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翡翠の未完成

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/12/02





まだ来ぬ夏の香りが、この岬には仄かだが漂っている。

山の斜面に張り付く様にして建つ小さな温泉宿「残波荘」は、知らぬ者を拒む佇まいで、言わば時代に取り残された様な古びた宿だった。

油の敷かれた廊下は軋み、天井の染みは年月を重ね過ぎて、もはや丁寧に描かれた模様にも見えなくも無い。

それでも、その侘しさが心地良いと毎年通って来る客も、稀にではあるがいた。


無精髭を蓄えた男がこの宿にやって来たのは、その年の梅雨が明けきらぬ蒸し暑い六月の終わりだった。

宿に連絡も寄越さず、突然現れ、「しばらく滞在したい」と言った。宿の主人は戸惑いつつも宿帳を書かせ空いていた二階の端部屋を案内した。

海と山とが一望できる宿で唯一の眺望の部屋だった。


宿帳の名前と職業を見て、その部屋の世話役に自ら名乗り出たのが仲居の静子だった。


静子は年季の入った着物姿の似合う、この宿に来てそろそろ十年が経とうという女性で、黙々と仕事をこなし、本と猫とそして、この宿のある集落の静けさを好んでいた。

休憩時間には帳場の隅で、宿で飼っている猫の「蜜柑」を膝に乗せて、いつも本を読んでいた。

男の部屋の世話役に名乗り出たのは、宿帳の男の職業欄に記された「小説家」という殴り書きに魅かれたのだった。

そして、その男の部屋に置かれた革製の万年筆のケースに彫られた名前を見た時に、その男が小説家の真壁周作である事に気付く。

静子は本の中の登場人物が現実に現れた様な不思議な感覚を覚えた。


彼の作品はすべて読んでいた。

彼の作品はどれも完成はしているが、何かが途中で止まっている様な、そんな余韻を纏っていて、登場人物の未来が曖昧なまま、物語は終わって行く。

まるで作者が読者に「続きは読者に想像して欲しい」と囁いているかの様に思えた。


真壁の滞在は一週間か、長くて十日だろうと静子は思っていたが、二週間を過ぎても彼は「もう少し滞在させて下さい」と原稿を書きながら言い、三週間、ついには一か月を過ぎても宿を離れる気配を見せなかった。


「余程、この宿が気に入ったのだろう」


と仲居の間では囁かれていた。


彼の部屋を訪ねると、机の上にはいつも使い込んだ万年筆と草色の原稿用紙があり、床には丸められた彼の作品の残骸がそこかしこに転がっていた。

朝食の後に静子が掃除に入る時、彼は無言で窓辺に腰掛け、煙草を吹かしながら海を眺めていた。


「完成しましたか」と尋ねる事は無かったが、毎日部屋の中に満ちる丸めた原稿用紙の量を見ると、完成には程遠いのだと静子は察していた。

それでも彼と静子の会話は増え、毎日僅かな時間だが談笑出来る程にはなっていた。






ある朝、彼は朝食を食べた後に宿の玄関に出て、履物を探していた。

静子は真壁に下駄を揃えて出す。


「何処かへお出かけですか」


静子の問いに、


「ああ、ちょっと煙草を買いに行こうと思いまして」


と鼻緒を指に掛けながら彼は答えた。


「少し歩きますが、何でしたら買って参りましょうか」


と静子も慌てて草履を履いた。

彼はそんな静子に微笑むと、


「嗜好品くらいは自分で買いに行かないと、身体も鈍っていますし」


と玄関を出る。


「でしたらご一緒致しますわ」


と静子も一緒に宿を出た。

宿から舗装された道までは坂になっており、西へ少し歩くとその入り江の町の集落になる。

真壁と静子は、ただ黙ったままその道を歩いた。

しかし二人にはその沈黙は心地の悪いモノではなく、むしろ自然の風に心の中を吹き晒される様な感覚で、気持ちが軽くなって行く様だった。

真壁は海の見渡せる場所で立ち止まり、翡翠の色に似たその夏の海を珍しそうに見渡した。


「綺麗な海ですね……」


と彼は言うと、大きくその海の香りを吸い込んだ。


「海は季節でその色を変えるんですよ。こんな翡翠の様な色の海もあれば、深いインクの様な色の海も。そうやって季節を教えてくれるんです」


静子の言葉に彼は云々と頷いた。

彼の髪を風が浚い揺れているのを、静子はじっと見つめていた。


集落の煙草屋で真壁は煙草を買い、ついでに冷えたラムネを二本買って、その一本を静子に渡した。

静子は礼を言うと、煙草屋の前に置かれた長椅子に座り、その青い瓶に口を付けた。

それを見て真壁もラムネを飲む。

瓶の中のガラス玉がカラカラと音を立てて、夏の風の中を泳ぐ。


「いつも申し訳ないと思っています。部屋を散らかして大変でしょう」


真壁は横に座る静子に頭を下げながら言う。


静子はそんな彼を見て微笑んだ。


「そんな事ありませんよ。大変苦労されているとは感じますけど」


そう言うとまたラムネを飲んだ。


「因果な商売ですよ。作家なんて。ああやって原稿用紙を丸めるのが仕事だと錯覚する時もあります」


真壁は静子の顔を覗き込む様にして微笑んだ。


「あら、でもそうやって生まれる作品が私たちに夢を見せて下さるんですから……」


静子の言葉に真壁は口元でラムネの瓶を止める。


「もしかして、私の作品も読んで下さってるのですか」


真壁は意外だと言わんばかりの表情で静子の横顔を見ていた。

静子は何も答えずにラムネを飲み干すと、傍にあった木箱にその空瓶を入れた。

真壁も我に返るとラムネを飲み干して同じ様に木箱に空瓶を入れる。

また瓶の中のガラス玉がカラカラと涼やかに鳴った。






次の日、静子が朝の掃除をしていると、彼が手元の原稿用紙の束をふと差し出して来た。


「読んでみてくれませんか」


静子は驚いた。

彼が誰かに、しかも宿の仲居に原稿を渡すなど、思ってもみなかった。


「よろしいのでしょうか……」


「勿論です。あ、感想が欲しい訳じゃないんです。ただ、どう見えるかが知りたいんです」


静子は深く頭を下げて、その原稿用紙の束を受け取った。


帳場に戻り、湯冷ましのお茶を片手に手渡された原稿を読み始めると、彼独特の哀愁のある筆致で、冒頭から不思議な感覚に囚われた。

文章は確かに真壁のそれで、流麗で、何処か哀愁を帯び、登場人物の声や息遣いまでもが確かに聞こえて来る様だった。


そして、それは物語の中盤を過ぎたところで、突然ふっと途切れていた。

何かに迷った様にインクの点が散り、真っ白になり、次の頁も、その次の頁も真っ白だった。


静子は、筆が止まったその場所に指先を置き、癖のある文字の並ぶその原稿をじっと見つめた。






その夜、真壁の部屋に夕食を運んだ時に、彼女は思い切って尋ねた。


「完成していないのですね……」


真壁は箸を止めて、少しだけ口元を歪めた。


「そうですね……。私はね、完成に至るまでが好きなんです。完成してしまったモノに価値を見出せない」


「完成品には価値が無いと……」


「完成させてしまえば、それはもう動かない。石像の様なモノですよ。ですが、書いている途中は、言葉も人物もまだ生きていて、何処へでも動ける。私はその人物たちの生きている時間が好きなんです」


静子は黙って頷いた。

思い返せば、真壁の作品はどれも物語の続きがある様に感じていた。

読後感と言うには中途半端で、心の何処かに空白が残る。

それが彼の作風だと、読者として理解していた。

そして今、彼が語った「未完成を愛する心」は、それを裏付けるモノで、過去作に感じた空白の理由も理解出来た。


「でも、それでは……」


静子がそう口にしかけた時、彼は言葉を遮った。


「あなたと私の関係も同じ様に未完成でしょう」


彼はそう言って箸を置いた。


静子は思わず顔を上げた。


「はい……」


どんな意味で、彼がそんな問いを投げかけたのかはわからなかった。

しかし、静子の鼓動は間違いなく高まっていた。


真壁は静子の目を見て優しく微笑んだ。


「未完成のままにしておく事も、選択肢としてはある。しかし、私は願っているんですよ。出来る事なら完成させたいと……。あなたがもし、それを受け入れてくれるのであれば……」


静子はその表面にまだ暖かさの残る盆を胸に抱きながら、彼の目の奥を見た。

それは凪いだ夏の海の様に静かな瞳だった。

嵐も激情も無く、ただ真っ直ぐに揺らめいているかの様だった。


「人生における完成って、きっとその生涯を終える時にしか、わからないのかもしれないですね」


静子は彼の目を見ながらそう言った。

そして自然に涙が零れるのを感じた。


真壁は静子の頬を流れる涙を見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「完成してしまう事が怖い。しかし、未完成で終わる事も……寂しい。あなたと出逢って、私の中に生まれた初めての感覚です……」


海の音が、窓の外で呼吸していた。

夜風が帳に吹き込み、机の上の原稿用紙を捲った。






数日後、彼は宿を去った。

何も言わず、ただ一通の静子宛の封書を机の上に残して。


中には、万年筆で書かれた真壁の癖のある文字の手紙と、先日、静子が読んだあの原稿の続きが入っていた。


最後まで完成させたんだ……。


静子は完結した彼の物語を読み終えて、何故か微笑んでいた。

そして最後の一文に、こう記されていた。


「もし、この作品を完成させた事で、私たちの関係が始まるのならば……、それもまた、一つの物語だと、私は思う」


静子は手紙を閉じて、「静子様」と宛名の書かれた封筒にそれを戻した。






ラムネを飲んだ帰り道に、真壁が穏やかな翡翠色の夏の海を見ながら静子に言った言葉を思い出した。


「私は物語を完成させるために書いているのでは無く、物語を完成に至らしめる過程のために書いているのです。重要なのは完成させる事では無く、その過程に如何にして命を吹き込むか、生きた人間を表現できるか。そんな挑戦をしているのかもしれません」


静子はその言葉が真壁らしいと思った。

潮風に揺れる彼の前髪を静子はじっと見つめながらそう感じていた。


客の居なくなった「残波荘」の湯気の立つ岩風呂の湯の中に静子は裸のまま立った。


そこから見える夏の終わりの夕暮れの海が、沈む太陽の尾を引く様にキラキラと光っていた。

それは完成と未完成のあわいにある、そんな時間だった。








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