5年生
赤点すれすれだった成績を平均的な水準の維持叶うまでに向上したリベカは、無事に進級も叶いかつてなく安心した心持ちで新年度を過ごしていた。
そんなある朝、奇妙な印象を受けるものを見た。
寮の正面玄関と同じく、鐘二つから開いているはずの届け物受付窓口が閉まったままだったのだ。
普段、朝食を摂るついでに窓口を利用する学生が荷物や手紙を手放せぬまま食事を摂る羽目に陥り、少しばかりの不満を糧にあれこれと詮索に余念がなかった。
「窓口担当の職員が、急病で辞めたんですって」
「昨日まで普通だったのに? それってきっと方便よ」
「何か事件じゃないのか。昨夜は遅くまで職員舎に人が出入りしてたんだ」
「どこかの親が来て難癖つけてたのを見たけど、その件じゃないかな」
「俺も補修の帰りに近くを通ったが、横領だとか聞こえたぞ。事件だ、間違いないね」
などと、平民らしいあけすけな物言いで招待学級の学生たちは囁き交わしたが、それらが憶測の域を出ることはなかった。
リベカも、噂話に積極的に耳を傾けはしたものの、真相に辿り着く手掛かりを得るには至らなかったし、それを超えて知りたいと思う程の興味もなかった。
寮職員の交代は学生たちの日常にさしたる変化をもたらすものではなかったが、リベカは、もしかしたらと、ふと思ったことがある。
いなくなっていたのは、エイジアへの態度が軽蔑的だった職員だった。そして、今いる職員たちからは、エイジアに対して、わずかに怯えめいた感情が閃くようになっているように見えた。
とはいえ、リベカは、あれこれ考えを巡らせはしても、詮索する気はなかった。
だが、同室の友人はそうでもなかったようだ。
アンジェリンは速やかに寮の男女共有スペースでもある食堂に張り込んでエイジアをとっ捕まえると、談話室に連行して直截に問うた。
「そろそろ伺ってもよろしくて? あたくしたちを蚊帳の外に追いやったまま、みなさんで何をしていらしたの?」
「アンジー、何か気付いてたの?」
「いましたとも!」
リベカは、ついてこいとも来るなとも言われなかったが、ちゃっかりついて行って口を挟んでも咎められることなく空気のように自然に受け入れられているので、我ながらいい立ち位置だわねと思いながらその場に居座った。傍観者を気取ってはいても、気になることもある。
たぶん、ついて行かなかったとしても呼び止められはしなかっただろう。その場で知る気はないと判断されて終わり、リベカの見えないところで全て終わったのだろう。
「エイジアさん、そのお話は秘密にしていらしたのですか? もしご都合がお悪いのでしたら……」
「そういうわけじゃねえ」
憤然たるアンジェリンと気遣わしげなリベカとの視線の集中砲火を浴びたエイジアは、観念して話し始めた。
聞けば、昨年から、寮の届け物受付窓口担当の職員による不正が散発していたという。
エイジアは実家からの仕送りの手紙と品が予告されていた時期に届かないという事態に何度か見舞われ、配送を任された実家の使用人か受け取った寮職員の横領だと、この2年の間に検証を重ねて見当を付けていた。
窓口に問い合わせても荷は来ておりませんと一律の対応。そればかりか、エイジアから窓口に預けた手紙の類も、届けられることなく処分されていたようなのだ。こちらには横領して得する物など何も含まれていないので、エイジア個人に対する単なる嫌がらせと考えられた。
リベカは届け物受付窓口での荷の授受について思い返した。
「確か、届け物は規定の帳面に学生が欄の上から順番に部屋番号と署名をし、備考欄に職員が荷の種類を書き加え、分別する。届け物が送り出されると、その日時と配達人の署名が書き加えられる……って形式だったのよね。一ページあたり6件分の記入欄があったわ」
「そ、俺が物を持って行くと、職員がさりげなーく帳面の頁をめくって、新しい頁の一番上に書くように促されることが多かった。他の学生の目がある時にそのまま他の奴が記帳した同じページの次の行に書いてた分はちゃんと処理されてたあたり、向こうも用心してたようだ」
「確かに、以前わたくしと行き合った時には、そのまま同じページの次の行に記帳していましたわよね? 頁を捲るのはシェイファーさんの記録だけを破り捨てるための小細工というわけですのね」
なぜそれがわかったかというと、怪しんだエイジアが、これまで自分が出した手紙が届いているか、また今まで自分に送った荷物の内訳と時期を実家の父親に確認する手紙をブラムに頼んで寮の外から出してもらい、返答も中継してもらって確かめたからだ。
「寮生への届け物を持ち込んだ者は、授受簿にどの家の使いで誰宛ての荷をいつ持ち込んで寮側に引き取られたかを記帳し、その控えを受け取るようになっていて、その控えは全ておやじに提出・確認されていた」
「シェイファー家の使用人は忠実に使いの役を果たしていたわけですのね。となると疑わしきは寮側、と」
犯人は妖霊人の混血であるエイジアを窮子と思いこみ、本人に察知されたところでうやむやにできると考えていたらしい。
しかしエイジアの父は事態を知るや、不正の証拠を掴むために迅速に動いた。
エイジアの父が送った荷が宛名の人物の手元に届くまでは、その荷はシェイファー家の物。それを横から掠め盗っていたことが証明できれば、それを盗んだという形に落とし込める。という理屈のごり押しを敢行するというもので、その証明は難しいものではなかった。
行動は計画的に行われた。
シェイファー家から学校に荷を届けた者は、職員の受け取りの署名と日時と品書きを記した伝票を主に提出していた。荷が寮に届いた確かな証拠である。
エイジアの父は翌日には正規の手続きを経て来校し、自ら寮へ。息子への仕送りをしたのだが、間違って他所へ送る物を混ぜてしまったのだよなどと周りの者に聞こえるようあからさまに話しながら寮の受付窓口に張り付き、荷を検め中身を取り換えたいからこの場で今すぐに出してくれと繰り返し迫ったという。
高等学校寮では、いささかも間違いのないように届け物は職員から該当の学生への手渡しが原則だ。
すでにエイジアに渡したと嘘で言い逃れようとした職員は、この時エイジアが泊まりがけの講習に行っており寮に不在だった事実を把握していなかった。いない者に荷を手渡せたはずはない。部屋の前に置いておいて誰かに盗まれたに違いないという一転した主張も、職員の立場を守る助けにはならなかった。
一度開けば元に戻せない梱包をしておいたその荷が元のまま出てくるはずもなく、出せない言い訳をくどくどと連ねていた職員の不正をエイジアの父は明るみに引きずり出し、即学校側に報告と抗議。職員は解雇……というのが、届け物受付窓口職員消失の真相だった。
「それ、その人から逆恨みされない? 大丈夫?」
真っ先にその心配をしたリベカを、誰が疑り深いと咎められようか。
「今後もなんかあれば断固とした対応を取るとおやじの方から勧告してあるから、下火にはなると思う。それでもなんかやってくる奴がいるなら然もあらばあれだ」
「甘甘なお父上じゃありませんの」
「うるせえ。んなことは知ってるんだよ」
肩を竦めて長い両腕を挙げる青年の様子に危機感はない。だから、総合受付の職員が怯えた目でエイジアを見ていたのだろうか。
「エイジア、たまに投げやりになるわね」
「人間社会の諸々に興味がないのよね」
「……それはともかく、シェイファーさんの協力者というのは、バスティード様だったのね。彼も事情は知っていらしたの?」
「まあな。代わりに手紙を出してくれなんて頼むからには、自分で出せない理由を話すしかないだろ。だが、頼んだのは手紙の中継役だけだ」
リベカは、そういえばブラムが寮に来てジリアンから離れていたことがあったなと思い返す。あの頃から協力し合って水面下で行動していたのだろう。よかったと彼女は思った。
「サヴィア様も?」
「いんや、バスティードはサヴィアには話してないはずだ。大事な忙しい時期だとかってさ」
「そうなんですの?」
ジリアンの大事な時期とやらについては、それ以上の情報はないようだった。少しばかり目を眇めたアンジェリンは、もうここでその話を掘り下げることはせず、全く別の話に転換した。
ある初夏の日の学園は、朝から興奮に包まれていた。王太子殿下のご嫡男であらせられる第一王子殿下と、グリゼルダ・デュアー嬢との婚約が発表されたのだ。
高等学校の敷地からほぼ出ないリベカにも、周囲の学生たちの熱のこもった囁き交わしと祝福の声の大きさに、この報せが王都中を駆け巡っているのだろうと想像がつく。一方で、学校一の美女に憧れる男子学生の落胆のため息も少なからず聞こえた。
第一王子殿下は御年18歳。順当に行けば次の次の国王陛下とおなりあそばすお方だ。お披露目はまだで、高等学校にも通われず肖像画も出回っていないためお顔も素行も知られていないが、特に悪いという評判も聞かない。この婚約に異を唱える者などいまい。
学生達に取り囲まれたグリゼルダは、上品な微笑みを絶やさず次々と投げかけられる祝辞を受け入れていた。
リベカも一言おめでとうございますと伝えたかったが急ぐでもなし、序列を守って後にしようとのんびり考えていたところにアンジェリンに誘われたので、休み時間に一緒に行った。グリゼルダは、アンジェリンがリベカを従えて近づいてくるのを見ると、取り巻きの学友たちを先に行かせて、こちらに来てくれた。
「この度は誠におめでとう存じます」
「朝からずっと同じことを聞いていらしてお疲れでしょうけれど、形式として受けてくださいましね。この上放課後にお時間を割いていただくのはあんまりにも心ない仕打ちだと思いましたので、こんな通りすがりのような合間の時間を見計らいましたのよ」
「ふふ、フェルビーストさんらしうございますわ。お心遣いありがとう存じます。コルネイユさん、ありがとう存じます」
胸を張って自信満々の体のアンジェリンともども、お祝いの文句を述べた。
リベカは、ごく自然な柔らかい笑顔と雰囲気を維持しているグリゼルダの精神力に内心ただただ感心した。なにしろ彼女は朝からずっとこの調子で、いい加減気疲れているだろうに、リベカの形式を逸脱しない挨拶にもほんとうに喜んでくれているように思わせてくれるのだから。グリゼルダがリベカを見返す眼差しはあたたかく、青緑色の瞳は悠揚と優しい。大した接点はないのに、まるで個人的な好感を持たれているのではないかと思ってしまうほどに。
「王子殿下のお妃がねはデュアーさんしかいらっしゃるまいと、かねがね評判でいらっしゃいましたものね。当然でしてよ」
アンジェリンは王子殿下のご尊顔を見知っているのだろうと、リベカは思った。
にこやかに寿いでいるのになぜか鼻持ちならなく聞こえてくるアンジェリンの言葉通り、さまざまな釣合を考えればグリゼルダが最も相応しい。リベカは王族の身辺情報などたいして入ってくる立場ではないが、そんな彼女でも漏れ聞くほどには周知の事実であった。
次ぐ有資格者はアンジェリンのはずだが、彼女本人にとっては慮外のようだ。フェルビースト家特有の未婚の権利とやらが骨の髄まで沁みついているから、端から候補にも挙がりはしないと確信しているのだ。
グリゼルダは茶目っ気の中に少しばかり非難めいた色を刷いて、アンジェリンを見返した。まるで言うことをきかない子どもを「めっ」と窘めるお母さんのような、愛情深くそれでいて気掛かりそうな眼差しだとリベカは思った。
「稀なるお客様はたいそう頑なでいらしたと伺いましたわ。お気掛かりはもっともです。ふがいない我々をどうかお許しくださいと、お言伝を承っております」
声を潜めたグリゼルダの言葉に、アンジェリンはにこりと笑って答えた。
「お気遣いありがとう存じます。そのお心ひとつであたくしどもには十分ですわ。これからもお心やすくお話し下さいまし」
意図して要点を省いた貴族令嬢同士の会話だが、リベカにはなんとなく昨年王都を訪れた友人の兄のことを言っているのだろうと察せられた。
今を時めくグリゼルダに謝罪めいたことを口にさせたとあれば、他の学生の耳目があればよからぬ噂の元にもなろうが、今は彼女の取り巻きたちはいなかった。グリゼルダの方でもアンジェリンにその言葉を伝えようと、いつもの友人たちに外してもらっていたものらしい。
そしてグリゼルダは、おもむろに鞄から見覚えのある布包みを取り出し、アンジェリンに差し出した。
「ときにフェルビーストさん、お借りしていた新聞をお返しいたしますわね。今までありがとうございました。これよりはお借りしなくともよくなりました」
それは婚約の決まった彼女にとって、趣味に現を抜かす余暇はなくなるであろうからなのか、あるいは束の間見た夢との決別だったのか、それはリベカには推し量れることではない。ただ、どこかはかなげな微笑みだとリベカの目には映った。
グリゼルダと別れたリベカとアンジェリンは小声で話しながら、人気のない放課後の廊下を、寮に戻るべく歩いていた。
「それにしても微妙な時期よね? ご卒業を待ってからの発表ではないなんて」
詮索はしない主義のリベカだが、友人とだけいる場合には内心のふとした疑問点や衝動を吐露し解消を図ることはある。
「あの方は引く手数多でしょうから、ご婚約を急ぐ必要があったのかしらね。いずれにしても憶測の域を出ないことよ」
答えるアンジェリンは、感情の窺えない静かな声音と表情だが、リベカには、やや言葉を選んでいるような用心深さを感じられた。
「普通のお家のご令嬢なら、在学中の婚約も中途退学もそれほど取り沙汰される事ではないのにね。なまじご高名のばかりにお気の毒だわ」
アンジェリンはうれしそうに答えた。
「そうね」
夏から秋へと移り行くある日の夕暮れ、リベカは校内の車寄せに停まったコルネイユ家の馬車から降り立つと、すっかり板に付いた平静な顔つきに反して重い足取りで寮の自室へと戻った。
手紙で大事な話があると呼び出され、深刻な顔つきの祖父母からもたらされた情報と委ねられた選択に半ば放心していた。
「お帰りなさい、リベカ……どうかして? 元気がないわ」
明るい顔で出迎えたアンジェリンが、気遣わしげにリベカの顔を覗きこんだ。落ち着いた焦茶色の瞳の中に、ちかちかと橙色の流れ星が瞬く。
5年生になってからは選択授業で一致しない科目も増え、行動をともにする機会も格段に減っていたが、寮では同室のままのため最低でも就寝前には話をする機会があった。朝はどちらかが早く出るということも増えたため、まちまちだ。
美しい友人の自分を案じる心に少し癒されたリベカは、息をついて学習机の備え付けの椅子にのそのそと腰を下ろす。
アンジェリンに相談をすることについて良心が咎めなくもなかったが、ほんの少しだけ愚痴を聞いてもらおうと思った。
「アンジー、わたし、次の冬の長休みには、コルネイユの領地に行かなきゃいけないの。ヴォジュラにお邪魔できるのは、去年で最後になるわ」
言葉を選びつつ言うと、アンジェリンは気遣わしそうに「ご領地で何か?」と尋ねた。聡い彼女は、リベカが不本意であると気付いたのだろう。
リベカは、溜息をつきたくなる気持ちを叱咤し、努めて淡々と告白する。
「わたしね、祖父の領地には住民がいて、その生活を守らなきゃいけない立場だってことを、ちゃんとはわかっていなかったのよ」
コルネイユ家の預かる領内には、小なりとはいえ村があり、かつてリベカがそうだったように、ゆとりのない日々を堅実に生きようと努める人々が暮らしている。
リベカは未だその様子を直に見たことはない。コルネイユ家の領地にリベカがいたのは、生まれ育った村を離れた直後のわずかな期間だけ。すぐに王立高等学校入学に備えた勉強のために王都の屋敷に移り、顔と名前を思い出せるほど関わりの続いた者もいない。
「跡取り娘が王都に籠って自領に顔を見せないことで、領内での評判を落としているのですって。祖父母はそれを危惧して、次の長休みには領地に来てほしいって」
それはそうだろうと、リベカは客観的に考えたものだ。自分が一介の村娘のままであれば、領民を顧みない領主一族など信頼しない。
「ごめんなさい、あたくしが毎年長休みの期間を拘束していたからね。領民の信頼は何にもまして大切な財産だというのに、肝心の自領を疎かにさせてしまうなんて」
アンジェリンは深刻な顔で話を引き取った。友人が気に病むだろうとは予想できていたので、リベカはあえて軽い態度で返す。
「いいえ、アンジーは毎年わたしの都合を確認してくれていたじゃないの。わたしが甘えて遊び歩いていたつけが回ってきただけよ。祖父母からは去年も長休みにはこちらに来ませんかって便りがあったのよ。それを蹴ってヴォジュラに行ったのはわたしなんだもの。事態を深く考えていなかった報いだわ」
それに、リベカが統治者側の立場を受け入れることを当然として語る友人に、リベカがその立場への抵抗感を抱いているなどと理解されてはいるまい。彼女が長休みの度にヴォジュラへの同行を誘ってくれていたのは、リベカと祖父母の仲がぎこちないことを心配して息抜きを申し出たにすぎない。そこにはリベカが家に入るという認識が前提としてある。だからこそ、事新しげに言うこともないのだ。
本来リベカの祖父母は年の半分以上を領地で過ごし、折々の行事に合わせて王都に上洛していたそうだ。祖父は王都の邸と自領を往復する頻度を上げ、さまざまな報告を受けたり運営管理の指示を与えたりしている。今はリベカが学園にいるから、主に祖母が王都の邸に留まり、リベカの学園内での諸費用や仕送りなどのために心を割いてくれている。それは二人にとって大きな負担だ。
そんな領主の帰還に一度も同伴しない孫。加えて、学校を卒業してからも職を得るとか何とかいって王都に留まり続け、領地には顔も出さないとくれば、お高く止まって領民を軽んじていると誰だって思うだろう。
「正直、在学中に事態が変わらないかなって甘いことを考えて、自分の関係しないところで後継ぎ問題が解決すればいいと思っていたのは確かよ。よく聞くような、どなたか遠縁の人を養子に迎えるとかね。でも今日改めて確かめたら、王国法で家督相続が認められる存命の権利者はわたししかいないの」
これも、真剣に後継ぎ問題に関わりたくないと思うならば、王国法の講義を取るなり図書室で調べるなりして、早く自分で確かめておくべきだったことだ。
今まで家を出て定職を持ちたいと公言してきたのは、一個人として自立したいという望みであると同時に、枠組みと責任からの逃避だったと、今ではしかと認めるしかない。
祖父母の温情で与えられた猶予を引き延ばしてきたという自覚は、リベカにもある。現実を見ていずれ自分が負う責任を直視し心を入れ替えるのを信じて待ってくれていたのだ。それに応えきれなかったふがいなさは今まで感じたことのない種類のものだった。
結論せねばならない問題は多々あるが、アンジェリンに泣きつきながら一切合財ぶちまけて慰めてもらうのは、あるいは自分に都合のよい決断の後押しを求めるのは、自分が今すべきことではない。
「話を聞いてくれてありがとう、アンジー。気持ちの整理ができた。あとはわたし自身で向き合うことだわ」
リベカはにこりと微笑んだ。これ以上は自分が気持ちと情報を整理して結論付けることだ。内情を詳らかにしすぎ、友人の助言や価値観に頼って左右されすぎてはなるまいと思った。
「さあ、わたしのことはこれでおしまい! それよりアンジーの支度を中断させてしまってごめんね。明日早いのに」
アンジェリンは翌日に戦闘訓練実習を控えており、情報の確認していたところのようで、机の上に様々な用紙や図書館から借りてきた本が開いた状態で置かれている。
それを見て、リベカは違和感を覚える。
普段のアンジェリンなら、前日の夕刻には必要なレポートや資料の類はとっくに整え終えて荷作りを完了している。なのに、今日の彼女の学習机上はいつもと比べて雑然としすぎている。とりとめなく書類を引っかき回しているかのようだ。
「アンジー、急ぎの調べ物の途中? 明日までに間に合いそう? 何か手伝うことある? 本の返却とかなら代わりにしておくわよ」
「いいえ、そういうことじゃないの。明日の実習に関係する事かどうかもわからなくて……なんと言ったものかしら……」
珍しく歯切れの悪い返事を、リベカは茶化さなかった。
アンジェリンは一拍置いてから、自分が何と答えたか気付いたかのように顔を上げ、リベカを見返した。普段は三つ編みにして後頭部でまとめている豪奢な巻き毛が今は背に流れ落ちて、顔と肩を取り巻く赤い髪の縁が明るく輝いて見える。その眉根は愁いを帯びて顰められていたが、小さな溜息とともに解かれた。目は彼女の困惑を示すようにちかちかと瞬いている。
「魔法特級で時々会う下級生に、ちょっと困った子がいてね。先生方は手を焼いておいでなの。実際に学校で何かをしでかしたわけではないから、厳重注意はなさっても拘束力のある措置をとれずにいらっしゃるのよ」
そう話す友人は、複雑な顔つきだった。腹立たしげでもあり、うんざりしてもいるように見える。彼女がこうまで露悪的な表情をするなどそうそうない。件の下級生とは難物なのだろうとリベカは思った。
残念ながら、その下級生がどんな風に問題児なのかをリベカが聞いたところで、魔法学に関してアンジェリンに的確な助言をできる立場にない。だから訊ねない。
必要ならばアンジェリンは自ら話してくれるだろう。愚痴を吐き出したいだけなら、無論いくらでも聞くが。
「その子が、明日の実習に参加するのね」
「そうなの」
「で、アンジーと当たりそう?」
「たぶんね。その子が、上級生との対戦でしてきそうだと想定できうることを一通り挙げて対応策を考えていたのだけれど、何か……腑に落ちないの」
難しい顔をしていたアンジェリンだが、すぐに腹を括ってか、まっすぐにリベカを見た。口の端の引き結びの力み方、少し寄せられた眉根と斜め上を指す眉尻、見開いた大きな目の張りつめて揺るがない数瞬に、怯え警戒する野生動物の緊張をリベカは感じた。
「何かが起きそうな気がしてならないの。でも、こうとはっきり言えるわけでもなくて、ただ、とても心配だわ。あたくし自身、あの子を見ていると嫌な予感がするの。何もしていない子に対して失礼だと思うのだけれど」
「アンジーが根拠もなく人を疑うわけがないわ」
リベカはきっぱりと言い返した。直感がそう促していた。同時に、おそらくは確証がないために個人的な疑いという体での言い方をしているが、アンジェリンは問題児の意図や所業を発した言葉以上に把握して、確信しているのだろうと思った。
アンジェリンはほっとした風に表情を緩めた。悔しそうに顔の中心に皺を寄せる。
「おかしなことを言ってごめんなさいね。でもずっと、あの子は何か取り返しのつかないことを起こしそうな……いえ、起こしていそうな気がしているの。その兆しはもう見えているはずなのに、それが掴めないのよ」
「アンジーの叔母様は目に見えないものを検知する専門家でいらして、いずれアンジーも後を継ぐのでしょ。そういう感覚が優れているということだと思う。きっとご先祖様から授かった本能的な警告なのよ。気がするっていうだけのことでも、疎かにしてはいけないと思う」
だから自信を持って断言してほしいと暗に願いを込め、なんとか気を引き立てたくて重ねて言うと、アンジェリンははっと瞠目した。眩い火花がその瞳の内を駆け廻り、みるみるうちに白んでゆく。
「そうだわ、叔母上が仰ってらした。あれはまるで……」
そう呟いたアンジェリンは、突如何かに気付いたようだった。そのまま、沈思黙考する。
リベカは、早く寝るように促すべきか迷った。明日は卒業課題にも通じる可能性のあるという重要な実習なのだと聞いていたからだ。だが、今はそれ以上に、友人の思考を妨げてはならないという気がした。
だから、しばらくの逡巡の後、声をかけない選択をした。
消灯寸前の時刻になって突如がばりと身を翻したアンジェリンが猛然と荷物をひっくり返し出した時も、上の空で消灯時間前の点呼をやり過ごしてから机の前に張り付いていた間も、野暮な質問を一切差し挟みはしなかった。
それがかなり長い間続いているうちに、彼女の明日の寝不足の心配だけしつつ、先に寝た。
翌朝、リベカが起床した時にはアンジェリンはもういなかったが、荷物がなくなっていたので先に出発したのだろう。
その日のリベカは、すっかり慣れた一日の講義を目いっぱい受け、放課後を卒業課題用に準備しているテーマの資料集めに奔走し、日も暮れる寸前になってようやく寮に戻るなり、遠慮がちな受付の寮職員に呼び止められ、教師からの手短な伝言を受け取った。
アンジェリンがこの日挑んだ実技実習の担当教官レイノルズ先生からのもので、今日はアンジェリンは帰らないが心配なきようにというものだった。日が暮れても同室者が戻らないと騒ぎ立てないようにするための、取り急ぎ行われた最低限の言伝と思われた。
今日アンジェリンが参加した実習は、リベカ達も2年生の時に経験した、上級生との手合わせという名で胸を借りるだけの戦闘技能実習だ。その上級生有志側としての参加だった。どんなに長引いたとしても、日帰りできるスケジュールだ。事故でもあって――怪我でもして、帰れずにいるのではないか。
焦燥に身を焼かれるが、日も暮れた今からできることはない。明日は事態が動くかもしれないと願って潔く寝台に飛び込んだ。
アンジェリンと同じ班組を継続しているエイジアが戻ったかどうかは確認できなかった。
半ば徹夜の勢いで早起きしたリベカは軽い運動と水浴びで体と頭を覚醒させ、人もまばらな早朝から食堂に一番乗りをしてしっかりと朝食をかき込んで校舎へ急いだ。
まずはレイノルズ先生を探す。
実習で事故でもあったのだとしたら、学校側もこれを極力伏せているだろう。いずれは公表されるとしても、たった一晩で方針が決まるかはわからない。先生たちの間でも実習に関わりのなかった人物には情報共有されていない可能性もある。リベカが不用意な質問をすれば余計な動揺の拡散になり得る。
さりとて時が来るまで大人しくしてもいられない。ありのままを教えてもらえるとは思わないが、同室者として友人として当然の行動だと思う。昨日よりも多くを知りたかった。
疲労や怪我などが予想される戦闘訓練は休日前に行われることが多いが、今回も例に漏れずこの日は休日で、校舎の人気は少ない。
レイノルズ先生と話せるだろうかと焦りながら施錠されていた教官準備室の扉を叩き、人の気配のない医務室の扉を叩き、ならばと演習場に向かおうとして校舎から渡り廊下に出ると、前方から声がかかった。
「コルネイユ嬢! ……教官殿を探しておいでか?」
ジリアンだった。珍しく一人だ。足早にリベカの方に近づいてくる彼は、第一演習場かの方向にいたようだ。
近くに立った彼は、リベカが肩越しに向こうを見通せないくらいに背丈が伸び、肩幅は広くなった。しばらく前までは指で梳けばさらさらとやわらかそうな乙女の憧れのようだった金髪が、頭の形がよくわかるすっきりとした髪型に変わっている。
「僕も気にかかっていて、来てみたところだったんだが……閉鎖されている。付近にはどなたもいらっしゃらない。フェルビーストは昨日寮に戻っただろうか」
「いいえ。レイノルズ先生よりわたくし宛の伝言が寮に届けられただけで、事情がわからず気を揉んでおりましたの。教えてはいただけませんか?」
「……昨日フェルビーストが我々とここで下級生の指導実技に臨んだことは把握しているかい?」
「はい。戻らないということは、実習中に事故か何かがあったのではないかと……」
ジリアンはこめかみを押さえた。寄せられた眉根と眇められた目つきが真剣だ。だがすぐに平静を取り戻し――あるいは装ってか――説明した。
「僕とブラムは、昨日の実技で見聞きした事柄の口外を許されていない。実習後は僕達は、フェルビーストとシェイファーとは別れて一足先に退出することになったから心配していた。それで今朝一番でここに来てみたんだが、この通りだ。僕の口からはこれ以上は言えない。だが二人ともいずれ帰寮するはずだ」
言葉を選びながら、努めて穏やかに思いやりをこめて。努めているとわかるということは、装った平静なのだとリベカは思った。それが却って彼女を冷静にした。
「承知いたしました。サヴィア様、お教えくださいましてありがとう存じます。騒ぎ立てず、アンジーの帰りを待つことにいたします」
にこりと笑って礼をすると、なぜかジリアンは怯んだ顔をして「あ、ああ」と相槌を打った。
校舎へ戻るにも連れ立っていく道理はないので、「ではお先に」と礼をしてリベカが踵を返して歩いてゆくと、急ぎ足のブラムと行き合った。互いに表情を変えずに目礼だけして、ブラムは後方のジリアンの元へ向かって行った。
「コルネイユ嬢もさぞ心配だろうに、気丈に振る舞っているんだろうね」
「あの人の笑顔は目が笑っていないからでは……」
離れ行くリベカには、潜めた声で主人に耳打ちするブラムの言葉を聞き取れなかった。
その後のリベカは、慌てず騒がず行儀よく、精力的に無心に、卒業課題の勉強と準備を日暮れ直前までこなしてから寮に帰った。
内心では焦燥と不安で胃が痛むが、表面上はなんら心配事などないかのように振る舞い通すことに成功している、と思う。
いつもの時間に部屋に戻ると、机に向かうアンジェリンの背が見えた。
昨日の実習に備えてきっちりと纏め上げていたのだろう結い髪を頭に巻き付けたまま、埃っぽくくすんでいてあちこちからほつれ毛が垂れている。身なりを整える暇もなく帰ってきて、休む間もなく書き付けをしているようだ。その手を止めて友人が振り返り、立ち上がって出迎えてくれる。
「お帰りなさい、リベカ。心配をかけたでしょう。ごめんなさいね」
「ただいま、アンジー。お帰りなさい。昨日はレイノルズ先生が伝言をくださったから大丈夫よ。お疲れね。まだ休まなくていいの?」
「あたくしも、ただいま!」
微笑んだその顔は色濃い疲れと汚れがこびり付いたままだったが、不思議なことにその様は彼女をいつも以上に美しく見せている。
「今日の午後には帰って来られたの。これらの手紙を書き上げて出したら、お湯と食事をいただいて休むことにするわ」
「その後でいいから、経緯を聞いてもいい?」
「もちろんよ。許可されていない事柄を除いた範囲での話になるから、話せることはそれほど多くはないの。だからそんなに時間はかからないわ」
そして消灯後、各自の寝台に横たわり暗闇を眺めながら、アンジェリンはぽつぽつと、口を開いた。
「端的に言うと、先日あなたに話していた魔法特級の子、実習でやっぱりあたくしたちと当たったわ。その子が……禁を犯したの。その処理について聴取や先生方のお手伝いなどをしていたのよ。本来学生を一晩中留めることはないそうだけれど、今回は当事者ということもあって、たまたまね」
「ええ」
リベカは相槌だけ打った。何が許可されていない事柄であるのかも定かでない以上、情報を掘り下げる質問は友人を困らせるだけだ。
「あたくしたちが2年生の頃そうだったように、上級生の組に勝つのは難しいわ。勉強と訓練の蓄積も体の仕上がりや魔法の容量も異なるのですから、胸を借りるつもりで当たって経験を得る、それがこの実習の目的だわ。それが普通なのだけれど、上級生組に勝利しようと欲張って、手段を選ばなかったの。内容は省くわね」
「ええ」
リベカは夜闇に塗りつぶされた天井に向かって頷いた。このくらいざっくりとした説明で十分だ。疲れて帰ってきた友人の声にはまどろみが寄り添っている。長引かせるつもりはない。
「一つ一つは特異なことではないの。ただ、調べてみると実習中に犯した禁以外にも、以前から王国魔術師組合が禁則事項に指定している行為にいくつも手を染めていたことが判明して、直ちに退学処分、別機関の預かりとなったわ。それを見届けてから戻ってきたの……起こったことといえば、これで全部なのよ」
「そうだったのね。おつかれさま。アンジーに怪我がなくてよかったわ。話してくれてありがとう。よく休んで」
「ええ……おやすみなさい、リベカ……」
「おやすみなさい、アンジー」
一夜明けて休日が終わり、アンジェリンは通常通りの授業に戻った。
エイジアもアンジェリンと同じタイミングで寮に戻ってきていたらしく、けだるげに王国地理の授業を受けていた。
少なくとも一昨日の出来事は伏せられることになったようで、学校側から学生への表だった通知はなかった。問題の下級生のまわりで、その男子か女子かもリベカは知らない学生が一人、急に退学したことが少しばかり囁かれるだけだろう。
アンジェリンがあんなに心配していたのだ。だから、何かが起こったとしても、ひどいことにならなくてよかったと、リベカは思った。