ろく ねこ
「あはは、あたるくんおそーい」
「はぁ……はぁ……」
ある日のマラソンの授業にて、ついに恐れていた事が起きた。
谷串の方が俺よりも持久力や瞬発力が高くなってしまった。
女に、それもこんな奴に、得意なジャンルでは無いながらも負ける屈辱。
この屈辱を、この前の男子も味わっていたと思うと罪悪感が生じてしまう。
「……まぁ、俺の教え方が上手だったからかな。それと体格差。みたきちゃん、ちょっと並んで身長測ろうか。……俺より5㎝も高いんだ、負けても仕方ないよ。別に? 小6だと女子の方が身長とか高いらしいし? 俺の方が低い事なんて気にしてないし?」
「あたるくん、ひとりで何を言ってるの?」
「……」
彼女に負けてしまった事、実は彼女より身長が低い事に対する精神的なダメージから身を守るために自分に色々言い聞かせていたが、よりにもよって授業中に独り言を言う事もある彼女にそれを指摘されてしまい、俺はショックでフラフラと木陰にもたれ掛かる。
受験勉強に割く時間が減った分、運動も少しはやろう、文武両道な人間を目指そうと、この日俺は悔しさをバネに成長するのだった。
「久々に家までかけっこする?」
「いや、しない」
それからしばらく経ったある日。俺が十分に速くなって確実に彼女に勝てるまでかけっこはお預けにするという戦略的撤退を決め込みながら彼女と共に帰路についていると、前方に小さな生き物の影が見える。
「猫!」
「……様子がおかしいな」
猫を見つけて大喜びで触りに行こうと走り出す彼女。この辺は車に轢かれるリスクも無いし好きにさせておこう、いや、彼女が猫を追いかけて疲れた所でかけっこを打診して確実に勝とう。
そんな我ながら狡猾な事を考えながら彼女が猫を追いかけるのを眺めていたのだが、
「えへへ、撫でていい?」
猫は彼女から逃げようとせず、いや、正確には猫は逃げようとしていたがあまりにも動きが遅かったため彼女にあっさりと追いつかれてしまう。
飼い猫には見えなかったのでその光景に違和感を感じながらも、彼女と猫の下に向かった俺はその理由を悟って悲鳴を上げた。
「ひ、ひぃっ! みたきちゃん、そんな猫を触っちゃ駄目!」
「えー、何で? 折角逃げないのに」
耳がカットされているどころか、片耳付近がえぐり取られているかのように存在せず、傷口付近は化膿しており変色もしている。
交通事故にでも遭ったか、カラスにでも食われたか、我々がよく知る可愛い猫とはかけ離れた、放っておけば虹の橋を渡るであろう哀れな猫。
そんな猫に対し、逃げないから触り放題だとばかりに抱こうとする彼女を必死で止めて、猫に対しどっかにいけと地団駄を踏みながら威嚇する。
「汚いよ。ばい菌がつく。こんなものを触ったらみたきちゃんも病気になるよ」
「猫も、私と同じなの?」
「……!」
その辺の野良猫や地域猫、飼い猫ならば触っても手を洗えばいいが、この猫は駄目だ。
それを彼女に説明するも、日頃からクラスメイトにばい菌扱いされている彼女は猫にシンパシーを感じてしまい、一方の俺は自分が酷い事を言ったかのように感じて罪悪感を覚えてしまう。
「とにかくさ、駄目なんだよ。そうだ、この近くに猫カフェがあるよね? そこに行こう」
「猫カフェ? 猫で作ったコーヒーを飲むの? 怖い……」
彼女は目の前のグロテスクな猫に対しても可愛い猫という感情を抱いているらしく、気にせずに触ろうとする。
そんな彼女に天使の片鱗を感じながらも、俺はこれ以上目の前の物体を見たく無かったので、ちゃんとした可愛い猫達がいる猫カフェへと無理矢理彼女を連れて行く。
「……このジュース、猫入っているの?」
「入って無いから安心して飲みなよ。あぁ、やっぱり猫はこうでなくちゃ」
猫に囲まれながらも、ずっと勘違いをしているようで目の前のドリンクに怯えている彼女。
逆に彼女に影響されてしまい目の前のコーヒーが飲みづらくなりながらも、俺は店内にいる可愛い、本物の猫を撫でて心を癒す。
「さっきの猫と、ここの猫、何が違うの?」
「全然違うよ。さっきの猫は可愛くない。ここの猫は可愛い」
「……?」
先程の猫に怯えたと思ったら、今度は猫カフェで至福の表情で猫を撫でる俺に対し彼女はまるで俺が変人かのような視線を送る。
俺は正常で彼女が異常なのだ、そう自分に言い聞かせながら、制限時間たっぷりと猫を愛でて店を出る。
考えようによっては俺と彼女がデートをした事になってしまうが、そこからは目を背けつつ彼女を家まで送り届けようとしたのだが、
「あ、まだ猫いる」
「……」
まだ移動していなかった、いや、もう移動する事が出来ないのかもしれないが、グロテスクな猫が道端に座り込みじっとこちらを眺める。
「……私の家で飼えないかな?」
「飼える訳無いでしょ、自分の世話も出来ない癖に」
「じゃあ、あたるくんの家は?」
「マンションだからペット禁止。そもそもこんな可愛くも無い病気の猫なんて飼いたくない。早く帰るよ」
「病気なの? 保健室に連れて行こう?」
再びその猫の前で立ち止まる彼女に対し、苛立ちを隠せずに厳しい言葉を連ねてしまう。
しばらくすればこの猫は虹の橋を渡り、カラスにでも食われるだろう。
だから俺は彼女をさっさと家に送り届けて、明日にはいなくなっているであろう猫の事を忘れさせようとしたのだが、それでも彼女は猫をどうにかしたいようで動く素振りを見せない。
「……ちっ。みたきちゃん、家にこれくらいの大きさの段ボールあったら持って来て」
「うん!」
無理矢理彼女の手を引いて家まで連れ戻す事も可能だったが、彼女が猫を助けようとしているのに対し俺が見捨てようとしている事を受け入れたくなかったため、走りを鍛えた彼女に小さめの段ボールを取ってこさせ、その中に猫を入れる。
「野良猫が車に轢かれて……助けてください!」
そのまま近くの動物病院へ連れて行き、無垢な子供を演じて無料で簡易的な治療を行って貰う。
「えへへ、ご飯美味しい?」
『ナーオ』
命の危機を脱し、食欲も戻り鳴けるようにもなった猫に対し餌を与えてご満悦な谷串に対し溜め息をつきながら、近隣の保護猫団体を調べて電話をかける。
世の中には可愛く無い猫でも構わないという特殊な人間もそれなりにいるようで、すんなりと猫の受け入れは決まり、今後本格的な治療だったりを実施されるであろう猫とお別れの時間になる。
「またねー!」
「俺のおかげで生きられるんだからな、感謝しろよ」
保護団体に連れて行かれる猫に手を振る谷串と、可愛くも無い猫のために、みたきちゃん係のように俺にメリットがある訳でも無いのに色々と奮闘した結果疲れ果てて大きな欠伸をする俺であった。
それから更にしばらく経ち、俺達は近所にある、例の猫が働いている保護猫カフェへとやって来ていた。
「えへへ……ね? この猫も可愛いでしょ?」
最初に見た時に比べれば大分まともな容姿にはなったが、ちゃんとした可愛い猫と比べると見劣りのする猫を抱き、こちらに同意を求める谷串。
「どこがだ。……猫はいいよな、可愛く無くても、奇形でも、病気でも、異常な個体でも、それなりに愛されるんだから。……お前とは大違いだ」
俺は彼女の美的感覚を疑いながら、お店の中では一番マシな見た目の猫を撫で、時に人間よりも優遇される猫と、この世の不条理を想うのだった。