第三十一話
撤回はしない。ここまで言ったのなら、もしもこのあと強引に抱かれることになったとしても、全て吐き出してしまおう。
強く結びかけた口を恐る恐る開き、海貴也はその道を一歩踏み出す。
「……奥さんがいるのに不倫をする。人を脅迫する。嫌がっているのにセクハラをする」
「それはお前も悪いとこが……」と異議を申し立てようとする亨の声に、海貴也は耳を貸さない。止まってはいけないのだ。もう道を逸れてはいけないと、テーブルの一点だけを見つめる。
「それから。子供ができたことを一方的に奥さんの所為にする。自分を被害者にして家庭に向き合わない。自分の思い通りに進まないと、昔の恋人に泣き付く。原因を考えようとしないで逃げてばかり。自分が可愛いだけの我が儘な大人です」
「………」
亨は海貴也を正視する。しかし、言われたことに対してすぐに反論はしなかった。
「再会してから、もしかしたらこれがこの人の本質なのかなって、ずっと思ってました。付き合ってた頃とはまるで別人で、よりを戻したいなんて全く思いませんでした」
「……じゃあ、思わせ振りな振る舞いは何だったんだ」
「迷いがあったんです。でもその迷いは、どっちを選ぶかじゃなくて、自分の気持ちに疑いを持っていたからで……。オレが優柔不断だった所為で、ジュリウスさんだけじゃなく亨さんにまで迷惑を掛けていたことは、すみませんでした。でもオレ……」
「待てよ」
亨は音を立ててグラスを置き、低い声で海貴也の話を遮った。聞いたことのない声色に驚き、海貴也は少しだけ肩を震わせた。
「じゃあ俺は、独り相撲してたのか?その上俺が悪いって?相談なしに子作りされて、田舎に引っ越すのが嫌だって言ったのを無視されてんのに、俺の方が悪いって言うのかよ」
決して亨だけが悪いと思っている訳ではないが、彼にも否はあると思う海貴也は否定しない。
「……本当に、ちゃんと奥さんに言ったんですか?」
「言ったよ。本当は子供はいらなかったって。田舎で子育てする話も、俺の仕事もあるから無理だって。けどアイツは、子供はそろそろほしかったからって言うし、田舎での子育ても絶対そうしたいって聞かないんだ。何でも強引に、自分の都合の良いようにしたがるんだよ」
「お互いにどうしてそうしたいのか、話し合ったんですか?」
「何度か。アイツは何か言ってたけど、よく覚えてない。俺も、簡潔に拒否を示しただけだ」
飲みそびれたウイスキーを、亨は口に流し入れた。まるでセンブリ茶でも飲んでいるように、不味そうに顔を顰める。
「それ、ちゃんと話し合ってないってことじゃないですか」
「話し合うどころか、一方的に理想を押し付けられるだけなんだ。だから俺は何時も聞き流して……」
その言葉で、何故この夫婦の話し合いがうまくいかないのか、海貴也はおおよその見当が付いた。
「亨さん。きっと勘違いしてますよ」
「何を」
「奥さんは理想を押し付けてるんじゃなくて、多分真剣に話そうとしてるんです。何度も意思の説明をしようとしてるんです。亨さんに理解してほしいから。だけど亨さんは、頭ごなしに拒否をするだけでろくに理由を言わずに、ちゃんと奥さんの話を聞き入れようとしてないだけなんじゃないんですか?」
「そんなことねぇよ」
「そんなことないなら、奥さんの言葉を聞き流すなんてしない筈です」
「やめろ!アイツの話はするな!」
亨は叩き付けるようにグラスを置いた。木とガラスが衝突した拍子に氷が揺れ、ウイスキーが滴を上げる。
周囲の客とバーテンダーは、静穏だった店内に響いた声に驚いて二人の方を見る。荒らげられた男の声に、何だと連れと顔を合わせたりする。
その注目は、すぐに興味を消した。ただの口喧嘩だろうと、騒ぎにはならなかった。まさかこの二人が再び不倫しかけていて、正妻の話に苛立って声を荒らげたなど想像もしていないだろう。そもそも、赤の他人の会話に興味はないのだから。
〈やっぱり、オレの知ってる亨さんじゃない〉
他人が多数いる中で激昂する亨の姿を目の当たりにした海貴也は、潮が引いていくような心情だった。私憤が溜まっていたのだろうが、時と場を弁えられない人ではないと思っていた。
海貴也の中の亨の形が、瓦解した。
「……亨さん、ごめんなさい。オレはやっぱり、亨さんじゃなくてジュリウスさんを選びます」
「俺じゃダメなのか」
「はい」
このたった数分で、海貴也の心は亨から離れ去った。見出だせなかった答えが、輪郭を持った瞬間だった。
海貴也の答えを聞いた亨は、重い頭を支えながら肘掛けに肘を突き、深く長い溜め息を吐いた。自分にも否があるのだと咎められたことに、怒りを湧き上がらせているのだろうか。思い通りにいかない現実に、嫌気が差したのだろうか。
そのどちらでもなかった。
「……お前も、そんな感じじゃなかっただろ。もっと控えめで、相手に合わせて、自分を出すような奴じゃなかった」
「環境が変わったから、ですかね。変わろうとした訳じゃないんです。ただ、自然と」
亨から、自嘲するような一笑が漏れた。
「海貴也にフラれるなんて、考えてなかったよ。脅しに屈しないなんてな。───認めたくないな。あんな、ハンデ持ちの外国人に負けるなんて。屈辱だよ」
空笑いをしながら口にした亨の言葉に、カクテルに手を伸ばそうとした海貴也の表情が一瞬で変わった。
「俺ならお断りだ。面倒事は嫌いだし、いちいち気を回すのもだるいし。俺だったら付き合いきれないわ。お前は優しいから、手伝うとかできるだろうけど。せいぜいストレス溜めないように気を付けろよ?結局、健常者の方が良かったってなりそうだけどな」
「……亨さん」
「何だ」
振り向くと、コップの冷たい水が掛けられた。亨は顔から肩にかけてびしょ濡れになる。
「……」
「それ以上、ジュリウスさんを侮辱しないで下さい」
海貴也は、憤りと悔いを滲ませた面持ちで亨を見ていた。
「……何だよ。ただの個人的な意見だろ」
「もしここにジュリウスさんがいたら、どう感じると思いますか?普通の人が抱く偏見を目の前で言われたら、心の中で何が起こると思いますか?」
再び始まった口喧嘩に、他の客たちがまた二人に注目する。バーテンダーも、騒ぎが大きくならないかと動向を見極める。
「何でそう無神経なんですか!他人事だからって、あまりにも勝手を言い過ぎです!ジュリウスさんはそういう人たちに傷付けられてきたんです。人と違うことを受け入れてもらえらくて、ずっと苦しみながら生きてきたんです。今みたいな心無い言葉で。違うから、わからないからって避けるのは間違ってるんです。同類で理解し合えばいいんじゃない。そういう隔たりが深い溝と厚い壁を生むんです!違うから考えないとダメなんです!何でそれがわからないんですか!」
海貴也は、怒りが込み上げるままに捲し立てた。自分に多くの目を向けられていることにも気に留めず、発言した亨に叱責した。
怒気を露にした海貴也を見つめる亨は、呆然として視線を動かさなかった。亨が知らない海貴也がそこにはいた。
「亨さんは、人として足りないものがある。そんな人とは付き合えません。もう連絡しないで下さい。絶対に会いに来ないで下さい。オレたちに関わらないで下さい」
きっぱりと決別を言い渡した海貴也は、立ち上がって去ろうとした。もう一緒にいる理由は一ミリもない。
「……海貴也」
しかし亨は引き止めた。海貴也は仕方なく足を止める。
「そいつのこと、同情から好きになったんじゃないよな」
「そんな訳ないじゃないですか」
「……じゃあ、お前はわかってるんだな?」
「え?」
海貴也は、小首を傾げそうになりながら問い返した。
「同じ境遇になったこともないけど、お前はあの外国人のことを本当にわかってるってことだよな?」
「………」
その問いに何も答えられず、海貴也は沈黙してしまった。
わかっている。海貴也は、自分ではそう思っている。自分なりに勉強をして、ジュリウスと話をして、一番の理解者になれると信じている。
そう思っているのに、判然とした答えが支えて出てこない。
瞳に僅かに動揺の光が揺れる。
亨はその真因を見透かしているかのように、恨みがましく海貴也を見つめた。




