選択肢はない。業腹だがやむなしと腹を括る。
アンジェリンは思案気に首を傾けて、同席者を振り返った。
「リベカとエイジアはどう思う?」
何気ないその言葉の途中、ジリアンが少し顔を曇らせた。
「反対できる立場でも根拠もないし。アンジーとシェイファーさんがいいなら、私はいいわ」
「同じく」
エイジアからも同意の言質が出たところで、アンジェリンはにこやかに二人の参入を歓迎し、切り替えよく次の行動に移った。内心では想定外かもしれなくても、そんな素振りをおくびにも出さない態度は見事だ。
「……それじゃあ、これで一班の人数の上限に達したから、この構成で提出しましょうか。お手数ですがお二人とも、お名前を記入していただけます? 代表者欄にあたくしが名前を書いてしまいましたので、班長はあたくしということになりますけれどよろしくて?」
「それは構わない」
「お気遣いなく」
というか、内心を正直に表明する忌憚ない態度は、リベカとエイジア限定のものだ。そうか、ジリアンはまだ打ち解けられていないのだ。うん、頑張れ。
「ようこそ、屋外実習選択の学生諸君。外に出て体を動かすことの意義深さを知る学生がこれだけいてくれて、嬉しい限りだ。早速だが、記念すべき556年度入学生の初実習訓練の課題を発表する。班の代表者は前へ!」
演習場の端から端まで響くレイノルズ先生の朗々とした声に押し出されるように、先生の前に集合していた小集団から、それぞれ一人ずつが離れて集結する。
代表者達は先生が示した籤を引き、その先端に彫り込まれた模様をしげしげと見た。
「それは、実技に挑んでもらう順番だ。これより、ここ第一演習場控室にて、上級生の有志が君たちとの手合わせの準備を整えて待機している。諸君も別控室にて待機し、順番に手合わせを行った上級生組から完了印をもらい、明後日中に報告書を提出するように。尚、上級生班は、諸君の班構成に併せて人数を調整してある。二人組には二人組で、五人組には五人組で対抗するようになっている。ゆえに、数で不利になることはない。胸を借りるつもりで挑みたまえ」
籤を手に戻ってきたアンジェリンの側に、班員がわらわらと寄って見た。
友人の手にした籤は簡潔な木彫りの棒で、小さく数字が刻んである。5番だった。屋外実習参加班は最少の二人組から最大の五人組まで合わせて全部で9班あった。女子の参加人数はかなり少ない。
「なんとも中途半端な順ね」
「緊張を持続するにもだれるにも半端だ」
アンジェリンは籤運が悪いのかもしれない。
「さっきの先生の仰ることと照らし合わせると、先輩方も五人組ということよね……これは玉砕かしらね」
「だな。手抜きされるいわれもねえんだし、さぞ清々しい玉砕になるだろうよ」
二年生用の控室に向かいつつぼそぼそ呟き合うリベカとエイジアに、ジリアンが怪訝そうな顔つきで否を唱えた。
「確かに、先輩相手に真っ向勝負で勝てる見込みは薄かろう。だが最初からそんな弱腰でどうする。一矢報いるくらいの気概で挑まなければダメだろう?」
二人は顔を見合わせた。
「その発想はなかったわ」
「なんて前向きなやつだ」
「いや、君たちが後ろ向きなんだろ」
呆れたように言われても否定できない。
「そうは言ってもねえ……今までの先輩のレポートを見る限り、最初の実技訓練でこの課題に当たった場合、いかに先輩にこてんぱんにされて、なぜ負けたかの報告書になってるのよ。そんなの書くために負けた記憶総動員しなきゃならないってことよね。アンジーのお兄様によると、これも内省力を資する訓練だろう、ですって」
「方向性は間違ってる気がするがな。しっかし、兄妹揃って前向きだな」
「そこの後ろ向き組、控室に着いたぞ。頼むから、ここではそういう話題は遠慮してくれないか」
「はい」
「……」
ジリアンは、非協力的なエイジアの態度が気に入らないらしく、しばし眇めた目で見ていたが、小さく息をつき一方的な確執を脇へ押しやったようだ。控室に揃えられた武器を手に取り、どれを演習場に持ち込むか仔細に検討し始める。ブラムも同じように武器棚に吸い寄せられていった。
アンジェリンはじっくり選んだ模造剣を手にご機嫌だ。刃を潰してはあるが、金属製の小剣だ。普段授業で使う木刀に比べれば大分本格的な訓練に思われ、否が応にも臨場感が高まる。
4番目の班が出て行ってからしばらくして、リベカ達の班が呼ばれた。
やはりわざわざ有志として名乗りを上げる先輩たちと二年生との実力差は大きいらしく、予想よりも回転が速く、だれる暇はなかった。
呼びに来てくれるのは、前の班と対戦した先輩の誰かだ。体力に余裕があるからだろう。
緊張しながらぞろぞろと来た道を演習場に向かって辿って行くと、リベカたちの十数歩くらい前に、寮の学習室でよく見かける人物が立っていた。リベカが鎧よりローブが似合うだろうと分析した体に板金と煮固めた革で要所を補強した長衣をまとい、弓を背負った姿で。しかもかなり着慣れていることがわかる佇まいだ。
ああ、ヘクト先輩、戦えたんですね。ばりばり様になってますね。
リベカが黙って見詰めていると、先輩と目が合った。
多分リベカは、僻みっぽい、抗議するような目つきになっていたんだろう。先輩も言葉はなく、思いっきり食えない顔で微笑むだけだった。この企画に立候補すると内申点が上がるとか、そんな裏事情があると見た。生真面目な文学少年かと思いきや、結構貪欲に獲りに行くタイプであるらしい。
ちなみに先輩班のリーダーは別の人物で、快活に名乗ってくださったところによると六年生の騎士科の人だった。はっきり覚えてないが、学年問わず女子からの圧倒的人気を集めている生徒会長様のような気がする。アンジェリンの興味には引っかからなさそうな細身の美形だ。
ちなみにリベカも、ヘクト先輩の考察に気を取られていたので、会長様のことはあんまり注目してない。
他にも、何年生のどちらさまかを一人ずつ名乗ってくださったところ、学年も専攻もばらばらで、下級生の人数と構成を考え合わせて調整された俄か混成チームであると知れた。リベカは知っていたが、ヘクト先輩はやはり四年生で招待学級の人だと自己紹介した。
リベカ達も、それぞれに所属の名乗りを上げる。
「代表者は君なのだね」
生徒会長先輩は、ジリアンをまず興味深そうに見やってから、アンジェリンに視線を転じた。その面白がる口ぶりからは、意外であるようにも、納得しているようにも聞こえる。
ジリアンは咄嗟に何か言おうとして口を開きかけ、先輩はアンジェリンに話しかけたのだということを思い出し、出かかっていただろう言葉を飲み込む。二年生の悲喜こもごもをかなり正確に把握していらっしゃると思われる会長先輩は、その様子を横目に見ておかしそうに目を細めている。知り合いなのかもしれない。
「記名の順番でそのようになりましたの。代表者の肩書に恥じぬ戦いをご覧にいれて見せますわ」
模造剣の柄に手をかけ、堂々と面を上げきっぱりと言い切る彼女の自信とやる気は、一体どこから湧いてくるのだろうか。リベカは後ろにいたから見えないが、きっと友人の目はきらきらと火花のように輝いているのだろう。
結局、先輩方にはこてんぱんにやっつけられた。
先輩方は役割分担と陣形の維持を徹底し、堅実な支援と防御で前線を保ち、隙あらばあっという間に畳みかけてきて、こちらが総崩れになるにはそれほどの時間はかからなかった。
中央の正規の剣術しか習っていないジリアンとブラムは、その癖をよく承知していたのであろう先輩に意表を衝かれ続けて防戦一方に陥っていた。
この模擬戦は下級生の訓練という側面も持っているので、先輩方もいきなり急所を突いて強制終了させるような無体な真似はなさらない。しばらくちゃんちゃんばらばらとやりあって、ジリアン達が適度に疲れた頃合を見計らって鋭い一撃を加え膝を着かせた。
エイジアはひたすら魔法を唱え続けた。
今回の準備に際して改めて能力の確認をし合ったところ、彼の魔法の適性は支援や治癒といった裏方の方面にあるそうで、攻撃に役立つ魔法は一つも覚えていないということだった。ジリアンとブラムが持ち堪えた時間のうち、半分くらいは彼の支援によるところが大きい。
彼はこの短い時間に3、4回は魔法を使ったと思う。第一演習場は石畳で隙間なく舗装されているので地から活力を得ることもできず、仲間の誰より先に疲労困憊し、トドメにヘクト先輩に脚を射られて立っていられなくなってしまった。
ちなみにこの演習で使われた矢は先を丸い綿入れに包まれていて、刺さらないようになっていた。下級生をなるたけ傷つけないように気を遣ってくれているようだ。それでも猛スピードで激突すればかなり響く。運の悪い者は後ろにひっくり返って後頭部を強打したりとかして命が危なかったりするのかもしれない。
最も活躍が光ったのはアンジェリンで、魔法を使うために集中する時間を戦闘中に取ることはできまいからと、開幕するなり全魔法を注ぎ込んで自らの模造剣を灼然たる赤に染め上げ、変則的な軽業を披露して先輩の二人がかりでの攻撃を回避し、肘を先輩の腹に当てたり蹴りを繰り出したりもして、人によってはなりふり構わぬと評されそうな反撃もかなりした。
彼女は最後まで、リベカに約束したことを忘れなかった。あなたはあたくしが必ず守ると言ってくれた通り、絶対にリベカの前から退かなかった。
だから、班の中で最後まで立っていたのはリベカだった。怪我ひとつないまま終わったのもリベカだけだった。
リベカは、自分にできることはほとんどないと弁えていたので、最後尾で戦況を広く見渡して目立った動きがあれば大声で警告を発することに徹した。
一つだけ、この時に備えて練習した魔法を一回分だけ使えるようになっていたので、一度だけそうしようとしたが、未熟な彼女の魔法は長い集中と大きな身振りを必要とする。すぐさまヘクト先輩の矢が横っ面を掠めて行って、使いかけていた魔法が雲散霧消してしまった。魔法は失敗しても疲労は成功と同じだけ蓄積する。体の筋骨を引っこ抜かれたような疲労感に襲われ、後は何もできなかった。
矢は当たったわけではない。驚いて集中を乱してしまっただけだ。リベカの集中する意思の力が強ければ、撹乱に惑わされず魔法を発動できたはず。それだけが悔しかった。
アンジェリンは更に高度な魔法を全力で使ってよくぞあんなに動き回れるものだと思ったし、エイジアはよくぞこんなことを何度も繰り返せたものだと感心した。
残ったリベカが降参を宣言し、訓練は終了した。
自分が武器を落とされて膝を屈した後も、一人しぶとく奮戦するアンジェリンの様子を見ていたジリアンの愕然とした顔といったらなかった。
悔しさとか惨めさとかいったものを通り越して、何かに吹っ切らせてしまったのではないかと思われる。
後に、ブラムから、ジリアンがヴォジュラ出身の組合員を指南役に招いて、猛特訓に励んでいると教えられたからだ。
「そんなことをどうして軽々しく口外なさいますの。それも、アンジーではなくて私に」
「軽々しくはないつもりだ。さすがにフェルビースト嬢に暴露していいものかどうか判断が付かない。コルネイユ嬢にお預けしておけば、適当な時に必要な情報を役立てていただけると思う」
「そんな無駄な信用要りません。それと、肩の荷が下りたと言わんばかりのすっきりした表情するのはやめてくださいませんか」
こいつはリベカを便利屋か何かだと勘違いしてやいないだろうか。確かめる気は起こらないが。