1 湿った路地裏
俺、田中仁、29歳。
備考――童貞。
もはや童貞であることがアイデンティティになりつつある俺は、間もなく飛び級昇格で大賢者になろうとしていて。
女性のじの字すらも感じさせない純潔っぷりに、開き直って「俺は童貞だッ!」と道行く人全員に流布させ、童貞界の革命児になろうかと思うほどには精神を性欲とその他諸々の邪念に支配されていた。
そんな精神不安定の中、同じ部署の後輩から放たれた一言。
「先輩、童貞とか生き恥っすよ(笑)」
その一言が、俺を風俗店へと向かわせた。
俺は今まで、風俗で童貞を卒業していく仲間たちを軽蔑する口だった。
だが、今なら勇ましく純潔を散らしていったあいつらの気持ちがよく分かる。なんて正しく勇敢な英断なのだろう。
すげぇよ、お前ら。
さながら、仲間のために自分の命を懸ける冒険者のようだ。
俺はそんな勇者たちの背中を追うように、純潔らしく迷いのない面構えで、胸を張って新世界の扉を叩いた。
――そして、現在。
「どこに居やがるゴラァァッッ!!!!!!!」
「見つけたらぶ〇殺すッ!!!!!!!」」
いかにも人の一人や二人ヤっていそうな兄ちゃんたちに、鬼の形相で追いかけられていた。
……マジで人生詰んだ。
経緯を説明すると、大賢者見習いからハードボイルド男にジョブチェンジを果たしたら、なんと桁がぶっ飛んだ高額請求。
騙しやがったなッ! とキレたところ、顔に切り傷がある兄ちゃんたちが登場。
迷う暇なく逃走を図り、現在に至る。
正直、童貞だったあの頃に戻りたいです。
薄暗い路地の、ゴミ箱の影に身を潜め、男たちの様子を伺う。
遠ざかっていく怒号を聞き、しめしめと思った俺はひっそりとその場を動こうと立ち上がった――その時。
『ダンッ!!!』
不幸にもゴミ箱にぶつかり、悪臭漂う中身をぶちまけ、走っていた男たちがピタリと止まり、音の鳴るこちらを見た。
テンパった俺は、すかさず、
「にゃ、ニャー?」
と機転を利かせた猫ボイスを出すも、展開はご想像の通り。
「死〇ゴラァァァ!!!!!!!!!!!!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
親でも殺されたかのような顔で迫ってきた。
俺は必死に、暗くて狭い道を駆け抜けた。
息が上がり、筋肉が悲鳴を上げる。
心の中は恐怖の二文字で埋め尽くされているのに、不意に走馬灯が脳裏を過った。
と言っても、走馬灯と言えるほどたいそうなものでもなく。
ただ思い描いていた理想とは程遠い、孤独でまさに灰色の日々。
誰かに声を大にして語れるほどの青春などこれっぽちもなく、俺は非生産的な時間を積み重ねただけだった。
――もう一度、やり直せたら。
きっともっと、能動的に何かができる筈なのに。
「あぁ、クソッ!」
今そんなタラレバ話なんて、何一つ意味がない。むしろ気持ちが沈むだけだ。
だけど、思わずにはいられない。
「なんなんだよマジで!」
もう走れない。
恐怖の感情はなくて、ただただ諦念を抱き、乾いた笑みを浮かべた。
――その刹那。
足がもつれ、視界が揺らいだ。
汗が全身から吹き出し、筋肉が引きちぎれてボロボロな体はなすすべなく、重力に任せて傾いていく。
そして何かを受け入れるように、湿った地面に頭を強く打った。
男たちの枯れた声が、壁を一枚挟んだかのように、遠のいていく。
やけに頭が熱くて、指先が体温を失っていく。
あぁ俺――死ぬのか。
淡々とそのことを思って、俺は目を瞑る。
そして俺の人生の終わりを飾るように、一言呟くのだった。
「可愛い女の子とイチャイチャしたい人生だった……」
こうして、田中仁の人生は終わった。
「おぎゃあああぁあああああああ!!!!!!!」
――そして、元気な産声を上げた。
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