表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/50

第五話




 三人での食事はニ時間半ほど続き、店の前で解散した。最寄りのバス停に向かって行った坂口を見送ってから、海貴也と亨もそれぞれの帰路に着こうと駅に向かい歩き出す。

 二人は離れて歩いた。海貴也はなるべく亨が視界に入らないように、彼の前を歩く。

 今の今まで食事を同席していたとは思えない、微妙な距離感と空気。


「……海貴也」

「……」


 亨が下の名前で呼ぶが、海貴也はひたすら歩く。


「元気そうだな」

「……」


 もう一度話し掛けても、振り返りもしなければうんともすんとも言わない。

 それ以降も一言も言葉を交わさないまま、駅前の広場に着いた。夜も遅くなってきているのに、北口前のロータリーにはバスを待つ人が短い列を作っていたり、人の往来が続いている。

 宿泊しているホテルに戻る亨とは、ここで別れることになる。見送るつもりはない海貴也は、駅ビルの入り口に辿り着かないうちに別れようとした。


「それじゃあ」

「待てよ、海貴也」


 しかし、右手首を掴まれて止められる。海貴也はそれを振り払った。


「……さっきの電話、嘘だろ。そんなに居心地悪かったか?」

「……良い訳ないじゃないですか。別れた人が、急に現れたんですから」


 嘘を見破られても、海貴也は誤魔化さず平静だった。


「そうか……。ま、そうだよな」


 あんな酷い別れ方をして、もう二度と会うことはないだろうと思っていたのに、こんなに早く再会してしまった。

 海貴也の苦衷に触れる亨も、空気を読めない人間ではなかった。


「亨さんのことを忘れようと思って、会社を辞めたんです。連絡先も消して、全部リセットしようとして引っ越しもして……」

「迷惑掛けたな」

「なのに、何で」

〈何で……〉


 海貴也は背を向けたまま、責めてもどうしようもないのに、亨に再会してしまったことを責めた。

 表情には出さなかったが、亨も心の中では同じく再会に一驚した。けれど、何故現れたんだと筋違いな責任を問われても、荒々しく言い返しはしない。


「俺も驚いた。まさか、こんな場所で海貴也に会えるなんて思わなかったから……。でも、会えて嬉しいよ」

「……やめて下さい」

「あの時は、本当に悪かったと思ってるんだ」


 亨は、真摯に海貴也に向き合おうとしていた。別れることになってしまったのは自分の責任だと、重々自覚している。その思いを伝えたいのに、海貴也はまだ振り返ってくれない。


「……海貴也。こっちを向いてくれ。ちゃんと謝らせてくれ」


 真剣な心持ちが窺えた声に、海貴也の心が動かされる。

 拒んでいた海貴也は、ようやく亨に顔を向けた。


「ごめん」


 海貴也に嘘を吐き、傷付け苦しめた後悔が、駅ビルのショーウインドウから漏れた照明に照らされていた。


「本当に済まなかった」


 後方から湿った風が吹き、軽くクセ付けられた亨の髪がなびく。


「……もういいです。亨さんのことは、もう……」


 自分の心も風に揺れてしまいそうな気がして、海貴也は再び亨から視線を外した。


「本当に悪かった」

「だから、もういいですって」


 謝罪はもういらないと言う海貴也だが、亨は気が済まないのか「言い訳をさせてくれ」と構わず話を続ける。


「……本当は俺は、子供なんて望んでなかったんだよ。ただ、それを妻に言えてなかった。だから、する時は必ずコンドームを付けてしてた。でも知らないうちに、妻に細工されたみたいなんだ。俺はアイツにしてやられたんだよ。酷いだろ?言われた時はもう三ヶ月目で、両家の目もあるからおろせなんて言えないし。本当は嫌だけど、仕方なく生ませるんだ。だからお前と別れたのも、本当にやむを得なかったんだ。俺が悪い訳じゃないんだよ。アイツが黙って細工さえしなければ、俺たちは別れなくて済んだんだ。お前だって、会社を辞めて引っ越しなんてしなかったんだ」

「……それが、言い訳なんですか?」


 海貴也は茫然としながら尋ねた。

 この人は何を言っているんだと、理解できなかった。それは言い訳というよりも、自分は被害者だと情に訴えているようだった。しかしその訴えは純粋な被害者ではなく、犯罪の片棒を担がされて無罪を主張する共犯者のものに聞こえた。


「海貴也。あんな別れ方をして、本当に悪かったと思ってるよ。でも俺、あの時はまだお前が好きだったんだ」


 言い訳が聞き入れ難くて咀嚼そしゃくさえできていないのに、続けてそんなことを言われても海貴也は当惑するしかできない。


「今更、そんなこと言われても……」

「今もお前が好きなんだ。海貴也」


 真っ直ぐな視線が海貴也を捕らえた。風も吹いていないのに、心の天秤が穏やかな波のように揺れ動き始める。


「だから、やり直さないか?」


 瞳に動揺の色が現れる。流されてはダメだと、理性が働き掛けてくる。


「……何言ってるんですか。子供、生まれるんですよね?父親になるんですよね?」

「あぁ」


 一歩一歩、亨は間を詰めるように近付いて来る。


「わかってて、何でそんなことを言えるんですか!?」

「お前が好きだからだ」


 揺れる。嵐の前の海が、白波を立てるように。


「俺は真剣だ。海貴也。俺とまた付き合ってくれよ」

「……」


 一歩迫られると、一歩退いた。すると、気付かないうちに駅ビルの壁に追い込まれていた。しかも両隣は、自動販売機とショーウインドウの側壁。

 逃げ場がない。影になっているから、周囲からも見えづらくなっている。

 亨が壁に左手を突き、海貴也は完全に捕らわれた。何時しか亨の目の色は、さっきまでとは違う色に変わっていた。


「ダメか?」

「……」

〈ダメだ。ダメなのに。そう思ってる筈なのに……〉


 困窮する海貴也は言葉が出ない。至極簡単なことなのに、今後の人生を左右する究極の選択を迫られているのかと思うくらい、答えを出すのを躊躇している。


「それとも、俺のことはもう忘れたか?」

〈嫌だって言える筈だ。たった一言じゃないか〉


 拒絶する場面なのはわかっている。けれど、しゃべり方を忘れてしまったかのようにどうしても声が出ない。


「そう簡単に忘れられないよな?俺たち、身体の相性良かったもんな」


 亨は右手の指先で、海貴也の顔のラインをするりと撫でた。

 海貴也は反射的に目を瞑った。その感触が引き金になり、その時々の感覚が呼び覚まされる。

 それは一瞬で消えるが、それまで眠っていたものが身体の中でもぞりと蠢くのを感じた。


「海貴也」


 海貴也の僅かな心の機微に目敏い亨は、名前を耳元で囁く。開かれた門扉の内側から伸びた手が、海貴也を手招いている。


〈何で、オレ……〉

「付き合ってくれよ。お前も未練があったんだろ?」

〈言わなきゃ。断らなきゃ〉


 人ではない手に招かれて、意識がスルスルと引かれていく。


「『はい』って言わないと、今いる会社に、前の会社で上司と不倫してたって噂、流すぞ?」

「そっ…!」


 それだけはやめてくれと、海貴也は表情で哀願する。そんなことをされたら、悪い印象が広まって会社にいられなくなる。新しい就職先を探すのが面倒な訳じゃない。またこんな理由で───居心地が悪くなって辞めるなんてことになりたくなかった。この人が理由で……。

 海貴也は必死に訴えかける。すると、亨の表情がフッと綻んだ。


「悪い。冗談だ」


 海貴也の顔を触った右手を、ポンッと頭に優しく乗せた。


「久し振りに会って嬉しかったから、ちょっと引き止めたかっただけだ」

「……そう、なんですか?」


 窮する面持ちで見つめると、亨は海貴也から少し距離を取った。


「嘘だよ。お前を脅す訳ないだろ」


 変わったと思っていた亨の目の色は、元に戻っていた。気の所為だったのだろうかと安堵した海貴也は全身に力が入っていたようで、脱力感が思った以上だった。

 冷静に考えてみれば、亨は悪人の真似をするような人ではなかった。きっと見間違いだったのだ。


「とは言え。また疎遠になるのも、って思うんだ。復縁したいんじゃないけど、あんな別れ方だったから償いたいと言うか……。海貴也が嫌じゃなければ」

「あっ。えっと……。はい。それなら」


 償いという言葉で安心しきった海貴也は、亨と二度目の連絡先交換をした。

 およそ半年振りに、海貴也の友達リストに亨の名前が登録される。アイコンは変わらず、ローアングルで撮った夜の東京タワーだった。


「時々こっちに来るから。次来た時は、二人で飯でも食おうな」


 気軽に会う約束をすると、「またな」と言って亨は駅ビルの隣のホテルの方に消えて行った。

 スマホを手にしたままの海貴也は、表示される亨の名前を見つめた。ハッと思い、登録されたばかりの連絡先を消そうと指を動かした。

 しかし、消去ボタンを押す直前で指が動か止まった。


「……何でオレ、迷ってるんだ」


 再び繋がりを絶つのを躊躇う。

 理性は正しい行動を取ろうとしている。ところがそれを他の意識が阻んで、両者がせめぎ合っている。

 亨は忘れたいと思っていた相手。再会なんて望んでなかった相手。

 自分が好きなのはジュリウスだ。亨のことはもう忘れた筈だ。

 避けていたコーヒーも、やっと飲めるようになったのに。

 小さいながらに、何かが存在している。

 ここで全てがうまくいっている筈だったのに、今を形作っているものが曖昧になっていくようだった。いるべき場所が明確だった心の足元に、静かに波が押し寄せる。


「どうして……」


 誰に問うでもない言葉は、さらりと夜風に拐われた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ