第四十話
「そっか……。自分が関係してるなら、半端な気持ちで知りたくないのね」
「オレに対しての願いなら、少しの迷いもなく知りたいと思うんです」
雑味が少なくて、とっても素直で真面目な子で、ジュリウスのことを本当に大切に思ってるんだな。───美郷は海貴也にそんな印象を抱いた。
「佐野くんは、ジュリウスさんが好きなのね」
「えっ!?」
「変な意味じゃないわよ。人として」
「あっ…あぁ……。はい。そうですね」
海貴也は美郷にまで知られたのかと一瞬動揺したが、バタバタそうになった気持ちはすぐに静まった。
この前、恭雪から海貴也とジュリウスのことをそれとなく聞いていたが、美郷はそれには触れずに話を進めた。
「恭雪から聞いたわ。二人はとっても仲良しなのよね?だからなのかしら。お店の手伝いをしてあげたり、悔やんだり、どうしてそんなにジュリウスさんのことを優先的に考えられるの?自分を差し置いてまで」
それは相手を想っているからこそであると、理解している。だから美郷は、まるで海貴也の煩悶とする心の整理を助けるように尋ねた。恭雪は恭雪である意味放っておけないが、海貴也は自然と手を貸してあげたくなる。
海貴也は沈黙して、少し考えた。
「……そうしたいと思えるからです。自分を二の次にしても構わないと言えるほどの価値があると思うから」
何もできなかったことを悔やんだ時、ジュリウスへの想いや決意は幻想だったのかと思ったりもした。だが美郷から質問されると、自分よりも大切にしたい人だという思いは不変だった。
こんなに賭することを恐れないのは初めてだ。ジュリウスがその相手になり得たのは、何故なのだろう。何時から自分の意識が変わり始めたのだろうと、ふと疑問が過った。
それは、亨との交際が誘因していた。
付き合うも別れるも、「あぁ、そうなんだ」と水を飲むように受け入れてきた。相手に合わせた交際では「好き」を形作ることができず、別れる理由が共通して「お前の気持ちがわからない」だった。自分の気持ちが曖昧だったとしても、ちゃんと意思表示をしなかったから相手が不安になったのだと、海貴也は気付けなかった。
しかし、亨は少し違った。彼は待ってくれた。
交際相手に気持ちを伝えることはおろか、身体も許してはこなかった。それは、小学二年の時のあの事件が根幹にある。そういった邪な思いで男性に身体に触られるのは、少し抵抗があった。
抱こうとする相手の中には、拒否をすると舌打ちをする人もいた。付き合った人全員が身体目当てという訳ではなかっただろうけれど、身体を重ねることを拒否し続けた所為で離れていったのだろうかなどと考えた。
しかし海貴也は、亨にだけは身体を許した。付き合っている間、亨への気持ちにもはっきり応えなかったが、亨はそれでも海貴也から離れず、不満そうにせず、そんな彼を受け入れていた。今となっては既成事実の為の取り繕いだったのかもしれないが、海貴也の気持ちが自分に近付いて形になるまで焦らず待ってくれていた。
それまでの交際相手とは、構え方が違った。海貴也の心が進んでいくペースに、合わせてくれていた。その思い遣りのある人柄に、海貴也は少しずつ惹かれていたのかもしれない。だから身体を許せた。
亨に出会って、恋をすること、誰かを想うこととは何かを少し教えてもらった。“恋”というものを見つけられそうだった。少なくとも、その端っこを掴んでいた。そしてそれは、亨と別れても指先から離れなかった。
海貴也自身は、誘因に気付いていない。だがその目印があったから、自然に動線を辿ることができた。
「多分、ジュリウスさんがオレの人生のターニングポイントをくれて、正しい道を教えてくれたんです。これはそのお返しみたいなものなんです」
「そっか。恩人てことね」
「そうです。ジュリウスさんは、オレの恩人です」
悩みが消え去って、海貴也の気持ちはすっきりとした。
海貴也が今の自分になれたのは、『パエゼ・ナティーオ』に訪れたのが始まりだった。ジュリウスがいなければ、変われることを知らないままだっただろう。
あの扉を開けた瞬間に海貴也の新しい人生が幕を開け、そしてその瞬間に“本当の恋”が始まったのだ。
ふと雑音が少なくなったと思ったら、女子高生たちが何時の間にか静かになっていた。それぞれ自分のスマホと睨めっこしている。
海貴也の心が豁然としたらしい様子を受けた美郷は、再びデニッシュを食べ始めた。
「願い事は気になるかもしれないけど、叶ったら教えてくれるって言ってたんでしょ?なら、それまで待つしかないわね。叶うのが何時になるかはわからないけど、佐野くんが辛抱強く待てるならそうしたら?」
ここは、ジュリウスの言葉を信じて待つのがセオリーだ。海貴也も待てない男じゃない。だが、何時叶うかわからないという事実があることが、念頭から抜けていた。
勿論叶うと思っているし、何時か叶う日がくることを願っている。けれど、もしそれが何年何十年先だとしたら。長い年月が経ち、やがて願いが風化して、「願い事って何デシタっけ?」なんてジュリウスが言い出したら永遠の謎になってしまう。短冊は手元にあるが、返すタイミングを見計らっているうちに最悪紛失してしまう可能性もなきにしもあらず。
そんなことはないだろうけれど、願い事が明かされるのがもしかしたら何年も先になるかもしれないと思うと、どうしてか今知りたくなってしまう。
「だけど、お星様にお願いしたいくらい叶えたいことなんだから、それだけジュリウスさんにとって大事な願いなのね。きっと」
海貴也の名前が書いてあるなら、絶対に関係していることには間違いない。人間の性に流されて、海貴也の思考回路が動き始める。
〈手伝いに関する今後の要望とか?「もっと手伝いに来てほしい」……じゃないよな。そのくらいなら、遠慮がちに直接言ってくれそうだし。寧ろ、オレの仕事忙しいの知ってるから、そんなことは言わないか〉
他にも、自身の身体のことや実の両親や養父のこと、過去をやり直したいなど色々と推考してみるが、自分が関係していそうな内容は思い付かない。
書いてあるのは、ジュリウスが海貴也に望むことなのだろうか。だとしたら、何を海貴也に望んでいるのだろう。当該の海貴也だが、全く見当が付かない。
〈ジュリウスさんの願い事って、何だろう……〉
そう言えば以前、手伝ってくれているから何か返したいと言っていたのを思い出した。ということは、ジュリウスが海貴也に対してしたいことが書いてあるのだろうか。
考えるほど、「ジュリウスさんを知るのを諦めたくない」という言霊が火を灯したように、海貴也の好奇心をじわじわ炙ってくる。
一点を見つめる海貴也を見かねて、美郷が話し掛けた。
「……私、訳そうか?」
「え?」
「フランス語を勉強した時ついでにイタリア語も勉強したから、多分できるわよ。今持ってる?」
「いや。でも……」
突然の美郷の提案を、海貴也は渋った。気になるのは確かだが、それはやはり道徳的にどうかと思い抵抗する。
だが海貴也の表情は、その道徳心に反しているようだ。
「佐野くん、凄い知りたそうな顔してるわよ。だから、そんなに気になるなら訳すけど?」
抵抗してみるが、本心はだいぶ欲望に引っ張られている。綱を引く腕は、海貴也よりも剛腕だった。それでも何とか、ボーダーラインを越えないように両足で踏ん張る。
すると、デニッシュの最後の一口を食べた美郷が、じゃあと改定案を出してきた。
「取り敢えず訳そうか?で、訳した願い事を見るか見ないかは、佐野くん次第。保存するも燃やすも自由ってことで、どうかしら?もし見ちゃってジュリウスさんに怒られても、その罪は私も被るから」
どう?と海貴也に問い掛ける。海貴也は自分の道徳心に問い掛けた。
綱を引っ張る力は弱まらず、ボーダーラインギリギリ。そのまま勝負が決した笛が鳴り、綱は地面に下ろされた。
罪を一緒に被ってくれるというところが決め手だった。海貴也は、財布の中に入れていたジュリウスの短冊を、美郷に差し出した。
受け取った美郷は、通り掛かった店員にボールペンを借り、メモ用紙を見ながらペーパーナフキンに文字を書いていった。
書き終えると、メモ用紙と一緒に折り曲げて海貴也に渡した。
「あとは、きみ次第」
渡された海貴也の心情は、罪悪感が三割増していた。
海貴也帰ることにした。財布から自分の分の代金を出そうとしたが、美郷が奢ってくれると言ったので、お礼を告げて先に店を出た。
自宅に着いて、夕飯の仕度をしようと一度キッチンに立った。ところが、献立を考えるつもりが訳された願い事に気が向いてしまう。冷蔵庫を開けて今ある食材を確認しても、葉が変色したキャベツを発見しても、呼ばれているように感じてしまう。
そうして十分しても仕度は始まらず、とうとう海貴也は観念してテーブルに正座した。置いていた二つ折り財布を手に取り、札を入れるポケットから二枚の紙を取り出した。
ペーパーナフキンには、美郷が書いてくれた日本語訳が書いてある。しかし文章を丸ごと訳してはおらず、単語毎の意味がいくつか書き出してあった。抵抗する海貴也の心情を察してなのだろう。
海貴也は再び考えた。二~三分考えると、紙とボールペンを用意した。
「ジュリウスさん。ごめんなさい」
この場にいないジュリウスに謝ってから、書き写し始めた。当て嵌まりそうな意味を選びながら、単語を一つずつ繋ぎ合わせていく。
ジュリウスの願い事が、段々と明らかになっていく。
そして数十分後。作業は終わった。
「───これが……ジュリウスさんの願い事……」
メモ用紙には、こう書かれていた。
『Spero di poter soddisfare i desideri di Mikiya-san un giorno』
意味は、
『海貴也さんの想いに、何時か応えられますように』。
海貴也の視線は、意味が明らかとなった短文に慨然と落とされた。
初めてジュリウスの思いを知った。自分の想いに対して、どう考えているのか。
その努力を。
海貴也は顔を伏せ、拳を強く握った。行き場のない感情を押し込めるように。
「……バカだ。オレ」
〈情けない、どうしようもない奴だ〉
塞き止められた感情の欠片が、目蓋の間から一粒溢れた。
透明な滴は紙の上に落ちると、優しく浸透していった。




