第三十六話
「話が途中からズレたけど……。結論を言うと、俺はお前に逃げようとしてた」
「オレを理由にってことですか?」
「恭雪の言う通り、俺は自分の意思を通したい時や相手との話が面倒だと思うと、途端に耳を貸さなくなる。だから、アイツとの話し合いが進まない。もう無理だと思って離婚も考えたが、きっぱりフラれたからお前に逃げることもできない」
「じゃあ、どうするんだよ。別居でもするのか?」
身の振り方を問い詰める弟に横目を流し、そうなりそうではあるけどなと言った。その表情は、どことなく自嘲しているようにも見えた。
「でも、そうなる前に海貴也に言うことがあって、今日はここに来た」
「兄貴、まだ懲りて……」
弟が横槍を入れようとするのを、掌を出して亨は制止した。
「海貴也」
「……何ですか」
海貴也は身構える。脅迫。口説き。詰責されたことに対する怨情。自分の名前のあとに吐かれる言葉は何かと、様々なパターンを予測した。
「……今日帰ったら、改めてアイツとちゃんと話し合うよ」
その台詞を聞いた海貴也と恭雪は、同時にクエスチョンマークを頭の中に書いた。
「……兄貴?」
「亨さん。一体……?」
そんな二人に、亨は補足を含めた所感を口にする。
「ただお互いの意思を主張し合うだけじゃ、進むものも進まないだろ。だから、どうすれば現状を変えられるか……自分の悪い癖をほんの少しでも改善できるか、考えたんだ。そうしたら、海貴也と面と向かって宣言すればいいのかもしれないと思った」
「宣言……」
「俺や父さん母さんじゃなくて、佐野に?」
「お前からの縁は切られたが、俺からはまだ切れていない。自分から切るには、それがいいんじゃないかと思った」
「亨さん……」
意外にも前向きに方向転換された考えには若干の驚きはあるが、勿論どちらからも否認の言葉は出なかった。
海貴也が変わったのを間近で見て、影響された部分もあるのかもしれない。あの夜のできごとが、亨の考え方を変えたのだ。
「海貴也。お前は随分変わったよ。俺の知らないお前になってる」
氷が溶けきったグラスの中の茶色い液体を見つめながら、しみじみと亨は言った。
「頭にきたお前に水掛けられて、説教されて、怒られた意味がわからなくて暫く呆然とした。でも一つだけ、スーッと身体に入り込んだものがあった。お前に怒られたことが、凄く新鮮だった。多分、それがきっかけなんだろうな。俺の身体に染み付いた汚れの一部が、色が抜けたように白くなった」
こんな現象は初めてだった。幼い頃に親に怒られたものでも、新入社員だった頃に上司に怒鳴られた時とも違う。歴代彼女に叩かれても何も心が動かなかったのに、海貴也の言葉だけは自分に衝撃という砲弾を真正面から撃ち込まれた感覚だった。自己主張をしない海貴也しか知らなかったからこその体験だった。
何とも不思議な感覚だと、亨は思った。けれど、海貴也以外から同様のことを言われても、同じように心は動かないだろうと思った。
「じゃあ、奥さんと……」
「まさか、お前がきっかけだなんてな。でも、カッコ悪い印象のままで終わるのは嫌だし、最後くらい見直してほしいしさ」
「そんな理由でかよ」
「だけど、話し合うって決めてくれて安心しました」
兄に呆れ続ける恭雪とは反対に、亨の心情の移り変わりに安堵した海貴也は穏やかな心持ちだった。
やっと亨は意志を翻してくれたが、ここまで事態を長引かせてしまった原因の一端は自分にもあることを、海貴也は忘れてはいない。細い細い繭糸で繋がっていた自分と亨は、同罪であると。
海貴也と亨はわかり合えた。だから、亨と彼の妻もきっと良い結果を迎えられる筈だ。
「だから、これで本当に海貴也とはお別れになる。……引き留めるなら今しかないぞ」
「しませんよ。見直されたいんじゃなかったんですか」
「兄貴。本当にこれで精算だからな。兄夫婦の夜事情の相談なんて、もう受け付けないからな。絶・対!」
「わかったよ。腹括るから」
ちょっとだけ心配の種は残されたが、あとは夫婦で解決してもらうしかない。
こうして、ひと夏の火傷の話し合いは、修羅場になることもなく比較的平和に終わった。
そのあとすぐに、亨は帰ることにした。海貴也は一応外まで見送ろうと思い、一緒に店を出た。
「あのさ。あの外国人のことだけど」
階段を下りたところで、亨は背を向けたまま話し出した。
「ジュリウスさんのことですか?」
「あの発言を撤回するつもりはない。あれが正直な意見だし、できれば今後もそういった病気やら障害を持った人間とは関わりたくない」
「そんな……」
「また、そんなことは言うなって言うのか?」
海風に操られるように、亨は海貴也の方に振り向いた。そこには、彼の持つ強い意思が風に流されず留まっていた。
「悪いけど、俺はこっち側なんだよ。世間は狭いとか言うから、仕事以外でそういう人間と知り合う機会はあるかもしれない。だが俺は、極力関わらない」
「亨さん……」
「お前がいるんだから、それでいいだろ。一人でも理解者がいれば、救われてる筈だ。もしも世界中に味方がほしいって思ってるなら、それはただ同情してほしいだけの甘ちゃんだ」
亨が海の方に視線をやると、眩しそうに目を細めた。黄色く輝く太陽が、夏の終わりなんて知らないとばかりに熱を放っている。
「……わかりました。それならそれでいいです」
海貴也はしつこく説き伏せなかった。もしかしたら自分も向こう側にいたかもしれない。そう考えると、説得するのは間違っている気がした。それに、亨のように考える人がいるのも当たり前なんだと思った。
「……亨さん。この前ホテルで、オレに聞いてきたことですけど」
あの夜の帰り際に、亨からジュリウスのことを本当にわかっているのかと聞かれたことだ。あの時、海貴也は何も答えられなかった。そのまま帰り、どうなんだろうと考え、もしまた亨と会うことがあれば言おうと思っていた。
「オレはまだ、ジュリウスさんの全ては知りません。あの人の過去や、抱えてきた苦しみや痛み、色んな胸中は教えてもらいました。けど、本当はどのくらい知れているのか、自分ではわかりません……。完全に理解するのは難しいと、最初からわかってます。でもオレ、ジュリウスさんを知るのを諦めたくないんです。だからオレは、今のオレができる限りのことをしていきたいんです。自分自身で選んだことだから、途中で投げ出したりしたくないんです」
「……そうか」
太陽から視線を外し海貴也の話を黙って聞いていた亨は、静かに一言相槌しただけだった。彼もまた、自分の意見を押し付けることはなかった。
「……じゃ、行くな」
「はい」
「元気でな」
「亨さんも」
海貴也は微笑んだが、亨は微笑み返さなかった。
淡白な別れの挨拶を最後に、亨は林の中へと消えていった。海貴也は、姿が見えなくなるまで見送った。
その暗いトンネルの先に、明るく照らす太陽があることを願った。