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第三十四話




 何故また亨と会っているんだろう。海貴也の頭の中はそれだけだった。

 ひさしがあると言っても、しぶとい残暑の日光は熱かった。けれど、亨が煙草を吸いたがったのでテラス席にするしかなかった。何より、あまりジュリウスと関わってほしくなかったからそうした。

 亨はアイスコーヒーに、コーヒーフレッシュだけを入れた。海貴也は新たにアイスカフェラテを頼んだ。


「───もう会わないって言ったじゃないですか。何で来たんですか」


 亨は一本目の煙草を深く吸い、白い煙を大量に放出する。


「お前はあれで終わらせたつもりだろうけど、俺はまだ終わってない。だから今日は、全てを白紙に戻す為に来た」

「オレは話すことはありません」


 海貴也はずっと、亨と視線を合わせようとしない。厭う面持ちで、早くこの時間が終わることを願っていた。


「俺にはあるんだよ。一方的にさよならって言われて、そのまま引き下がれると思ったのか」

「そんなこと言われても、オレはもう……」

「いいから。少し付き合えよ」


 亨は再び煙草を口に付けた。吐かれた副流煙を掠めつつ、早くしてくれと海貴也は心の中で急す。


「───お前別れ話の時に、俺のデメリットってのを色々言ってたよな。自分のことが可愛いだけの我が儘な大人だとか、人として足りないものがあるって。あの時のお前にムカついた。他人のくせに、何もわからない奴が好き勝手言いやがって。一度俺と入れ替わってみろよって。正直、俺の何が悪いのかわからない。全部俺に非があるのか?俺の不満は、一生我慢しなきゃならないのか?ってな。……一週間、考えた。何で否定されるのか。何が間違ってるのか。お前に言われたことを思い出しながら、ずっと考えてた」

「オレが何であんなこと言ったのか、わかりましたか?」

「わからない。やっぱり不満は不満だし、アイツの意見に賛同できない」

「じゃあ、話し合いは?」

「またしたところで、どうせ堂々巡りだ。同じ磁極のぶつかり合いなんだからな」


 灰皿に煙草を休ませると、アイスコーヒーを啜った。

 亨の言い方は投げ遣りだった。意見が合うことを諦めているようだ。

 海貴也はそこで、ようやく亨に視線を向けた。


「そしたら……理解し合うことができなかったら、やっぱり……」


 海貴也の言葉を最後まで聞かずに、亨はあぁ、と肯定した。離婚の話はまだ出していないが、既に心は決まっていることを示した。


「赤ちゃん、生まれたばかりなのに……」

「寧ろ、生まれたばかりで良かったんじゃないか。最初からこんな仲違いしてる両親なんて嫌だろ。俺も、覚えていられる方が面倒だし」


 亨はまた煙草を咥えると、もう一本目に見切りを付けて灰皿に強く押し付けた。

 変わらず我を立てる亨に海貴也は、もうこんな話に付き合いたくないのにとげんなりして、吐息と共に肩を落とす。


「……常套句ですけど、生まれたばかりの子供の為に考え直してみたらどうですか?もう一度、家庭と向き合ってみましょうよ」

「そう言うけどな……」


 一口のアイスコーヒーのあとに二本目の煙草を取り出す亨は、全く乗り気でない。

 妻との話し合いに前向きになった訳じゃない。では何故、亨はここへ来たのだろう。別れを告げられた相手に、わざわざ遠い距離を移動して来た意味は何なのだろう。知る限りの彼の性質を鑑みて、その理由を海貴也は推断した。


「……あの、亨さん。まさかとは思いますけど、性懲りもなくまたオレを誘いに来たんじゃ……」


 尋ねると、違うとはっきり否定された。


「流石に、水ぶっかけられた相手の尻はもう追い掛けねぇよ。多分、気になってることがあるんじゃないかと思ってさ」

「オレがですか?」

「酔い潰れた日のことだよ。海貴也、記憶がないだろ」

「……はい」


 脳の最深部に封印しようとしていたのにと、海貴也はいとわしい表情になる。


「あの夜、何もなかったから」

「えっ!?」


 唐突に打ち明けられた真相に、思わず目を丸くして亨を見た。


「本当ですか?」

「俺がそれっぽく言ったから、お前は俺とやったと思っただろ。でも本当は何もなかった。キスすらしてない」

「ほ、本当に本当ですか!?」


 二本目の煙草を吹かしながら、亨は本当だと坦々と告げた。その言葉を信じたい海貴也だが、自分になりすますほどの人物だとわかってしまっているおかげで、素直に信じられない。


「酔い潰れたお前を部屋に連れ込んで、抱いてやろうと思ったんだけどな。寝言で萎えた」


 やる気マンマンの相手を萎えさせるとは、相当の寝言を言ったのだろう。口汚く暴言を吐いたのか。普段言わないような下劣な言葉を吐いたのか。


「何を言ったのか、聞いてもいいですか」

「そりゃあ、俺以外の名前だよ」

「名前、ですか?」


 亨は右手の親指を出して、店内を指した。つられるように親指の指す方向を海貴也が振り向くと、接客するジュリウスがいる。

 見られているのに気付いたジュリウスが、海貴也の方を向いた。互いの瞳が搗ち合うと、海貴也は一気に赤面してパッと顔を背けた。


〈マジで!?オレ、寝言でジュリウスを呼んでたのか?……これ、何か恥ずかしい!ジュリウスさんに聞かれた訳じゃないけど、凄く恥ずかしい!〉


 顔からだけじゃなく、身体全体が燃え上がりそうだった。残暑の所為も相俟っているかもしれないが、目の前の海に飛び込んで塩漬けになるくらい潜ってしまいたかった。

 煙草を咥えて頬杖を突く亨は、あんなシチュエーション初めてだったわと、初体験だったことを口にした。


「やる気なくなって、だけどそのまま普通に寝かすのもつまらないから服脱がして、起きてからの反応を楽しんだんだ」

「質の悪いイタズラしないで下さいよ」


 つまり海貴也は、自分以外の男の名前を寝言で言われ、萎えさせられた腹いせに既成事実があったと状況証拠だけで思い込まされ、その所為でジュリウスに顔を合わせづらくなり今の今まで後悔の念に苛まれていた、ということだ。

 肩から力が抜け、海貴也は心底安堵した。それも束の間、亨のやり方にうんざりしてきた。

 しかし。自分のものにしたい相手を全裸にさせて、よく性欲を抑えられたものだ。寝言を気にしなければ、抱くこともできた筈なのに。


「もしあれで海貴也が俺のこと本気になってくれたら、そのあとのことも考えてたんだけどな」

「……何をですか」


 嫌な予感しかしないが、一応聞いてみる。


「よりを戻してからの俺の計画としては。アイツがいない間にお前を自宅に連れ込んで、俺がお前を抱いてる最中にアイツが帰って来て、目撃されたことをきっかけに離婚に持ち込む。───っていうやつだったんだけどな」


 何となく、よりを戻さなくても頃合いを見て強行していそうな気もする。


「そんなことまで考えてたんですか……。結局、オレを利用して離婚しようとしてただけなんですね」

「ま、そういうことだな」


 灰皿に煙草の灰をトントンと落としながら、亨はあっけらかんとしている。


〈こんなにゲスい人だったなんて……〉


 呆れ返るその先に辿り着いた海貴也の口からは、何も言葉が出なかった。この人と別れて正解だったということだけは、明確に言える。

 亨の妻は、何故こんな男と一緒になったのか謎だ。それとも、亨はこの一面を隠してきたのだろうか。何にしろ、こんな男と生涯を共に生きようと決心できたのだから、余程の物好きか太平洋のように広く深い心の持ち主か。もしくは、その面を知っていて諦めたのか。


「……で?あの外国人とは、うまくいってるのか?」


 自分が敵わなかった相手のことが気になるらしい。スマホで気を紛らわしながら亨は聞いてきた。


「おかげさまで」

「付き合ってるのか?」

「いいえ。そんなんじゃないです」

「じゃあ、キスどころか手も繋いでないのか」

「いや。手は繋ぎました」


 海貴也の返答に、亨はマジかと一驚した。


「え。まさか、お前からじゃないよな?」

「……オレからです」


 心恥ずかしくなって、アイスカフェラテをストローで勢いよく吸い込む。グラスの底から、水滴がポタポタと太股に落ちるのすら気にしない。


「……お前、やっぱ変わったな」


 スマホから目を離した亨は、ガラス越しに店内のジュリウスをじっと見つめる。その横顔を見ながら、海貴也は発せられる言葉を待った。


「アルビノなんだろ。客とかは知ってんのか?」

「知りません。今のところ知ってるのは、オレとパティスリーのオーナーだけだと思います」

「パティスリー?」


 亨は海貴也に顔を向けた。


「このカフェにケーキを提供してるお店です」

「近所にあるのか?」

「はい。オーナーが一癖あって、ちょっと面倒な人なんですけど……」

〈いや。有間さんの話はどうでもいいんだ〉


 恭雪に対する愚痴を言いそうになってやめた。彼と面識もない人に言っても大した共感は得られないし、亨だって聞かされても困るだろう。

 吸っていた二本目の煙草を灰皿に擦り付けると、亨の目は再びジュリウスを追った。


「見てくれだけじゃ、わからないよな」


 どうしたのだろう。今日は口汚くジュリウスのことを言わない。


多聞たぶんな人じゃないと、全然わかりませんよね。今はああして普通に振る舞ってますけど、ジュリウスさんは一人で色んなものを抱えて、日本でこのお店をやってるんです。色んなことを乗り越えて、今ここにいるんです」

「知ってよく敬遠しなかったな」

「本当は最初、付き合い方がわからなくて避けたこともあります。でも自分の気持ちに気付いて、その気持ちからどうしても逃げられなくて、勇気を出して一歩近付いてみたんです。そしたら、もっと知りたくなりました。この興味が、オレたちが知らない苦しみを抱えた人には必要なんだとわかったんです。だから、目の前にそういう人がいなかったとしても、あんなことは言わないで下さい」


 海貴也は改めて亨に訴え掛けた。自分が間違った判断をしそうになってしまったように、偏見や無知に流されずに、何のフィルターも掛けずに彼を見てほしいと。

 それに対して、亨は一切反発はしなかった。


「まぁ。お前みたいに怒る奴がいるってことは、理解したよ」


 本当にわかってくれたのだろうか。───いや。多分、その言葉は本当だ。だから亨は、あの時の言葉の一つも口にしないのだ。表情はずっと変わらないが、あの時の海貴也の情念が亨の何かを変えたのだろう。


「少しずつでいいんです。理解への最初の一歩が、大切なんだと思います。……奥さんのことも、二人の思い描く人生が違うかもしれないけど、奥さんの理由の本流を知れば歩み寄れるかもしれませんよ」


 三本目の煙草を取り出そうとした亨の手が、ピタリと止まる。


〈理由の本流……〉


 亨の妻は、何故子供が欲しかったのか。亨が避妊具を付けての性交しか望んでいなかったのに、細工をしてまで作りたかった理由は何なのか。田舎で子育てをしたいと意志を曲げないのは何故なのか。

 それは、彼女が付き合う前に言っていた。

 彼女は昔から子供が好きで、見知らぬ小さい子にも懐かれていた。子供は絶対にほしいと願望も強かった。それは、彼女の家庭環境からの影響だった。

 幼い頃に両親は離婚し、女手一つで育てられてきた。きょうだいもおらず、母と二人で過ごした木造アパートの六畳一間はどこか寂しかったと語っていた。彼女は苦労し続けた母を見て、大人になったら絶対に側で助け、自分の子供を連れて実家で一緒に暮らしたいとも言っていた。それが自分の親孝行だと。

 賑やかな家庭に憧れていたのだ。誕生日もクリスマスも贅沢ができなかったから、友達を呼ぶことはできなかった。あの頃できなかったことを、大人になって自分が稼いだお金で実現したい。母への感謝を込めて、彼女は望んでいるのだ。


「……亨さん。どうかしましたか?」

「……何でもない」


 亨は煙草に火を付ける。

 そう言えば、彼女に対して最初に思ったことがある。

 親を大切にしてる子だな。それが、彼女に初めて抱いた好感だった。

 亨も昔は両親が好きだった。小学校低学年の時に、何気なくお店の新作ケーキのポスターを描いて、それを両親が褒めてくれて店先に掲示してくれた。それがとても嬉しかった。だから亨は、広告の仕事に就いたのだ。

 しかし、就職してからは仕事ばかりになってしまい、連絡も疎かになり、何時からか殆ど実家に帰らなくなった。自分の夢のきっかけをくれた両親のことを、顧みることがなくなった。

 けれど彼女は、自分と違って親への感謝を何時までも忘れないでいる。親を大切にする彼女は、まさに自分の理想像だった。亨はそんな理想さえ忘れてしまっていたことに、今頃になって気付いた。

 煙草の煙が、流れては空気に溶けるように消えていく。その行方を追っても、姿は見えない。

 亨は、吸い始めたばかりの三本目の煙草の火を消した。

 ニコチンよりも、あの頃食べていたケーキの味が恋しくなった。

 一番好きだった、父親が作ったいちごのショートケーキの味が。




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