第四十五話
街行く人々の服の袖も長くなり、色は落ち着いた色合いか増えてきた。もう十月が目の前だ。
百貨店やショッピングモールのディスプレイも紅葉仕様で、やっと秋らしくなったことを実感させてくれる。テレビ番組でも、秋の行楽におすすめの観光スポットなどを紹介し始めた。
『リンク・エクスペンシブ』には、年末に向けての広告の依頼が舞い込んできていた。様々なイベントが催される時期だから、社内も少々慌ただしくなってくる。
そんな空気なのに、海貴也の気はどこかに逸れたり留まったりと、違う時間の流れの中にいた。
〈ダメだ。違うこと考えちゃって、仕事に集中できない〉
悩みが解消された筈なのに、今度は何に頭を抱えていると言うのだろう。
───私モ、海貴也サンにいてほしいデス。
先日のジュリウスの言葉が、ずっと頭から離れない。その時その言葉の意味を聞きたかったのだが、聞けずじまいで終わってしまった。
〈あれは一体、どういう意味なんだ?頼りたいって言ってたから、そのままの意味なのかな?それとも、オレの「隣にいたい」の意味は知ってる筈だし、「私も」って言ってたから同じ意味と取っていいのかな?……うーん。でも、そうじゃないパターンもあるよな。ジュリウスさん恋をしたことないって言ってたから、まだその感覚がわからない可能性も……。てことは、あれは深い意味はないのか?〉
そんなことを延々と考えている。堂々巡りの思考は、これで十巡目となる。
「うーん、聞きたーい。もの凄く気になるー」
「何が気になるんだ?」
無意識に発していた独り言を聞いた河西に、突っ込まれてしまった。
「な、何でもないです!」
海貴也は慌てて、俄に紅潮した顔を目の前のパソコンに向けた。
〈あの願い事のこともあるから、変に期待しちゃうな……。でも、慎重にいこう〉
焦らなくても大丈夫だと、そわそわする心を落ち着かせた。自分は、ジュリウスとの繋がりを選んだ。自分から離れない限りジュリウスと繋がっていられるのだから、急ぎ足になることはない。
「ハロウィンイベントのチラシの見本、できたぞ。色校頼む」
「あっ。はい!」
印刷所から上がってきたばかりの見本を確認する為に、海貴也は席を立った。
〈ハロウィンも来月か……。そう言えばその日は───〉
美郷が休暇を終えて、パリへ帰る日がやってきた。恭雪は店を休み、国際空港まで美郷を見送りに来た。
出発ロビーは、人でごった返していた。日本人は勿論、アジア人やアメリカ人など諸外国から来た人々で多国籍国家の凝縮版みたいになっている。
「あとこれ。土産」
ロビーのベンチで恭雪が美郷に渡したのは、然程大きくない紙袋。
「何なに?サプライズプレゼント?」
手渡された美郷は、ワクワクしながら中を覗いた。中には、透明の密閉袋に入った太くて茶色い物体が入っている。
「何だ。パウンドケーキかぁ」
それは『パティスリー・ヤス』で販売している、バナナとキャラメルのパウンドケーキだった。焼菓子では一番の人気商品で、ギフトにもよく選ばれている。作っているのは恭雪ではなく、焼菓子作りが得意のもう一人のパティシエだ。
「お前うまいうまいって食ってたから、好きなのかと思って」
「うん。まぁ、好きだけど……」
確かによく食べていた。好きなのも間違いない。けれど美郷の表情は不満げだ。
「何だよ、そのリアクション。ただでくれてやるんだから、喜べよ」
「……ありがと」
そもそも、気付くべきは一番最初だった。紙袋には恭雪の店のロゴが入っているのだから、そこで期待はなくなる筈だった。
「パウンドケーキもいいんだけど、違うものがほしかったわね」
パウンドケーキをキャリーバッグにしまいながら、美郷は肩を落とす。
「何が良かったんだよ。ブランドのバッグか?……あ。そう言えば、家賃高いって言ってたよな」
「私そんなにたからないわよ!そんなロマンチックの欠片もないものじゃなくて!」
「じゃあ、何がいいんだよ」
気持ちを忖度してくれない恭雪を、美郷は不服の眼差しでじっと見つめる。
恭雪は元々、女心というものにはちょっと疎い。けれど、交際を始めて四年半にもなる婚約者の胸中も測れないのかと、呆れたくなる。
美郷の視線の意味がわからない恭雪は、眉間に皺を寄せる。
「だから。一体何がほしいのか……」
目で訴えたところで気付いてもらえないことは、過去何回かの実験で実証済みなので、美郷は仕方なく自分から言うことにした。
「来年にはパリでの修業を終えて、日本に帰って来るわ。私その時、一人暮らしの部屋探さないつもりだから」
「え?」
「日本に帰って来たら、恭雪のお嫁さんになるって約束、叶えて」
「え……」
唐突に美郷から、遠回しに籍を入れたいと言われた恭雪は言葉を失った。まさか彼女から言われるとは思わなかった。
勿論それは、恭雪も考えていたことだった。自分は独立し、美郷はパリで修業し、お互いのキャリアはそれなりに積み重ねてきた。婚約をしてもう二年は経っているので、美郷が修業から帰って来たタイミングで結婚をしようと思っていた。
しかし、恭雪の表情は雲行きがよろしくない。
「……いや。でも俺は……。ほら。アレ」
「浮気したこと?」
この前までジュリウスに気移りしていて、気持ちの整理もついたばかり。だから、婚約者からの入籍希望に即座に首を縦に振ることはできない。
「気にしてるの?」
「気にするだろ。お前は違うのかよ」
「私はもう大体大丈夫」
修羅場になりかけたのに、美郷はけろっとしている。どうやら言葉の通りのようだ。
「お前の方が気にしろよ」
「言ったでしょ。全然気持ちは変わらないって。私って結構、恭雪への想いは深いのよ。周りに言いまくるくらい自負してるんだから」
「恥ずかしいことしてんなよ」
「愛してる人がいるって言うことの、どこが恥ずかしいのよ。愛の国でそんなこと言ったら、童貞なのかって笑われるわよ」
口元を隠して、美郷はせせら笑う振りをする。フランスに行く前から彼女は自分の感情を隠す方ではなかったが、フランス人に感化されてないか?と恭雪は思った。
「フランスに行く予定もフランス人と知り合うつもりもないから、別にいい」
「一緒に働いてたお店のフィヨンシェフは、フランス人だったじゃない」
「あの人は親日家で身も心も日本人だったから、ほぼ日本人だろ。母国語しゃべってるところ見たことなかったし」
「嘘!しゃべってたわよ。恭雪と仲良かった高山さんといる時、フランス語しゃべってるの見たことあるもの」
「えー?高山は、フランス語しゃべれない筈だぞ」
高山とは、恭雪の専門学校時代の同期であり、以前恭雪がプレオープンに招かれて行った店のオーナーだ。その彼が、閉店後のキッチンでシェフと話していたのを美郷は見掛けたと言う。
恭雪はそれよりも、高山と仲が良かったという勘違いを訂正したかった。彼と仲良くしていたつもりは全くなく、向こうから一方的に親しげにされていただけだ。寧ろ、ライバル的存在だった。
「多分それ違うだろ。アイツよく海外の有名パティシエの本読んでたから、内容のことで何か話してたんじゃないか?」
「そうなの?じゃあ、私の思い過ごしかぁ」
「じゃなくて」
恭雪は逸れてしまった話を修正する。
「美郷。俺の浮気は、水に流すって言うんだな」
「だから、そう言ってるじゃない」
再度確認するが、美郷の意志は確固たるものだった。彼女と話を重ねた恭雪も、その海容を疑う訳ではない。ただ、こんな簡単に許されていいものだろうかと、困惑しているところでもある。
「……まぁ。今回は気の迷いって言うか。俺もそんなつもりはなかった。ジュリウスを……同性を好きになるとか、ありえなかった」
恭雪は、何故ジュリウスに気持ちが持っていかれたのかを考えた。
最初は、自分が世話を焼いていたのに海貴也を頼られたことが悔しくて、嫉妬した。しかし、その海貴也の気持ちが他の男に向けられているのかもしれないと思った時、彼に対する苛立ちや怒りが湧き、なら自分が彼の場所を奪ってしまえばいいと思った。
それまでの自分の努力を、認めさせたかった。そこから独占欲が生まれた。それは、恋とは言い難い感情。恋愛感情とは違うものだった。
恭雪は珍しく、気落ちした面持ちを見せた。そんな彼の頭を美郷は撫でた。
「何すんだよ」
「あんまり見たことない顔するから」
もっさりとした頭は、大型犬を撫でているような感触だ。飼い主にじゃれない犬は、彼女の手を退けた。子供扱いをされているような行為が、気に食わなかったようだ。
素直になりきれない恭雪に、美郷は母性的に笑いかけた。
「私がもういいって言ってるんだから、気持ち切り替えて。それで、私と結婚して」
「お前なぁ。せめて二度目は俺から言わせろよ」
「それじゃあ、修業が終わったら私をもらってくれるのね?」
今度こそ、私の気持ちを汲んでほしい。そう気持ちを込めるように、美郷はサンタクロースを待つ子供のような瞳で見つめた。
恭雪は首の後ろを掻いた。その問いに答える前に、バッグの中から小さな箱を取り出した。蓋を開けて、小さなルビーが付いたオープンハートのネックレスを美郷の首に掛けた。
「えっ。どうしたの、これ?」
「七月の誕生日に贈ろうと思ったんだけど、渡しそびれたから」
視線を逸らして気まずそうにする恭雪に対して、美郷はクスクスと笑う。
「何か、お詫びの品みたい」
「そう思ってくれていい」
渡すのは二ヶ月も遅れてしまったが、もし予定通りに渡してもそこに気持ちはこもらなかっただろう。
恭雪は息を吐き、真剣な面持ちに切り替えた。
「来年、日本に帰って来たら籍入れよう。美郷」
「うん。楽しみに帰って来るわ」
約束を交わすと、二人はキスをした。
一部始終を見ていた周囲の人たちから、祝福の拍手が送られた。




