暴露する彼
灰色がかった水色のタイル、その間の白の目地に生えた黒黴、鼻をつく臭い、ぐしょぐしょに濡れて肌にぴったりついた白と紺のボーダーのTシャツ。全部全部、今目の前にあるみたいに覚えている。
「お前が糞してるから、流してやったんだよ!」
自分の頭上でギャハハと笑う高井や木村の、反響して高く響いた声。全部全部、忘れた事は無い。
「超幻滅。マジロリコンじゃん」
「罪を犯した状態でしばらくステージ立ってたのがマジ無理。チケ代返してほしい」
「痛ファンが未だに擁護してるようだけど、被害女性の気持ち考えて発言して」
スマホを落とす。画面の照明も。物理的にも。
「マジ辛い、無理。明日会社行けないんだけど」
「まあまあ、テレビの向こう側は俺らには分かんないってことだよ、とりあえずほら、元気出しな」
大きいビーズクッションの上で寝転がって動けない私の狙い通り、勇樹は私の髪を撫で、本当に辛い時だけ食べるルールの、いつものより二百円は高いアイスのカップと、水族館で一緒に買ったマンボウ型のスプーンを持ってきてくれる。ふくふくと頬が膨らむ彼は、ちゃっかり自分の分も持ってきた。
「ハルトが絶対そんなことする筈無いのにぃ」
礼も言わずそれを受け取り、私はまだ駄々をこねる。勇樹は仕事が終わらなかったらしく、家に持ち帰ってまでまだ何やら作業している。
「こんなイケメンなのにね、勿体無い。これじゃもう芸能人としては無理だな」
寝転んだまま、よれよれになった勇樹のパジャマ用Tシャツを引っ張る。
「ちょっと、勇くんまで信じちゃうワケ? 私が命をこんなに削がれてる横で」
「だって、女の子が直接訴えてるんでしょう? 一緒に寝てる写真まであっちゃ、一発アウトでしょ」
「でもハルトは身に覚えが無いってコメント出してんだよ? 勇くんまでそんなこと言うなんて最悪」
寝転んだままスーパーマンの格好で殴る私に勇樹は困った笑顔を見せる。
急に着信音が鳴った。お互い自分のを見て、勇樹の方だった。これ幸いとばかりに勇樹は立ち上がって電話に出て、隣の寝室に入った。
いつもは仕事の電話でも親からでもその場で出るのに。
え、まさか浮気? ここで勇樹にまで捨てられたら、マジ私立ってられないんですけど?
項垂れてそれでもすぐ、勇樹のアイスが溶けないよう冷蔵庫に向かって立ち上がり再び部屋に戻ると、暖色系の部屋にぼうっと青白い光を放つ、勇樹のノートパソコンが目に入る。
もしかして浮気なら、なんか写真とか、それこそ証拠入ってるんじゃね?
今私がSNSのタイムラインを見ない方が幸せなのと同じように、このパソコンも見ない方が幸せかもしれない。けれどいつもはアカウントを分けてる勇樹の画面が、今ならパスワード無しで見放題だ。画面が黒くなる前にと、結局私はその前に座りマウスを握った。
表に開いていたのはエクセルで、訳の分からない数字の羅列だった。それでも何か尻尾を掴んでやるとその時にはどこか意気込んでいて、あらゆる場所を開く。ローカルの写真フォルダ、ネットの検索履歴、パソコン側にバックアップを取ってあるスマホの連絡先……。
銃を乱射する様にやたらめったら次々と開く過程で、ブラウザを開いた。
〈【トクダネ配信】COLORSのメンバー五十嵐ハルト(25)、未成年へのレイプを被害女性が告白 直撃取材で暴かれたアイドルの立場を利用した性犯罪の手口〉
さっきまで私も見ていた、けれど今最も見たくない忌々(いまいま)しい文字が並んでいる。さっき話していたから、勇樹もこの記事を開いたんだろう。そう思ってでも、もう一度よく見る。
——記事の右下、親指を立てたグーサインが黒くなっている。
そんな。まさか。押し間違いでしょ。私はそれを慌てて白に戻す。
気晴らしにyoutubeで音楽を聴こうと、ブックマークを開く。私がちゃんと最初から最後まで知っている曲など、COLORSしか無いのに。彼等がデビューした年、私が中三からだから、もう十年以上の古参ファン。その古参歴史、つまり私の人生そのものの中で、最大のピンチ——。
気が遠くなって画面に目を戻すと、グーグルやヤフー、その他仕事用っぽいリンク先の中に、「趣味部屋」フォルダが目に付く。勇樹の趣味であるキャンプや釣り道具の購入サイトに混じって、youtubeのURLがあった。「趣味部屋」フォルダの上位階層に既にyoutubeのトップ画面はあったのに。お気に入りのチャンネルなのだろうか。興味本位で趣味部屋フォルダに入れられたyoutubeのリンクをクリックする。途端に、既視感を覚える。
「なに、これ……」
思わず声が出たと同時に、勇樹が寝室のドアを開ける音がする。親が昔言ってたなんとか名人みたいに、私はマウスを連打して全てのバツボタンを押す。
「どうしたの?」
「ううん、何でも。アイス冷凍庫に戻したから、取ってくるね」
アイスよりうんと冷たい声が出る。私はあの頃みたいに、楽しくなくても笑えてるだろうか。結局放置したままだった私のアイスだけ、溶けてしまった。
古い、地下街の目立たない場所にある茶色い喫茶店だった。日曜の昼でも客はまばらで、店中の煙草の煙がすべての輪郭を曖昧にし、そこだけ異世界のようだった。勇樹が入って行く。案の定、一番奥のソファ席の女の向かいに座った。
「何してるの、勇くん?」
私の声を右肩で聞いた勇樹は、漫画みたいに立ち上がって座っていた膝を上のテーブルにぶつけた。アイスコーヒーと向かいのメロンソーダが少し溢れる。女は暗めの室内なのに顔が隠れるほどのでかいサングラスをかけていて、表情を読み取れない。
「違うんだ、瞳、これは」
親に万引きが見つかった子供みたいな顔。私は勇樹を見つめて思った。
「休日出勤だって言って出掛けてコソコソ女と会って。私に隠れて浮気してたのね……とでも言うと思った?」
「え?」
勇樹と女の間に置かれた、スタンドに立てられた小型のカメラを私は指差す。
「暴露系youtuberトクダネ配信さん、今日も取材?」
声が自分以外の生き物から出たように奇妙に思えた。勇樹は肩を震わせる。何か言えよ、と私が言う前に女が口火を切った。
「初めまして。勇さん? の彼女さんですか? 私、勇さんのお仕事でお会いしてるんです。怪しい関係じゃないんで安心してください」
嫌に冷たく、けれどどこかにあどけなさを残す声だった。
「人と話すんならグラサン取れよ」
「瞳、その、守秘義務ってもんが」
「差し障りあんならまずこのカメラ落とせよ。取材だろ? 今日は私も同伴させてもらうよ」
目の前のカメラスタンドに私は手を伸ばしぐいっと下のテーブルに向け、勇樹を蹴って奥にやりその横に座った。
「ほら、早く」
「……分かりました、よろしくお願いします」
そう仏頂に言ってサングラスを取った女を舐め回すように見る。彼女の目は、パチンコ屋の電飾ぐらい派手だった。習字の筆ほど太く目を縁取る黒のアイライン、更にそれを囲むラメのアイシャドウ。瞬きの度風を起こせそうな長い睫毛はマツエクだろう。茶色い目玉はカラコン、嫌に横に長い目尻は、切開かもしれない。けれどやはり顔全体の印象はどこか幼くて、それを隠す為に似合わないデコレーションをしているように見えた。
趣味じゃない、ハルトの。黒髮ロングヘアの清楚系お姉さんが彼の好みだ。雑誌のインタビューでそう言っていた。伸ばし過ぎて枝毛になった自分の髪を見ながら、この場でもそんな事を思う。
「あんたがあれだろ? 未成年なのにハルトにレイプされたって言う」
「瞳、言い方ってもんが」
「もっと酷い言葉で全世界に発信してんじゃねえか、なんでこの女一人相手だと何で駄目なんだ」
「この人は、被害女性だろ……」
「私が仮にその被害女性本人なら、面と向かって知らない誰か一人に訊かれるより洗いざらい全世界に自分のされたこと発信される方が、よっぽど傷付くよ!」
私の勢いに気圧され、勇樹は遂に黙ってしまった。
「大丈夫です、今日は元々何でもお話しするつもりでしたから」
「じゃ、あんた免許証は? 持ってなかったら何でも良いから身分証明できるもん」
「えっと……」
彼女はごそごそと、デコった長い爪を器用に動かしブランド物の鞄から同じブランドの財布を出した。シザーハンズ。勇樹と最初に観た映画の記憶がふっと湧き、捩じ伏せるように無理矢理葬り去った。彼女の出す保険証を見る限り、確かに未成年らしい。
「これをハルトには見せた? あんたが襲われる前に」
「いえ、そんな余裕は……。でも事前に言いました。私未成年なんですけどって」
「それの証拠は?」
「そんなの無いです、二人っきりですもん」
彼女は初めて茶色い眉根を寄せた。落ち着けと、自分に言い聞かす。手の震えをもう片方の手で抑える。そっちも震えてるのに。
「襲われた時さ、あんたどんな服着てた?」
「え……確かピンクの花柄レースのワンピースだったと思いますけど」
「正解。じゃあネイルは?」
「そんなことまで覚えてませんよ……てか何これ、クイズですか?」
彼女の問いは無視する。
「レイプとかトラウマ級の出来事があった時って、その場の光景が全部頭から嫌ってほど離れないっていうけどね」
隣でガタッと音がする。勇樹が背の低いテーブルにまた脚をぶつけたらしい。
「そんなの人に寄るでしょ。第一ホテルの部屋に入ってすぐ電気消されたし」
隣から今度は小さくあ、と言う声が漏れる。
「へえ、じゃあこれは?」
勇樹の鞄からノートパソコンを取り出して操作し、女に向ける。女は間抜けにきゃあっ、と声を上げた。
「この写真さあ、電気点いてるよねえ。わざわざ他人に見せる為みたいに。それにほら見てみ」
マウスを持って、寝転んだ女の写真からハルトだけを動かす。
「合成じゃんね、これ」
「うっせえよババア!」
あどけなかった女の声は、一瞬にして彼女の前にあるメロンソーダに浮かぶ氷の様に冷たく温度を変えた。
「この男が、協力してくれたら三十万くれるって言うから!」
まばらな客と店主の視線が一斉にこちらに向かう。女に指差された勇樹は、ただ下を向いている。情けない。この女の方がまだ大人に見えた。
「まあまあ落ち着いて。今日あんたを責めたい訳じゃないから。材料が集まればそれでOK。もう帰っていいよ」
頬杖を付き、もう片方の手で追い払う仕草をする。女はキッとこちらを睨み、鞄を持って立ち上がった。
「トクダネさん、報酬は約束通りでお願いしますよ!」
「ご心配なく〜」と、何も話せないでいる彼の代わりに適当に答える。彼は茫然自失としていた。これ以上店に迷惑は掛けられない。テーブル上のカメラを取り、また蹴って彼を立たせる。
「申し訳ありませんでした‼︎」
彼は家に帰るなり土下座した。足らない頭で精一杯事態の収拾方法を帰りの間考えたのだろう。
「謝るのは私じゃなくない? まずハルトでしょ。今回の騒動で無期限活動休止にまで追い込められてるんだから」
簡単に彼はまた黙ってしまった。
「やり方分かんないなら教えてあげよっか? この合成写真の合成前のと、今日のあの女と私の音声データを、あんたのトクダネ配信とやらに流しゃいいのよ、あんたのその土下座もオマケで」
そう言って自分のスマホを撮り、彼の土下座写真を撮影する。そのシャッター音で彼は顔を上げた。
「それは出来ないよ……。やっと登録者数が三十一万人まで来たんだ。今更嘘でしたなんて、一気に減って収益ガタ落ちだし」
「てめえの悪事で得た身銭により、大事なもんがあんだよ!」
私の声は稲妻の如く狭い部屋に響いた。それと同時に、彼は怯むのをやめた。
「大体! 大体お前がハルトハルトって、そいつの話ばっかり俺にするのがいけないんだろ!」
乾いた女の声に、もっと乾いた男の声が重なる。部屋はキンと、一瞬の静寂になる。黙って考えてみても、意味が分からない。
「私がハルト推しなのと、あんたが暴露系youtuberなのと、何が関係あんのよ」
「彼氏がいるのに、他の男の話ばっかり。こっちの気持ち考えてみろよ!」
推しとリア恋の区別もつかないなんて。やっぱりこの人には、圧倒的に足らないのだ。これまで与えられた愛情が。急に湧く憐れな感情を慌てて抑える。
「今回のハルトの随分前から、同じ様なこと色んな芸能人で繰り返してんじゃん。私を言い訳に使わないでよ」
「それで、それでこんな良い部屋住めてんだろうが!」
南向き角部屋、五反田のタワマン五階の2DK。それが、彼が人を傷付け手に入れた城らしい。
「やっぱり。あんた、働いてないでしょ? 私が先に仕事出たらスーツ脱いで、配信してんでしょ。配信時間が平日の昼間とかの動画ばっかだったよ、あのチャンネル」
「それでメシ食ってきた癖に、偉そうに言うなよ!」
「食費も家賃も私だって出してるし、そんな人を傷付けて得た金でなら自分だけで働いて、安いアパートに一人で毎日カップラーメン食べて細々生きてる方が百倍マシだよ」
吐き気がする。ああやって得た金の一部で今まで食事をしていたなんて。それが私の血肉になっていたなんて。この二年で食べた物を自分の肉体から全て出してしまいたい。言わないけど、本当はそれぐらい思っている。
「人を傷付けてって……。これまでのは全部本当なんだ。ちゃんと相手から証言を得て、DMのスクショだってあったし……」
でも今回はお前がハルトの話ばかりするからでっち上げた。三十万見知らぬ未成年の女に支払ってまで。続く言葉を彼の声で脳内再生する。ふざけんな、いい加減じゃない。これじゃ一生、私までハルトを傷付けた共犯者みたくなるじゃないか。
「そのDMをあんたの言う被害者側が加工したって可能性は? アカウントがそもそも別人に乗っ取られた可能性は?」
そんな出来事は、これまでにも世間で山のようにあった。そうやってたくさんの有名人がネット上だけで裁きを受け謹慎など罰を受けた。少しのネットリテラシーがあれば誰でも思い付くことだ。自称IT会社勤務の勇樹に、その可能性が浮かばない筈がない。また彼は下を向く。大学時代出会った頃は、こんなに莫迦だっただろうか。
「なんでこんな事始めたの? 第一志望の会社に入れたって、言ってたじゃん」
「……虐められたんだ。また、会社でも。同じ様にやってるのに同僚の奴らが俺だけ出来が悪いとか言って莫迦にして、上司も露骨にえこひいきして。終いに言われたよ、『矢吹くん、学校でも虐められてたでしょ』って。それでもう、行けなくなった。何とか手っ取り早く、瞳にバレないように家賃を稼がなきゃって……」
「なんでそれがこんな人の悪口みたいなことに繋がるの。やられたこと、繰り返してるだけじゃん」
「思い出したんだ。通ってた高校生限定の掲示板、自分だけハブられて陰で有る事無い事書き込まれてたのを。応用すれば、収益になるんじゃないかって……」
虫唾が走った。思い出した。あの時見つけてしまった瞬間を。
単純に怖かった。自分の彼氏がというより、そんなことを平気で出来る人間がいて、そんな見ず知らずの誰かが発信する内容に盲信的になって信者みたいな人間達が三十一万人もこの世にいて、またその信者達が平気で他人を傷付けていることが。
その信者達は、ハルトのアカウントだけでなくわざわざハルトのファン達の、彼を擁護するSNSの投稿を見つけては徹底的に糾弾した。
「被害者がいるのによくそんな非情なことが言えますね」
「お前がやってることは、性加害を認めてるのと同じ」
「トクダネさんを敵に回すと、痛い目に遭うよ」
一人一人が自覚を持たずに、通り魔のように刃を振り回していた。そしてまるで蟻地獄に埋められてしまう蟻の様に、彼等はその「トクダネさん」の思うままに嵌められていった。職場で挨拶を返されなかっただけでうじうじ一晩中悩む気弱な勇樹と、その蟻地獄の主であり教祖は、私の中で中々重ならなかった。
「一市民の癖に、まるで裁判官みたいに人を勝手に裁いて傷付けて、恥ずかしくないワケ? こういうの私一番嫌い。ゴミをポイ捨てする人の、五億倍嫌い」
傷付いた人が沢山いるから。当事者、関係者、ファンの人達、その中の私……。
下を向いていた彼は急に立ち上がり、そのまま私に襲いかかってきた。眉間に皺を寄せ、荒い鼻息を吹き、目も口も歪んでいる。鬼の形相って言うけど、人間って本当に鬼みたいな顔出来るんだな。どこか冷静な自分がいた。
彼が私の抱いたリュックから、ノートパソコンとカメラを奪う。ゴキブリのように床にそのまま這いつくばって、慌ててそれらのデータを開いている。
「もう遅いよ」
数々の悪行を重ね地獄行きを言い渡され、それを拒んで土下座で懇願する人間にそう言い落とす神のように、私は呟く。
「自分のチャンネル、見てみなよ」
青ざめた彼は必要以上に床にマウスを叩きつけながら、画面を開く。
「帰りのトイレで、もう流しちゃった」
まるで水みたいに。そんな冗談はこの場では何の意味も持たない。彼が状況を飲み込む間に、さっき撮った彼の土下座写真も遅れて一緒に流す。
「合成写真だけじゃ、寧ろ合成っぽく加工したんじゃないかって反論されると思ったんだよね。だからあの女の音声データも必要だったの」
あの女の声は既に彼の別の動画で世に流れていた。「トクダネ配信」の熱心な信者達が、今頃必死に声紋照合などしていることだろう。
「いい加減にしろよ!」
再び起き上がった彼は私を壁に叩きつけた。ドンッと、隣人迷惑な音を立てる。
「俺は、お前を支える為に……なのに、お前は会ったこともないアイドルの話ばっかり。今だってあいつのこと優先して……」
そう言ってそのまま、彼は私の身体をゆっくり下につたって床に四つん這いになった。人になる前の人みたいに。
「私だって、暮らしたかったよ。こんなことをしない、勇くんとなら」
けれど私は見つけてしまった。あの日あのチャンネルを、ロックされた写真フォルダを、それを開く為のパスワードを。
「全部hitomi1223なんて、セキュリティー激甘じゃない?」
「俺は……ずっと愛されてこなかったんだ……親父の再婚で出来た新しい母親にも、クラスメイトにも……。虐待されて、虐められて……それでも瞳だけは、俺のこと、愛してるって言ってくれた……」
彼に視線を合わすために屈む。
「自分が傷付けられたからって、他人を傷付けていい理由になる訳ないじゃん。寧ろその分優しくならなきゃ。言葉の暴力でだって、人は死ぬんだよ。私だって学校で虐められてたよ。トイレで上から水ぶっかけられるくらい。それでも親に心配かけないようただ笑って過ごして。その話を優しく共感しながら聞いてくれる、勇樹が好きだったのにな」
彼の嗚咽が、部屋中響き渡る。去年のイブイブに二人で私の誕生日とクリスマスを兼ねてディナーした、フレンチレストランのオレンジ色の間接照明が目の前にぼわっと魂の様に浮かんだ。
泣きたいのはこっちだよ、よく頑張ったよ私。心の中だけで呟く。
警察にすぐに届け出た。私は裁判官では無いから。人を裁く資格は何も無いから。彼は名誉毀損で有罪だろう。あの女は未成年だから、指導ぐらいで済むのだろうか。
彼の代わりにあのチャンネルを削除した。合わせて宣伝用のSNSアカウントも消す。
パソコンの前で、電気も点けず、電化製品以外殆ど段ボールに詰め終わってがらんどうに近い部屋を見渡す。悩まなかったと言えば嘘になる。それでもこれで良かったんだ。何度も自分に言い聞かせて。
夏は素麺ばかり食べて、冬は鍋ばかり食べた。それでも全然飽きなかった。節分は方位磁石のアプリで方角を調べて、一緒に恵方巻きを食べた。去年の彼の誕生日には、彼の好きな水色のネクタイをプレゼントした。それを身に付けて仕事することなんて、一度も無いとは知らずに。そんな写真を全部シュレッダーにかけた。パソコンのデータも全部削除した。戻って来た彼に逆恨みされ、それらを使って逆襲されるのが怖かった。
ああいうのって、もっと狭い部屋で一人きり、誰とも話せない人がやるんだと思ってた。相談してほしかったなあ。独りごちても、勿論誰も返さない。窓からの光が、空中に舞う埃を浮かび上がらせる。
ふと、三角座りした自分の右膝を見る。同じ場所に傷があるって、散々笑って慰め合ったじゃない。勇樹の笑窪を思い出し、そこへ流す様にあの時我慢した涙がやっと流れる。
心に鉛が落ちていくのを胸に手を当て必死に押さえて、襲いかかる沈黙を破る為もう片方の手でテレビをつける。
ハルトが歌っていた。
——未成年との性交は嘘だけど、あの女と飲酒していたのは事実だよ。ほら、これあの女から送られてきた写真。合成じゃないだろ? あいつは未成年の女子をこんなに集めて夜な夜な乱痴気なパーティーしてたのさ。未成年との飲酒だって、十分罪だろう? 性交だって、まだ証拠が無いだけかもしれない。どう? 彼を見損なった?
この部屋を出るとき、勇樹は私だけに暴露した。また嘘かもしれない。それとも、それは事実かもしれない。ただ、そんなことを言わない貴方が好きだった–––。
水をかけられた様に炎上から冷めたハルトは、水色のメンバーカラーを身に纏い、こちらに涼やかにウインクする。
この人が、私を直接励ましてくれなくても。この人が、私と付き合ってくれなくても。いつかは彼にお似合いの、飛び切りの美人と結婚するだろう。人を憎む事など人生で一度も無かったような美女と。
それでもハルトは、表面上かもしれないけれど、非情な暴露さえされなければ、知らなくていいことをこっちが知らなければ、無垢なファンを傷つけることなんて絶対にしない。彼の誰かに似た笑窪を見れば私は何も他に要らないぐらい、幸せだった。