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由無し一家番外編  作者: しめ村
王都の学生の日々
11/13

4年生・2


「リベカのおうちに遊びに行ってみたいわ」

 友人から何気ないおねだりをされた時、リベカはまず悪い方の可能性から考えるといういつもの癖を発揮し損ねてしまった。

 アンジェリンは、ごく普通の交友関係の一環として、友人宅に遊びに行ってみたいだけだったのだろう。

 人間は欲望に忠実な生き物だ。リベカの本能は、王都に来てこの方途絶えていた、家に友人を招くという普通の交流への渇望に譲歩してしまった。

 そのためリベカときたら、年始にジリアンの親類とその家の人々に同情しておきながら、我が身に照らし合わせるという基本方針を怠ったのだ。

 休日の帰宅に際して友人を招待すると予め伝えておいたので、リベカの祖父母は揃って玄関口で出迎えた。倒れそうな顔色とめかしこんだ服装の明るさとの対比には、気まずさを伴う滑稽味があった。

「フェルビーストの姫君にこのようなあばら家にお越しいただけますとはまこと光栄の至りにございます。当家の娘と懇意にしてくださり、感謝感激の念に耐えませぬ」

 顔合わせの挨拶を済ませる間、二人は孫娘と同い年の小娘を前に大仰に謙ってみせた。怯えてさえいながら、それでいて品定めする目つきで彼女の周囲を見渡したのは、大貴族の令嬢がぞろぞろと引き連れていそうな側仕えの姿を探していたのだろうとリベカは思った。

 実際に遠地から入学している貴族学生の大半は、縁故の屋敷に身を寄せたり、王都内の物件を借り上げてそこから通うのが普通だ。供の一人も連れず単身寮暮らしのアンジェリンが規格外れなのだ。それを言うならば曲がりなりにも貴族の子女たるリベカも普通からは外れている。こちらは連れていく従者もないだけだが。

「ささ、ご案内いたします。行き届かぬ点もございましょうが、精一杯おもてなしをさせていただきます。ごゆっくりおくつろぎくださいませ」

 縺れる寸前の足取りでコルネイユ邸の一つしかない客間へ自ら案内し、震えがちの途切れ途切れの声で後度を突く。コルネイユ邸の客間の一番いい椅子をアンジェリンに勧め、

「くれぐれ。も、ソソウの、な、いよ。うに」

 言わずともよいことをリベカにだけこそりと告げるその呼吸は、変なところで言葉を区切りながらどうにかという感じで、よろめきながら退出していった。建て付けのよい分厚い扉なので伝わってきた物音は小さかったが、何かがぶつかるような鈍い音がした気がする。

 昔はフェルビースト家の令嬢と繋がりが出来たと喜んで謙っているとリベカは考えていたのだが、実際には保守的な思考ゆえだったものらしい。よくわかる。重要な国事に携わることも大規模な変革に参加することもなく、与えられた職務と領地の発展乏しい運営の全うで精一杯の器量は、いかさま凡庸な家系であったか知れようというもの。卑下にあらず、身の程を弁えすぎているだけなのだ。

 祖父母と入れ替わりに入室して飲み物を給仕してくれた女中にいたっては、刑の執行を待つ罪人か何かのような態度で、茶器が触れ合う音が仮にも貴族家の使用人としては恥ずかしいくらいに響き渡る有様。コルネイユ邸の家具の中でも一頭上等な磨きこまれた黒光りする卓の重厚さが寒々しい。

 アンジェリンは不躾なことは態度にも言葉にも出さないが、気遣わしげな気配を漂わせているのがなんとなくわかる。

 リベカはいたたまれない気持ちで言葉も出なかったが、段々と腹が立ってきた。後に思い返して、自分に生ぜしめられる感情が怒りであることに驚いたものだ。

「もういいわ。お下がりなさい」と叩きつけるように言い放ちたい気持ちを完璧に抑え込み、「あなたは、今日は体調がすぐれないようね。無理をしてはいけないわ。下がってお休みなさいな」とにこやかに告げた。

 顔色を白くした女中があたふたと出て行くと、アンジェリンはおずおずと言った。

「ねえリベカ、考えていることが顔に出ていてよ」

「えっ!? 我ながら鷹揚な微笑みだったと自負しているんだけど!?」

「……それよりごめんなさいね。あたくしの気が利かなかったせいだわ」

 俄かに話を逸らした気がしなくもないアンジェリンは、余人の目がなくなった途端しょげた顔つきになっていた。空気を読んでいなければこうはなるまいという反応だ。大貴族には大貴族の、弱小貴族には弱小貴族なりの分というものを察したのならば、彼女としては格段の進歩といえよう。

 普段は謎の自信に満ち溢れているアンジェリンがしょんぼりとしていると、かわいそうに思えてくる。美貌の持ち主は得だなと思うより先に、態度の落差が彼女が本当に阻喪しているとわかるからだ。

「あたくしが道場破りにでも参ったかのように解釈していらしたようだもの」

「そうとでも思わなければ心の平穏を保てなかったんだと思うわ。うちは弱小なのよ。格上相手にはまず勘気の心配をしなきゃいけない程度のね」

「リベカ、本当は怒っていて?」

「まあ、何を言っているの。わたしが今怒っているように見える?」

「そうとしか見えない笑顔ってあるのよね。不思議だこと」

「怒っているとすれば、仮にもこの家の者として準備が行き届かなかったわたしの不甲斐なさにだわ。折角来てくれたのに充分におもてなしできなくてごめんなさい」

 ついでにリベカにも、貴族の端くれとしての自覚が表れた、と言えるのだろうか。おのれが連なる環境への不甲斐なさ、責任感の発露ともいえるものだったのかもしれない。完全に貴族になり切ることなどできまいと感じる部分と、そうでない部分との区別がついてきたというところだろう。

 例えば古風な中央貴族の祖母は、リベカと顔を合わせる都度、懇々と語るのだ。

『女は物笑われとならぬ釣り合いのお家に縁付いてこそ、幸せというものです』

『ましてあなたは母の身分が賤しいのですから、劣ったものと見做されずには済みますまい。学園は建前は平等を掲げていますから今は教師の皆さまの庇護を得られます、滅多なことは起こらぬでしょうが、その後が肝要です』

『我が家にはあなたしかいないのですから、頼みがいのある婿君をお迎えし家に入って守られてはじめて安泰というものですのに、わざわざ外へ出て職に就こうなどと。どこへ行っても分不相応と蔑まれ肩身狭く過ごすことになるのですよ』

『なぜあえて苦界に身を投じるようなことを言うのでしょうね……せめて学園で貴族社会の風潮を肌で感じ、身の程と処し方を学びとっておくのですよ』

 最後にはこうして孫娘の希望進路を認め気遣ってくれる祖母は、心から孫娘の将来を案じてこう言うのであって、悪意はない。それを悟るに至り、リベカはどちらかが折り合って認識の食い違いを統一しなければ家族とは打ち解けられないという考えを改めた。

 引き取られてこの方、祖父母は跡取り息子の忘れ形見としてのリベカに貴族の娘としてふさわしくあるよう求めても、両親の駆け落ちについて子供を恨みつらみのはけ口にすることはなかった。ただし平民の身分についての認識だけは一貫していて、人の母親を悪く言っているという自覚もない。それが彼らにとっては当然の区別であり潔癖さなのだ。血統で劣った点を少しでも教育で補ってやろうと口をきわめて説教もするし王立学園の寮に入れもする。そういうものと割り切ってしまえば、腹も立たないのだった。

 祖父母はアンジェリンの訪問後、気弱になったか隠居したいと漏らすようになった。



 空気に秋の気配の感じられるようになったある休日、リベカが寮の自室で手紙を書いていると、扉を叩く音がした。

 手が空いていたアンジェリンがただちに、ぴしりと揃えた白手袋の指先までも筋が通ったかのように背筋を伸ばし、武人の気配を漂わせるよそ行きの顔をして、応対した。

「フェルビースト様、ジリアン・サヴィア様がおみえです。お約束がおありと承いましたので、一階共用談話室にお通しいたしました。また、お手紙が届いております。お持ちいたしましたので、こちらに受け取り確認のご署名をお願いいたします」

「ご苦労。お客様には、すぐに参りますとお伝えして」

 使いの職員への彼女の返事はすこぶる高慢な口吻で発されているが、本人は意識してそうしているわけではないし、そんな振る舞いが似合っていて誰も違和感を抱かない。個人の資質というものはこんな部分にも表れるものなのだなあと他人事のように感心するリベカだった。

 渡された手紙に素早く目を走らせたアンジェリンは、その手紙を自分の机の引き出しに仕舞い、かわりにいくつかの書類を取り出した。

 いつもなら詮索をしないリベカだが、心配になって思わず尋ねた。

「騎士科の訓練からお戻りになったばかりでいらっしゃるのに、寮においでになるなんて、よほど大変なことが起こっているの?」

 ジリアンが休日にわざわざ訪ねてくるなど常にないことだ。しかも、彼は側近とともに騎士科の訓練実習で一月余も王都を離れていた。予定では昨日の放課後になって帰還したはずだった。その翌日にこの行動とは、元気である。

「内々のことで、詳細な打ち合わせが必要になるの。学校では時間が取れなくて」

 屈託なく打ち明けたアンジェリンは、それ以上の説明はしなかった。リベカも、それ以上の追及はしない。

 友人が出て行った室内で黙々と手紙を書き上げると、じっくりと読み返し納得して封をし、丁寧に宛先と差出人を記した。

 それから部屋を出て鍵を掛け、一階へ降りて行った。

 時折廊下や階段ですれ違う女子とは、控えめな微笑を浮かべて目礼するか、にこりと笑って挨拶を一言添えてすれ違う。

 学年が進んで、リベカのことを詳しく知らない学生が増えているからだろう。当たりがやわらかな人が増えたと感じる。リベカの外面が鍛えられて、少しばかりの外部刺激では揺るがない鉄壁の笑顔を常時浮かべていられるようになったことも、少しは関係しているかもしれない。

 今も平民の血混じりが気に入らないという貴族学生はいるが、彼らは態度には示しても進んで関わってはこない。放っておいてくれるのは実にありがたい。

 とはいえ、リベカの立場など、その他大勢の様々な興味のうちに紛れてしまうようなものだ。有名どころとなると、貴賤を問わず放っておいてもらえないばかりか、一挙手一投足を注目されるという気の毒なことになるので、自身の地位には納得している。

 寮の一階は入口の総合受付から届け物窓口、談話室や食堂などその面積の多くが男女共用の場所となっているため多くの学生で、時には寮生ではない来客もあり休日は特に賑わう。

 その中で、一人浮いた人物がいる。共用談話室の入口前で、寮生が自室のある階上と一階を行き合う様子を監視しているふうで直立している。彼の周囲はぽっかりと人の空白が出来ており、平民の寮生たちは緊張して、あるいは浮ついて囁き交わしながら遠目に見ていた。

 リベカが一階への階段を下り切った時と、両者が互いの姿を認めたのは同時だった。

 目が合ってしまっては、挨拶くらい交わさないわけにはいかない。

「おはよう、コルネイユ嬢。しばらくぶり」

 平日の校内と同じくらいかっちりとした私服姿と態度のブラムが、平日の校内より気楽そうな態度で言った。

 彼とジリアンは今年からは生徒会にも名を連ね毎日を多忙に過ごしており、校内でこのような立ち話をする機会も少なくなっている。彼は肉体を酷使すること甚だしい騎士科の合宿から帰還したばかりだというのに、その疲れを表情にも姿勢にも窺わせない。リベカは高位貴族として己を律する彼らの謹厳な振る舞いと努力を、素直に尊敬している。

 ちなみにジリアンはアンジェリンを生徒会活動の同輩として誘ったが、彼女はそれを断った。進路を決めている自分には生徒会で箔をつける必要はないので、その経歴を必要としている勉強熱心な学生に譲ってほしいと直截に告げて。理由の全てかどうか定かではないが、少なくともその口実は友人の本心であろうとリベカは思っている。

「おはようございます、バスティード様。お帰りなさいませ」

「騎士を志す者として当然の務め。あなたも講義を増やして多忙と聞いているが、変わりなく何よりだ」

「あなた様ほどではございません。アンジーともども下級生の実践訓練対戦の有志に立候補なさって受諾されたそうですわね。さすがですわ。どうかお疲れの出ませんように」

 年が明ければ5年生となる彼女らは、最終学年となる6年生の半ばには提出することとなる卒業課題について考えを巡らせ、早い者は準備に取り掛かる時期に差し掛かっている。アンジェリンはなにやら難しく題した魔法の研究を始めているようだ。

 リベカは一念発起し、貴族学生招待学級生構わず話が通じそうな学生に、現段階での傾向と対策を聞いて回った。

 結果、東方領出身だという女学生の班が作成しようとしていたレポートの主題が王都の人々に東部のことをもっとよく知ってもらいたい、というもので、そこに混ぜてもらうことができた。

 少女たちは各自分担することになる調査内容を詰め、その中でリベカの担当は国中の地理と気候について調べ、既知の地域と比較しまとめる作業となった。これを一年かけてこつこつと、6年の中頃には提出できる配分で進めていくのだ。5年生の自由時間はほぼそれに取られることになるだろう。

 ブラムが背にしている共用談話室は、大きな部屋に肘掛け椅子と卓が適当な隙間を開けて配置されており、各々衝立で区切って複数の組が同時に利用できるようになっている。彼の主人とアンジェリンもその一角で額を突き合わせているらしい。

「本来ならばジリアン様のお傍に侍り、人払いを務めるべきところであるが、少々シェイファーと話したいこともあり、しばしジリアン様のお許しを得て外している。先程騎士学科の知り合いに呼びに行ってもらったところなのだ」

「面会希望でしたら、いらしてすぐにでも受付で申し付ければ、とうに呼び出してもらえておりますのに」

「そちらは真っ先に尋ねたのだが、お尋ねの寮生の所在は把握しておりませんと即答された」

 眉を顰めたブラムの低められた声の言外の含みに、リベカは気付いた。目を弓なりに細める。

「おかしいですこと。先程アンジーもそうしてお客様の来訪を知らされましたのよ。わざわざ部屋まで使いが参ったのですが」

「そのように感じたのは私だけではないとわかってよかった」

 話し進むにつれ両者の顔つきと声は微弱に変化していく。二人は相手が自分と同じ事柄に対して腹を立てていることを認め合い、少しばかり溜飲を下げ気持ちを切り替えた。

 ブラムがちらと男子寮側の階段を見遣った。

「ああ、来たな。コルネイユ嬢、お引き留めして申し訳なかった」

「はい、バスティード様、わたくしはこれにて」

 リベカは礼儀作法の授業で教わった形通りの礼をし、ブラムに背を向けた。若木のような長身のエイジアと、いかにも騎士科の学生らしい体格のニクス・フィンクがブラムの元に歩み寄ってゆくのを視界の端に捉えつつ、その場を後にする。

「あいつ、いや、あの子は怒っているのか?」

「夜中に出くわしたら、怪談のネタにされそうな顔してたな」

「彼女は面白い癖を持っているからな。怒ると面白い」

「間違っても自分で怒らせようとはすんなよ。腐れ根に絡め取られりゃ自分も腐って落ちるもんだ」

「なんだそりゃ、妖霊人の諺か?」

 背後からそんな会話が聞こえてくるが、リベカは聞かなかったことにして届け物受付窓口に直行した。たぶん知らない方がいいことを言われている。

 貴族混じりと言ってリベカを険しい目で見ていたフィンク少年は、ブラムやエイジアとは普通に会話をしているようだ。同性の気安さかもしれないし、ブラムと同じ騎士科で長く授業をともにしていて打ち解けたのかもしれない。ブラムやジリアンを見ているうちに貴族学生への敵意が和らいで、リベカにも当たりが柔らかくなったのかもしれない。そうだとすれば、ありがたいことだ。

 寮の届け物受付窓口は、廊下に面した壁に小窓が切られていて、そこから直接荷物を受け渡しできる。端に通用口があり、学生からは小窓から覗きこめる範囲しか見えない部屋の内側には、大小様々な棚に整然と分類用の紙片を貼り付けられて仕舞いこまれた荷物や手紙の束。視界の端の方には積み重なった未整理のそれらがあるようだった。

「おはようございます。お手紙ですね? こちらにお部屋番号とご署名を願います……はい、はい。承りました」

 愛想よく目尻を下げた中年の職員が窓口から顔を覗かせ、手際良く型通りの手続きを済ませてゆく。職員は受け取ったリベカの手紙をいくつか並んだ籠の一つに入れて、それでおしまい。

 料金はその場で支払うこともできるが、学期末に家に学費とまとめて請求されるよう選ぶこともできる。その場合には、利用頻度や届け先の情報まで家に伝わるという仕組みだ。家に知られて困る利用はしておらず、金銭絡みのやり取りを引き延ばすということが落ち着かないリベカは、その都度世話になっている。

 今日は休日の朝だから、今日の午後には配達業者が回収に来て、王都内のコルネイユ家には遅くとも明日中には届くだろう。



 その数日後の夕食時、アンジェリンはエイジアが食堂に現れるのを待って彼を自分の食卓に招き、改まって話し始めた。

「下の兄が王都に来ることになったの。大使の館に滞在されるから、次のお休みにリベカとエイジアも一緒に伺いましょ」

 リベカは思わずエイジアと顔を見合わせた。

「あなたのお兄様方、すごくお忙しいのではないの?」

「とっても忙しいわよ。でも最低でも一度は本人が来て白黒つけるべきことがあってね。一昨年から少しずつ仕事を調整してなんとか実現したの!」

「そんな大事な時に、アンジーはともかく私たちが訪ねて行っていいものなの?」

「もちろんよ。兄にとっても楽しいひと時になるでしょう」

 エイジアは考え深げに半ば目を閉じながら黙考していた。彫像めいた顔立ちが沈黙をまとい神秘的に見える。その顔が突然かすかな微笑を浮かべた。時々放課後の教室や寮の談話室で、ジリアンとブラムとくだらない言い争いをしながら札遊びをしている時のような笑みだった。そこだけ空気が食堂と切り離されたように、その見た目は美しい。周囲の視線が集まるのが、見回すまでもなくリベカにもわかる。

「わかった」

 彼はそう言って食事を続ける。人目の多い場所に長居したくないという理由から、彼はかつては黙々と食事を済ませるとそそくさと食堂を出て行っていた。今は心境の変化によるものか、特に衆目を集めることが気にならないらしい。痩身ながらどっしりして見える。

 植物に親しむ根の氏族の血を引く彼は、菜食を好むように思われがちだが、動物性の食材も躊躇いなく摂り入れる。肉体を維持する活力に転じる素材という点では、植物も動物も変わらないらしい。

「私も、お言葉に甘えてお邪魔させていただこうかな」

 リベカとしても断る理由はない。フェルビースト家にはそのくらい親しみを覚えるようになっている。


 そんなわけで、次の休日、三人はヴォジュラ領主家大使から差し向けられた迎えの馬車に乗り込んだ。

 王国からヴォジュラ領主へ与えられた屋敷に、ヴォジュラから遣わされた選り抜きの人物が大使として常駐しているそうだ。このような役目は領主家の親族が担うのが通例だが、フェルビースト一族は血族が少なく分家も遠縁もない。

 リベカの祖父も、小さな領地に代官を置いている。そういう役目を任せられる近親者がいないのはやはり不安要素としてついて回り、できるだけ早く婿を取って欲しいという祖父母の願いをひしひしと感じている。祖父母孝行を考えるなら早く婿を取って隠居させてあげるべきなのだろう。自分の我儘でそれを引き延ばしているのだから、せめて誇れる就職先を見つけたい。勉学への熱もいや増すというものだ。

「今更だけど、アンジーは大使邸に住んで通学するのが普通なのではないかしら?」

「一家の伝統なの。兄たちも、父も叔父も叔母も、その前の世代も、我が家で王都の学園に入学した者はみな少しでも現場近くに身を置いて中央の流儀に揉まれろとね」

 そう聞けば、まあ彼女の家ならそんなものかとなんとなく納得できてしまう。

 大使はヴォジュラの高位役人らしからぬ温和そうな面差しと王都人とさして変わらぬ体格の男性で、リベカはこの人を一見して辺境人だとわからなかった。

 迎えの馬車の御者は例の如く、山賊の頭領の風格と騎士科の学生が訓練で使用している剣よりもずっと大型の武器を背負った巨漢だったので、フェルビースト家の使用人はみんなそんなものだと無意識に思い込んでいたらしい。

 考えてみれば、あの少年はその括りに当て嵌まらなかったではないか。

 昨年末に知り合った純朴な笑顔の少年を思い出すと、リベカは胸の奥に捩れるようなかすかな痛みを覚えた。今年も、ヴォジュラに行けば会えるだろうか。

 大使本人の案内で通された客間に、アンジェリンの兄イズリアルが待っていた。簡素ながら仕立てのよい、辺境人の精悍さをより引き立てるヴォジュラの騎士装束に身を包んでいる。

「兄上、お懐かしゅうございます!」

「アンジーも、みなさんも久しぶりだね。よもや王都で君たちと会う日が来ようとは思いもしなかった」

「兄上の不精のつけが回ってきただけですわ! 今度こそきちんと清算なさってくださいまし」

「簡単に言ってくれる」

 イズリアルは、両拳を腰に当て薄い胸を張って意見する妹と、緊張の色が隠せないぎくしゃくとした礼をした妹の友人たちにも同等に心のこもった挨拶をし、うさんくさいほど爽やかな笑顔で再会と息災を喜んだ。

 いやいや、うさんくさいなどと受け止めるのは自分の心が捻くれているからだろう。それとも彼のにこやかさの影にいささかの疲れを感じたからだろうか。リベカは自分を戒め、神妙な顔でしとやかに二言三言挨拶の言葉を返して後は黙っておいた。

「まずはお土産を渡しておくよ」

 彼は傍らの席上に置いていた鞄の中から、手のひらに乗る布の包みを取り出し、アンジェリンとリベカにそれぞれ一つずつ渡してくれた。染め布の包みを明るい色のリボンでかわいらしくまとめてある、さりげない贈り物らしい外観だ。

「兄上、開いてもよろしくて?」

「どうぞ」

 包みの中には、水の流れを思わせる繊細な筋を結び合わせたような金属製の小枝に、かわいらしい形に切り出された輝石が品良く鏤められた髪飾りだった。淡く色づいた半透明の石は小粒ながら澄んできらきらと目を幻惑し、枠組みは何でできているのかもわからないが、こっくりとした色合いの落ち着いた光沢が妖しく滴るよう。

「まあ、素敵。樹雫金に魔法石の欠片だなんて。公式の場にも着けて行ける品ですわね」

「見栄え重視で色が良いものを選っただけの最低限の加工だから、魔法充填の役には立たぬよ。王都での行事が控えているご令嬢にはこういうものの方がよかろうと思ってね」

「ありがとうございます!」

 兄妹の平然とした会話を聞きながら、お土産を乗せたリベカの手が震える。家から与えられた物のどれよりも高価な品なのだ。それを子供のお土産にぽんと寄越す友人の兄。自分が分不相応な相手に寄生して甘い汁を吸っている人間のように思えて仕方がない。

「こんな高価な品、着ける機会なんてあるかしら」

「あってよ? 卒業式典で着ければよくてよ」

「ええ?! わたしは欠席するつもりでいるのに。お相手も当てがないし」

「それならあたくしが男装して、あなたと組むわ。あたくしとリベカの背丈はちょうどよい釣合だし、兄上の学生時代のお召し物をお借りすれば、きっと兄上の学生時代のように見えてよ。並べばとってもお似合いの一組になるわ」

「ははは、そうだね。我が家の血筋はみんな同じような顔立ちに生まれ付くからね。アンジーなら申し分のない貴公子になるよ。舞踊の男性の型を教えておこうか」

「うふふ、お願いいたします!」

 兄妹は揃って、悪巧みをしているような含み笑いを浮かべた。

 アンジェリン以外の彼女の親族と会った回数は限られているが、いつ見ても誰もがよく似ている。今は兄妹二人、意図して同じような茶目っ気たっぷりの笑顔でリベカを見てくるのだから、一層顕著だ。同じ造作でいながらも、兄は燃えるような豊かな生気と人生を楽しんでいますと言わんばかりの陽気な強かさを漲らせる男性的な顔立ちに、妹はリベカでも未だに見惚れることがある匂い立つような色香を放つ美少女に見える。その不思議な違いの源が体格以外のなんであるのか、リベカは未だに掴みかねている。

 イズリアルは改めて手元を探り、エイジアに厚みのある紙の束と大人の男の人の掌で包み込める程度の小さな蓋付きの壺を差し出した。

「君にはこれを。こちらは君の友人ケイセイからの手紙、壺の中身は我が家の庭の土だよ」

「ありがとうございます」

 え、と漏れた誰かの声を、リベカは自分のものとして聞いた。

「ん?」

「なんだね?」

 無自覚の呻吟を意識していなかったリベカは、その場の注目を浴びてなぜかあたふたと身動ぎしたくなる焦燥と頬がぴりぴり傷む感覚にきまりの悪い思いをすることになった。

 だから取り繕いの言葉もスラスラと出てしまうのだ。

「け、ケイセイさんは気さくなお人柄でいらっしゃいますけれども、主家の令息についででものをお頼みするとは豪胆ですのね?」

 イズリアルは表情も態度も変えず、その場の空気に不自然さを帯びさせない程度に早すぎず遅すぎない呼吸で答えた。

「彼が妹の友人と親しくしていることは把握しているからね。今回は、私的な立場でのささやかな頼みということで、引き受けたのだよ。私としてもエイジアくんには、昨年、甥の風邪を退けてくれた礼を直接述べたくもあったし」

「そうでございましたか」

 急速に膨れ上がった羨望の念の思いがけない激しさに慄き、この時唐突に、否定したいような悲しいような気持ちに陥りまたその理由を諦念とともに理解した。

「リベカ? 疲れてしまったの?」

 アンジェリンに呼びかけられて、ようやく目を上げた時には、随分と気掛かりそうな表情の親友が覗き込んでいる。

「いえ、その……大丈夫です。申し訳ありません」

 慌てて背を正し、この場で最も立場の強い者に謝罪した。心が乱れ、当たり障りのない言い訳も捻り出せない。

 イズリアルはゆるりと首を振った。

「迎えの車に酔ってしまったかな。外観は王都に合わせてあるが、骨子は辺境仕様の武骨な物だからね。こちらこそ、中央の繊細な女の子を慮れず、申し訳ない」

「そ、そんな、とんでもないことでございます!」

「まあ、兄上ったら、あたくしが図太いかのように仰るのね!」

「そりゃあ、ヴォジュラの女性と王都の女性は別人種だからね。ヴォジュラにいる時と同じ感覚で接して間合いを誤ったことなど、一度や二度ではきかないよ。あの頃は苦労した」

 やけにしみじみとした友人の兄の体験談にも普段のリベカなら心そそられただろうが、今は聞いてみたいとも思わなかった。

「どうどう、アンジー。淑女らしからぬ癇癪じゃないか。さては久しぶりに兄に会って、甘え心が出たな?」

「で、出ておりません!」

 友人の赤く染まった頬を横目に、リベカは動悸を鎮めながら会話に相槌を打つうちに時間は過ぎていった。


 午後は兄妹は揃って出かける予定があるというので、リベカとエイジアは大使の館を辞し、学園の寮に送り届けられた。

 寮の受付にいた職員はにこやかにリベカを迎えたが、エイジアが視界に入るとさっと視線を逸らしていた。これまで学生教官職員問わず、あからさまかそうでないかの程度はあれ度々見かけた反応だ。最近はエイジアの変化とともに穏やかになってはいたが、一部では根強く残る。

 エイジアは受付窓口に歩み寄り、イズリアルから渡された壺を置いた。顔には何の感情も浮かべず、声はただ静かだ。むしろ彼と視線を合わせようとしない職員が引き結んだ口元の方が感情豊かだった。リベカは少しがっかりした。今受付窓口にいるのは、先日彼女の配達物を愛想よく受理してくれた人当たりのよい職員だったからだ。彼の愛想は限られたもののようだと知るのは、勝手な憶測の産物と分かってはいても、期待を裏切られたような気がしてしまう。

「外出先での頂き物の持ち込みを届け出ます。友人のフェルビーストの兄上からこれを頂きました。中身はヴォジュラの土です」

「えっ? 外出先での取得物の持ち込みに申請が必要だったの?」

 リベカは彼の行動に驚き、思わず自分の鞄を探ろうとした。エイジアがあっさり肯定した。

「自分で持ち込む場合も、ここに送られてきた荷物の場合でも、届け出るよう寮から言われている。一部の学生だけだろうが」

 職員が、リベカだけを見て、わざとらしい朗らかな声で説明した。

「ああ、それはですね。危険物の持ち込みの可能性を憂慮しての措置で、一般の学生さんには届け出は義務付けられていないのでご心配なく」

 あからさまに態度が違って、リベカはいたたまれない思いをした。腹立ちや悲しみよりも、いたたまれなさの方が強かった。

「わたくしたちはフェルビーストさんと一緒にヴォジュラ大使館に参りました。そこでフェルビーストさんのお兄様にお土産を頂戴しただけですわ。シェイファーさんの取得物を危険物というのであれば、フェルビーストさんのお兄様より等しく頂き物を受け取ったわたくしとフェルビーストさんご本人にもその疑いがあるはずです。彼のいただきものが危険物などでないことは、わたくしとフェルビーストさんが証言できます。学生の個々の言い分では根拠として弱いと言われるのならば、ヴォジュラ大使館に問い合わせてください。ご厚意の贈り物にあらぬ疑いをかけられたヴォジュラ領主家に対する侮辱と判断されるかもしれませんが、それはわたくしたちの関与するところではありません」

 リベカはそうした態度に反感を覚えはすれど、種族的な嫌悪感は容易に拭い去れるものではないのだろうとも考えている。極力意識外に置いて事務的に徹するのも一つの対応術ではあるのだろう。

 ただ、そうと割り切った対応を自分もできるかは別問題であるだけで。理性で感情を制し切れない自分は未熟なのだと、一息で言い切った己をまじまじと見つめる受付職員の青い顔とエイジアのドン引き顔を真顔で見返して、しみじみとリベカは思うのだった。


 次の日、ジリアンとブラムがなぜか顔に古典的な青痣を作って登校し、学校中の話題を掻っ攫った。

「どうしたんだい、その顔!?」

「ははははは、自主訓練で熱が入りすぎてしまってね。大したことはないから気にしないでくれ」

 あちこちで群がる友人や取り巻きたちから同じ事を訊きまくられる二人は、微笑みを貼り付けて判で押したような答えを返し続けている。見たところ、時々混じる不審な動作停止や引き攣る表情から、他にも怪我があるのだろう。

 いつもなら主人の裏事情を洩らしにやってくるブラムも、青痣の消えていない顔をむくれたように強張らせて沈黙を守っていたので、彼も将来有望と目される騎士学科の学生としてはよほど恥ずかしい体験をしたと思われる。

 彼らの様子を横目に素知らぬ顔をしているアンジェリンと、何事もなかったかのように振る舞うジリアンの態度、更に昨日会った友人の兄の胡散臭さを拭い切れない笑顔をふと思い出して考え合わせたリベカは事の仕儀を察したが、紳士の不名誉を口外しない友人の誠意を尊重して、触れないことにした。

 次の日には、イズリアルはヴォジュラへ帰ったそうだ。

 ジリアンが頭を掻き毟りかねない勢いで「どうしてこんなに早く帰ってしまわれるんだ! 兄上のお気持ちが身に沁みてわかるよ!」とやけくそのようにアンジェリンに向けて喚いていた言葉が、リベカの想像を裏付けていた。



 寮の学習室に足を運ぶと、隅の書棚の合間で六年生のバージル・ヘクト先輩と遭遇した。

「やあ、こんにちは。今日は何を探しているのかな?」

「ごきげんよう、先輩。持ち出し可能な地理と気候に関する資料、他に古典文学で歌劇の演目となっている作品を借り受けたいのです」

「うん、それなら……」

 ヘクトはあれこれと助言をして、リベカがそれを選っている間、側に佇みとりとめもない話をする。

「先輩、ご卒業は滞りなく?」

「まあね。卒業課題も受理されて、あとはよほどに思いがけない問題が発生しない限りは大丈夫だと思う」

「おめでとうございます。やはりお家の仕事を引き継がれますの?」

「まあね。これでもあてにされてるみたいだから。君の勉強は順調かい?」

「少しずつ成績が向上してまいりました。これも先輩の日頃のご指導の賜と感謝しております」

「それは甲斐があったよ。ところでさ、ちょっと聞きたいんだけど、君の友達のフェルビーストの姫とサヴィアの次男坊とは進展しているのかな?」

「……お友達として良好な間柄と見受けられます」

 用心深く言葉を選ぶリベカを、ヘクトは面白そうに見返した。

「親友の君の目から見て、婚約まで漕ぎ着けると思う?」

「さあ……お家の意向も関わることですから、わたくしには何とも」

 リベカはのらりくらりと言葉を濁した。これまでもアンジェリンとジリアンの関係について探りを入れてくる者は少なくはなかったが、今更この人が知りたがるとは。友人に迷惑をかける気も、友人の人間関係に含みを持っていると捉えられる隙を提供する気もないリベカとしては、相手が誰であっても客観的な見てくれ以上の情報は披露しないことにしている。

「サヴィア家がフェルビースト家に正式に申し込みしたって噂もあるんだけど」

「まあ、そうですの。初耳ですわ」

 アンジェリンが他家の令息と約束事で結ばれたなら、アンジェリンは隔てなくリベカに話しただろう。話さないということは、アンジェリンも知らないか、申し込みがあっても断ったか、あるいは明かす時期ではないということだ。

 ヘクトは束の間目を眇めてリベカの顔を注視していた、ようだった。リベカにはそのように思われた。

 同時に、この人はどこかの家の息のかかった人物なのかもしれないと初めて考え、声に用心深さが混じるのを抑えようとして失敗した。

「……勢力図の変化といったことをご心配なさっているのですか?」

「いいや、サヴィア家の動向とフェルビースト家の反応を。結果は重視してない」

 ヘクトも、リベカが態度を変えたことに気付いたようだった。開き直ったあっけらかんとした口吻になる。その変化は彼の話す内容にも表れた。

「フェルビースト家の力を削ぐと辺境の守りが崩れるというのは知られたことだし、分別のある貴族はみんなそれを恐れてるよ。サヴィア家も充分に理解している一つだから、どうする気なのかなってね。一番無難なのは、次男坊が潔く身を引くことなんだけど」

「ということは、前例がございますのね」

「君は知らないかい?」

 訳知り顔に言い切られた一言が癇に障った。まるで親友などと称してもその程度なのかと嘲りを含むようで。

 これが内心で鎌首をもたげる卑屈な自分の影の為せる技であることをリベカは承知している。生まれ育った環境と生まれ持った役割の重みが違うのだから当たり前だ。だが、それがどうしたのだと彼女は自身に問うのだ。

 自分の裁量の範疇を正確に弁えその範囲において残された時間をせいいっぱい自由に振る舞う友人のことを、リベカは好きだ。それが全てだ。あと二年で彼女と気軽に顔を合わせる毎日が終わる。それまでの時間を大切にしたいのはリベカだって同じだ。つまらない僻み心に妨げられている暇などない。

 そのためなら、眉間に寄りかけた皺を抑えつけ、殊勝な表情でしおらしい声を振り絞るのだって容易いものだ。

「申し訳ありませんが、わたくしにはアンジーの意思を確認するお手伝いはできかねます。サヴィア様に関しては言を俟たぬことです」

「いやいや、そういうわけじゃないんだけどね。望まぬ婚姻を強いられたフェルビーストの姫が新婚早々謎の死を遂げたという、話自体はまあ珍しくない内容なんだよ。大っぴらに記録に残されているわけではないけれど、別段秘匿されているわけでもない。ただそれで中央はヴォジュラの反感を買って、国防にものすごく苦労した時期があるわけ。婚姻に関してフェルビースト家は過分に身を慎んであくまで職務優先の姿勢を貫いているから、信用したいところだね」

「……わたくしは何も聞いてはおりません」

 慎ましく目を伏せて答えながらも、なるほど友人が主張する未婚の権利というやつはそこに端を発しているのかとリベカは納得した。記録が乏しいと目の前の人物は言ったが、少なくとも前例を伝える者は確実にいるのだろう。

 知りたい気もするが、知るべきでもないとも思う。以前のリベカなら迷わず後者を選択して心の平穏を得ていただろうが、今はどちらにも傾かない相克にしばし胸の内を焼かれる。

 目の前の人物に尋ねようという気にはならなかった。

 彼にどのような意図があるのかはともかく、今まで招待学級の一学生という立場で貴族間のゴシップへの興味を見せてこなかった人からの突然の質問には警戒せざるを得ない。四年近くここで顔を合わせてきた人物のことをよく知らぬままに来た自分の事なかれ主義のせいでもあるが、さりとて深入りして親しくなっていればそれはそれで知らずに済んだ煩悶や葛藤が生まれそうな気もするのだった。

「友達思いだね。君には是非そのままでいてほしいよ」

 先輩は目を細めて小さく笑い、それ以上言葉を重ねず立ち去った。

 その後はこの学習室で顔を合わせてもこの話題を蒸し返すことはなく、彼は年の瀬を迎えると同時にリベカにとって謎の人のまま卒業していった。



 年が暮れ、いつもの面々での、四度目のヴォジュラ訪問。

 リベカは長休みに突入するとまずコルネイユの家に顔を出して挨拶をしくれぐれもよろしくと言い含められ、フェルビースト家への挨拶状と手土産を穏便に受け取り、今までになく清々しい気分での旅となった。

 いつもの迎えの面々の、最初は区別がつけられないくらい同じように見えていた凶悪な面相も今では個々の顔と名前を一致して覚えているし、怖いとも思わなくなっている。ずらりと牙が生え揃った、リベカの頭など一噛みで胴からもぎ取れるだろう大口を持つマズリ馬の側近くにも寄れるようになった。入れ違いに王都の雑踏に消えていったヴォジュラ領主との同席の緊張もましになった。

 景色が異様な速さで流れ去ってゆく旅路も、度重なるならず者や魔獣や魔物の襲撃にも慣れるとまではいかないにしろ、彼らを信頼して対処を任せ、落ち着いて待っていられるようになった。

 武骨な街並みも行き交う人々の厳めしさ粗暴さも、礼儀正しく屈強な護衛に守られた馬車の窓越しに過ぎゆくだけ、領主邸の塀の内からならば恐れなくてよい。ただし決して街に出ようなどとは考えないようにと念を押されている。

「この寒さだけは慣れないのよね」

「あたくしは王都でも暑いくらいだわ。東の果てはとても暑いのですってね。冬はあたたかくて過ごしやすいのかしら」

「そうでもないわよ。わたしがいたのはルバリシュド領の西の方だから、それ以東のことは経験ではなくて資料の記述以上の根拠はないけど」

「リベカは今、東領の地理と気候について調べているのよね。ヴォジュラでは魔境から吹き付ける風が寒さと歪みを運んでくると言われていて、それを覆すだけの確かな学術的調査はされていないのが現状だけれど、東の果ては無境と呼ばれているのだったかしら? そことはどう違いがあるのかしら」

 リベカが11歳まで暮らしていた王国東部領は東西に広大な土地で、リベカの育った村を含む人が住める温暖湿潤な西側に偏っている。東は申し訳程度の人里が点在する乾燥地帯から果てのない砂の荒野へと移り変わる不毛の地とされ、領境は砂漠によって線引きされている。

「同じ辺境と呼ばれていても、ヴォジュラと違って魔物はそれほど出ないそうなのだけれど、魔法の歪みは砂漠へと流れて一両日中には砂嵐が発生するとあったわね。藪を突かなければ蛇は出ないという対処が主流で保守的、魔法文化は廃れ気味で魔術師も少ないし、王都じゃ鼻で笑われそうな迷信が今も残っていたりね。わたしの育った村でもトカラ草は人差し指を使って摘むと良くないから、中指と薬指で摘みなさいって言われてたわ。どう良くないのかは判然としなかったけれど」

 そこには次代を育む生命は影すら見えず水源どころか日差しを遮る木陰や岩山の一つとてなく、ただ訪れるものは吹き荒ぶ熱風のみ。分け入った調査隊は判で押したようなこれらの調査報告を持ち帰り、あるいは消息を絶ち、やがて人々は東の果てに可能性を見出すことを諦め、虚無の地平に背を向けた。

「ええ。アンジーこそ下級生に胸を貸したり第二演習場での実戦訓練のご指名があって大忙しだったでしょ。そちらの準備はもう済んだの?」

「念のため言っておくけれど、第二演習場は公式には存在しないことになっている施設ですからね。実在前提で話されてもあたくし、そんなことはなかったとしか答えられなくてよ?」

「ごめんなさい。じゃあ今のは聞かなかったことにして」


 フェルビースト邸に着いてからのリベカは、そわそわと外庭や廊下の角を眺めていた。

 今にもその辺りの角から、黒い仔ヤギを従えた小柄な人影が現れないものかと期待してしまう。行動圏が異なるのだから、客人のリベカが快適に過ごせるように気を配られた領域で彼とばったり遭遇するなどということはないのだが、そう期待することすら心弾む。

 リベカは自分がふた冬しか会っていないあの少年に特別な好意を抱いていることを悟ってから、その気持ちを諦めとともに大切に秘めておくことに決めた。今得られる限られた機会の全てを、屈託のない笑顔や優しい声や話しぶりや交わした言葉、心が洗われるような善良で勤勉な在り方、そのきらきらした思い出を、ヴォジュラに来ることもままならなくなるであろう大人になってからの王都での生活の中で自分を支えてくれる、時折そっと取り出して見詰めることのできる胸の奥の小さな灯火にするために。

 アンジェリンは一年分の雑事に奔走し、エイジアは昨年の活躍を聞きつけた医療魔術師や薬師から殺到する面会希望をもれなく断って客室に引きこもりを敢行中。暇なのはリベカくらいのものだった。

 そんな日々の合間、エイジアが彼を呼んだというので、早速混ざって待ち受ける。

 場所はいつもの客棟の待合場所ではなく、すぐ側の小さな談話室の暖炉に予め火を入れて、卓上にはおつまみと飲み物。

 一日の仕事を終えてやってきた荷運びの少年は、昨年と同じく使い魔の仔ヤギを連れ、リベカの記憶の中と変わらず小柄で、凹凸の乏しいあっさりした顔立ちに人懐こい笑顔を浮かべていた。どの角度から見ても強者感はしない。

「再びお声を掛けていただけ、光栄でございます。なんなりとお申し付けくださいませ」

 男性としては少し高いみずみずしい声も、その口吻のものやわらかさも変わらない。

 リベカは、彼のつんつんと方々を向いて伸びた黒髪の合間で見え隠れする両の耳を見極めようと目を凝らす。

 彼女は、ケイセイの左耳に小さな黒い石をあしらった耳飾りのあることを見逃してはいなかった。

 正式に認められた夫婦は両耳、婚約者や言い交わした恋人がいる場合は片耳。耳飾りの意匠や素材は様々だが、王国民が着ける耳飾りの意味合いはこのどちらかと決まっている。彼は今年も去年と同じ耳飾りを着けていた。

 今年は外れてはいないかと儚い期待を抱いていた自分の浅ましさが自己嫌悪に変わる痛みに耐えながら笑顔を保つ。ちょうどアンジェリンがケイセイに質問を投げかけていて、周囲の注意はそちらに払われていたのは幸いだった。

「ケイセイは組合員にはなれましたの?」

 ケイセイはたちまち眉尻を下げ、しょんぼりと言った。

「面目次第もございません。今年は果たせなかったのです。来年こそは本懐を遂げたいと思っています」

「あなたの実力で組合員登録審査に通らないということがあって? 登録審査も、年に何度でも挑戦できるでしょう。何が足りなかったというの?」

 心底意外といった体で身を乗り出したアンジェリンの問いに、ケイセイは気恥ずかしそうに首を竦めて、しかし次の瞬間には目と目を合わせてはきはきと答えた。

「それは、予め家族と相談して定めていた条件を達成できなかったからです。私には将来を約束した人がおりますが、その女性は私よりも腕が立つので、最低限彼女より強くなってからでなくば一人前と見做すことはできない、具体的には彼女と五本勝負して五本とも私が勝利すれば一人前と認め、彼女との結婚と組合員登録を許すという約束なのです!」

「メエ! メエ、メエ!」

「あらまあ」

 ケイセイは喋りながら昂ってきたのか、頬を紅潮させ両拳を持ち上げ熱弁を揮い出す。彼の使い魔の仔ヤギも同様に興奮し始めた。

 エイジアが下品な冷やかし混じりの口笛を吹き、アンジェリンがにまにまと微笑みを深めた。

「昨年末から今年始めにかけての帰省では、五本中三本しか取れませんでした……! 次こそ、次こそは五勝してみせます!」

「へー、頑張れよ」

「あたくしたちと歳の頃が変わらない女性で、ケイセイより腕が立つ方がいらっしゃるとはね。世の中は広いわねぇ」

 リベカは平常を保つことに専念していて、意見を差し挟む余裕がなかった。

 このままひっそりと、記憶の奥底に埋れてゆくだけの仄かな想いだったのだ。今まで通りに振る舞えば何も変わらない。それならば気付かずにいた方がよかったとは思わない。少なくとも、この一年、リベカは彼のことを思い返して実り多い気持ちに満たされた。その気持ちに浸っている間、幸せだったのだ。

 組合登録と結婚にかける意気込みを語るケイセイは頬を上気させ、目はきらきら、身振りと口ぶりはいきいきして、彼の内心の充実と幸福を傍目にも明らかに伝えている。

 彼をここまで意欲的にさせる女性は、どんな人なのだろう。今まで考えないようにしてきたその興味が、初めて首をもたげた瞬間だった。

「……どんな方ですの? そのかたは」

 ゆくりなく、そんな言葉が口を衝いていた。それを知ることができれば、折り合いをつけられるような気がした。

 途端にケイセイはへにゃりと相好を崩した。もっとはっきり表現するならば、鼻の下を伸ばしてだらしなく笑み崩れた。

「ぼくには勿体ないくらいの、それはそれは素晴らしい人です。彼女がいてくれるおかげさまで、ぼくはここまで迷いなく自分の道を進んでこられました」

「メヘヘーン」

 ケイセイは、普段は努めて礼儀正しい言葉遣いを心がけているのだろう。自称が『私』から『ぼく』になっているが、気付いている様子はない。噛み締めるように、自分の胸の内を見詰めてそこから宝物を両手で包み込んで取り出すように、大切そうに、恍惚とした表情で訥々と語る。使い魔も彼の肩の上で遠吠えをする犬のような体勢で甘ったるい声を上げる。

「例えるならばですね、彼女は、道端で雪の積ったポンスカさんをいたましく思って売り物と仕事道具をお供えして身一つで帰ったぼくを、『それはよいことをなさいましたね』と言って温かく迎えてくれる人です。貧しくて食べ物がない時でも、見返りのない正直者の行動を、褒めて労ってくれる人なのです。ぼくはそんな老夫婦になりたいのです!」

 ケイセイの黒々と潤んだ大きな目は、まっすぐな好意と清らかな理想にきらめき、身振り手振り豊かに全身で幸福を謳っている。

 リベカはその様子を心に刻みつけ、敗北感にすらならない深い納得と諦めと引き換えに、芽吹いたばかりだった自分の想いを密やかに胸の中の水底に沈めた。

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