第五十九話「唯の懊悩」・2
「アカンアカン、唯ちゃん……貸した分はちゃんと返さんとォ。わいが貸したんはァ、こんなはした金とちゃうでェ?」
そんな馬鹿な。確かに借りた分は返したはずなのに、どうして足りないのだろう?
私は訳が分からず頭の中でパニックに陥った。
「じゃあ、一体いくらなんですか?」
この質問はマズかった。これでは相手に発言権を与えるに同じ。しかしもう遅かった。私の隙に付け入るように、悪魔が僅かな心の隙間に、鋭利な細い爪の先端を突き立てた。
「キヒィ……零が六つやァ」
「な――!? ひゃ、百万!?」
あまりにも予想外の金額に、私は驚愕して途方に暮れた。そんな大金払えるはずがない。確かにお爺ちゃんならば問題ないだろう。けど、それにすがる訳にはいかない。こんな所で迷惑をかける訳にはいかない。
私は奥歯をギリッと噛んで問うた。
「……どうすればいいんですか?」
「何やァ、わいが頼んだら何でもするゥ言うんかいな?」
「……もしも、そう言われたのであれば……その通りに」
「フッ、気に入ったでェ……ええやろォ。せやなァ、わいと付きあえ」
「――え?」
一瞬思考が停止した。言葉を理解するのにしばし時間を用い、それから理解する。
「せやから、わいと付きあえ言うとんのや……。もしも付きおうてくれたら、今すぐ全額返せとは言わへん。ちょいちょい返してくれたらええ。せやけど、もし付き合わへんかったらァ……今すぐ全額払ってもらおか?」
無茶苦茶だ。そもそも百万も借りていないし、返す意味もない。第一、はっきり言って彼は好みではないし、激しく嫌だった。が、この場を切り抜けるにはYESと答えるしか道がなかった。
私は、仕方なしにその条件を呑んだ。
こうして私は、悪魔と正真正銘の契約を交わし、地獄の生活を強いられる事となった。
楽しい学園生活を待ち望んでいたあの頃から、もう二ヶ月が過ぎた。
いい加減、私も我慢の限界を迎えていた。あの悪魔は、名を『殴頭 凶哉』というらしい。彼の狙いが何なのかは未だに分かっていないが、一つ確かなのは金銭だけが目的ではないと言う事だ。
私は自宅の近辺にあるアパートへ赴いていた。理由は単純、ここに凶哉が住んでいるからだ。
彼はちょくちょく私にメールを送っては、呼び出していた。私はそれに逆らえず、唇を一文字にキュッと結んで度々家を出ていた。
それを響ちゃんに見られていたのだろう。
ある日、私は昼前に家に帰って来た。すると、玄関マットに一人の人間が立っていた。響ちゃんだ。
「お姉ちゃん、ここ最近よく出かけてるけど……何処に行ってるの?」
「え? ええと……」
私はすぐに答えられなかった。
そうして口ごもっていると、響ちゃんが更に言葉を続けた。
「お姉ちゃんの自由だから何にも言わないけど、一言だけ言わせて? 楽しくないなら、行かなければいいんだよ!」
そういう響ちゃんの目は、いつになく真剣だった。まるで怒っているかのようだった。私はきょとんとしたまま放心状態に陥った。
「……ねぇ、響ちゃん。ちょっと、一緒に来てくれる?」
ふとある想いに至って、私は響ちゃんを自分の部屋に招いた。響ちゃんは私の後ろを着いてきながら不思議そうな顔をしていた。何処に連れて行くつもりなのか分からないのだろう。
しかし、私が自分の部屋の前で立ち止まると、さすがに目的地を理解したようで少しモジモジし出した。もしかすると、異性を気にし出す思春期の時期なのだろうか?
確かに響ちゃんも小学六年生。そろそろそういう事を気にし出す年頃だろう。
「いいよ、入って」
扉を開けて、私は響ちゃんを中に招いた。少しオドオドしつつ、響ちゃんが私の部屋の中に入る。
一応部屋の整理整頓は出来ているつもりだけど、響ちゃんから見るとどうなんだろう?
とりあえず私は、響ちゃんをベッドに座らせて、自分は回転椅子に座った。背もたれ部分に顎を置いて、響ちゃんを見据える。
「ねぇ、響ちゃん。唐突な質問なんだけど……お姉ちゃんの事、どう思う?」
「え!?」
響ちゃんは驚愕して目を見開いていた。同時、顔を真っ赤に染める。
「くすっ」
その反応が初心で可愛くて、思わず笑ってしまった。
「わ、笑わないでよ!」
「ふふっ、ごめんごめん。それで、返事は?」
「……お姉ちゃんは、とても優しくて、僕の事を毎日見守ってくれて。ちょっとやんちゃで喧嘩っぱやくて、近所の男子高校生にも勝っちゃうけど、それでも可愛い一面もあって……料理とか苦手だけど、掃除は結構得意で……自慢の、お姉ちゃんだよ」
「~~~~~っ!!」
私は自分で質問したくせに、返答の言葉が恥ずかしくて腕で顔を覆ってしまった。こんな赤面した顔、響ちゃんに見せられない。そう思った私は、慌てて話題を逸らそうとこんな言葉を口にした。
「ねぇ……響ちゃん。男の子と女の子って、いろいろ違うよね? 体格だったり、体力だったり、声だったり、肌だったり……とにかく、いろいろ。私ね、思うんだ。最近はそんな事ないと思うけど、昔は女の子は男の子に絶対勝てなかったんだ。戦いの時だって、いっつも男の子ばっかり戦って、女の子はその帰りを待つだけ。今から少し前の時代もそう。夫はせっせと忙しく働いて、妻はその帰りを待ってただ料理を作るだけの所謂専業主婦。……どうしてだろうね?」
私は窓から外の景色を眺めつつ、響ちゃんにそう問うた。
「それは……よく、分からない」
響ちゃんは、しばらく考えてそう答えた。
「私ね……小学校低学年の頃、イジメられてたんだ」
「え!?」
何でこんな話をしているんだっけ? ああそうだ、イジメにあっていた女の子を助けて、そのイジメが私に来たんだ。あの時私は思った。男の子は強いのに、どうして女の子を虐めるんだろう、って。
力は暴力を振るうためにあるんじゃない、守るためにあるんだ。
そう思って、私は己を磨く事を始めた。弱い人を守るために、強い人から己を守るために。それを続けてたら、いつのまにか私は最強になっていた。男でも敵わない頂点に立ってしまっていた。それでも、私は過度な暴力を振るいはしない。力が何のためにあるか分かっているから。何よりも、響ちゃんを守るこの手が暴力に穢れるのだけは嫌だったから。
でも、今回は規格外すぎる。相手は大人の上に男だ。明らかな体格差と力量差がある。勝ち目はまずないだろう。
もう、いい加減守り続けるのは疲れた。そろそろ、誰かに守ってほしかった。
だから私は、願った。彼が――響ちゃんがそうなってくれる事を。
「響ちゃん、もしお姉ちゃんが今もイジメられたとしたら……どうする?」
少し期待していたのだろう。この子なら、助けてくれる。そう思ったんだと思う。
「……助ける!! お姉ちゃんをいじめる悪い奴を、こらしめる!!」
その返答に、私は開いた口が少し塞がらなかった。期待通りのセリフを言ってくれた。これなら、任せても大丈夫だと私は安堵した。
「……響ちゃん、一つお姉ちゃんに言わせて?」
「何?」
「もう時代遅れなのかもしれないけど、強い男の子はね? 弱い女の子を守るものなんだよ?」
そう切り出して、私は椅子から立ち上がり押入れに近づく。それから私は、引き戸を引いて押入れの中を漁った。
「強い力は暴力を振るうためにあるんじゃない、弱い人を守るためにあるんだ。だから響ちゃん……強くなって。これで、私を……守って?」
目的物を取り出した私は、それを響ちゃんに手渡した。
「これは……」
響ちゃんが両手で受け取ったそれは、木刀だった。別段何か御利益があるわけでもない、何の変哲もない木刀。
「僕が、お姉ちゃんを……守る」
木刀を両手で強く握り締め、己に暗示をかけるように響ちゃんは呟いた。
「響ちゃん?」
「お姉ちゃん、僕決めた。僕、強くなるよ……強くなってお姉ちゃんを悪い人達から守るんだ!」
拳を握りしめ、響ちゃんは気合に満ちた顔でそう言った。
その決意表明に、私は感涙していた。ツーッと零れ落ちる涙を人差し指で拭いながら、私は笑みを浮かべた。
「あれ? なんでだろ、涙が出て来ちゃった……」
「大丈夫、お姉ちゃん?」
「うん……ごめんね、心配かけて」
涙腺が崩壊してしまったかのようにとめどなく溢れる涙。拭っても拭っても零れ落ちて切がない。
この時私は気づいていなかった。まだ小学六年生という響ちゃんに、それほど大きな力は持てないと。下手をすれば、守っていたはずの存在を失ってしまうかもしれない危険性があるという事を、私は不覚にも考えていなかったのだ。
あれからというもの、響ちゃんはせっせと鍛錬に励んだ。近所の空き地で素振りを何度も繰り返しては血豆を作って帰って来る毎日。弟の体に浮かぶ玉の様な汗がキラキラ光っているのを見た私には、何だか響ちゃん自身が輝いているように見えて仕方なかった。
だから、今更止める事は出来なかった。何よりも、その頑張りが私のためなんだと思うととても嬉しかったのだ。
しかし、それが悲劇を生む事になってしまう。
悪魔との本契約を交わして三ヶ月が過ぎたある日、私はとうとう堪忍袋の緒が切れた。私が頑張って貯金していたお金を、あの悪魔に貢ぐ事になってしまったのだ。そのお金にだけは手を出してはならなかった。触れてはならない琴線に、彼は触れててしまった。
私は自分でも気づかないくらいにやつれていた。しかも、今日私はとある重大発表を迫られていた。先に手を回されてしまった。全てを打ち明ける前に手を打たれていたのだ。
今日は七月七日、所謂七夕だ。この日、少し学校に用事があった私は、昼時になって帰宅した。この時間なら両親が家にいる事は分かっていたので、私は両親が共にいる時間を狙って口火を切った。
「母さん、父さん……今日は二人に話があるんだ」
その声に、二人が反応する。お母さんは洗い物をしていて、お父さんは新聞を読んでいた。
「あら、何かしら……?」
「そんなに改まって……何かあったのか?」
二人ともその作業を一旦止めて、ダイニングルームのテーブルに着席する。まぁ、元々お父さんと私はここに座っていたので、実際にはお母さんだけが着席する形になるのだが。
二人の準備が整ったと感じた私は、少し深呼吸して真剣な面持ちとなる。それを見た二人もやけに表情を強張らせる。
「実は私、ある人と付き合ってるんだ……」
「あ~、この間家に来た人?」
恐らくお母さんは、悪魔――凶哉が私をデートにでも誘いに来たと勘違いしているのだろうが、実際は異なる。私からお金を搾取するためだ。
だけど、そんな事教えられない。私はこの時ある弱みを握られていた。
彼の本当の目的は、響ちゃんだったのだ。何でも、響ちゃんが一年前にお爺ちゃんに告げ口したとかで、凶哉の兄貴が逮捕されてしまったらしいのだ。そんなの、ただの自業自得じゃないかとも思うが、彼はそうは思っていないらしい。
結果、標的が定まってしまった。私はその標的を変更してもらうために彼の言う事を聞いていた。この事実を知ったのもつい最近だ。それまでは、ただ私を狙っているのだと思っていた。だから、周囲に面倒をかけたくなくて隠していた。
けど、真実が分かったら話は別だ。これはもう私だけの問題じゃない。響ちゃんや、茜や、姫歌や、燈や、奈緒も関係するのだ。
彼らを守らなくちゃいけない! 結局、私は守られる側にはなれなかった……。
もう嫌なのに……これ以上、頑張るのは疲れたんだ。
――だから、離れる事を……決意した。
「うん。それで、私……そろそろこの家を出て行こうと思って」
その言葉に誰もが驚愕しただろう。当時の私は高校一年生。弟の響ちゃんと亮ちゃんは、それぞれ小学六年生と小学二年生だった。
自分でも分かっているつもりだ。こんなの許されないって。だから、両親が言う言葉は大体予想出来た。
「出て行くって……独り暮らしするってこと?」
お母さんの質問だ。やはり、そこが一番気になる所だろう。私は少しうつむき気味にコクリと頷いた。
「でもあなた……まだ高校一年生でしょう? 勉強とかはどうするの?」
やはり来た。当然の質問だ。そもそもこの近辺に住居を構えられるのか。そのお金はどこから出てくるのか。学校に通う事は出来るのか。
そのような多くの問題点が解決できるのかどうかの審査が必要なのだ。
「ちゃんとするよ」
「家はどうするんだ? 場所はもう決まっているのか?」
お父さんの質問だ。どことなく表情が険しい。無理もない。自分で言うのも恥ずかしいけど、大事な愛娘だ。心配なのだと思う。
「アパート借りて、そこで勉強する」
これにも、私は少しうつむき気味ではあるもののちゃんと答えた。
「お金とかはどうするの? お小遣いだって足りないでしょうし」
「アルバイトして、なんとか」
そう答えはしたものの、あんまり考えていなかった。いや、そこまで頭が回らないと言った方が正しいかもしれない。おかしいな……ちゃんとした解答を用意していたはずなのに。パニックと不安と恐怖でおかしくなりそう。
「それはあまりにも無茶じゃない?」
「そうだぞ、唯。何も今じゃなくたっていいんだ。もう少し……せめて二十歳を過ぎてから」
お母さんが頬に手を当てて小首を傾げ、お父さんが腕を組んでうんうん頷きながらアドバイスする。
でも、私にはそんな時間はないんだ。これ以上ここにいたら、皆巻き込んじゃう。そんなのイヤ……私が、私が守らないと。皆には、頼れないよ……。
この時の私は、どうしても周囲に頼れなかった。普段そういう事をしてこなかったせいか、自分で何でも解決してしまう癖がついていたのかもしれない。恥ずかしいという部分もあったのかもしれない。そんな事言ってられる状況じゃないっていうのに。
「……でも、どうしても今がいいの」
私は必死になっていた。声がどこか弱々しく、消え入りそうな声音。その小声に、さすがの両親もだんだん訝しみ始めた。
「相手は何て言ってるんだ?」
お父さんの質問だ。凶哉がどんな事を言っているのかが気になるのだろう。でも、特に何も説明を受けていなかった私はどう返していいか分からず、目を泳がせながら震える口を懸命に開かせた。
「特には……。ただ、私の好きにしていいって」
厳密的には私の独断だ。ここを離れてなんとかあの悪魔の魔の手を届かないようにしたかったから、こんな話をしたのだ。
しかし、そんな考えを跳ね飛ばすかのように大きな音がした。
ダンッ!!
突然食卓が短く揺れ、同時に大きな音がして私はビクッと肩を震わせた。それから恐る恐る顔を上にあげる。そこには、怒りに震える父の姿があった。
「無責任も程があるッ!! ちゃんと相手の事を考えているのか、あの男はッ!!!」
初めて、お父さんの怒声を聞いた気がした。私の事をちゃんと思ってくれている……改めてそう思う瞬間だった。
それなのに私は……嬉しかったのに、必死に自分の本心を殺して声を張り上げた。
「あの人だって、ちゃんと私のこと考えてくれてるわよっ!!」
そんなことない。本心ではそう言いたい。けど、それじゃあ私をこの家から解放してはくれない。だから、私は心にもない事を平然と口にした。
「ふんッ、……そもそも、相手は年上の上に既に二十歳を超えているのだろう? それだというのに、こっちはまだ学生で……しかも今が一番人生を左右する時期である高校生……。それを、やつはどう考えているんだ? 全く……」
お父さんの怒りは最もだった。私だってあんなに年の離れている男は嫌だ。何よりも、自分の事だけで相手を想ってくれない人となんて付きあいたくもない。互いを思いやり愛し、慈しみ、護る事こそが大事なんだ。
だからこそ、私はお父さんとお母さんの結婚に至るまでのエピソードに感動した。幼き頃、まだ響ちゃんが物心つく前の事だっただろうか? よく眠る前にお伽話の様な感覚でその話を聞いていた気がする。
今でこそ少し曖昧な感じになっているが、大まかな内容は今も覚えている。本当に不思議な出会いだ。
そうして私が産まれ、響ちゃんが産まれ、亮ちゃんが産まれた。この与えられた命を大事にしなければならない。
気付くと、お母さんが響ちゃんと亮ちゃんを自室に促している姿があった。どうやら、このやり取りを聞かれてしまっていたらしい。でも無理もない。ダイニングルームとリビングルームは、十中八九繋がっている。引き戸を全て閉じない限り聞こえる。第一、壁で隔てている訳でもないので閉じた所で聞こえるだろうが。
ふと、響ちゃんと視線が合った。彼はとても心配そうにこちらを見つめていたので、私は柔和に笑んで安心させようとした。
すると、意外にも効果があったのか少しほっとしたような表情を浮かべてリビングルームから出て行った。
それからしばらく、ダイニングルームに沈黙の時間が流れた。静止した空間に時計の針の音のみが鳴り響く。
その沈黙を破るように、お母さんが口を開いた。
というわけで、二部めです。今回は以前響史の夢に出て来た内容が出ます。
あの時は響史の視点でしたが、今回は唯の視点なので少し違った感じがすると思います。




