第七話
市民権を得た湿気が蔓延る、土曜日の夜。残業をして帰って来た海貴也は、自宅とは反対方向に向かった。
街路灯の光も少ない夜道。ヘッドライトを放つ車が、雨上がりのアスファルトを飛沫を上げながら走り抜けて行く。
夜のお寺は不気味さが漂う。心の中で、こんな夜分にお邪魔させてもらうお礼とお詫びを仏様と山科住職に言い、扉が半分開いた山門を潜った。多くの木の柱が立つ真っ暗な道をスマホのライトで照らしながら進み、夜の静寂が下りた別世界へと足を踏み入れる。
コテージ風の建物は、夜と一体となっていた。海岸に打ち寄せる千波の音を聞き流し、裏口に回った海貴也は建物の中に入った。
「こんばんは。ジュリウスさん、上がりますね」
失礼のないよう、一言掛けてから二階へ上がる。カフェの営業が終わったこの時間は恐らく寝室にいるだろうと、海貴也は迷わず二階の角部屋を目指した。
「ジュリウスさん、こんばんは……」
ノックもせずにドアを開けると、ジュリウスが振り返った。が、タイミング悪く着替え中を覗いてしまい、間接照明に照らされた白い背中を見てしまった。
「あっ!す、すみませんっ!」
海貴也は慌ててドアを閉めた。女性ではないからそんなに慌てなくてもいいのに、ラッキースケベ的なシチュエーションに遭遇してドキドキする。
部屋の中のジュリウスからも「イイエ。大丈夫デスよ」とフォローされた。ラブコメのような展開を想像したが、現実で同性同士ではなかなか起こらない。
海貴也を待たせてはいけないと、ジュリウスは急いでパジャマを着た。
改めて廊下の海貴也に声を掛けると、今度は慎重にドアが開く。着替えが終わったから呼んでいるのに、確認するようにまずは顔を半分覗かせ、安全を確認して海貴也は部屋に入った。
ジュリウスは、紺に細い白のストラップが入ったパジャマを着ていた。室内の照明は、店内と同じ白熱電球の柔らかなオレンジ色だ。
「すみません。ノックもせずに……」
「イイエ。呼んだのは私デスから」
そう。残業終わりにわざわざ来たのは、ジュリウスに呼び出されていたからだった。
「オレを呼ぶなんて、どうしたんですか?」
「ソノ。ちょっと言いづらいんデスが……」
ジュリウスは、何だか気恥ずかしそうに視線を落とすと、お腹の辺りで手を組んだ。
「今晩、ここにいてほしいんデス」
「えっ?」
その表情と台詞のコンビネーションに、海貴也はちょっとだけ期待をするが。
「最近の天気の所為デ、あまり寝られていなくテ……。ソノ所為で今日も営業に支障が出テ、困っているんデス」
勝手な期待を裏切られ、心の片隅でガッカリする。しかし、そんな邪な思考は頭を振って打ち消した。
そう言えばと、海貴也は思い出した。先日電話をした時に、体調が芳しくなく長時間店を開けていられないと嘆いていた。いくら店を休んでも構わないと言っていたが、赤字続きになるのはやはり避けたいのだろう。
「それでオレに……。でも何で?」
もう営業も終わっているのに、助勢要因の自分が何故この時間に呼ばれたのだろうと純粋に疑問だった。そこにはちゃんと、ジュリウスの理由があった。
「以前、倒れた私を介抱してくれた時、海貴也サンが側にいてくれたおかげで久し振りにちゃんと寝られたんデス」
それは、まだ海貴也の記憶にも鮮明に残っている。営業中の店内で、ジュリウスが倒れた時のことだ。昼に店を閉めたあと、心配して側にいた海貴也の横で、精神的に休まったジュリウスは何時しか眠っていた。
「ダカラ、マタ海貴也サンが側にいてくれたら寝られるかもしれないっテ、思ったんデスが……」
あの時と同じような状況になれば寝不足を解消できるかもしれない期待から、海貴也を呼んだのだった。余程ジュリウスは効果があったと感じたらしい。
「一晩とは言いマセン。一時間だけでもいいノデ」
〈ジュリウスさんが、オレを頼ってくれてる……〉
ボランティアでカフェの手伝いはしているが、それは自ら願い出たことで、体調確認の電話も気遣いから始まって習慣になっている。ジュリウスの方から何かを頼まれることは、滅多にない。だから、頼られていることが嬉しかった。
「わかりました。いいですよ」
仕事の疲れなんて、瞬間的に吹っ飛んだ。海貴也の快諾に、ジュリウスも安心した様子でベッドに腰掛ける。
「もしお仕事をされるナラ、キッチンのテーブルを使って下サイ」
「ありがとうございます。……今は体調どうですか?」
「今は大丈夫デス」
「でも確かこのあと、また雨の予報ですよね」
荷物を下ろして、海貴也は窓際に近付く。今はやんでいるが、日付が変わる前に再び降り出す予報になっていた。
ジュリウスに了解を得てカーテンを開け、窓越しに空を見上げる。墨汁が溢れたように真っ暗だが、そこでは雲が水を降らせる準備をしているに違いない。
「……そう言えばジュリウスさん。今日は七夕だって知ってます?」
「七夕……。確か、お互いに想い合う女性と男性が年に一度会う日、デシタよね」
「そうです。織姫と彦星って言うんですけどね。二人の話は知ってますか?」
詳しくは知らないと、ジュリウスは首を横に振った。そんな彼に、海貴也は空の上の物語を語り始める。
「織姫は着物を作り、彦星は牛飼いの仕事をしていました。ある日、神様が織姫に見合う人をと思って彦星を会わせると、二人は恋に落ちて結婚しました。でも結婚生活が楽し過ぎて、二人は働かなくなったんです。そんな二人に神様は怒って、天の川を隔てて二人を引き離しました。彦星と離れ離れになってしまった織姫は、悲しみました。それを哀れんだ神様は年に一度、七月七日の夜だけは会ってもいいって許したんです。それから織姫と彦星は一生懸命働くようになって、七月七日の夜になると二人は幸せなひとときを過ごす。
───という話なんです」
「もっと、ロマンチックなお話なのかと思いマシタ」
「意外とそうでもないんですよね。シビアで……。その話の舞台の天の川、見えたら良かったのに」
都会にいても星空を見る機会はそうそうなく、天の川なんて見たくても見られるものではなかった。もしかしたら、夜に明かりが少ないこの町ならと思ったが、星空どころか何も見えない。梅雨空がちょっとだけ憎かった。
「残念デスね……」
海貴也の隣に来たジュリウスも空を見上げ、少し残念がった。聞くと、ジュリウスも天の川は見たことがないと言う。
「……あ。そうだ」
何かを思い立った海貴也は、トートバッグからタブレット端末を取り出すと、ベッドに座って操作し始めた。何をしているのだろうと、ジュリウスは不思議そうに海貴也を見つめる。