1年生・3
結局、アンジェリンの里帰りには、やはりエイジアが同行することになった。
混雑を避けるため、ヴォジュラの人が迎えに来てくれるのは終業式の三日後。
年末年始にかけて、中央貴族から地方領主まで一定の位を持つ貴族は王城に参じて国王陛下に新年のご挨拶申し上げねばならないそうで、それは出無精の辺境領主であるアンジェリンの父親も例外ではない。今年は少し早めに王都に来て、ヴォジュラ領主が引き連れてきた護衛の一部を娘につけて送り返す、という段取りらしい。
確かヴォジュラ領主家は王都に私邸はないと聞いていたけど、と首を傾げたリベカに、アンジェリンは実に朗らかに、
「父も腐っても役職を賜った貴族の端くれですもの。王都に大使を置いているわ。そちらの軒先を借りるそうよ。父は地べたに寝袋でだって一月くらい健康に過ごせる人だから、屋根と壁があるだけで十分なの」
と、笑顔で言った。いくらなんでも本当に軒先で寝起きするわけではないだろうが、突っ込んでいいことなのかどうかわからない。
用意万端整え三人車寄せに集まった頃には、終業式の日の混雑が嘘のようにがらんとしていた。
「二人とも、一緒に来てくれてありがとう。他領からお友達を招けるなんて嬉しいわ」
アンジェリンはにこにこしながらリベカとエイジアを見比べる。
いつも三つ編みを頭の後ろでまとめている髪は下ろして背の半ばで一纏めにし、簡素なドレスと華奢なブーツに毛皮の外套という姿で装身具の一つも身に着けてはいないが、こうしてよそ行きの恰好をすれば至極まっとうなお嬢様に見えるのがなんだか不思議でさえある。荷物が大きめの鞄一つだけという身軽さは、やはり実家に帰る気軽さゆえだろう。
リベカとエイジアは、他人の家に長い間お世話になるということで、衣類をはじめとした身の回り品をありったけ抱えて来ている。
リベカは友人とはいえ格式あるお宅にお招きいただくのだから多少の堅苦しさは耐えようと、実家が入学前に用意してくれた控えめなドレスに袖を通した。やはり形式は大事だと思う。こういった事態に対応できる備えがあるのは実家のおかげなわけで、場違いだなんだと卑屈になるばかりでなく、ありがたいと思わなければならないなと少し考え直した。
エイジアはフードの付いた丈の長い外套を着込み、その下にはリベカと同じくお客さんとして失礼のないよう皺を伸ばした少年用の貴族服を着用している。底の低い柔らかな革製の靴がちぐはぐだが、足裏の感触が遮られるのが嫌いだそうだ。
それを聞いたアンジェリンは『根の氏族の血ね』と納得の体だった。どういうことなの、とリベカが訊くと、妖霊人の根の氏族は、植物が地面に根を張って生きるのと同じように、素足で大地を感じながら生きるものらしい。
思わずリベカは深く頷いた。自分が想像した非常識な光景に、『これはない』と思ってしまったからだ。
「そうよね。木が根っこに靴下や靴を履いたりしたら、水はともかく栄養を吸えなくて、生きていけないものね」
「そうよ。あっ、そうだわ、エイジア。うちに着いたら、裸足で過ごしてくれても構わなくてよ。誰も咎めないから。ただし、ヴォジュラはここよりずっと寒いたら、あなたさえよければね」
アンジェリンはエイジアを名前で呼ぶようになった。すっかり友達感覚である。普段のエイジアの人当たりを見ていれば、アンジェリンとのこの距離感は付き合っている、と言えなくもないが、どうだろう。
「……着いてから考える」
既に声変わりの済んだ涼やかな低音で重苦しい返事をしたエイジアは、ここ一月ばかりアンジェリンとリベカの何の取り繕いもない会話を傍で聞いていて、二人の前では警戒心が薄らいできている。リベカ単体に対しても、紹介当時より当たりが柔らかくなってきた。
「それと、言っとくが、おれは足の裏から養分を吸えることは吸えるが、石で舗装された道から吸える物なんて何もないぞ」
「あっ、本当に吸えるんだ」
「確か、光を吸収して養分に変えることもできるのよね」
「ああ、だからいつもそんなにつやつやした髪なのね」
知り合ってしばらくの間こそ、距離感のある淑女口調で話していたリベカだが、逆にそういう対応は彼を隔てている多くの学生と同じ態度であり腫れ物に触るような扱いも彼の気に入らないのだと判明したので、用があって接する時には遠慮のない言動を心がけた結果、今では少々の雑談くらいならできるようになっている。
そんな風に和気藹藹と時間を潰していると、校門前を異様な影が覆った。
「あら、迎えが来たわ。行きましょう。リベカ、あなたの荷物を一つ持つわ」
アンジェリンが嬉しそうに号令したので、守衛さんのところで引っかかっているらしい馬車にあらざる巨大な影は、間違いなくヴォジュラ領から差し向けられた彼女の迎えらしい。
返事もできずに荷物を奪われたリベカは、歩きだそうと促す友人を見て、まだ校門横に留まっている馬車らしきものを見た。
「でかい馬だな」
そう言うエイジアの言葉こそが、最も端的にリベカの混乱する脳内を表現していた。
おかしいと思ってはいたのだ。だって、学校の壁は人の平均身長くらいある。それを馬の胸から上が突き抜けているのだから。つまり体高だけで人の身長以上ある馬ということになる。頭の高さまでとなると、リベカ二人分以上あるのではないだろうか。馬としては長めのつやつやと黒光りする毛の上からでも、鋼の小山のような筋肉によろわれたその姿は別の生き物のようだ。
「マズリ種よ。見るのは初めて?」
「ああ。あれが」
馬にはいくつかの種がある。それこそ種が違うだろうと言いたくなるくらいの如実な違いを備えていて、リベカ達が知る一般的な馬とは、乗馬や農耕馬や軍馬として広く分布し人の手で繁殖しているダング種のことで、頭の高さで人の身長を多少上回るのが一般的な規格だ。
マズリ種とはダング種より体の大きさも力の強さも持久力も脚の早さも寿命も賢さも何もかもを上回る優良種で、一頭で庶民の家の一軒や二軒や三軒買えてしまうお値段のため、滅多に市場には出回らない。この王都でも王侯貴族の限られた一部や王宮騎士団の本部くらいにしかいないだろう。
「うちのリルルちゃんくらい大きなマズリは、他にもいないと思うけれどね。あの子は、うちのマズリの中でも一番大きいの」
「……女の子なの?」
「男の子よ」
「……」
胸を張るアンジェリンの機嫌に水をさす気はないので、名前が不釣り合いだという感想は控える。
やっと守衛さんを納得させてこちらに向かってくる馬車の周りには、ダング種の馬を降りて牽いて来る護衛らしき屈強な男たちが三人と、御者台に乗っている人物もまた戦闘要員であることは間違いない巨漢だった。皆揃いの胸当てと剣で武装している。
お迎えどころか囚人の護送みたいな雰囲気すら感じられるのは、リベカが小市民だからだろうか。
「お嬢様、大変お待たせをばいたしました」
アンジェリンに丁寧な礼を取る巨漢はどいつもこいつも厳めしい中年で、もみあげの濃さといい頬に走る傷跡といい眼帯をしている奴といい、一人一人がまさしく山賊の頭領の格を備えている。
よくぞこんな集団が王都の門をくぐってここまで辿り着けたものだ。
しかしそんな彼らの装いは明確な規定によって統一されており、仕草は礼儀作法の授業で先生が披露してくれたお手本と何ら変わらない物堅さ。声も耳に馴染みのよい低さとゆるりとした話し方を心がけられている。威圧するようなところは全くない。人を見かけで判断してはいけないという見本のような男たちだった。
「まあ、アリス! まさかあなたが来てくれるなんて!」
アンジェリンは彼らを見渡して、嬉しそうに背伸びをしながら御者に話しかける。
令嬢に小さな微笑みを返しつつも無駄口を叩かぬ男たちがきびきびと馬車の前に踏み台を置き、うやうやしく開いた扉から、背の高い紳士が獣のような俊敏さと優雅な所作で降り立つ。リベカがこれまでにお目にかかった成人男性の中で一番の美中年だ。そこから壮年に差し掛かろうという年代であろうか。
「父上!」
喜色も露に駆け寄ったアンジェリンと並ぶと、なるほど親子にしか見えない。一目でアンジェリンの血縁とわかる顔立ちやすらりとした体つき、こめかみに白いものが混じっている髪色にも血筋を感じさせる。
「娘よ、便りの通り息災で何より。さあ、そなたの得難き友人たちを紹介しておくれ」
ほぼ一年ぶりになるだろう親子の再会もそこそこに、アンジェリンの父はリベカとエイジアに視線を転じた。
目が合って、リベカはどきりとする。容貌の何よりも、焦げ茶色の背景に橙色の火花を瞬かせる目の色が娘とそっくり同じだ。しかし、そこに灯る力強さは娘の比ではない。
きれいに整えた口髭の下に友好的な微笑みを浮かべ、決して威圧感など醸し出してはいないのに、不思議と怖気づくにも似た自分の心の働きはなんなのかとリベカは訝った。王宮騎士の物堅さだとか、学校の一部の上級生から感じる貴族的な近寄りがたさとも違う。なんであれ、この紳士には領土を預かる自覚と才覚があるのだということは窺い知れた。
標準的な貴族紳士の服装の上に不思議な艶のある黒革の外套をまとい、柄も鞘も簡素な長剣と小剣を帯びている。宝石をあしらったブローチだの金糸で縫いとりをした帯だのの、リベカが想像する貴族らしい飾り気は何もない装いですっと背筋を伸ばして立つ姿は、むしろ軍人めいている。この人にはこれが最もしっくりくるのだと思わせる姿である。
そして確かに、地べたで寝袋でも大丈夫そうな頼もしさを漂わせている。
後でアンジェリンが話してくれたところ、彼女の父がこの時羽織っていたのは、ヴォジュラでもごくごく限られた量しか取れないマズリ革の上着なんだそうだ。ちなみに靴も、リベカは気付かなかったが、煮固めたマズリ革だという。時経ても色褪せず時経るごとに艶を増し、短剣程度の刃なら容易く防いでしまう素材の取り扱いの難しさと、それが出来る職人の少なさも相俟って、衣類への加工は大変難しい。それが膝丈近くまである外套と長靴。つまり超のつく高級品だ。見てくれは簡素な長剣と小剣も、上級の魔物から採取できる特殊な素材製だとかで、ただ金を積めば手に入るという代物ではないらしい。やはりこの人も貴族であった。
アンジェリンは、まずリベカとエイジアに父親を紹介し、続いて父に友人二人をお披露目すると、アンジェリンの父親は、温かい微笑みと抱擁で、娘の友人二人との出会いを喜んだ。
続いてアンジェリンは、置物のように口を噤んで控えている護衛たちに声をかけた。
「みんな、お出迎えご苦労さま。事前に知らせてはおいたけれど、今回は友人が一緒なの。リベカ、エイジア、我が家の家臣のミルンと、リリー、レニー、クレアよ。ご覧の通りうちの兵士の中でも腕利きの四人なの。ヴォジュラまで安全で快適な旅を保障するわ。みんな、よろしくね」
「かしこまりました。リベカお嬢様、エイジアお坊ちゃま。ただ今ご紹介にあずかりましたアリステア・ミルンにございます。お二人をヴォジュラにお迎えできる栄誉に感謝いたします。皆さまの道中が快適なものとなりますよう、我ら一同、誠心誠意お世話させていただきます」
音頭を取った御者のミルン氏が迎えの中では一番格上なのだろう。格式ばった礼をした彼に続いて護衛たちが一斉に頭を下げ、順に自己紹介をする。
リベカはなんだかむずむずした。むくつけき大男たちが揃って丁寧に接してくれるからでもあるし、皆がみんな、なんだか可愛らしい響きの名前だったからだ。突っ込んだら負けと思いつつ、引き攣る口元を懸命に抑える努力をしながら、『こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします』と声を震わせずに言い切らねばならなかった。
エイジアもなんとも座りが悪そうな様子でいる。
アンジェリンの父が同席する馬車の中は、根が小市民のリベカには気詰まりだった。父娘はもてなし役としての義務から、リベカとエイジアを退屈させないように配慮し、自領の見所を話したり詮索がましくない程度に二人の話を聞きたがった。むしろ邪魔しませんから是非親子水入らずで歓談してくださいと何度言いかけたか。
窓の外を見れば、王都の街行く人々が驚異に満ちた視線でヴォジュラ領主の馬車を見詰めている。行き交う他の車も心なしか遠慮がちに迂回してすれ違っている気がする。
「王都の方々には、リルルちゃんは珍しくていらっしゃるようですわね」
「行きでしっかり喧伝しておいたから、今更難癖を付けてくる輩はおらぬはずだ。リルルちゃんを欲しがって声をかけてきた者もあったが、うちで飼育するようになる以前は気性の荒い野生の人食い馬であったと説明すると、潮が引くようにいなくなったよ」
物騒な言葉が聞こえた気がするが、リベカは気にしない。
リベカの向かい、ヴォジュラ領主殿の隣に座って無表情を保っているエイジアもきっと気にしないことにしているはずだ。視線が掠めたので、二人して小さく力強く頷きあう。根が庶民という一点において、リベカとエイジアは価値観を共有している。
ついでに、領主様までが馬をちゃん呼びしたことにも気付かないふりを押し通す。オスなのに。
だというのに、アンジェリンはわざわざその話を蒸し返してきた。一般人の友人が今のやり取りに引いているのを目敏く察知してのことだ。
「あのね、リベカ。リルルちゃんは、あたくしが生まれるよりも前から我が家にいるお馬でね。その間ずうっと悪さなんて一度もしたことがないのよ。昔は討伐依頼が持ち込まれるくらい名の知れた野獣だったそうだけれどね。その頃我が家に仕えていたある優れた武人が捕まえて、決して人を食べないようにちゃんと躾けたの。その武人が引退なさった今でも、リルルちゃんは教え通りにお行儀よくしているのよ。とっても賢くて忠義篤い子なの。それでも、もし何か起こりそうな場合には、起こってしまう前に、フェルビースト家が責任もって処断することになっているの。だから、怖くないからね」
「ええ……」
こういう場合、どう返答すれば正解なのかリベカは知らないが、是というより他ないではないか。
馬の大きさもさることながら、その馬が軽々と牽く車の大きさ、護衛に侍る男どものおっかなさもまた、王都住民を怯えさせている要因として多大な割合を占めているに違いない。
やがて一行は王都の西門を形ばかりの検問を経て通り抜けた。事前に何があったものやら、門番たちは顔色と顔つきを統一して若干遠巻きにしながら、一刻も早くリベカ達を送り出す準備万端整えているようだった。
そこで、アンジェリンの父親は単身車から降り立った。
「ミルンたちが付いているから、気を付けて行っておいでとは言わぬ。客人にヴォジュラを最大限に楽しんでいただけるようおもてなしをしなさい」
自分が先に立って歓待できないことを済まながり、心から残念に思っている様子でヴォジュラ領主は言い、娘と友人たちが乗り込んだ馬車が出発するのを見送った。
「え、あの、アンジー、お父様はどうなさるの?」
「はっはっは、心配には及ばぬよ、小さな姫君。私ならこの足で駐在大使の館へ参る。散歩にはちょうど良い頃合いと距離だ」
そんなんでいいのか。いや、本人がそう言うのだからいいのだろう。
王都からヴォジュラ領への旅は快調に進んだ。マズリ種の馬に牽かれた馬車は飛ぶように早く、通常ダング種の馬なら二十日要するヴォジュラへの道を半分以下の五日で踏破してのけたのだ。綿密な行程配分された道中の街では予め良質の宿が手配されており、下にも置かぬもてなしを受けながらおいしい食事にありつき、柔らかい寝台で移動の疲労を解消することができた。
むしろ刺激に富んでいたのはヴォジュラ領に入ってからだった。
まず寒い。予告されてはいたから覚悟はしていた。覚悟以上に寒かった。
「裸足で過ごせそう?」
「あんまりやりたくないな」
エイジアはぞっとしない顔つきで苦々しく答えた。
アンジェリンの生家があるヴォジュラ領の主都ヴォジュリスティに到着するまでの間に、三回襲撃を受けた。一回が野獣で、二回が魔物だ。いずれもミルン氏たち護衛の方々が手際よく追い払うなりやっつけるなりしてくれたので、車の中のリベカ達に被害が及ぶことも、次の街への到着が遅れるなどということもなかった。
他領ではありえない剣呑さである。にも拘らず、今回は少ない方だったとにこやかに言うミルン氏の言が信じられなかった。今回の遭遇戦回数に二、三回くらい加算してきたであろう追剥どもは、あまりに立派なマズリに恐れをなして手出しを控えたのだろうとのこと。
「さすがはリルルちゃんだわ!」
手を打って喜ぶアンジェリンに同意する気にはなれなかった。誇らしげに胸を逸らすリルルちゃんが鳴らした鼻から飛び散った飛沫が頭に届いてしまってはなおさら、そんな素直な気持ちは損なわれる。
「辺境人がたくましい理由がわかったな」
エイジアまでが遠い目をしながら、慰めとも取り成しともつかない言葉をかけてくれたので、余計に惨めに感じる。
急に増した気疲れを感じつつ踏み入ったヴォジュリスティの街の目抜き通りは、王都の通りを質実剛健にしたような単色の石組みが主な建造物で構成された街並みで、やや埃っぽく垢抜けない風情であった。
しかし賑やかさだけは王都にだって負けていない。
辺境の都市であるにも拘わらず、腕に覚えのある自由人が名を上げようと、あるいは一山当てようという志を抱いて最終的に到達する組合員の聖地がヴォジュラだからだ。
道中の遭遇戦の多さが裏付ける通り、ヴォジュラ領には凶暴な魔物や野獣やならず者が多く、また未踏破の秘境や迷宮が数多く眠っている。希少な魔物素材や採取物の宝庫でもあり、夢と腕を磨く機会には事欠かない。組合員としてヴォジュラで通用すれば、後は王国のどこへ行っても実力を頼りに食べていけるという箔も付く、らしい。
そんな組合員を当て込んだ商売人も、当然のようにこの街に集結する。
このような仕儀で、ヴォジュリスティはいささか荒っぽい活気に満ちている。兵士や組合員風の武装した男が目立つのは土地柄だろう。特大級のマズリに牽かれ山賊風の護衛に囲まれた車が通りのど真ん中を堂々と通行しても、奇異の目を向ける者はほとんどいない。
行き交う人も多種多様で、驚いたのは明らかに人間ではない見た目の人がいることだ。エイジアと知り合っていなければ、リベカは魔物と思ったかもしれない。
それでも、中身の詰まった袋や樽を担いで運んでいる人足風の男たちの中に熊が交じっていたり、背に透明な虫の羽根を生やしている小さな男性がせかせかと屋根の上を跳んで行ったのを見た瞬間には、ありえないはずのものを見たという認識が生んだ衝撃に、顔が強張り妙な吐息が口を衝いたと思う。
エイジアが乏しい表情の中で僅かに瞠目して、街並みを見渡している。彼の眼は削り出したばかりの原石のように硬い。
沈黙が痛くて、リベカはおずおずと口を開いた。
「ねえ、アンジー。あの熊の顔の方は、妖霊人……で、いいのかしら?」
「そうよ。牙の氏族のルブラ部族の戦士ね。ルブラ部族に限らず、牙の氏族の戦士はヴォジュラの北では多いわよ。うちにも、イェルク部族とボロア部族の戦士がいるし」
「さっきあの辺を跳ねて行った、小さい人は?」
「翅の氏族のファタ部族か、それともギュント部族のどちらかじゃないかしら。翅の氏族の人の見分けは遠目からでは難しいの。翅の形をじっくり見られないから」
アンジェリンはすらすらと答える。妖霊人のことをよく知っているようだ。話しぶりや表情からは王都貴族によく見られる異種族への偏見も窺えない。
今更そんなことを知ったリベカは、今まで友人と異文化について話し合ったことなどなかったから、知ることもなかっただけだったのだと気付く。自分が友人と話すことといえば、もっとしょうもない、浮ついた話題ばかりだった。
根の氏族の人もいるのか、とは、エイジアの神経を逆撫でしそうで訊けなかった。彼の凍りついた顔の中で恐れと渇望が入り混じる眼差しだけが生々しく、この状態で視線がかち合ったら小心者のリベカは息の根が止まりそうだ。
そう思っていたら、アンジェリンの方から気まずさを打ち破った。
「根の氏族の方も大勢いらしてるわ。文官や学者に多いかしら。薬学医療や災害対策の分野で活躍している方が多いから、昼の街中で見かけることはあまりないだけで……この街で家庭を持っている人もいるし、あいのこも少数ながらいてよ。ヴォジュラでは、妖霊人との交流が昔から行われているの」
盛んに、と言えるほどではないのだけどと苦笑するアンジェリンは、窓の外を凝視するエイジアが多分一番気がかりであろうことをさらっと付け加え、いずれは交流を盛んにしたいと自領の将来についての意気込みを見せた。
「アンジーは卒業したら、まっすぐ帰って来られたというお兄様のように、自領の運営に関わるつもりなの?」
「つもりではなくて、もうその予定なの。フェルビースト家の女が代々引き継いでいる職務があってね、今は叔母上がその任に当たられているのだけれど、叔母上はお体が弱い方だから、あたくしが早く代わって差し上げなくてはならないの」
リベカは衝撃を受けた。
友人は既に進路まで定めてしまっている。この置いて行かれた感。なんということだ。
「えーと、でも、アンジーのお家の格なら、当然縁談が来て他家にお嫁に行ったりとか、するかもしれないじゃない?」
「いやだわ、そんなことするわけないじゃない」
アンジェリンはけらけら笑って、言下に結婚説を両断した。
ああ、彼、気の毒に。
この時リベカの脳裏を過ったのは、某同級生のことだった。
心配も確認もするまでもなく、エイジアと婚約なんて噂は嘘っぱちだ。
目抜き通りをまっすぐ突き当たりに進んで到着したアンジェリンの実家は、街並み以上に武骨な要塞といった趣だった。
屋敷の門番から厩番からその辺を行き交うやたら多い兵士のみんながみんな屈強な男ばかりで、女性の召使いも背が高く豊満な人が多い。
概ねアンジェリンはお嬢様として可愛がられているようだった。彼女は通りかかる使用人から出迎えの挨拶を受け、打ち解けた挨拶を返しながら、いちいちリベカとエイジアを紹介する。
その都度屋敷の人から恭しくお辞儀をされ、リベカは一生懸命愛想笑いを繰り返した。エイジアは殆ど表情が力尽きており、頭を深く下げっぱなしにすることで対応している。
「気持ちは分かるけど、もうちょっと頑張りましょうよ。もうすぐ休めると思うわ」
「頑張る方向は人それぞれだと思わないか」
リベカが自分だけ苦労している気がして囁くと、彼は棒読み口調でそう返してきた。
荷物は、予め召使いが先に部屋に運び込んでくれていたので、アンジェリンは自ら友人たちをそれぞれの客間に案内し、備え付けの家具や浴室の使い方や庭へ出たい時の最短経路などを説明してくれる。彼女も同じだけ旅疲れているはずなのに、勝手知ったる我が家だからか、元気いっぱいだ。
家族が一堂に会する晩餐の席で改めて紹介するからと宣告され、それまでの時間で旅の埃を落として休憩する余地を得ることができたのは幸いだった。
一家の長であるアンジェリンの父が王都にいるので、主人役としてまず紹介されたのはアンジェリンの上の兄だった。
「王都から若い人をお招きするのは非常に珍しいことで、嬉しい限りだよ。ヴォジュラに興味を持って実際に自分の目で見てみようと考える王都民は少ないんだ。ましてアンジーの個人的な友人とくれば、歓迎せぬわけがない。不足があれば、手近な家人になんなりと申しつけてもらえば、そのように取り計らおう」
この街で散々目にしたむくつけき大男たちと比べてはるかに洗練された容姿は、それでいて優男という表現にはそぐわない明確な男性らしさと次期当主の威厳も漂わせている。父親をそのまま若返らせたような顔立ちの彼は、王宮騎士団にいれば女性人気の首位争いに加わっていること間違いなしの美男子である。
「アンジーが王都の学生さんを連れて帰ると聞いて、いつ紹介していただけるのかしらって、みんなして楽しみにしていたのよ」
うきうきと言ったのはアンジェリンと兄たちの母にあたる、いわゆる奥様という立場の婦人。歳の頃は40代か50代のどちらかだろう。見た目からははっきりとしない。大貴族の女主人という印象に相違して、気さくな人のようだ。慣れ親しんだ街のおかみさんのような気配を感じて、リベカは少し安心する。
よそから嫁いできた人なので、往時の美貌の名残を色濃く留める彼女の容姿に、フェルビースト家の人々との共通点はない。髪は淡い金髪で、混じっているだろう白髪が全く目立たない。瞳の色は緑青色。
子供たちも母親に似ている点が一つくらいあってもよさそうなものなのに、見事なまでに当主たる父親似だ。出張中でこの場にはいない下の兄という人物も、やはり父親と兄妹と同じ配色と造作で、母親に似たところはまるでないという。
同じくここにいない父の弟と妹という人々も、外見に関しては言を俟たないとか。
フェルビースト家の血はかなり主張が強いらしい。
「あれ、ねえ、アンジー。国王陛下への年始のご挨拶って、本来なら夫婦揃って参上するものじゃないの?」
特に健康を害しているようにも見えないアンジェリンの母の様子に、ふと思い出した疑問を友人にしてみる。実際に奥様に会ってみるまで、上洛の同伴が出来ない事情があるのではないかなどと勝手に推察し、質問は差し控えていたのだ。
リベカの祖父母も、年の変わり目には二人打ち揃って王宮に向かっていた。
それともあれは何か別の催しで、新年会ではなかったのだろうか。
「あら、勿論、行きますとも。あたくしは、後ほど道中楽しみながら、ゆるりと行きますよ。ですから、かわいらしいお客さんたちとは、途中でお別れしなくてはならないの」
リベカは気付いた。
つまり、友人を連れて帰りたいと便りを寄越した娘を早く回収するために、迎えの車を早く出そうという理由から、父だけが先行したのだ。わざわざ一番足の速いマズリ車を出して来て慣れない王都で騒ぎにしないためには、領主の権威、じゃない保証を振り翳して場を収めるのが最も手っ取り早い。
「うふふ、あたくし、奥様もですけれど、こちらに嫁ぐまでは王都にいましたの。是非最近の王都のお話を伺いたいわ」
次に紹介されたアンジェリンの兄の奥方は、こちらも洗練された仕草で王都風の淑女の礼をした。他の家族に比べると落ち着いた容貌と栗色の髪に淡褐色の瞳をした女性だ。
ちなみに上の兄夫妻の間には生まれたての後継ぎがおり、その子もほわほわの頭髪は赤茶色で、瞳は一族共通の例の色だそうだ。
「改めて紹介しますから、明日にでもお茶をご一緒しましょうね」
「他にも紹介したい方々がいますから、早めに予定を組みましょう」
「そうだわ、ヴォジュラ高等学校の学生さんたちの懇親会が明後日でしょう? よかったらシェイファーさんとコルネイユさんもいらっしゃらない? 王都の高等学校の学生さんに来ていただけるなんてかつてない機会ですもの、みんな興味津々だと思うの」
「ええっ?! いえ、そんな、私、そんなに大層な立場ではありませんので」
「同じく!」
「ああっ、忘れてた! あのねリベカ、エイジア、年の変わり目に軍と組合合同の演習訓練があるの。個人の勝ち抜き戦や団体戦なんかもして、ちょっとしたお祭りみたいになるのよ。ヴォジュラは組合の規模が大きいって話したこと、あったでしょ? すごいのよ、特等席用意するから、見に行きましょう! 王都の武芸大会なんて目じゃなくてよ! そうだ、組合の見学もよかったらしていって!」
「白原の日までいられるかい? それも初めての方には見応えがあるのではないかな」
「待って、あなた。この時期のヴォジュラにいらしたなら、氷狼橇にも乗っていただかなくては!」
「そうだね。遠出できるようなら、氷晶樹の森と逆さ城も見て行ってほしいな」
「二人とも、船旅はしたことあって? まあ、ないのね。では王都に戻る時には、リュストン川を船で下ってディモコイラに入る経路もいいわね。ディモコイラで車を待たせておけば……」
「お義母様、それでしたら、メドオドゥラ便に乗っていただかない手はありませんわ」
「あら、そうね。では……」
一家の人々が善意で繰り出す観光案内に揉みくちゃにされながら、リベカは王都に戻る頃に自分の意識は残っているだろうかと真剣に憂えた。
この旅行が終わった時、途中の記憶が全部飛んでいる、なんて結末は嫌だなあと思いながら。