第三十八話
手から落ちたスマホが床板と衝突し、無機質な音を立てる。
ジュリウスは脱力し、その場に崩れ落ちた。
「ジュリウス!」
恭雪は咄嗟に駆け寄った。
「大丈夫か?」
肩に触れると、小刻みに震えている。その表情は、まるで地獄を見たかのように血の気を引かせていた。
「……おい佐野!」
恭雪は海貴也を呼んだ。お前がどうにかしてやれと。けれど海貴也は、椅子から立ち上がってもそこから一歩も動かない。
「佐野!」
もう一度強めに呼んでも、腕すら動かそうとしない。
アクションを起こさない海貴也に、恭雪は眉間に皺を寄せて舌打ちをする。
「ジュリウス、立てるか?今日はもう休め」
海貴也に委ねることを諦めた恭雪は、脇を支えながらジュリウスを立たせ、彼の歩みに合わせながら二階の寝室へと連れて行く。海貴也はその間も、ただ見ているだけだった。
寝室に連れて行くと、ジュリウスをベッドに寝かせた。さっきまで日が差していた部屋は、外から布を被せたように薄暗い。
ベッドサイドの丸椅子には、何時も使っている黒のフルフレーム眼鏡と一緒に、グラスに一輪挿しされたマリーゴールドが色が乏しい部屋に彩りを与えている。それが逆に違和感にも感じさせていた。
「大丈夫か?」
ベッドに横になったジュリウスは、顔を伏せて身体を丸める。恭雪が声を掛けても返事をしない。
恭雪は歯痒かった。
「……下にいるから、用があったら言えよ?」
今現在の最善を考え、一言掛けて寝室を出た。
ジュリウスが心細くならないように、暫く部屋にいようかと思った。けれどこんな状態では、ただいるだけでは意味がない。
一階に戻って来ると、照明の色がついさっきよりも濃いオレンジに感じた。二階が暗かった所為だろう。目が錯覚を起こしている。太陽の傾きもほぼ水平になっていた。
置いてきぼりにした海貴也は、まだ立っていた。
「取り敢えず横になった」
「あの……ありがとうございます」
報告を受け、海貴也は礼を言った。
「お前はもう帰れ。俺は閉店作業と、アイツの様子をもう少し見る」
海貴也の横を通り過ぎながら、恭雪は言う。
「心配なんで、オレも……」
「お前がいても邪魔だ」
「えっ……」
扉に掛かった看板を、【OPEN】から【CLOSED】にひっくり返す。
「いや。でも……」
「じゃあお前、レジ精算できんのかよ。今日の売上を計算したり、明日の準備金を用意したり。掃除くらいしかできないだろ、どうせ。それに、明日も仕事あるんじゃねぇのかよ」
「それは、有間さんだって……」
「俺は、徹夜なんてざらだからいいんだよ。お前は寝ないと体力が持たなそうだから、帰っていいぞ」
恭雪は掛け合いをしながらキッチンからふきんとトレーを持って来て、テーブルを片付け始めた。自店でもケーキやドリンクを提供しているから手際が良い。
「……でも……」
海貴也はごね続ける。このまま帰ってはいけないような気がしていた。
そんな海貴也に、恭雪は言う。
「俺もだけど、お前がこのままいても何もできないだろ」
「……」
ジュリウスの哀傷も絶望も計り知れない。恭雪も海貴也も、今のジュリウスに掛けられる言葉を持ち合わせていない。表面を掬い取っただけの同情では、その感情を理解することはできない。それなら、側にいるのが一人でも二人でも変わらない。一と一を足しても、一にすらならないのだから。
抵牾しさ。苛立ち。戸惑い。不甲斐なさ……。海貴也の身体の中に、色んなものが混ざって溶け合っていた。
「心配すんな。ジュリウスが回復したら、連絡してやるよ」
「………はい」
今はそれが最善であると、思うしかなかった。
恭雪はトレーを持って、カウンターに置きに行った。ふとその時、カウンター前のテーブルに本が置いてあるのが目に留まった。黄色い花が表紙にデザインされた『We are petals of the diagonals』というタイトルのそれは、前に見て羅列された英文に表情を歪めたやつだ。
「この本、アイツのだよな」
「ジュリウスさんが、さっき読んでました」
〈この話、まるでジュリウスと佐野みたいだよな。……そう言えば、主人公たちはどうなるんだ。最後まで読んだのか?〉
また何気なく手に取り読まずに捲り続けると、後半の方のページから一枚の紙がひらりと落ちた。足元に落ちたそれを恭雪は拾い上げる。
メモ用紙のようだった。二つに折られていたので広げると、文字が書かれている。見たところ、英語ではなさそうだった。
「それじゃあ。オレ、帰ります」
「……ちょっと待て」
肩を落としながら海貴也は帰ろうとすると、引き止められた。近付いて来た恭雪から、拾ったメモ用紙を差し出される。
「何ですか、これ」
「ジュリウスの本に挟まってた。何か書いてあるんだけど、イタリア語みたいで全然読めなくてよ」
海貴也は、自然な流れでその紙を受け取った。
「何でオレに?オレも読めませんよ」
すると恭雪は、ここ見てみろよと単語を指差す。そこにはアルファベットと記号で、M・i・k・i・y・a・-・s・a・nとあった。
「『Mikiya-san』……オレの名前?」
海貴也には、皺の跡が残るそのメモ用紙に見覚えがあった。七夕の短冊代わりに使った、スケジュール帳のメモ用紙だった。
「挟んでたページに戻すべきなんだろうけどさ、お前の名前見つけて、何となく気になった。……訳してみろよ」
「でも、勝手にそんなこと……」
海貴也は、これがジュリウスの七夕の願い事だとわかっている。何時か叶ったら教えてくれると言っていた、星への願い。それを勝手に探ってはいけないと抵抗する。
だが恭雪には、思うところがあるようだ。
「ジュリウスには悪いと思うよ。でも、知りたくないか。お前の名前を出して何を書いたのか。何かを言い忘れてるのか、それか、何か伝えられないでいるのかもしれないし」
〈ジュリウスさんが、他にも隠し事を?〉
まさかと思いながらも、もしそうだとしたらと考えて文字を見つめた。
それなら知りたい。まだ知らないジュリウスのことが書かれているのなら、探ってはいけないことだとしても、異国の文字に隠された意味を知りたい。だが善人の海貴也が、やはりそれはダメだと悪人の海貴也と喧嘩する。
「どうした?」
「あ。いいえ」
「別に気にならないなら戻すけど」
そう言われると逆に働いてしまうのが人間の心理。喧嘩の軍配も必然の方に上がる。
「……じゃあこれ、取り敢えず持ち帰ります。ジュリウスさんには、秘密にしておいて下さい」
「あぁ。わかった」
「それじゃあ、ジュリウスさんのこと、宜しくお願いします」
軽く頭を下げて、海貴也は後ろ髪を引かれながら帰って行った。
辺りはもうだいぶ暗くなってきていた。紺色の空が世界を支配しようとしていた。
「We are petals of the diagonals」⑨
マリーは、母親と一つ違いの弟をニヶ月前に事故で亡くしたばかりの父子家庭だった。
最近までマリーは、ケビンのように引きこもっていた時期があった。大好きな家族を二人も亡くした悲しみに暮れて塞ぎ込み、毎日涙が枯れるほど泣いていた。車で遠くに働きに出ている父親に代わって、祖母である彼女が世話をしているが、あの頃はとても居たたまれなかったと言う。
そんな孫を見ていられなかった祖母は、元気になってもらいたいと思い、ネットで新しい友達を探してみたらと勧めた。祖母自身もネットで交友を広げた経験から、何か変わってくれると思ったのだ。
きっかけは、母親と弟を亡くした寂しさを紛らわす為だった。それは気晴らし程度のつもりだったが、マリーは本当に元気を取り戻した。新しい友達の家に遊びに行くのも、喜んでいたと言う。
偶然にも、ケビンがネットコミュニティーを始めたのも同じ理由だった。心配した母親が、ネットなら顔を合わさずに誰とでも話せるからと言って、なかば強引に始めさせられた。それが、マリーが始める少し前の話だ。興味も薄かったし期待もしていなかったが、思ったよりも早く友達申請のメールがきて驚いた。そして、ちょっと嬉しくもあった。
もしかしてマリーは、僕のことを嫌いになった訳じゃない?
「あの……それじゃあ、遊びに来なくなったのは?」
もしかしたら思い過ごしなのかもしれないと考えたケビンは、マリーが遊びに来なくなったことを言い、その理由を知っているかと尋ねた。するとケビンが思った通り、それには理由があった。
突然ケビンの家に行かなくなったのは、祖母の彼女が体調を崩してしまい、家事を手伝っていたからだった。そして、ケビンが偶然目撃したマリーと一緒にいた男の子は、実母の看病をしに来た母親に付いて来ていた近くに住む従兄だった。
見事に全てが取り越し苦労だった。太陽の裏側に隠れた悲劇と真実を聞き愕然とするケビンは、自分を思い切り罵りたかった。なんて酷い勘違いをしていたのだろうと、自分を殴りたくなった。やっぱり、マリーは傷ついたのだ。自分が何も知らなかったせいで。電話が来なくなった理由が、はっきりした。
だがこれでは、マリーに合わせる顔がない。とにかく謝ればいいと思っていたのに、考えて何度も練習した台詞が全て消えてしまい、何て謝ればいいのかわからなくなった。
ケビンが用意した台本は白紙になった。果たして、許される言葉を彼は持っているのだろうか。