ヒデちゃん番外篇 ジンニーヤ
こおろぎの声が聞こえて来たので、奇漫亭へ行った。
「いらっしゃいませ」
奇漫亭の玄関に前坂さんが立っていて、あたしに挨拶した。あじさいの花も枯れたと言うのに、前坂さんは今だに玄関から離れない。なんだか非常に怪しい。
奇漫亭は東市月夜之町三丁目、別名幻商店街の東の外れにある、三階建てレンガ造りのホテルだ。
扉を開けると、青い妖精たちがあたしに近づいてくる。
「どうしましょう」
右のあやめが、あたしに向かって言った。
「何のこと?」
言いたいことはうすうす感づいてはいるけど、とぼけて聞いてみた。
「前坂さんです」
左の妖精カキツバタが怒った顔で言った。
「お迎えの挨拶は私たちの仕事なんです、それなのに……」
なるほど、前坂さんが居すわって妖精たちの仕事を奪っている訳だ。
前坂さんは、別名召喚おたくの前坂と呼ばれている。黒いゴム長靴がトレードマークで、あまりいい男とは言えないけど、笑うとちょっと可愛い。
「恋人でしょ。なんとかしてください」
えっ、えええっ。押さえようと思っても、自然に頬が熱くなる。
「そんな、あたしと前坂さんは別に……」
「そんなに赤くなってたら、説得力ありませんよ」
辛辣な口調でカキツバタは言った。
「それに、怪しいです」
「カキツバタちゃん」
あやめが口を挟んだ。
「不用意な事を言っては……」
「明け方、前坂さん誰かと会ってるいる気がするんです」
「会ってる、誰と?」
あたしは訪ねた。
「女ですね」
あたしの眉が、ぴくりとつり上がった。
「見たの」
怯えた顔をして、二人の妖精は首を横に振った。
「でも、妖精のカンです」
カキツバタは言った。
「浮気かしら」
何気なくあやめちゃんが言った。あたしの右手がグーになった。そうか、そうだったのか、前坂め。どうも怪しいと思ったら……。
「ヒデちゃん!」
あたしは叫んだ。
「紅茶、ポットで大盛り」
あたしの剣幕にびっくりして、ヒデちゃんは肯いた。
ホテル奇漫亭の食堂は、宿泊客だけではなく、一般にも公開されている。英国風の、食事のできる居酒屋。つまりパブだ。その女主人がヒデちゃん。身長は小振りで胸が大きく、口許の左上にホクロがある。年齢不詳だけど、二十代後半に見えた。目が大きくて、口数が少ない分、瞳で会話ができる特技があった。
その彼女があたしを見ている。目がいいのと言っていた。
「うん」
あたしは力強く肯いた。
「浮気の現場とっ捕まえて、ぎゅと言わせてやるわ」
「もう閉店よ」
ヒデちゃんは言った。奇漫亭の営業時間は朝の七時から夜二時まで。
「いいや、朝までいるの」
あたしは言う。ヒデちゃんがため息をついた。
「もう帰りたいし、仕方がないわね。手助けして上げる」
そう言うとヒデちゃんは指を鳴らした。
「水月、水無月」
二つのお盆が突然ヒデちゃんの上空に現れた。
「ほんの少し、時間を早めるわよ」
ヒデちゃんは言った。えっ、そんな事できるの?
いつの間にか、お盆の上にあやめとカキツバタが乗っていた。
「前坂さんは?」
「寝てるみたいです」
ヒデちゃんの問いにあやめが答える。
あたしに向かって彼女は言った。
「扉を開けて」
言われるまま、あたしは奇漫亭の扉を開く。水月と水無月が滑るように外へ出た。月のない夜なのに、二つのお盆は淡く輝いている。奇漫亭の上空に出た二つのお盆は、前坂さんに近づいた。その面を彼に向ける。
水月からは青い光が、水無月からは赤い光が、前坂さんに向かって走って行った。
玄関口から二メートルほど離れた所に立つ前坂さんは、その光を浴びている。ゆらゆらと風景が揺れた。
「あっ」
あたしは叫んだ。夜の帳が消えて、朝もやの白い世界が浮かび上がる。そして若い女の笑い声が聞こえた。黒髪の美女がふたり、前坂さんの側に浮かんでいる。アラビア風の薄物を身にまとっていた。乳がでかい。やっぱり、胸の大きな娘が好きなのね、前坂さん。あたしは再び、右手をグーにしていた。
「遊びましょう、前坂さん」
「そうよお、今日はなにして遊ぶ」
二人の女はそう言うと、前坂さんの顎の下を優しく撫ぜる。
このお、莫迦前坂、鼻の下のばしやがって……。
「えろうすいませんなぁ」
えっ、思わず振り返るとそこに……。
「パビルの親方」
ヒデちゃんが言った。
パビル親方は蠍人だ。その姿はケンタウルスに似ている。上半身は人間で下半身は馬。でもしっぽと両腕は蠍だった。右肩に小さな虎の顔を乗せている。
「あれはジンニーヤどす」
ジンニーヤ?
「魔神娘どす」
「うちとこのハーレムにおったんどすけどなぁ、いつのまにやらいなくなってしもうて」
「親方、引き取ってくれますね」
ヒデちゃんが言った。
「へい、これ以上悪させんように、きつう言い聞かせますよってに、今回はかんにんしたってほしいんどす」
なにも知らず、ジンニーヤたちは前坂さんの側で笑っている。あたしの側を抜けて、パビル親方は外に出た。
「われ、なにしてけつかんとんじゃ」
大声で叫ぶ。あたしはびっくりした。でも、あれは親方が喋ってんじゃない。親方の右肩にのってる虎が叫んでいるんだ。
「ええかげんにさらせ」
親方の両腕の鋏が延びた。二人のジンニーヤの腰を挟む。
「あー、親方ごめんなさい」
「もう、悪戯はしません」
じたばたするジンニーヤを掴んだまま、親方は頭を下げた。
「ほんまにすいませんどす」
親方のしっぽが延びた。あたしの方に近づく。蠍のしっぽが右手の上に、小さな赤い玉を落とした。
「これはほんのお詫びのしるしどす」
そう言って、パビル親方はかき消すようにいなくなる。
あたしは視線を前坂さんに向けた。
「ま、え、さ、か」
あたしは三たび右手をグーにした。
パチン。
手の中で、親方からもらった玉が砕ける。
「あっあわわわわわ」
前坂さんが叫んだ。
「こめんなさい、もうしません、だから刺さないで!」
刺さないで? どういうことよ。
水月と水無月が降りてきた。
「うしろ、うしろ」
「しっぽ、しっぽ」
あやめとカキツバタが口々に叫んだ。なにを言ってるんだろう、ふたりとも。二つのお盆が鏡のように光る面をあたしに向けている。
人の姿が映っている。あたし?
なんだか、ちょっと変だった。目をこらす。そこに映っているのは、確かに自分、でも……。
「いやーーぁ」
あたしは絶叫した。
赤銅色をした太い柱が、あたしの臀部から延びている。蠍のしっぽだ。これって困る。
「いや、なんとかしてよ、ヒデちゃん」
涙目であたしは言った。
「そう言われても、これはねー」
「こんなの不幸よ」
もう、前坂さんなんかどうでも良かった。
「仕方がないか」
ヒデちゃんが言った。
そんな訳で、夏でもないのに麦わら帽子にサングラス、大きなマスクを顔につけて、あたしは奇漫亭の玄関に立っている。こんなんじゃ家にも帰れやしない。
「いい天気ですねぇ」
あたしの隣に立っている前坂さんが、のんびりと秋晴れの空を見上げながら言った。
誰のせいだと思っているのよ。
あたしの気分とは裏腹に、蠍のしっぽは楽しそうに左右に揺れて踊っていた。