第三十二話
「We are petals of the diagonals」⑧
気鬱した日々が経過した。今日もまた、鬱々とした一日が始まる。きっと明日も変わらない……。
そう思っていたのは、昨日までの話だ。
悪い夢も見なかったおかげで目覚めはよく、昨日より気持ちはすっきりとしていた。少し元気も戻り、朝は大好きなパンケーキを食べた。
今日のケビンは、何時もと違う。毎日着ていたお気に入りのヒーローのTシャツを脱ぎ捨て、外行きの服に着替えた。
三日三晩、悩んで、悩んで、悩んだ。そして、マリーの家に行こうと決めたのだ。
謝る練習は入念にした。ケビンは手土産を持ち、母親に彼女の家まで送ってもらった。
意外に、自分の家と距離はそんなに離れていなかった。バラの木が目印の家に着くと、大きく深呼吸をして、白いドアを三回ノックした。ドキドキしすぎて、倒れてしまいそうだった。
扉が開いて、走って逃げ帰ってしまいそうになる。けれど現れたのは、パーマがかかったグレーの髪色のぽっちゃりした見知らぬ女性だった。
「どちら様?」
目が合った瞬間に、ケビンは視線を外しておどおどしてしまう。
「あっ……あの。僕。その……えっと。マリーさん、の……」
「あら。お友達?」
最後まで説明しきる前に理解した女性は、たるんだ皮膚を寄せて顔にしわを作った。
どうやらマリーは父親とおつかいに出ていて、今は家にいないようだった。家の中で待っていてと、女性はケビンを招き入れた。
リビングは、温かな雰囲気だった。花瓶にきれいな花がいけられていたり、テーブルやソファーにはカラフルで大きなキルトがかけられている。ケビンはキルトの上に座らないように、ソファーの端に浅く腰かけた。
家に入れてくれた彼女は、マリーの祖母だった。義理の息子と孫と三人で住んでいると言う。
来客用のカップに紅茶を淹れると、手作りのブルーベリーのマフィンを一緒に出してくれた。小声でお礼を言うが、遠慮してすぐに手は出さなかった。
「もうすぐ帰って来ると思うから」
彼女はテーブルの椅子に座ると、老眼鏡をかけ、柄違いの布を縫い合わせ始めた。
ケビンは、部屋の中を見回した。茶色い家具には、写真がいくつか飾ってある。そのうちの一枚の家族写真に目がとまった。
「……あの」とマリーの祖母に声をかけた。その結果、目が合ったのでまた反射的に逸らした。
「……マリーの…お、お母さんは……」
ケビンは他意なく質問した。家族写真には写っていても、この家の家族構成に入っていなかったから気になっただけだった。
その質問に、彼女は悲しげな顔をする。ハリをなくした皮膚が、さらに弛んでいるように見える。
すると、飾ってある写真立ての一つを手に取った。ケビンが見ていた家族写真だ。
「母親はもういないわ……あの子の弟と一緒に、この世から旅立って行ったの」
土曜日の今日は、『パエゼ・ナティーオ』の客の入りもそこそこ。期間限定のマスカットのゼリーも、午前中で半分ほどがなくなった。
休憩時間が近付く午後の一時半頃。客を一人見送って、ジュリウスはテーブルの上を片付けていた。開けていた窓から強めの海風が吹き込んでくると、流れる前髪を庇いながら目を瞑った。その瞬間、トレーが傾いて乗せていたグラスが滑り落ちそうになる。
偶然目撃していた女性客が「あっ」と声を出してジュリウスは気付くが、落ちる前に誰かが止めてくれた。
「大丈夫ですか?」
「……海貴也サン」
「こんにちは」
ジュリウスと目が合った海貴也は、笑顔で挨拶した。ジュリウスも挨拶を返した。
「どうされたんデスか?」
おかしな質問にも拘わらず、海貴也は微笑み続ける。
「ジュリウスさんと、色々話がしたくて」
午前の営業が終わるまで待つことにした海貴也は、アイスコーヒーを飲みながら時間を過ごした。
そして休憩時間になり、二人で一緒に昼食を軽く済ませる。海貴也はマスカットゼリーももらった。
「このゼリー美味しいですね。ちょっと大人っぽい味と言うか」
「お客さんにも好評なんデス。恭雪サンのお店でも人気らしいデスよ」
「本当にあの人、性格を除けば腕の良いパティシエなんだけどな。あんな人が作ってるなんて……影武者でもいるんじゃないかな」
「本当にそうデスね」
二人は談笑した。約二ヶ月の間に作れなかった空気が、すぐそこにあったように自然と戻ってきた。
外から流れ込んでくる風が、とても心地良い。この空間がこんなに居心地が良いものだったんだと、改めて知る。
久々の会話をしながら、軽食のサンドイッチもゼリーも食べ終わった。
食後のコーヒータイムをさておいて、海貴也は大事な話を切り出した。
「───ジュリウスさん。ずっとお店を手伝うどころか殆ど顔も出さなくて、すみませんでした。連絡もあまりしなかったし」
「謝らなくていいデスよ。体調が酷く悪いことはありませんデシタし、自分で判断してちゃんとお休みしたりしてましたから」
「それなら良かったです。前みたいに無理してないか見に来たかったんですけど、なかなか来られなくて」
「お仕事が忙しかったんデスよね」
「それもあるんですけど、理由の八割は別にありました」
ジュリウスの純真な微笑みが、海貴也の心を痛めた。
海貴也が何故来られなかったのか、ジュリウスは本当の理由を知らない。だから海貴也は、懺悔をするように全てを話し始めた。
元カレの亨と再会したこと。再会した矢先に脅迫されて、付き合うことになってしまったこと。断ろうとしたけれど、優柔不断な所為ではっきり拒否できなかったこと。ズルズルと関係が続いてしまったから、ジュリウスに後ろめたくなってカフェに来られなくなってしまったこと……。
「夕食を約束してた日も待ち伏せされてて、付き合うしかなかったんです。でもオレ、酔わされてその夜の記憶が殆どないんです。行けなくなったことも連絡できなかったし」
あの時は怒られると覚悟していたのに、心根が優しいジュリウスに本当に救われたと思った。その優しさに甘んじてはいけないとも。
しかしその話をすると、ジュリウスは「イイエ」と言った。
「頂きマシタよ?なかなか連絡が来ないノデ、私の方からメールをしテ」
「え?でもオレ、そんな記憶……」
メールを返した覚えはないし、そもそもジュリウスからのメールを見た記憶もなかった。そのやり取りも忘れてしまっているのだろうかと、海貴也は眉間に皺を寄せ首を傾げて思い出そうとする。
ジュリウスは自分のスマホを出して、あの夜海貴也からメールが来ていることを証明した。確かに差出人は「海貴也サン」になっている。なら自分のスマホにも履歴が残っている筈だと確認してみるが、いくらスクロールしても時間に遅れるというメール以外にその夜の送信履歴はなかった。
自分のスマホから忽然と消えた送受信履歴……。どれだけ首を傾げても、謎は深まるばかり。
まさか、酔った所為で誤って履歴を削除してしまったのだろうか。几帳面に、ゴミ箱の中からも。……と考えたが。
「……あ」
酔っていたと言えども、完全削除までするなんてあり得ない。海貴也はそのやり取りがあった時間は何処にいただろうと記憶を掘り起こし、原因を突き止めた。
「そういうことか……。多分そのメール、あの人が勝手に送ったんだと思います」
二回目のやり取りは、夜の九時半過ぎ。その時間は、亨と一緒にホテルのバーにいた。本人に問い質さずとも、犯人は亨に間違いない。
メールを返信した亨は、証拠を残さないように送受信履歴から削除し、ご丁寧にゴミ箱からも消し証拠隠滅を謀っていたのだ。これは、昨日今日で得た知恵ではなさそうだ。
「そうだったんデスね。何だか、何時もの海貴也サンの文言と違ったノデ、酔っているのかなと思ったんデスが」
「すみません」
〈オレになりすました上に、履歴の削除までするなんて。亨さんて本当に……〉
亨の行動に、海貴也はほとほと呆れ返った。
“なりすまし”なんて、状況が違えば犯罪だ。脅迫もしている亨は、だいぶ“ブラック”に近いんじゃないだろうか……。
メールの謎も解けたところで、仕切り直して海貴也はまた話し始めた。
「……仕方なく付き合っていたつもりではあったんですけど、あの人にまだ好きなんだって言われて、やり直したいって言われて、心が揺らいでしまったんです。確かに未練はありました。でも、もう吹っ切れた。その筈なのに……オレはジュリウスさんが好きな筈なのに、どっちが本当に好きなのかわからなくなって……。その後ろめたさからジュリウスさんに会いづらく思い始めて、ここに来ることができなくなってしまったんです」
「そうだったんデスか……」
「でも、もう大丈夫です。自分の気持ちもはっきりしたし、あの人ともちゃんと別れてきました。連絡先ももう一度削除したので、会うことは二度とありません。カフェの手伝いもまたできます」
「本当デスか?」
「はい。けじめを付けました」
海貴也は力強く頷き、ジュリウスの目を真っ直ぐ見て締め括られたことを伝えた。聞いたジュリウスは、ホッとしたような面持ちになった。
「安心シマシタ。もう来てくれないかもしれないと思っていたノデ」
「不安にさせてしまいましたよね」
海貴也は「すみませんでした」ともう一度謝った。
ジュリウスを不安にさせてはいけないとわかっていたのに、抗う勇気がなかった所為で心労を抱えさせてしまった。だから、またジュリウスを支え、尽くし、過ちを償い、そして、二人の繋がりが固く結ばれた絆になるよう一心に還元していくことを、海貴也は望んだ。




