前編
うっすらと雲に覆われた、おぼろげな星空の下。
僕は一人で、砂浜を歩いていた。
ザバーン、ザバーンと波の音だけが聞こえてくる、静かな海だ。
ここは県内でも有名な海水浴場の一つであり、夏には大勢の人々で賑わう海だった。だが冬ともなれば、半年前の盛況ぶりが嘘みたいになる。その落差と閑散とした空気が好きで、しばしば僕は、夜の散歩に訪れるのだった。
こうして冬の夜の海を歩いていると、去年までと同じ海にしか思えないが……。ここの海にとって、今年の夏は、特別だったらしい。新型ウイルスが流行した影響で、海水浴場が閉鎖されたからだ。
その名残りは、今でも見られる。例えば、駐車場に立てられた「遊泳禁止」の看板。一年前にはなかった立札だが、さすがに冬に泳ぐ馬鹿はいないから、夏に設置されたまま放置されているのだろう。
ただし、この「遊泳禁止」には法的な強制力はなく、海水浴客に自粛を促すだけ。看板の文句も正確には「遊泳はお控えください」だった。
だから例年よりは少ないものの、それなりの数の海水浴客がやってきたという。監視員のライフセーバーはおらず、海の家も営業していなかったのに。
耳にした噂話を思い出しながら、半年前の海の姿を思い描いているうちに、突然、便意を催してきた。
でも慌てる必要はない。僕にとっては通い慣れた海であり、トイレの位置も把握している。僕はゆっくりと、駐車場脇の公衆便所へ向かうのだった。