第五十八話「東西南北・過去(後編)」・3
「大丈夫か、奈緒?」
「うん……おにーちゃん、どこにもいかないでね?」
「分かってるって、入口で待ってるから」
先程怖い目にあったせいか、奈緒の声は少し震えていた。響史は心配させまいとして入口で待機する。
それから一分程経った所で、奈緒がハンカチで濡れた手を拭きながら戻って来た。
「間に合ったか?」
「なんとか……。ねぇ、おにーちゃん……なお、何かわるいことしたかな?」
どことなく弱々しい、消え入るような声音で奈緒はそう言った。響史は腰に手を添えて苦笑した。
「そんな事ないって。奈緒は何も気にすることない。あの男が変に絡んできただけだよ。だから安心しろ!」
小さな頭の上に手を置いて優しく撫でてやると、奈緒はくすぐったそうにしながら笑顔を綻ばせた。
それを見てから、響史は表情から笑みを消した。その変わり様に、奈緒も思わず顔を強張らせるが、まだ五才という年齢では、年上の響史が何を考えているかなど分かりもしなかった。
「おにーちゃん。なお、おなかへった……。かえろ?」
「そ、そうだな……」
何か考え事でもしていたのか、奈緒の言葉に響史は曖昧な返答を返す。
そうして二人は、神童豪佑を含めた従姉妹達の住む邸宅へ、手を繋いで帰った。何気ない会話を交わし、日が傾き出す時刻に帰路に着く。会話の内容には、今日の昼ごはんについても触れていた。
やがて邸宅へ繋がる門の前まで辿り着き、象牙色の柱付近にある小さな扉の前に立つ。
「えーっと、鍵は……」
奈緒と手を繋いでいる方と逆の手でポケット内を探り、目的物を探し出す響史。キーホルダー付の鍵を用いて開錠すると、扉を開けて中に入った。それから鍵を閉めて邸宅へ繋がるクネクネ道を歩いて行く。
本来ここは送迎用の車が通る場所で、徒歩の場合は裏道を使用するのだが、現在工事中のために封鎖されている。なので、響史と奈緒は邸宅まで遠回りをするハメになっていた。しかし、別段そこまで疲れている訳でもないので、ケロッとした何食わぬ顔で歩を進めていた。
しかし、中腹辺りに来た所でだろうか。奈緒が少し足のペースを落とし始めた。さすがに五才の体力では限界があるのだろう。
響史は、別段何も言わずに無言で奈緒の前にしゃがんだ。
「え?」
思わず疑問の声を洩らしてしまう奈緒に、響史は顔を奈緒の方に向ける。
「どうした? 疲れたんだろ? おんぶしてあげるから、乗れよ」
そう言う響史の言葉に甘えるように、奈緒は笑顔で従兄の背中に飛び乗る。
「よっと! 奈緒もすっかり大きくなったな~」
その場に立ち上がり、おんぶした感想を述べる響史に、元気よく奈緒は頷いた。
「おにーちゃん、なお……おもくない?」
少し心配そうに尋ねる奈緒に、響史はやや苦笑しながら口を開いた。
「そんな事ないよ。しっかり掴まってるんだぞ? もうすぐで家だからな」
「うん」
奈緒の返事を合図にするように、響史は再び歩を進め始めた。
十分くらいして、ようやく邸宅の玄関に辿り着いた。その頃には、すっかり響史の息は上がっていて、もう七月という時期のせいか、汗をびっしょり掻いていた。その上奈緒を背中におぶっているせいか、服がべったり張りついていて気持ちが悪い。奈緒も、麦わら帽子をしてくれば良かったと少し後悔していた。
しかし、そんなこんなで玄関に到着した二人は、ガチャッと玄関扉を開けて邸宅内へ入った。
「ただいま!」
「ただいまー!」
響史と奈緒がそれぞれ帰宅を知らせる様に声を張り上げる。すると、メイドの一人がやってきた。奈緒は響史の背中から降りて横に立っていた。
メイドの女性は、奈緒を視線に捉えると、少しムッとした表情で口を開いた。
「奈緒お嬢様、本日もお外に出られておられたのですか? 近頃は物騒だからご遠慮くださいとあれ程――」
「ごめんなさい、奈緒は悪くないんだ。僕が一緒に遊ぼうって言って連れ出したんだよ」
メイドの女性の言葉を遮るように、響史が深く頭を下げた。奈緒は隣で申し訳なさそうな顔を浮かべていた。すると、女性はやれやれと言う風に嘆息した。
「まったく……坊ちゃま? 響祐坊ちゃまの時もそうでしたが、あまりわんぱく過ぎるのは困ります。奈緒お嬢様は性は違えど神童家の血を引くお方……怪我などあったりしたら――」
その時だった。メイドの女性が、奈緒が肘の皮をすりむいている事に気付いた。
「お、おおおおおお嬢様!? だ、だだだだだ大丈夫でございますか!?」
まるで壊れたロボットの様な喋りで女性が顔面蒼白になる。問われた奈緒は、少々狼狽えながらコクリ頷いた。が、女性は首を激しく左右に振る。
「いけませんっ! もしもバイ菌が入りでもしたらどうなさるんです!? そこから壊死して、可愛い可愛い奈緒お嬢様のお手てがポトリ……なんて事になったら、私の首もポトリですよ!! 今すぐに、早急に消毒致しましょう!!」
マシンガントーク並の速度で饒舌な喋りを披露したメイドの女性は、響史から奈緒を引き離すように手を引いてどこかへ連れて行った。
奈緒は、少し名残惜しそうに響史を見ていたが、彼にはどうする事も出来なかった。
「ではお嬢様、じっとしていてくださいね? すぐに泥を払いますから……」
お金持ちにありがちな広い大浴場へ連れてこられた奈緒は、衣服を脱がされて裸んぼにされていた。まだ五才という未成熟な肢体を持つ奈緒は、まだ羞恥心というものを知らないようで、何も隠さずその瑞々しい体を晒していた。と言っても、相手は同じ女性でよく世話をしている人物なので、その点もあるのだろうが。
腕を差し出し、されるがままに泥が払われる。少し痛みが走ったが、すりむいていた事自体指摘されて気付いたので、そこまで痛みは感じなかった。
そして泥がある程度拭われたところで、柔かいタオルで濡れた腕を拭いてもらう。
「少々お待ちください、ええと……消毒液は……っと」
棚の戸を開き、人差し指と目で場所を探すメイドの女性。そうして目的物を見つけ出すと、ソファに座らせていた奈緒の元へ急ぐ。
「お待たせいたしました、奈緒お嬢様! 腕を出してください」
言われて再び腕を突き出す。すると、消毒液を染みこませた綿棒を使って消毒を始めた。
「っつ~!」
ヒリヒリするような何とも言えない感覚を感じて思わず顔をしかめる。
「い、痛かったですか!? も、申し訳ございませんっ!!」
「う、ううん……だいじょぶだよ?」
「あぁ、なんとお優しい……。まったく、奈緒お嬢様に怪我をさせるなんて――」
「お、おにーちゃんを怒らないで!」
「へ? ……そ、そそそそんな、響史お坊ちゃまを怒るなど滅相もございませんっ!! 私はただ、奈緒お嬢様を怪我させた公園の地面に怒りをぶつけているんです!!」
公園の地面に怒った所で何になるのだろうと思いつつ、奈緒は内心安堵していた。大好きな従兄――響史が悪く思われた訳ではないと分かったからだ。
「……はい、終わりましたよ?」
気付くと、消毒は終えて可愛らしいキャラの絵が描かれた絆創膏が貼られていた。
「お風呂上りに付け替えましょうね? 化膿したりしたら大変でございますから」
「うん」
「あっ、お腹がお空きになられましたよね? 公園で相当遊んでおられたようですから、さぞかしご飯がおいしい事でしょう! 一流のシェフが美味しい料理をお作りになられるので、少々お待ちくださいませ!」
そう言うと、メイドの女性は軽く会釈して部屋を後にした。一人取り残された奈緒は、広い邸宅内を歩いて自室へ向かった。
「そう言えば、おにーちゃんどこに行ったんだろ? かえっちゃったのかなー」
もし帰ったのならば少し残念だ。昼からは部屋の中でお人形遊びとか、いろんな事をして遊びたかったのに。
まだまだ遊び心満載で遊び足りない気持ちでいっぱいの奈緒は、肩を落として自室の扉を開ける。
と、その時、横から声がかけられた。
「あら、奈緒じゃないですか」
「あ、おねーちゃん」
現れたのは、赤に近い黒髪を持つニコニコ笑顔の少女。奈緒の従姉である茜だった。
「随分落ち込んでたみたいだけれど、どうかしたのかしら?」
膝に手を突いて同じ目線に合わせてくる茜。奈緒は、少し顔を俯かせてから開口した。
「おにーちゃん、どこに行ったか知らない?」
「おにーちゃん? あー、響ちゃんの事ね。あの子なら、客間にいると思うわよ?」
一瞬奈緒が探している人物が分からなかったのか、従妹の言葉を反芻してから思い出した様に人差し指を立て居場所の候補を挙げる。
「ありがと!」
「うふ、どういたしまして」
奈緒のお礼に、茜は常に笑顔を浮かべたまま手を振り見送った。
その後、奈緒は客間に通されていた響史と再会し一緒に昼ごはんを食べた。食事後は、一緒に奈緒の部屋で人形遊びやいろんな事をして遊び一日が終わった。ある一つの事故を除けば楽しい一日だった。
そう、ある一つの事故――光影中央公園で出くわしたガラの悪いサングラス男。あの男の正体に気付いていない内は、まだ平和な日常が遅れていたのかもしれない。
しかし、嫌でも気付く事になるのだ。なぜなら、敵の次なる標的は従姉妹三人に深く関わりのある神童響史なのだから……。
――☆★☆――
「うっ、ぐあぁ!?」
「響史、大丈夫か!?」
「響史!?」
「響史っ!!」
「響ちゃん!?」
「お、お兄たんっ!!」
突如激しい頭痛が俺に襲い掛かってきた。いきなりの鈍痛な叫び声を聞いて、父さんを筆頭に、母さん、姉ちゃん、茜従姉ちゃん、奈緒が俺の名前を呼ぶ。他のメンバーも血相を変えて俺の心配をしていた。
ダメだ、また心配かけてしまっている。
「うっく……だ、大丈夫だ。悪い、ちょっと今……記憶が」
「本当か!?」
父さんの言葉だ。俺が徐々に記憶を取り戻してきている事に感動しているのだろう。俺自身そうだ。まさか本当にこの方法で記憶が呼び覚まされているとは思わなかった。だが、現にこうして記憶が鮮明に蘇ってきた。四年前の記憶。俺達家族をかき乱した悪魔の両手は、鋭く尖った鋭利な爪で俺達の関係を引き裂きまくった。深く抉った傷はそう簡単に治りはしない。
たまに古傷が体に残るというのがあるが、この場合は爪痕だろうか。後遺症という枷に四年間も振り回された俺の記憶はめちゃくちゃで、想い出も曖昧な物が多い。
光影学園で送ってきた中学校生活など、ほぼ朧気だ。大きく覚えている事柄と言えば、常に雛下が側に居てくれた事と、悪友――亮太郎が出来た事と、部活の友達が出来た事だろうか。
そう言えば、不思議な物だな。この三人が高等部で俺と同じクラスなんてな……。でも、この中で俺の事を一番知っているのは雛下だけ。俺をずっと支えてきたのも雛下……。あいつには相当迷惑かけてんだよな。でも、その事を……ずっと忘れてて。ふっ、どんな顔してあいつに逢えばいいんだ?
ダメだ、ここで悲観的な考えを持ったら、せっかく回復しかけている記憶回路に再び鍵かけて阻害しちまう。
俺の過去を知っている人間、後遺症を負ってからの四年間、後遺症を負う前の人生。それら二つにずっと関わっている人間が、少なからず俺の近辺に居る事は分かっている。
そして、それに何かしらルナーが関与しているのも分かっている。
あいつはゴタゴタが片付いたら教えてくれると言っていた。全てを終わらせなければならない。終わらせて、あいつに聴かなければならない。どうして俺の過去を知っているのか。何故、あんなに姉ちゃんと関わりを持たないようにしていたルナーが、姉ちゃんから感謝されるような行いをしたのか。
全てが知りたい……いや、知らなければならない。俺にはその義務がある。いや、もしかすると聴く責任があるのかもしれない。
とにかく難しい事をいつまでも考えていたってしょうがない。まだ曖昧な部分は、姉ちゃん……か。
俺より先に人生の歯車が回り出した唯姉ちゃん。だが、それを俺が狂わせてしまった。ちゃんと噛みあっていたはずの歯車を俺が弄ってしまったせいで、おかしくなってしまった。この罪は重い。だからこその、この枷なのだろう。戒めとも言うか……。
それなのに、姉ちゃんは俺の枷を自分のせいだと思っている。それは間違いだ。多分、いや絶対、この後遺症は俺が自分で選び取った結果だ。選択した末路だ。まだ死ななかっただけマシと考える方が救いようがある。
以前俺はこの忌まわしい過去に関する夢を見た。あれは確か、姉ちゃんに関する記憶だ。これが一部残っていると言う事は、やはり俺が行動に出た何かきっかけがあるはずだ。
それを知るには……とても申し訳ないが、姉ちゃんに協力してもらうしかない。
本当に俺は駄目な弟だ。心を深く傷つけ、精神的に追い詰められて変わってしまった姉ちゃんは、自分を強くするために口調を男物に変えた。更に己を戒め、護るために、俺と関わらないようにして顔を見ないようにしたのだ。
だからこそ、この四年間姉ちゃんとの記憶は殆どない。確かに欠落しているからない可能性も否めないが、これだけはなんとなく断言出来た。
「姉ちゃん……」
俺は意を決した。
呼ばれて、唯姉ちゃんが体を震わせた。自分自身でも分かっているのかもしれない。事件の全てを知るには、関係者全ての話が必要。特に、当事者が一番詳しく話すべきなのだ。
だがそれは逆に、仕舞い込んでいた記憶と言う名のパンドラの箱の蓋を開ける事に同じ。開ければ再び想い出が悪夢となって襲ってくるかもしれない。だからこそ畏怖せずにはいられなかった。
あの強気な姉ちゃんも、玉のような汗を滲ませていた。
「唯、やはり辛いなら俺が代わりに――」
そう言って父さんが姉ちゃんの両肩に手を置いたその時。
「……父さん、いいよ。それに、一番幼い奈緒だって言ったんだ。一番年上である俺が言わなかったら、ヘタレだ。それだけは死んでもゴメンだね。だから……話すよ、全てを」
ゆったりとした口調で、姉ちゃんは言葉を紡いでいく。コップの水を飲み、一息ついてからこちらを見据えた。
「響史、全てを聞く覚悟はあんだな?」
その問いに、俺は答えなければならない。いや、応えなければならない。本来狙われるべき標的は俺だった。なのに、何の気まぐれか、標的は変更されて姉ちゃんに矛先を向けていた。
そんな事、当時の俺は露ほども思わなかったのだろう。そりゃそうだ。公園で憎むべき相手の名前を口走ったあの男が、まさか標的を変えているとは思わない。しかもそれが、よりにもよって姉だとは……。
全ての事件は繋がっている。あちこちで起きた事件は関連性がないように見えて実際は繋がっていたりするものだ。しかも、犯人は同一人物。
怨恨は怖い。人の恨みがどんな憎しみの連鎖を生み出すかなど分かるはずもない。連鎖を止めるには、誰かが意図的に止めなければ止まらないのだ。
「もちろんだ。聞かせてくれ、姉ちゃん。四年前のあの日……何であんな事が起きたのか」
「ああ、俺は……四年前の二月八日に、一人の悪魔に会った。いや、悪魔みたいな男ってのが正しいけどな。全ては仕組まれてたのさ。響史……お前を苦しめ、思い知らせるためにな」
そう言って姉ちゃんは語り出す。
四年前の二月……その時期は、丁度姉ちゃんが光影学園の高等部に入学するための勉強をしている時期――即ち、受験勉強期間だったのだ。
真っ白な純白の球が曇天から降り注ぎ、白銀世界を作り出す。冷たい風が肌を舐め体温を奪う寒い季節に、一人の少女の影を縫うように這って、ゆっくり悪魔の爪が一本、刺さるのだった……。
というわけで、三部です。奈緒の語りが終わって唯の語りに入る前に終わりました。奈緒の語りでちょっと響史の記憶にも影響が出て来たようです。だんだんと曖昧だった記憶が鮮明になっていく響史ですが、同時に恐れも抱いているようで。一体、全ての記憶を取り戻した時、何を知るのか。
次回予告、恐らく唯の語りだけだと思います。内容、後遺症を負った響史の事についての唯視点と、二月八日からの唯視点の過去。更新予定は、未定……早めに出来るよう努力します! それでは、また次回。




