1年生・2
2021/08/27 2話と3話をこの一話にまとめました。
貴族のお嬢様というものは、下々の者が事とする家事などなさらないものと思われがちである。
しかしフェイディアス王立高等学校では、学生の自主性を高めるためとの題目で、家庭科の授業などというものが存在する。
さらに二年生以降は郊外から王都を離れた野外での剣や魔法の訓練実習などというものもある。
三年生で、訓練実習の舞台を校内か校外かで選ぶ選択科目となる。この時の選択により組分けも行われる。
五、六年生ともなると、下等とはいえ魔物も出ることがあるという森や洞窟などでの数日がかりでの課題実習もあるというのだから、自分で自分の面倒を見るための科目が一通り存在するのはむしろ当然といえる。
「……ねえリベカ。あなたは『ぷりん』という食べ物を知っていて?」
入学後半年ほど経ったある日の家庭科実習中、アンジェリンが唐突に尋ねた。
今日作るものは食べ物で、携帯や贈答に便利な焼き菓子である。
そうと判明した時点で学級に漲った不思議な熱意を、彼女は感じ取りこそすれ理解してはいないようだ。怪訝そうな顔で学級の皆のやる気に満ちた作業の様子を見渡していた。
ちなみにリベカもお菓子は好きだが、プレゼントをしたい特定の男子がいないため、焼き菓子のバリエーションを増やそうと混ぜものをしたりトッピングをしたりと様々な創意工夫を凝らす他の女子ほどには意気込んでない。
自然と、二人は他の女子に押し出されるようにして隅っこに退避し、至極マイペースに自分の作品作りに取り組んでいた。製作途中に他の食べ物の話を始める不真面目さである。
「ぷりん……ぷりん……ううん、ごめんなさい。食べたことも、聞いたこともないわ」
「そう……」
アンジェリンは残念そうに溜息をつく。
リベカは何の気なしに尋ねた。
「ぷりんって、どんな食べ物なの?」
「牛乳と卵と蜂蜜で作られた、天上の食べ物よ。リベカ、東の出身でしょ? もしかしたら東の郷土料理かもしれないと思って、訊いてみたの。あたくしは東領のことはよくは知らないから」
切なげに目を細めてため息をつく友人は、12歳だというのに何とも悩ましい色香を放っている。リベカは思わず目を逸らして、ふと首を傾げる。
「うん? でも、アンジー、食べたことがあるみたいじゃない。どういう食べ物か知らないの?」
「ええ、食べたことはあるし作り方も知ってるわ。でも詳しいことを知らないから」
「?」
「ああ、ごめんなさいね。説明が足りなかったわ。故郷にいた頃知人が作って食べさせてくれたの。作り方だけは教えてもらったのだけれど、他の詳しいことは聞いていなくて。だから、どの地方の料理で、どこでなら食べられるのかしらって、ふと思い出して、気になって」
「知人って、ラヂオ体操とか、番犬の話をしてくれたっていう?」
「そう。不思議な人だったわ」
そんなことをつらつらと言い合っているうちに、焼き菓子が焼き上がった。
「リベカの作ったお菓子、とてもおいしそうだわ」
アンジェリンは自分の作品とリベカの作品をじっと見比べて、物欲しげに呟いた。小さい子が指でも咥えてそうな物言いだ。
「……あとでお茶を飲みながら、いっしょに食べましょう」
リベカはアンジェリンの焼き菓子への感想は控えた。歪な形と何も混ぜていないのにまだら色に焼け色がついてはいても、食べてお腹を壊すほどにはひどい出来ではない……はず。例えそうだとしても、一蓮托生を嘆くには今更すぎる。
アンジェリンがぱっと顔を明るくして、いそいそと作品を油紙に包み始めた様子を見て、珍しく自分がお姉さんにでもなったようで、リベカも少し気分がよかった。
そこに水を差す者が音もなく忍び寄っていた。
「フェルビースト、それがお前の作品か? ひどい出来だな」
サヴィア家の坊ちゃまの高飛車な声に、アンジェリンは一瞬、リベカにしか見えない位置で困惑も露に眉を顰めた。
リベカは内心で溜息をついた。双方気の毒に。
ジリアンの芝居がかった尻上りの口調は緊張のせいだとリベカは気付いたが、そうでない者には本気で嘲笑されているとしか思えないだろう。そういう口吻だった。
実習中、ジリアンが何か言いたそうな目でアンジェリンの方を見ていたことに、リベカは勿論気付いていたが何も言わなかった。アンジェリンは彼のことなど眼中にはなかったからだ。ずっとリベカの方ばかり向いて話していた相手に、わざわざ用もない男子があなたに話しかけてほしそうよ、なんぞと言ってどうするというのか。
そのうちジリアンがリベカにまで視線を振り分けてきたので、目を合わせないように努めなければならなかった。大貴族のお坊ちゃんが、しがない下級貴族の端っこに引っかかっているような自分を恨みがましい目で見ていたなんてありえないことだ。
とうとう、痺れを切らして行動を起こしてきたのだ。まあ、行動力が伴っているのはいいことなんだろう。方向性が激しく間違っているから差引き零だとしても、遠くから見つめることしかできないヘタレよりは幾分かはマシだ。自分と無関係のところでやってくれるなら。
彼には早速、実習をともにした同じ学級の女子たちからの贈り物攻勢が始まっていて、彼の従者ブラムがひとまとめにして持っている。ちゃんとこの事態を見越して袋を持参しているのが憎たらしい。ジリアン本人がそんな気を回していたら自信過剰な男にしか見えなくなるが、そちらはブラムの機転によるものだろう。
いかにも主人の荷物を持ってるだけですよと言いたげな態度のブラムもまた、女子から焼き菓子を貰っていた。常に主人を立て言葉少なに控えている、いかにも武人の卵という風情の背の高いきりりとした男前なので、彼自身の女子人気もかなりのものだ。
ただし、ジリアン宛てのものもブラム宛てのものも一切合財同じ袋に入れているあたり、彼は自分が貰ったものも全てジリアン宛ての贈り物と勘違いをしているのかもしれない。
アンジェリンはすぐに持ち直して、手が止まっていた包装をテキパキと再開しながらよそ行きの微笑みを浮かべる。
「これはお目汚しをいたしました。すぐに失礼いたしますので、どうぞお忘れになって」
ジリアンはにわかに焦った顔になった。それがアンジェリンの焼き菓子をせしめるという目論見が外れたからか、彼がアンジェリンの作品を貶めたことで周囲で固唾を飲んでいた他の女子たちからのくすくす笑いが聞こえてしまったからかはわからない。あるいは、両方かもしれない。
「駄作の自覚があるのなら、なおさら客観的な意見に基づく反省が必要だろう。ぼ、僕が品評してやってもいい」
リベカは呆れを通り越して吹き出しそうになった。固く唇を引き結び、一度激しく喉を上下させてなんとか耐える。今、自分の顔はひどく険しくなっていることだろう。
これで好意が伝わったら相当の被虐趣味者だが、あいにくアンジェリンにそんな性癖の持ち合わせはなかった。少年のほのかな頬の赤に気付くこともなく、穏便に話を切り上げようとする態度は変わらない。
「サヴィア様のお口には合わぬかと存じますわ」
「それは僕が決めることだ」
緊張に強張っていたジリアンの顔つきがどんどん不機嫌になっていく。
「残念ですが、先約がございまして」
「じゃ……じゃあ、これをやる! 僕が作った! これでも食べて、腕を磨け!」
小奇麗な包みを押し付けられ、アンジェリンは目を白黒させる。お菓子屋さんの店頭に並んでいるような見てくれの焼き菓子は、味はともかくそれだけでも完成度が高い。
少し遠巻きに様子を窺っていた女子たちから、いっせいに羨望の溜息と悲鳴がこぼれる。
アンジェリンに返却の隙を与えず、ジリアンは勢いよく踵を返し、ブラムを従えて家庭科実習室から出て行った。
リベカは、学級の女子たちとは別の意味で溜息をもらした。
自分の態度がまずいことに気が付いたからって、挽回の仕方としては強引だ。
アンジェリンが特別視されていることは学級では周知の事実だが、もう少し人目を憚るなり、自然に振舞えないものだろうか。それで反感を買うのは絡まれているアンジェリンの方なのだ。友人自身はまだいい。身分も能力も容姿も備えているから、いくらやっかまれようとせいぜいが『田舎者』と言われるくらいしか被害らしい被害もない。
困るのは、アンジェリンの一番近くにいるリベカだ。おこぼれで分不相応な役得に浴している、身分も能力も容姿も抜きんでた点がない彼女こそ、とばっちりで余計な心労を重ねる羽目になるのだから。
寮に戻って、食堂で薬缶いっぱいのお湯を分けてもらい、茶器が一揃いあるアンジェリンの自室で昼に作った焼き菓子の包みを開いた。
アンジェリンはリベカの作った焼き菓子をじっくりと噛みしめた。おいしそうに食べている。無言で。
生粋のお嬢様は口の中に食べ物が入っている時に喋ったりしない。リベカはたまに作法を忘れかけて、口の中の物を飲み込み切らないうちにものを言いかける悪癖があるので、これは見習わないとなぁなんて思いつつ黙ってお茶をすすった。
ややあって、嚥下を終えたアンジェリンが、敬服した眼差しでリベカを見た。
「ねえ、リベカ。あなたのこの焼き菓子、おいしいわ。前から思っていたけれど、あなたってお料理が上手よね」
「え? ええ、まあ、元々庶民だし。主婦のお手伝い程度のことならしていたし」
アンジェリンの作った焼き菓子は、おいしくはなかった。もさもさした食感の表面と、火が通り切っていない生地のどろりとした中身の、味に乏しいそれは、一般的にはお菓子とはいえないだろう。しかし飲み込めないほどまずすぎもしなかった。
「あなたなら……『ぷりん』を再現できるかもしれないわ……!」
「……え?」
「あたくしね、ここに来てからは諦めていたの。この秘伝はあたくしの実家の料理人だけが忠実に模写することが出来ていたわ。そして、あたくしの家庭科の腕前では『ぷりん』は作れない。だから、ヴォジュラに帰るまではこの甘露は味わえない、とね。でも、今確信したわ。あなたになら、できると!」
「いやいやいやいや、そんな壮大な背景背負って朗々と宣言されても?!」
結局、友人に押し切られたリベカは寮の厨房にいた。
寮生のご飯を作ってくれる通いの料理人さんたちは、丁度晩ご飯の後片付けが終わったところで、また厨房と調理器具を使用済みの状態にすることに抵抗を示したが、アンジェリンが厨房に保存されている食料には一切手を着けませんし用が済めば責任を持って後片付けと掃除をしますしちゃんと戸締りをして鍵は寮母さんにお渡ししておきますからと頭を下げて頼み込んで、許可を取り付けることができた。
お嬢様が掃除などできるのですかという遠回しな皮肉も飛んできたが、アンジェリンは自信満々に掃除用具の使い方と仕舞い方、洗い物の洗い方と片付け方に加え生ごみの捨て方までを滔々と諳んじてこうするつもりですが不備があるなら訂正なさって下さいませそのように改めましょうと誓って押し切った。
アンジェリンは手抜かりなく、必要な具材を揃えていた。放課後の会話からすぐにである。飛ぶように部屋を走り出て行ったかと思うと、門限ぎりぎりになって卵と牛乳と砂糖を引っ提げて戻ってきた。蜂蜜は高級嗜好品なので、代替品で手を打ったとのこと。
貴族のお嬢様に頭を下げさせ、わざわざ即日中に街で庶民のように買い物をさせるぷりんなる食べ物に興味が湧いてきたリベカは、アンジェリンの言うがままに動き始めた。
アンジェリンは、ぷりんの作り方を、一言一句違えずに繰り返し暗唱できるほどしっかりと覚え込んでいた。これからどうするんだっけ、と聞けば即座に答えが返ってくる。
聞いた限りでは、天上のお菓子などと言う割には材料も少なく、手順も簡単で時間もさほどかからない。
小さな器の中で蒸し焼きになった卵液に、砂糖を煮溶かした香ばしい液をかけ、これで完成だという。焼き菓子よりも早く出来上がった。
「本当は、冷やしてから食べるとよりおいしいの。何も手伝わなかった身でリベカの作品に手を加えるような真似をして申し訳ないのだけれど、少し魔法で冷やしてもいい?」
器の中の淡い黄色に焦げ茶色のソースといういたって素っ気ない見てくれのそれを見るアンジェリンの目は、未だかつてない明るい炎の色に爛爛と輝いている。捕食者の目だ。
反対する気も理由もないので、リベカがどうぞと言ったそばから彼女はぷりんもどきに手を翳した。
静まり返った夜の厨房に特に目につく変化は起きない。それが甘い認識であることを、彼女の一番近くで魔法実習を経験してきたリベカは知っている。
アンジェリンの魔法は、とても静かだ。音も、動きも、気配も波立てることなく、可能な限り目的とする事柄にだけ、そっと変化を及ぼす。ものによっては、周りにいる人にも気付かれないうちに目的とする変化を終えてしまう。人より時間をかけてでも、丁寧に組み上げられる。
彼女は火霊系の魔法を得意としているが、得意の加熱の魔法の反対の要領で、冷却のコツも心得ている。リベカの知る限り、他には光や影に作用する魔法も使えるようだ。他系統の魔法の適性も併せ持つ者は、修業を積んだ大人の魔術師でも少ない。感覚でそういうことができてしまうあたりが、素質がある証拠なのだろう。
これが素質のある者だけで行われる三日に一度の魔法特級となると、どんな魔法が飛び交うのやら。
少しばかりやるせない気分になったリベカの腕を、冷やりとした空気が掠めて腰から足を伝ってゆく。冷気は下に落ちるもの。冷やされた空気があふれて、調理台からこぼれ落ちているようだ。ぷりんを冷やしたいだけなら、ぷりんの容器だけをそっと冷やせばいいだけなのに、こんな無駄をしでかすとはアンジェリンらしくもない。
「アンジー、少し抑えて。やりすぎだわ」
「……ん、あら、ごめんなさい。張り切りすぎてしまったのね。ありがとう、リベカ」
一気に消耗してしまったアンジェリンは、顔色をなくしながらも、さっきまではなかった隈に縁取られた目を橙色に輝かせて微笑んだ。そのきらめきはアンジェリンの心持ち次第で炎のように明るく燃え盛ったり、月のない夜のように静謐に沈んだりもする。一瞬たりとも同じ色をしていなくて、見ていて飽きることのない、不思議なフェルビースト一族特有の色だと聞いた。
「むしろ冷やしすぎてしまったかもしれないわ……でも、凍っていなければおいしく食べられるはずなの。さあ、頂きましょう」
いそいそと動き始めた彼女に急かされるままに、リベカは匙を取る。
冷たくなった小さな器を取ると、少し手が痺れてくるので、壁に打ち込まれた杭に下げられていた油汚れのついたミトンを拝借した。ミトンを嵌めた掌に器の底を包むように持ち、煮凝り状の薄黄色の塊を匙ですくい取る。
口に入れると、まずひんやり感。これだけしっかりと冷やされているのに、口に入れた途端、舌の熱でたやすくほどけるまろやかな口当たりと、濃厚でいながらしつこくなくさらりと舌に絡む甘み。それらの儚さといかにもお菓子ですと言わんばかりの甘ったるさを、芯まで沁み通った冷やかさが程よく引き締めている。煮詰めた砂糖液の、少し焦げた苦味がまたいい。
「……おいしいわ……」
「でしょう? あたくしの知っているぷりんと同じ味だわ。これをいつでも食べられるようになりたくて試したのだけれど、作り方だけ覚えても自分では再現できなくて。ここでこうして食べられて、とっても嬉しいわ。ありがとう、リベカ」
そんな風に仲良く微笑みあって、二人で厨房の片付けと施錠をし、おやすみなさいと言い合って寮の扉の前で別れた翌朝のこと。
すごく物言いたげなジリアンが、ちらちらとアンジェリンの方を見ては、何事かを待っている様子なのを朝っぱらから目の当たりにして、リベカは思い出した。
そういえば昨日、ジリアンの作った焼き菓子を食べ忘れていた。
気の毒に、彼は今日感想を貰えることはないだろう。
傷んではいないだろうから、今日も忘れられなければ、明日にはおいしかったと言ってもらえるのではないだろうか。
本年度もあと二月を残すばかりとなった。
しもふる月に入ると、秋が冬に選手交代し、王都の空は青味を失い灰味がちになる。
そんな肌寒いある日、屋外の演習場に集まった一年生たちは浮足立っていた。行儀よく複数の列を作って並び、寒さからではない理由で頬を紅潮させ、演習場の中心を一心に見つめている。
「はじめまして、王立高等学校一年生諸君。我々は王宮騎士団のオルセンとジュノーだ」
そこにいるのは立派な風采の騎士が二人。
白く塗られた板金の鎧と真紅のマントを一部の隙もなく着こなし、鎧と揃いの兜は、にこやかに自己紹介中の今は脱いで小脇に抱えている。腰に佩びる剣は精緻な細工が施された鞘と剣帯にごてごてと飾りたてられている。中身を見ないことにはただの飾りなのか実戦に耐えうるものなのか判断できない。
なんと王宮騎士団の本物の王宮騎士が、王立高等学校の学生の剣術指導のため、出向してきたのだ。
もっと上の学年ともなれば半年に一度、二月に一度など、御目にかかれる機会も増える。一年生の彼らにとっては騎士の出向による特別訓練は今日が初めてで、顔見せの意味合いも強い。
壮年と若手と思しき二人組であるのは、騎士団にとっても若手の研修か何かを兼ねているのかもしれない。
「本日は、我々が君たちの指導をさせてもらう。騎士の訓練は苛酷である。君たちに本格的に特別訓練を受けてもらうのは二年生からとなるが、それからは志願者のみ参加してもらう。本日は、その小手調べといったところだ。どのような訓練を行うのか一部だが体験してもらい、二年生からの参加の可否を考える一助としてもらいたい。成績優秀者には、王城の騎士団本部での体験訓練の資格も与えられる。ぜひ挑戦し、腕を磨いてほしい」
年配の騎士オルセンは、よく通る声を張り上げて授業の概要を説明してくれた。説明の要所で人当たりのいい微笑みを口髭の下に浮かべつつ朗々と喋るさまは、威厳を感じさせる。リベカが幼少時を過ごした村にいた猟師のジムおじさんのもじゃもじゃの黒髪とひげを整え太鼓腹を引っ込めて身綺麗にまとめたような見た目だ。それだけで大分洗練されたように見える。別人だから当たり前だが。暑苦しくても不思議とむさくるしさを感じないのは、やはり貴族の品位というやつだろうか。
柔らかそうな茶色の髪と緑の瞳をした若い騎士ジュノーは、お坊ちゃんぽい雰囲気が抜けきっていない。20代半ばくらいか。騎士オルセンと並ぶといかにもひょろっとして見劣りするものの、実際にはしっかり体を鍛えてあるのだろう。体力がなければ板金の鎧なんて着られない。
ちなみに二人とも美男子だ。
王宮騎士団には貴族子弟でなければ入団できない。加えて、見目もよろしくなければ審査に通らないという噂がある。前者はれっきとした規約であり、後者はそんな規約はないので胡散臭い噂の域を出ないのだが、どういうわけか王宮騎士団所属の騎士は男前ばかりなのだ。
つまり、大変眺め甲斐がある。
学生たちは、憧れに満ちたまなざしで二人を見ている。リベカも漠然とかっこいいなぁなんて思いながら、他の女子と同じく主に若い騎士ジュノーを見ていた。男子の場合は騎士そのものに対する憧れから、より偉そうでより強そうに見える騎士オルセンを見ている者が多い。
そして、リベカの友人アンジェリンもその口だった。アンジェリンが熱心に見ているのは、大柄でおっさんくさい騎士オルセンの方だ。
友人となって以来、何度か恋話なんてものをした結果、リベカは、自分の友人が年上好みであることを突き止めている。
同級生の誰かさんも気の毒に。せっかく選り取り見取りでも咎められそうにない環境にいるのだから、いっそ別のお相手を物色すればよかろうに。
まず、入念な準備運動をして体を温めてから、演習場を軽く走り込む。
高等学校の演習場は広い。一周目を走り終えないうちに女子の何人かが苦しげに脇腹を押さえて足を緩め始める。当たり前だ。リベカ達の学級はお嬢様ばかりなのだ。護身術を始めとした武芸の授業もあるとはいえ、基本的に体を張って何かを成し遂げるような行為には出産以外向いてない。平民のおかみさん方となると少々事情は異なってくる。
「ついてこれぬ者は無理をせず休め! 此度は小手調べであるゆえな! ただし、二年生以降に任意の参加をした者には容赦はせんぞ!」
いきなり暑苦しくなった騎士オルセンは、がちゃがちゃとやかましい鎧の金属音にも負けない大声だ。この声があるから高等学校への出向役に任ぜられたのかもしれない。
「さあ、がんばって。もう一周だ。腕は後ろまで大きく振って、しっかり前を見て。呼吸は口でしてはいけない。喉の負担が大きいからね」
騎士ジュノーは色んな学生に並走しながら優しく励ます。しかし騎士オルセンと違い、辛いなら休めとは一度も言わず、走り続けることを要求してくるあたり、結構いい性格なのかもしれない。
五周したところで、走り込みは終わった。
高等学校に入ったばかりの少年少女たちを労わったのか、鎧を着たまま一緒に走ってくれた騎士様方の都合かは気にしない。
「しばし休憩!」
騎士オルセンの号令に、学生たちは助かったとばかりに演習場の土の上に座り込む。早いうちから脱落していた女子たちは手巾をお尻の下に敷いて既に座している。
これが女子力かと、リベカは少しお嬢様方を尊敬した。彼女だったら、お尻が汚れることも気にしないで地べたに座り込むだろう。
「騎士は体が資本だ! 諸君の中にも王宮騎士を目指す者がいるだろう、ならばなにはともあれまずは体力を付けよ! 本格的な訓練に入れば、手始めに10周は走るぞ! そしてその際には座り込んでの休憩は認められぬゆえ覚えておけ! 折角体を解したのに起き上がるのが辛くなるからな!」
騎士オルセンの熱弁は続く。どうやら小手調べの訓練ですらも、始まれば彼の中の何かを切り替えてしまったようだ。今や笑顔の欠片もない。騎士学科の上級生がまことしやかに語る魔物・鬼教官とはどうやら実在するらしい。
「……ほう、女子が二人もついてこられるとは、今年の新入生は見込みがあるではないか」
リベカとアンジェリンは、入学以来続けてきた早朝の走り込みの甲斐あって、五周を完走できた。晩秋の風が火照った顔に心地よい。
ジリアンとブラムも、完走して爽やかな顔をしている。聞くところによると彼らも毎朝早起きして、自宅の周辺を走ってから学校に来ているらしい。
ジリアンはそんなことを一言も言わなかったが、ブラムが『ジリアン様は負けず嫌いでいらっしゃいますので』とかなんとか前置きして仄めかしていた。従者のくせに、結構口が軽い。
「……ん?」
感心したようにリベカとアンジェリンを見てい騎士オルセンは、何かに気付いた風にしげしげとアンジェリンを見直した。近寄ってきて再度まじまじと彼女の顔を見る。
目の高さは違えど、正面から見つめ合う中年紳士と少女。登場人物と少女の服装と舞台がもう少し物語寄りなら何かが芽生えそうなくらい見詰め合って、騎士オルセンは一つ頷いた。
「赤い髪のお嬢さん、君はもしかしてフェルビーストのご令嬢ではないのかな」
「はい。ヴォジュラ領主イサク・フェルビーストの一女アンジェリンと申します。一族の誰かをご存じでいらっしゃいますか?」
「その目を見れば一目瞭然だとも。私はここ10年ばかり王立高等学校の出向訓練役として度々こちらにお邪魔していてね。君の兄上が学生だった時分に何度も訓練に立ち会ったのだよ」
「あたくしに兄は二人おります。どちらもこの学校の卒業生ですわ」
「私が知るのはイズリアル君だ」
「下の兄です」
「そうかね。彼は当時からサヴィアと並んで際立った存在だった。ああ、こちらの学生の弟の方ではなくて、我々の後輩として王宮騎士をしている兄のザカリアスのことだよ。彼らは同級生だったのだ」
「聞き及んでおります」
「ああ、そうだったな。ここには、その弟本人がいることであるし」
騎士オルセンがちらと視線を向けた先には、数歩離れた場所で全身を耳にしたジリアンが、見た目だけは気のなさそうな素振りで横を向いている。さっきまで、見つめ合う二人を忙しなく見比べてはらはらしていたのに、変わり身が早い。
そういえば、ジリアンの兄の職場の人は、ジリアンの言う彼の兄とアンジェリンの兄との悶着とやらを知っているのだろうか。まあ、今この場で訊いたところで赤裸々に教えてもらえるとは思えないし、詮索は好きではないのでリベカは口を挟まなかった。
「イズリアル君ならばすぐれた王宮騎士になるものと期待していたのだが、彼はあっさりその話を辞して卒業と同時に郷里に帰ってしまい、我々はたいそう残念な思いをしたものだよ。彼は今は何をしているのかね?」
「父の補助として自領の運営に携わっております。ヴォジュラは常に人手不足なんですの」
「聞けば彼は、卒業以来一度も王都の土を踏んでおらぬそうではないか。夜会などの案内にも一度も応じたことはないという話だ。それほどに忙しいのかね」
「はい。ヴォジュラの自邸にも、月に一度しか戻れませんの」
「そうか……だがもし機会があればぜひ王都に来てほしいと伝えてくれるかね。彼に会いたがっている者もいるのだよ」
騎士オルセンは、それだけ言って離れていった。
彼女が手段を選ばず全力で戦えば、学年主席のジリアンにも勝ててしまうだろう、とは、割と入学間もない時期に、武芸実習で教官が苦笑しながら彼女を個別で褒めた内容。
ジリアンがそれをうっかり聞いてしまったため、しばらくは自分と勝負しろと付きまとう彼にアンジェリンは困り果てることになった。
正々堂々勝負しろと言われても、彼女の全力とは地元の兵士や組合員らと積極的に交流して学んだ、小手先の技と魔法を含めた正規の剣術にはない卑怯とか曲芸とか言われかねない手段を含んでいる。
組合とは、様々な事情から定職を得られぬ者に口を糊するための仕事を斡旋する組織のことであり、それに登録した者を組合員という。主に腕っ節を頼りに危険な仕事を請け負う者を指し、中には強大な魔物を倒したとか盗賊団を討伐したとか前人未踏の秘境から珍しい宝物を持ち帰ったなどの優れた功績をうち立て、憧れと畏怖とともに名が売れている英雄的存在もいるが、世間一般では社会からはみ出したならず者の寄り合いと認識されている。特に騎士団の本拠地があるこの王都ではその傾向が強い。
しかしながら、正規軍に動いてもらうには時間も費用もかかりすぎるという時に、窓口一つ通すだけで些細な依頼を可及的速やかに受けてもらえるという利点もあり、主に庶民御用達の何でも屋という印象だ。どこの町村でも、それなりに必要な機関として機能している。王都でだってそのはずなのだが。
アンジェリンの故郷ヴォジュラでは、王都とは逆に組合の権威が強いらしい。
かといって領軍の規模が小さいとか信用がないというわけでもなく、うまく共存しているのだそうだ。領軍と組合員との親善試合や交換派遣なども行っているらしい。
「ヴォジュラは実力重視の土地柄なの。よほどの人格破綻者でなければ、出自に関係なく強い者ほど受け入れられ尊敬されるのよ」
胸を張ってそう言い切ったアンジェリンは、確かに入学したての学生としてはあるまじき強さを育んでいたのだろう。
結局アンジェリンはジリアンとの一対一の試合を、他人の目の届かない時と場所で実現させてきた。
勝敗を聞いたわけではないが、多分アンジェリンが勝ったか、それに準じる結果となったのだろうとリベカは思っている。ジリアンのアンジェリンへの特別視が、その時から一層強くなったせいだ。
その結果がこの一方通行なのである。
次に、二人の騎士が殺陣を見せてくれた。
構えごとの特徴に始まり、踏み込みがどうだとか、切り上げがこうだとか、正直リベカには専門的すぎてよくわからない説明を交えながら、素人目にも見て取れるようゆっくりと型をなぞる動きの数々は、余計な感慨を抜きにしてもかっこよく、夢中で見学した。
要するに、言葉での教えはろくすっぽ頭に入っていない。
最後に、学生が二人一組となって演習場に散り、模擬戦をした。
二人の騎士と学校の武芸の先生はそれらをおもむろに見て回り、悪い癖をつけている学生にここを直すべきだとか、見所のある学生のちょっとした快挙にお褒めの言葉を授けたりして、入学してから初めての特別訓練が終わった。
ジリアンとブラムを始めとする数人の男子学生とアンジェリンは、騎士様方に見込みありと映ったようだ。
「フェルビースト、少し訊きたい」
更衣室に戻る途中、ジリアンがアンジェリンを呼び止めた。ブラムはいない。ジリアンが先に行かせて一人引き返して来たのだ。
彼はしばらく難しい顔をしていた。汗ばんだ額に張り付く前髪を疎んで手で大雑把に後ろに撫でつけた髪型と相俟って、背伸びした大人っぽさを演出している。ややあって、思い切ったように口を開いた。
「おまえの兄は、本当にその……家にも碌に帰れないほど忙しいのか? 手紙の返事もままならないほどか?」
アンジェリンは、思いがけない質問に驚いた様子だったが、騎士オルセンに対した時と同じように率直に肯定した。
「そうですわ。月に一度しか帰れないのです。届いたお手紙は在宅時の仕事の合間に開いていますわ。兄の帰宅とお手紙が着く時期によっては、お返事が届くまでにはかなり時を要してしまうでしょうね」
「なぜだ? 領主の補佐であれば、業務を分担できる者や代行させる部下がいくらでもいるだろう?」
青い目を瞠るジリアンは、本気で不思議がっているようだ。
「先程騎士オルセンにも申し上げましたけれど、我が家は万事人手不足なんですのよ」
アンジェリンは騎士オルセンに述べたことと同じ理由を繰り返した。細かく説明する気はないらしい。しかしその目は黒味を増し、ちかちかと橙色の火花が不穏に明滅している。アンジェリンが不機嫌な時の目の色だ。王都の有力貴族なら人材集めもお金にあかせて容易いでしょうよと内心で毒づいていたとしてもリベカは驚かない。
「そうか……では、手紙の返事が忘れられているんじゃないかというくらい遅いとしても、それは意図的にではないんだな」
自分の中に落とし込むように確かめる口調のジリアンに、アンジェリンも何かを感じたのか神妙に頷いた。
「そうか……ならば……いや、手間を取らせてすまなかった。話は終わりだ」
ぶつぶつと呟きながら、納得しているとは言い難い表情で、ジリアンは背を向けた。
リベカとアンジェリンは首を傾げた。
「……どうなさったのかしら。サヴィア様」
「……少なくとも、彼にしか分からない何事かのせいよ。気にしなくていいと思うわ。わざわざ気にしていたら、彼の個人的な事情にまで首を突っ込むことになりかねないわよ。あなた、それでいいの?」
「いいえ」
なので、二人は一つ首を振って、ジリアンのことは忘れることにした。
「五年生の先輩の話だけれど。最初は、ミユレ街道沿いの森で薬草採取の課題に挑戦してみたらしいわ。その最初の挑戦で赤ちゃんくらいある虫の魔物に襲われて、それ以来校内でこなせる課題にしてるって。絶対その方が安全だもの。わたしもそうする方がいいと思うわ」
リベカが断固として言うと、アンジェリンは友人の言っていることが理解できないとでもいうように、不思議そうに尋ねた。頭の上で三つ編みにしてまとめ上げている赤みがかった茶色の髪を、寮の自室で寛いでいる今は肩と背に豪奢にうねらせている。
「キキリ自体は班の男子たちと組合の案内人がやっつけてくれたのでしょう?」
「キキリって何?」
「今の話に出てきた、虫の魔物の名前よ。魔境学で習ったじゃない。この辺りでは珍しくもない、ごく下等の魔物ですって。あたくしも実物を見たことはないけれど」
「え、う、うん、そのはず……だけ、ど」
リベカはここ半年の間に学んだはずのことを懸命に脳裏に蘇らせようとした。しかし、復活の試みは失敗に終わった。
実技で満足に身を守れる力もないから校外実習は避けたいという話をしていたはずなのに、座学すらこんなに心許ないとは。留年だけはしないように復習時間を伸ばそう。
内心落ち込みながら、しかしリベカは言い募る。
「得点はちゃんと校外課題と校内課題で釣り合うように設定されているから、一度も外に出ずとも卒業までの課題点は稼げるらしいし」
「あら、そうなの?」
くるりと目を回すアンジェリンは、この有利な内容にもさして興味はなさそうだ。あくまでも、校外実習に参加する気満々らしい。むしろそれを選ばないなんてどうかしてるとでも言いたげだが、女子で野外実習を選ぶ学生などほとんどいないとローナ先輩から聞いているリベカは、友人の冒険心の強さに呆れた。
ここでアンジェリンを説得できなければ、たった一人の友人と離れ離れになってしまう。
「あなた、キキリごときでそんな弱気な……ヴォジュラ外の女性はほんとうにか弱いのね。守ってあげなきゃってよく言われる理由がわかった気がするわ」
呆れと感心交じりのアンジェリンだって、見た目だけなら可憐なお嬢様だというのに。
ちなみにリベカは男子からそんなことを言われたことはない。幼少時を過ごした故郷の村にいる間も、父親や近所のおじさんや幼馴染たちからも、守ってあげるなんて言われたことは一度も、ない。
二人の話題は、前述の三年生になってからの実技科目の選択について。実習そのものは二年生になってからだが、三年からは選択制なので、それを見据えた話し合いだ。
実際の選択はもっと後、二年の年越しの長休み前に行われるが、アンジェリンが当然のように危険でいっぱいの校外実習を選ぶつもりでいることが判明したので、リベカはなんとか安全な校内実習に進もうと軌道修正を試みているところなのだ。布石は早めに打っておいた方がいい。
もちろん、校外実習にもそれ特有の利点はある。
たまに、珍しい宝物が見つかることがある。そしてそれは見つけた者の取得物として持ち帰ることができるのだ。
月光を蓄えて美しく輝く石の欠片や、特定の時期にしか咲かない芳しい芳香を放つ花や、四年に一度しかやって来ない渡り鳥の虹色の卵の殻だとか、その他諸々のちょっとした珍品だ。物によっては好事家に高く買い取ってもらえたりもして、一獲百金くらいの夢は詰まっている。それを退けても男子学生にとっては冒険心を煽る要素だろう。
中には、校外実習で手に入れた珍しい宝物を女の子への贈り物にして告白した男子学生がいたという逸話も残っていて、それもまた学生たちに別方面の夢を見せている。
リベカにとっても、心ときめく伝説だ。別に美形でなくてもいいから、自分にそんな風に想いを告げてくれる男子が現れたら……なんて夢を見てしまうのは、至って普通の乙女らしさではないかと思う。
しかし、それはいずれも男子向けの宣伝であろう。
なのに、なぜかリベカより育ちのいい貴族令嬢であるアンジェリンは、自分が贈られる側としてではなく、冒険する側として校外実習に夢を抱いている。
まあ人の好みはそれぞれだろうし、別にケチをつける気はない。ないのだが。
「わたしだけで校内実習科目に進んでも、いっしょに実習をしてくれる相手がいないわ……」
二年生で校内実習と校外実習をとっかかり程度に体験してみて、三年生からは選択制。
校内実習と校外実習を選び、基本的には卒業までそれを基準に組分けされることになる。ローナ先輩のように、校外組から校内組に変更する学生もいるから、一度の選択で取り返しがつかなくなるということはないが、問題はそこではない。
そう、リベカには未だアンジェリンしか友人がいないのだ。アンジェリンが校外組に行ってしまえば、校外組に行きたくないリベカとしては、残り五年のうち四年の学校生活がぼっちの日々となってしまう。留年も嫌だがそれ以上に無味乾燥な学校生活に突入だ。
実技科目は同学年の学生で二人から五人までの班を作って臨むことを定められているので、とにかく誰かしらと班を組まねばならない。
ところが貴族学級の女子たちは相変わらずリベカの存在を受け入れていない。最近では攻撃頻度も減り、空気のように扱われている。平民学級の女子たちからも相変わらず遠巻きにされている。
平時なら、それはそれで過ごしやすい。困るのはこういう時だ。
思い切って先生に相談すれば、どこかの班に入れてくれるよう、計らってはくれるだろう。でも、そうして渋々受け入れてもらった親しくもない人たちの班で、どうやって身を立てていけというのか。考えただけで泣きそうだ。
「あたくしたちと校外組に進めばいいじゃない」
「それができる能力がないんだってば!」
感情的になってしまい、つい素の言葉遣いが飛び出してしまう。
かといって、赤布魚の糞のように優秀な友人にくっついて校外組に行ったとして、剣の扱いどころか護身術もままならず魔法もたいして使えないリベカが、誰の、何の役に立つというのか。むしろ赤点しか出せなくて即落第、退学となって家に帰され、祖父母の冷たい視線にさらされることになるだろう。
平民学生たちの間ではこういう事態を、詰む、と言うんだとか。
「ねえリベカ、校外実習はどうしても外敵を打ち払ったり宝物を見つけたりするような派手なことばかりが目につくけれどね、実際はそればかりじゃないのよ。野外で活動するには入念な準備が必要になるし、野営するなら更にそう。あなたは細かいところにまで気配りが行き届く人だし、携帯食の材料でもおいしいスープを作れるし、応急処置の手際もいいし、疲れている時に気持ちよく眠れるためのコツも知っているじゃない。そういった土台の部分で班を支えられる存在って、団体行動をする上では大切なの。あなたがいっしょにいてくれたら、あたくしたち、とっても安心できるわ」
両手を取られてまっすぐに目を覗きこまれて、リベカは赤面した。おためごかしではなく、真率に告げてくれているのがわかったからだ。
アンジェリンの手は、幼い頃から重ねてきた剣の修練の程を物語る、固い感触がした。指も節くれだっていて、触れただけでは女の子の手指とは思えない。彼女は自分の手をいささかも恥じてはいないが、礼儀作法の授業では見た目による周囲の心証を慮って薄い手袋をしている。今は素手だ。あたたかい。
その目は大地を思わせる深い焦げ茶色で、きらきらと橙色の火花が、夜空に瞬く星を閉じ込めたようにきらめいている。
「……ん? あたくし『たち』?」
「ええ。シェイファー様と班組みしないかってお声をかけていただいてるの。あたくしは構わないし心強いくらいなのだけれど、あなたにも話してみないとと思って。今から班組申請しておけば、二年生での組分けにも考慮してもらえるかもしれないし。どう?」
「わお」
エイジア・シェイファー。彼こそがアンジェリンを抑え魔法学科の首席の座に輝き続ける魔法特待生。
学級が別であるためリベカは合同授業の時と、男女入り乱れる食事時の寮でたまにしか見かけたことはないが、一度見れば忘れられない容貌をしていた。だから顔と名前を一致させて覚えていられたのだ。
彼は、学年の王子様であるジリアンとは別の意味で話題性に富んだ少年である。
彼がシェイファー家当主の私生児であることは公然の秘密となっており、魔法の素質に恵まれているのは異種族の血を引くからであるとの専らの噂。その片親の特徴を表す、目立つ外見。
整った顔立ちと人との交流をほとんど持たない孤高の佇まいと相俟って、一部の女子からは神秘的で素敵だと熱いまなざしを注がれている。
それ以上に多くの人々から下賤の血混じりだとか化け物だとか言われて避けられていることこそが、孤高でもなんでもなく彼が常に一人きりでいることの理由であるのは疑い様がない。
魔法特級で一位と二位を飾る彼とアンジェリンとが交流を持つのは、ある意味当然と言える。その二人が組むというなら、大した好成績を叩き出せるだろう。
「だからね、よく動くことになる分、疲れはするでしょうけれど、安全なことにかけてはあたくしとシェイファー様が保証できるわ」
「わたしじゃ、足手まといになるんじゃないかしら」
リベカは往生際悪く、おずおずと言った。
なるんじゃないか、ではなく、なるだろう。もう確実に。
成績優秀なアンジェリンなら、それこそ自分の望む進路に進むために、我を通したっていい。シェイファーとさっさと班を組んで、友人だといっても役になんてこれっぽっちも立たないリベカを残して行ったっていいのだ。むしろ彼女の才能を伸ばすならそうして適切な訓練環境に飛び込むことが必要だろう。
でもリベカの意思を問うてくれた。それを、嬉しいと思った。
「ならないわ。なったとしても、それは仲間の実力を量り切らずして実習計画を組んだ周りが悪いのよ。つまりあたくしたちが悪いことになるわね。そうならないように努めるのがあたくしたちの役割。あなたのことは、あたくしが必ず守るから、いっしょに来てちょうだい?」
「……アンジー……あなた、女の子よね?」
「まあ、もちろんよ! まさか、疑っているの?」
「ううん! 違うの! そうじゃないの!」
まさか家族からすら言われた例のない『守る』という文句を、同性の友達から食らうとは思ってもみなかっただけのことだ。
その後、エイジアを紹介された。
彼は間近で見ると複雑にカットされた宝石のように深い緑色の頑なな目をしていて、純血種の人間にはあり得ない灰がかった緑の肌、光の当たり具合によって若葉から新緑にと深みを変える緑色の髪を持ち、しかしそれが不思議と収まりよく似合っている美少年だった。同年代の少年の中でも飛び抜けて背が高い。
この世には人間以外に妖霊人と呼ばれる知的生命が存在する。11の氏族に枝分かれしたその種族のうち、エイジアは樹木や草花に親しむと言われる根の氏族の血を引く。樹木を思わせる容姿がその事実を雄弁に語る。それでいて人としての造作は作り物めいて端正なのだから、人目を引かないはずがない。
更にその魔法力の高さ。その力ゆえに貴族の私生児という居心地の悪かろう立場で王立高等学校に送り込まれたのだ。
彼は、自分を出自を根拠に見下す人間や、自分の見た目や魔法力を口実にした人間に近づかれることに、ほとほとうんざりしている。
エイジアは礼儀正しくリベカに礼をしたが、その目はとても冷めており、自分が認めたアンジェリンの顔を立ててリベカの存在を受け容れたが、リベカと慣れ合うつもりはないことを言葉より雄弁に主張していた。
だからリベカも彼に踏み込むことはすまいと決めた。
来年からとはいえ、少々窮屈なことになりそうだ。
そんなことを考えていたら、なった。
アンジェリンが、エイジアとつきあっているという噂が流れ始めた。
発生源が誰なのかは知らないが、リベカがそれを知ったのは、
「ねえ、コルネイユさん。フェルビーストさんがシェイファー様と交際なさっていらっしゃるというお話は、本当ですの?」
と、同じ学級の挨拶程度しかしたことのない女子にある日突然尋ねられた時だ。
何せ本人の外側で広まった噂話なので、本人の元には届かない。当然、同学年の友人が未だアンジェリンしかおらず、校舎での行動を彼女と共にしているリベカの耳にはなかなか入って来なかった。
「なんでも、フェルビーストさんが年越し休みにお里下がりをなさるのに、シェイファー様もお誘いになられたんですって?」
「えっ……あら、まあ……」
素っ頓狂な声を上げそうになって、リベカは曖昧に語尾を濁す。
きたかぜの月からゆきわたる月の約二月に及ぶ年に一度の年越しの長休みは、実家を離れて上洛してきている学生たちにとっては、年に一度の里帰りの機会となる。
そうでなくても、本年度最後の登校日である今日は、王都在住の他の学生たちの迎えと併せて馬車が続々と校内の車寄せに到着している。荷の積み込みや帰省する者の身支度やら忘れ物やらで、校舎の周りは芋の子を洗うような騒ぎだ。
これを突っ切って寮に戻るのは無理だと判断し、リベカは教室で窓の外を眺めながら大人しくしていた。そこを同じ学級の女子に襲撃されたのだった。
休みの間は、実家に帰れない主に経済的事情を抱えた一握りの者が寮に留まるくらいで、学舎も閉鎖され、寮のごく一部だけが細々と機能する、非常にさびしい雰囲気に包まれるのだ。
実はリベカも、実家に帰りたくないあまりにその選択肢を選ぼうとしていた。
そこに、当然のように里帰りをするアンジェリンから、なら一緒に彼女の故郷ヴォジュラに遊びに来ないかと声をかけられた。遠慮が湧かないでもなかったが、そこはありがたく乗ることにしたのだ。
その道のりに、もう一人道連れが加わるかもしれない、らしい。
それはまあいい。エイジアにも、実家に帰りたくない理由くらいあるのだろう。真相も恐らくは、魔法特級で彼と交流を持つアンジェリンが、善意からリベカにしたのと同じように家庭環境の複雑な友人を誘っただけだと思う。
さしたる交流もないままに一月が過ぎるうち、アンジェリンを間に置いてエイジアと顔を合わせる機会が幾度かあったが、リベカが彼に特別な興味も侮蔑も抱いていないことを肌で感じられるようになってきたのか、アンジェリンの友人への礼儀としてだけではなく、エイジアの態度も軟化してきているように思う。
だから、もしエイジアも同行するという話が本当だとしても、リベカの心情的にはそれほど抵抗はなくなっていた。
しかし、ここはフェイディアス王立高等学校だ。王国中の貴族子女が集結する紳士淑女予備軍たちの巨大な社交場。別の思惑あってのことと解釈されても無理はない。
「そうでしたの。わたくしも長休みの間のご予定につきましては、伺ってはおりませんの」
「あら、そうですの?」
「お里下がりは個人的なことでございますからね」
リベカは曖昧に微笑んでやり過ごすことにした。
アンジェリンの友人でありながら何も知らされていないことで、令嬢たちに落胆と嘲りの目で見られようとも、実は自分も誘われていて、もしかしたら自分もエイジアと一緒に長休みを過ごすことになるのかもしれないなどとは絶対に言えない。
女子学生たちから解放されたと思ったら、今度は何かを探すように教室を覗きこんできたジリアンに捕まった。彼は王都在住だから、従者ともどもさっさと帰ったと思っていた。
「コルネイユ嬢、突然不躾な質問をするがお許し願いたい。次の長休み中にフェルビーストとシェイファーが婚約するという話は本当だろうか」
つかつかと近づいてきたジリアンの青い瞳にまっすぐ見詰められて、リベカは目眩がした。勿論学園の王子様の美貌に見とれてのことではない。
あれからお茶を一杯飲み終えるほどの時間も経っていない。
その間にそんな尾鰭が付くとか。どんな成長力なのかこの噂は。
「君が口にできる範囲でいいんだ。隠し立てやごまかしはなしで教えてくれ」
ジリアンは至って真剣だ。そして紳士的だ。直球で勝負をしかけてきながら、拒否権行使の余地も与えてくれている。アンジェリンのいない所でなら、素敵な貴公子の卵として振舞うことができる少年なのだ。つくづく残念だ。
ジリアンの数歩後ろで、彼の乳兄弟であるブラムがすまなさそうに目礼をしてくれる。アンジェリンが関わる時にだけ妙な行動力を発揮する主人に振り回される一番の被害者は彼だろう。最近妙に苦労人の顔をするようになってきた。気の毒に。
仕方なく、リベカは正直に答えた。
「わたくしも、先程学級の方々に伺ったばかりで、思いがけないお話に驚いているんです。後から、アンジーに話を聞こうと思っていたところですわ」
つまり、何も知らないと。
事実確認こそしてはいないが、どのみち一緒にヴォジュラに行くのだから後からまとめて話せばいいやとか暢気に考えているのだと、リベカには手に取るようにアンジェリンの考えがわかった。
実習科目の選択についての打診は、エイジアに誘われたとのことで、自分一人回答する前にリベカに話を通し気持ちを確認してくれた。今回の場合、先にリベカを連れていくことが決まっていたところに、後から(おそらく)唐突にエイジアも誘うに至ったのだろうから、順番としてはおかしくはない。
決して気遣いが出来ない子ではないはずなのに、なんでこう時々大雑把なのだろう。
「でも、婚約するとなるとお家同士のやり取りがあるはずですわ。そんな話は聞いたこともありませんから、噂の域を出ないお話だと思います」
「そうか……いや、すまなかった」
ジリアンはあっさり引き下がった。
ここでどうしてそんなことを尋ねるのかと藪を突つくほどリベカは野次馬根性に満ちていないので、黙って見送った。