第四十二話
夜の十時前の国際空港内は、閑散としている。これから出発しようとする人の姿はまばらで、地方の寂れた空港と同じくらいの空寂さだ。
チェックインを終え荷物を預けたジュリウスは、時間に余裕があったのでベンチに座っていた。
徐にスマホを確認する。画面を見つめると、メッセージアプリを開いた。送る相手を選択するが、文字を打ち込むのを躊躇う。
少し考え、指を動かした。挨拶と、自分の状況を説明するメッセージを打ち始めた。その時。
「───いた!ジュリウスさん!」
送ろうとしていた相手の声が、静か過ぎる空港ロビーに響いて聞こえた。ジュリウスは顔を上げて姿を探す。振り返ると、海貴也がこちらへ駆け寄って来ていた。
海貴也はジュリウスの前まで走って来ると、膝に両手を突いて荒く呼吸を繰り返した。
「良かったっ。間に合った……」
海貴也が突然現れたことに驚いて、ジュリウスは立ち上がっていた。
「どうしたんデスか、海貴也サン」
「見送りに来ました。有間さんが、わざわざ教えてくれて……。夜の便て言ってたから、急いで調べて、超特急で来ました」
仕事の進捗状況は考えなかった。身内が倒れたと言って早退し、急いで駅まで行き新幹線に乗り込んだ。悩む時間が少々長くなった所為で、着くのがギリギリになってしまった。
「ア、アリガトウゴザイマス」
「あの。それで……その……」
海貴也は呼吸を整えながら、言葉を出そうとする。
言いたいことは道中で考えてきた。けれど走って来る時に脳内でぐちゃぐちゃになってしまったらしく、第一声がなかなか出てこない。
「あのですね……」
言うべきことがあるのに、言葉が出てこない。ジュリウスが乗る飛行機の時間を気にするあまり、早く言わなければと焦って逆に言葉に詰まる。
倦ねた海貴也はズボンのポケットに手を突っ込み、あるものを見せた。
「これなんですけどっ」
見せたのは、ジュリウスの短冊。すっかりくしゃくしゃになってしまった。
「……エッ。何でソレを!?」
本に挟んでいて何時の間にかなくなっていたものが、何故か海貴也のズボンのポケットから出てきた。ジュリウスは驚き、状況が読めない。
「有間さんが見つけて、オレに渡してくれました」
「恭雪サンが?」
「たまたま見つけただけなんで、あまり責めないであげて下さい」
「……読んだんデスか?」
「すみません。訳してしまいました」
正直に謝ると、ジュリウスは口を結んで視線を外した。一番見られたくない人に見られ、魔法のマントを被って隠れてしまいたくなる。
「この文章の意味を知って、素直に嬉しかった……って言いたかったんですけど、最初はただ愕然としました。自分という人間が情けなくて恥ずかしくて、立ち直れなくなるんじゃないかと思いました」
海貴也は目の前のベンチに座った。視線を外していたジュリウスは、沈鬱した海貴也の姿を見下ろす。
「オレは昔から、周りに合わせたり流されたりで、自己主張をしてこなかった。だけど住む環境が変わってから、何か自分が前とは違う気がしたんです」
搭乗案内のアナウンスが流れる。まだ出発しないジュリウスは、海貴也の話を聞き続ける。
「……前に、イジメられてたことを話しましたよね。あれが、今のオレの原点なんです。ようやく登校できたのに、それまで普通に接してきたクラスメートに急に疎まれて、釈明の余地もなく孤立した。だからオレは環境に適応する為に、また突き放されてもいいように、浅い繋がりを選択するようになったんです。それまでは、普通の元気な子供でした」
立っていたジュリウスは、静かに海貴也の隣に座った。
「……クラスメートを、恨んでるんデスか?」
「今はそんなことないです。多分……。こんな性格になったのはお前らの所為だ!って今更責めても、時効な気がするし」
それに、あの時のクラスメートに故意があった訳ではないと、もう気付いている。あれは、純粋な心を持った少年少女たちの悪戯だった。恐らく、誰が悪いという話ではないのだ。人を責めるよりも、その状況を作った“種”を潰すべきなのだ。
「その経緯があって、一方的に傷付けられることがあるなら、これからは浅い付き合いでいいやって思ったんです。……だけど、そうはいかなくなった。変わらざるを得ない岐路に立ったんです」
「岐路……?」
「ジュリウスさんとの出会いです。ジュリウスさんに恋して、何か力になりたいって強く思うようになって、段々知らない自分を知るようになった。本来の自分を取り戻していくように、自分が変わっていく。……そんな気がしたんです。だからジュリウスさんとのことも、少し自信を持ってました」
胸を弾ませた数ヵ月前のことを思い出す海貴也の表情は、幸福そうだった。しかし、「けど」と続けた声はトーンが落ちた。
「甥っ子さんのことを聞いた時、何をしたらいいのか全くわからなかったんです。その時に、ジュリウスさんとのことを浅はかに考えてた自分に気が付きました」
新しい出会いをして、周りに感化されたようにそれまでの自分から少し変化している気がした。しかしそれは、ただの幻想だった。
ジュリウスを受け止めた風に装って、何時でも助けられると勘違いしていた。けれど実際は、向き合う覚悟が全然足りていなかった。側にいたいとか格好いい台詞を吐いたくせに、変わったのはがわだけで、中身は空っぽでちっとも変わっていなかった。らしくなく、恋の熱に浮かされて調子に乗っていただけなのではないかと、薄っぺらな自分に落胆した。
「その上、ジュリウスさんの願い事を知って、引け目を感じてしまいました。ジュリウスさんは少しずつ変わろうと努力してるのに、オレは変わった気でいただけだった」
こんな自分が、これからもジュリウスを好きでいていいのだろうか。好きになる資格はあるのだろうか。頼れる存在になれるだろうか……。そんな懐疑に心が覆われても、心肝では約束を果たしたいと願っていた。だからここにも来られた。
「……ジュリウスさん。側にいたいって言っておきながら、肝心な時に何もできなくてすみませんでした」
ジュリウスの方に身体を向けると、全ての思いを込めて謝った。
「海貴也サン……」
「もし有間さんがメモ用紙を偶然見つけてくれなければ、オレはずっと空っぽの勘違い野郎でした。何もできない自分のまま、またジュリウスさんと距離を置こうとしていたかもしれない。でもこれを見なければ、もう一度ちゃんとジュリウスさんと向き合うことはできなかった。自分の本心と覚悟を、確認できなかった」
その時、また搭乗開始のアナウンスが流れた。自分が乗る便が近いことを知ったジュリウスは、腕時計を見た。
「私、行かないト」
ジュリウスはリュックサックを持ち、立ち上がった。しかし海貴也は、まだ肝心なことを話せていない。
「ジュリウスさん。オレ……」
すると。ジュリウスからも言いたいことがあるらしく、海貴也の方を向いた。
「海貴也サン。来てくれテ、アリガトウゴザイマシタ。行く前に顔が見られテ、安心シマシタ。……私、行くのが怖かったんデス。けれど私ハ、犠牲になった彼をコノ目で見なければならナイ。私が辿ろうとしていた運命を逝ってしまった彼ヲ、見送らなければならないト」
「ジュリウスさん……」
「海貴也サンに会えテ、少し勇気が湧きマシタ」
恐れを入り混ぜながら、ジュリウスは微笑んだ。
海貴也は思った。やっぱり、ジュリウスは凄い。勇気があって、度胸もある。尊敬できる人だ。
「それじゃあ、行ってきマス」
ジュリウスは背中を向け、向き合う方向へ歩き出した。
「ジュリウスさん!」
海貴也はその背中が離れていく前に、再び呼び止めた。そして振り向いたジュリウスに、どうしても言わなければならない思いを伝えた。
「この願い事を書いてくれて、ありがとうございます。ジュリウスさんのおかげで、大事なことがわかりました。オレは自分のことを、本当は知らなかった。そして、自分自身を見なきゃ、生き方も何も変わらないことがわかりました。だからきっと、自分を知ることから本当の未来が始まるんだって」
ジュリウスは過去と向き合い、自分を見つめ直し、確かな希望と向上心を持って未来に目を向けている。自ら有言実行を危ぶむことをした海貴也は、ジュリウスの思いに引け目を感じた。
ジュリウスの側にいたいと思う。なら、望む未来へはどう行けばいいのか。その未来を想像するよりもまず、自分の何を捨て何を残すのかを仕分ける。そして、自分の意思を確認する契機だと知った。
「オレ、今度こそ変わります!気持ちの整理つけて、ジュリウスさんの帰りを待ちます!それで……帰って来た時は、思いっきり泣いて下さい!オレがちゃんと、全部受け止めますから!……だから、大丈夫です。怖がらないで」
そう言って海貴也が微笑むと、ジュリウスの暗い瞳がキラリと光った。
少しだけ頷き、微笑み返したジュリウスは、旅立って行った。