最終話 本当の恋人
「とりあえず、応急処置はこんなもんかな……大丈夫? 傷がしみる?」
「うん、大丈夫。……小学生の時も、よく中君、私が怪我したら治療してくれたよね。皆は、勝手に転ぶなとか、私の事を怒ったけど、中君だけは、嫌な顔しなくて」
落ち着いた彼女と共に、両親が出かけているらしい彼女の家に向かい、腫れてしまった彼女の額に応急処置を施す。
念の為明日にはちゃんと病院に行った方がいいだろうが、彼女の受け答えからして大事には至って無さそうで一安心していると、彼女は小学生の頃の、俺がみたきちゃん係をやっていた頃の思い出に浸り始める。
親からも学友からも教師からも、腫れ物扱いされ続けてきた自分にとってみれば、初めて自分を受け入れてくれたに等しい俺という存在は、自分の人生を全て捧げるに値するのだろう。
ただ、思い出なんてものは大抵美化されていて、本人の中で歪曲されていて、現実はいつだって汚くて。
「……俺、受験生でさ。最初はみたきちゃん係なんて嫌だったんだよ。ばい菌扱いしてた周りの男子達と同じような考えだったし、他の人がみたきちゃん係になってれば、同じような対応をしてたと思う。でも、推薦が貰えるって言うから、仕方なくやってたんだ」
「そう、なんだ」
多少賢くなったとは言えど、そもそも何で俺がみたきちゃん係をやったのか、小学校を卒業してからは連絡を絶っていたのか、中学生になって再会してから急に距離を詰めて来たのか、色々と思い出補正のかかっている彼女は真実に辿り着くことは出来ておらず、俺が彼女の事を本当に好きだから、本当に優しくて良い人だからという可能性を信じ続けて来たのだろう。
みたきちゃん係を引き受けたのは受験のため、と俺が正直に当時の真相を語ると、悲しそうな表情をする。
優しい嘘なんて概念もあるが、俺達が今後の関係を続けるにあたって、変わってしまったみたきちゃんの、三滝の、純粋で無い部分も受け入れる必要があるし、同時にそれは彼女が俺に対する幻想を捨てる必要がある事を意味する。
「だから、何も言わずに小学校卒業して、連絡だって取ろうとしなかった。……でも、これだけは信じて欲しい。いや、自分を信じたい。最後まで嫌ってた訳じゃない。最初は嫌々だったけど、途中から、三滝の純粋な部分に、自分が持っていない部分を見出して、大事にしてたんだ。何も言わずにさよならしたのだって、俺は別の中学に行って、三滝は特別支援学校に行って、離れ離れになるし、そこで新しい友達も出来るだろうから、俺の事は忘れて欲しかったんだ」
「私は、信じたいよ。あの時の中君は、確かに、面倒臭いなぁって表情もしてたけど、それでも私を気にかけてくれたりしてた」
谷串三滝は天使では無い。俺も王子様では無い。恋は盲目とは言うが、孤立していた彼女は最初から俺に幻想を抱き過ぎていたし、みたきちゃん係をやったおかげで小学校最後の年を孤独に過ごした俺も、彼女に幻想を抱き過ぎていた。
彼女の幻想はそれからも続いたが、俺の幻想は中学生になって、友達が出来て、そこで解けたはずだった。
「中学生になって、三滝と再会してさ。連絡先も交換したけど、そんなに仲良くするつもりは無かったんだ。妹くらいに思ってた。俺はもう中学生で、友達だっていたし、途中で彼女も出来たんだ」
「そっか。中君、カッコいいし、優しいもんね。私が邪魔しなければ、皆と仲良くなれる。私は、新しい学校でも、皆とあまり仲良くなれなくて。ううん、周りも、自分と似たような子だったり、なんなら私の方がお姉さんだったけど、私は、中君みたいな人を求めてて、でも先生は皆の対応で忙しいし、それで、私、ずっとわがままやってて、中君に再会した時も、もう離れたく無くて」
三滝は俺が既に引っ越していなくなっていたマンションに押し掛けるくらいには、俺との再会を待ち望んでいた。
一方の俺は元同級生との間に亀裂を生じさせながらも、彼女の今後を想像して辛かったので関係を終わらせるつもりでいたし、忘れるつもりでもいた。
けれどあの再会した日、彼女との関係が再び始まった日、きっかけを作ったのは先に彼女に気づいた俺だった。
本当に再会を待ち望んでいたのは俺の方だったのか、今となってはわからない。
「恋人が欲しい、そういう事がしたいってずっと思って行動してたけど、現実はそんな簡単にうまく行かなくて。デートにはお金がかかるし、キスだってなかなか出来なくて。そんな時、三滝がいるって思っちゃったんだ。あの時の俺は、三滝の事を本当に愛してるって思ってたけど、多分、そんなものは自分に対する言い訳で、本当は、都合のいい女だと思ってたのかもしれない」
「私は、それでも、良かったんだ。自分に価値なんて無いって悩んでたから、中君に利用される女でも、きっと私は幸せだった。世間の目なんて、私にはどうでも良かった」
生物の本能とは子孫を残す事であり、そういった行為をしたがるのは男として自然だ。
性に目覚めた男子が、近くにいる、自分の言う事を何でも聞いてくれるような女子に興味を持つ。
それは別におかしな事では無いが、その相手が彼女のような存在となれば話は別だ。
普通の人は良心だとか、常識だとか、プライドだとか、きっと色んな物が邪魔をして、そんな発想には至らない。
俺がそんな発想に至ってしまったのは、彼女に対する本当の愛情があったからなのか? 女性に対する異常な欲求があったからなのか? それにすんなりと答えが出せる程、今の俺には人生経験が無い。昔の俺なら尚更だ。
「俺は、普通の人間として生きて来たから、世間からの非難に耐えられなかった。自分の感情に自信が持てなくなったんだ」
「うん、あの頃の中君、凄く辛そうだった。だから、私、中君のために、頭良くならなくちゃって思って、勉強もこっそり頑張ったけど、全然駄目で、そんな時に、治験の話を知ったんだ」
自分の気持ちに自信が持てなくなっていたとは言えど、それでも彼女は俺にとって大切な人で、手術なんて危険な事をして欲しく無かった。
けれど、そんな自分を本心から彼女が想っている事に嬉しさもあった。
だから、彼女の一大決心を受け入れて見送った。
「折角三滝が、俺の為にそこまでしてくれたのに。俺ってば最低な男だよ。変わってしまったなんて、興味を持てなくなっちゃって」
「ううん、中君は悪く無いよ。そりゃそうだよ、見た目が同じでも、中身が別人みたいになっちゃったんだもん。記憶喪失みたいなものだよ。頭が良くなれば、それで全てうまくいくなんて、あはは、やっぱり昔の私の考える事は、馬鹿だね」
なのに、俺は大人になった谷串三滝を、みたきちゃんとは別人として扱ってしまって、同じように愛する事が出来なくて。
「でも、はっきりしたよ。みたきちゃんも、三滝も、優しさ故に苦むような純粋な、俺の事を最高に想ってくれる、最高の恋人だって。……言った通り、俺は三滝が思っているような、立派な人間でも何でも無い。こんな俺で良ければ――んっ!」
三滝にも、自分自身にも隠していたような、自分の汚さだったり、心の闇だったりを言葉にした事で、俺はすっきりしていた。
今の彼女は、俺以外に自分を愛してくれる人がいないなんて自己嫌悪に陥るような状態では無い。
俺と別れたって、すぐに別の男が彼女に興味を持つ。
だからこれからの事は彼女に委ねようと考えたのだが、俺が喋り切るのを待たずに彼女は答えを出したようで、強引に俺の唇を奪う。
それからしばらく、子供のするような可愛らしいするキスや、大人のするような妖艶なキスをし続けて、お互いの顔が離れる頃には、目の前の彼女は高熱と見間違うくらい顔を赤くしていて、自分の顔を正確に見ることは出来ないけれど、きっと俺も似たような状態で。
「……ぷはぁっ。私も、中君が思っているほど、立派な人間でも何でも無い。そもそも、みたきちゃんの頃だって、周りの人に、中君に、迷惑ばっかりかけてて、それを正当化してたんだから。こんな私で良ければ、一生愛して欲しい」
みたきちゃんが天真爛漫で、活発で、こっちの事なんて考えずに俺を振り回すわがままな子だったように、大人になった三滝も、積極的な女性らしい。
けれども俺にも、男としてのプライドというか、みたきちゃんに振り回されてばかりでいるものかという気概があったから、リードするのは俺の方だと言わんばかりに、大人げなく彼女を組み伏せて、されるがままの彼女は嬉しそうで。
こうして『あたるくん』と『みたきちゃんは』死に、
『高下中』と『谷串三滝』は本当の恋人になったのだった。
◆◆◆
「ただいま、三滝」
「おかえり、中君。ご飯出来てるよ。まだまだ美味しく無いけど。中君の分だけ」
「ありがとう、はい、お返しのまかない」
大学とアルバイトを終えてくたくたの状態でアパートに戻ると、勉強中の三滝がお出迎え。
そのまま俺は三滝の作った料理を食べ、代わりに三滝は俺がバイト先で作った料理を食べ、大学での出来事だとか、勉強の進み具合だとかについて語り合う。
俺は地元の大学に進学したが、早く一人立ちしたいという思いから、実家では暮らさずに近くに安いアパートを借りて、学費以外はアルバイトでやりくりしている。
三滝は養護学校を出た後もそのまま作業所で働きながらも、将来的には大学にも行きたいからと大検に受かるために必死で勉強しており、ほとんど俺の部屋に泊まっているので実質同棲状態だ。
「そうだ、明日大学の授業午前で終わりだし、バイトも無いでしょ? どこか出かけない?」
「いいね。どこに行こうか」
「小学校の頃の通学路とか、その辺ぶらぶらしたいなって。昔の私が、懐かしんでるから」
大学を卒業して、就職して、立派な人間になれたと思えるようになったら、彼女に結婚を申し込もう。
そんな事を考えていると三滝がデートの誘いをかけて、翌日の昼過ぎに俺達は懐かしの小学校の前に来ていた。
「皆小さいね。あの頃に比べたら、背も大きくなったし、私も成長したんだなぁ。……あの子、私の同類かな。強く生きて欲しいな」
平日の昼休憩の時間、俺達は学校の外から校庭で遊ぶ子供達を眺めるという不審者OBっぷりを発揮していたのだが、校庭にいる一人が彼女の同族だと感じたらしく、憐憫や応援と言った表情をしばらく見せる。
しばらくして昼休憩が終わり、子供達が校内へと戻って行くのを見送った後、俺達は懐かしの放課後の道を歩く。
「……そういえば、卒業式の日、中君、滅茶苦茶な事してたよね」
「まあ、俺も色々、ムカついてたからさ」
途中の川で立ち止まった彼女が、笑いながら卒業アルバム切り抜きポイ捨て事件を振り返る。
そしてカバンを開くと、中から緑色の手帳を取り出した。
「いいの?」
「うん。もう私には、必要無いから」
彼女がこれから何をしようとしているのを察した俺は、改めて彼女の決意を問う。
彼女は俺にニッコリと微笑むと、
「さよなら、みたきちゃん」
持っていた手帳を、思い切り川の中へと投げ入れる。
「……行こうか。あ、そういえば、中君が昔住んでたとこの辺りで、今お祭りやってるよね? 平日の昼間だし、ゆっくり楽しめると思う」
「そうだね。あの頃は、男子にからかわれて苦い思い出になったけど、今は違うから。行こうか」
手帳が川の中に沈んでいくのを見届けた彼女は、遠くでやっているお祭りの方を指差して、
俺達はそこに向かって、未来に向けて歩き出すのだった。




