八話 面影
「俺が好きだったのは、『みたきちゃん』なんだ。『谷串三滝』じゃない」
自室でみたきちゃんの写真を眺めながら、自分を慰めながらうわ言のように呟き続ける。
みたきちゃんは確かに勉強は出来ないけれど、幼いけれど、それだけに穢れを知らなくて、優しくて、例え世間に批判されようとも、自分自身が穢れているからこその罪悪感に苛まれようとも、俺にとっては理想の恋人で、離したくない存在だった。
「可愛い訳でも無い。スタイルが良い訳でも無い。谷串三滝はただ俺に従順なだけの女の子でしか無い」
谷串三滝は確かに可愛くなった。
表情の作り方だとか、笑い方だとか、みたきちゃんには出来ないような芸当が出来るようになって、今なら顔面偏差値なんて下らない指標でも、50近い値を叩きだせるのだろう。
そして彼女は数年間、自分が変わる前から付き添ってくれた俺に対し絶対的な信頼と愛情を寄せており、俺が命令すれば何だってしてくれるだろう。
客観的に見れば非常に都合のいい彼女であり、けれどみたきちゃんのように責められる事も無い。
「俺はそんな存在が欲しかった訳じゃないんだ」
周囲の人間からすれば俺達の事の顛末はまさにハッピーエンド。
俺はみたきちゃん係を勤め上げた結果、自分を完全に愛してくれる恋人が出来て。
谷串三滝は頭が悪い時からずっと付き添ってくれる王子様と出会えて。
俺達を批判する人間なんてもういない。
「もう彼女に、みたきちゃんのような純粋さも、優しさも、残っていない! 彼女はただの人間だ! 俺と同じく!」
それでも、俺は谷串三滝を心の奥底で受け入れる事が出来なかった。
ただ自分への好感度が振り切れているだけの恋人では満足出来ないなんて強欲な感情を抱いている訳では無い。
見た目が似ているだけの、昔の記憶を持っているだけの、別人にしか思えなくなってしまったのだ。
「俺は彼女を愛せるのか? 恋人として、幸せになれるのか? 幸せなフリを出来るのか?」
現実の恋愛の多くは別れを伴う。
けれど、俺達の恋愛はあまりにも壮大で、感動的で、ハッピーエンドしか認められなくて。
俺が谷串三滝と別れるなんて、それこそ周囲が許さないだろう。
『今日のデート楽しかったね! 来週もまた遊びに行こうね』
世界がハッピーエンドを強制する事を示唆しているかのように、谷串三滝からメッセージが届く。
それに当たり障りのない返信をしながら、俺は深い絶望感に苛まれるのだった。
また翌週から学校に行って、放課後に谷串三滝の家に行って、勉強を見てやって、レベルアップした夫婦ごっこをして、週末になって、俺達は普通の恋人としてデートをする。
「はぁ~可愛い……この子、スコティッシュフォールドって言うんだよね? 飼いたいなぁ……今はお金に余裕があるだろうし、親にお願いしようかな」
ちゃんとした猫カフェで、残酷な言い方だが保護猫カフェにいるような猫とは毛並みだったり見た目のレベルが断然違う、血統書つきの猫を至福の表情で撫でる谷串三滝。
そこにはかつてのような、片耳の無い猫を『可愛いね!』と言いながら撫でていた、みたきちゃんの片鱗は見られなかった。
「庭に来る野良猫に餌あげてたんでしょ? その子を飼ったら?」
「あの子は野良と言うか、地域猫みたいなもんだしなぁ。やっぱり家の中で飼うなら、こういうのを子猫から育てたいっていうか。あ、こっちの子も可愛い。マンチカンだよね?」
人間好みの見た目になるように交配された、人間のエゴの成果物としか言いようのない猫を可愛がる今の彼女は、一部の動物好きからすれば批判の対象だろう。
けれど、俺自身そっち側の人間だから、彼女に何かを言う事なんて出来ない。
それでも、自分がそういう人間から脱却できないからこそ、彼女にはずっと純粋でいて欲しかった。
そんな感情が一方的な押し付けであるとはわかっていても、今の谷串三滝を真っすぐから見ることが出来ず、逃げるように近くの可愛い猫を俺も撫でて時間を過ごす。
「それじゃまたね、中君」
「ああ、またね、『三滝』」
彼女の変貌に対して一時的にショックを受けているから拒絶反応を示しているだけなのだ。
しばらく経てば、俺の事が大好きで献身的な彼女を俺も好きになって、何もかもうまく行く。
時間が問題を解決してくれると信じてこの日のデートも終えるが、幼さの抜けてしまった彼女にちゃんづけをする事が出来なかったらしく、気が付けば俺は別れ際に彼女の名前を呼び捨てにしていた。
「……♪」
彼女の方は俺が呼び捨てをした事に対し、自分を大人の女性として見てくれたという嬉しさがあるのだろう、ニヤニヤとした反応を見せながら手を振って去って行く。
もう『みたきちゃん』の事は忘れるべきなのだろうと、新しく出来た谷串三滝という恋人を愛する素敵な彼氏になろうと決意し、その日から俺は必死に理想の彼氏を演じ始めた。
狂人のフリをすれば狂人になるように、理想の彼氏を演じていれば、やがて理想の彼氏になれると信じ。
けれど、心に空いた隙間は埋まらなくて。
彼女はいつだって俺を肯定してくれたが、俺の本心に気づいているのかなんて、怖くて聞けなくて。
そんなギクシャクした関係を続けたある日のデートの終わり。
「んー、良かったね。あのベッドシーンとかドキドキしたよ」
「そうだね」
夜にやっている、少し大人な内容の映画を見た俺達は、近くのレストランで夕食を採る。
映画の内容が内容だけに、語り合う事が出来ずにお互いほとんど無言で食事をし、店から出てそれじゃあまたねと別れを告げようとしたのだが、彼女に腕を掴まれる。
「……あそこ行こうよ」
彼女が指差すその先にあったのは、夜の街を象徴するかのようにキラキラと輝く、恋人達にとっての夢の国。いわばラブホテルだった。
彼女と付き合ってかなり経つし、今の彼女は立派に自分の意思を持っている。
客観的に見たって、今の俺達がそういう行為をする事は何も批判されるような事では無いし、寧ろ遅いくらいだ。
「自分を大事にしなよ」
けれども俺は、気付けばその手を振り解き、彼女を置いて去ろうとする。
俺はそんなにプラトニックな考えを持つ人間では無い。
もしも相手が本村さんだったならば、きっと二つ返事でOKをして、興奮しながら夜の街に消えた事だろう。
そんな俺が彼女の誘いを断る理由は、彼女を心の奥底では拒絶しているからに他なら無い。
それを悟られないように、笑顔と共に恋人を大切にしている素敵な彼氏を演じるも、とっくの昔に彼女にはバレていたのだろう、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「私の事、好きじゃ無くなったんだね」
「……! 違う!」
「わあああああああああああ!」
条件反射で彼女の言葉を否定するも、彼女は昔のみたきちゃんのように、奇声を上げてその場から走り去ってしまう。
しばし放心状態になり、少し遅れて彼女を追いかけるも、昔かけっこで彼女に負けてしまうくらいには運動神経に自信の無い俺は見失ってしまい、あても無く夜の街を走り回り彼女を探す。
こんな街に思い出の場所なんてものは存在しないが、彼女の泣き声が微かに聞こえたためそれを頼りに声のする方へ向かうと、人気の無い路地裏で、電柱にガンガンと頭をぶつけている彼女がいた。
「何やってるんだ三滝!」
「離して! 私が! また馬鹿になれば! 中君は好きでいてくれる! 私が『みたきちゃん』に戻れば、私の事をずっと見てくれた、優しくしてくれた、『あたるくん』も戻って来る!」
自傷行為に対する恐怖心からか思い切り頭をぶつけてはいなかったようだが、それでも彼女の額は赤く染まっており、このまま頭を打ち続ければ頭が悪くなるどころの話では無いのは明らかだった。
そんな事は彼女も分かっているはずだが、それでもどうにもならないくらい、彼女は追い詰められているのだろう。
いや、俺が彼女を追い詰めてしまったのだろう。
彼女の本質は変わっていない。
頭が悪い時だって、悪く無い時だって、いつだって自分の弱さを気にして、自分を責めて傷ついて悩む。
大人になってしまって汚い部分を身に着けてしまってとしても、彼女はそんな優しい人間のままなのだ。
「『あたるくん』なんて、最初からいないんだ!」
そこに死んでしまった『みたきちゃん』の面影を見た俺は、彼女を強く抱きしめて、本当の自分は最初から、受験だとか、身体だとか、そんな理由で彼女に近づいていた人間であり、彼女が自分の身体を傷つけてまで求めるような『みたきちゃん』の王子様なんてどこにもいない事を伝える決意を決めた。




