第三十話
土曜日の夜。何処かから花火の音がする。まるで夏の終わりを惜しむかのように、千輪や銀蜂が咲き乱れる。
市街地から三十分ほど離れた小高い丘の上にある観光ホテル。広いロビーからは広範のガラス窓の向こうに開豁とした絵画のような景色が広がり、訪れる宿泊客を喜ばせている。日が沈めば絵画が昼間の景観から夜のものへと移り変わり、港町の宝石の大地が姿を現す。バーラウンジからの眺望も、最高の二文字意外に言うことはない。
海貴也はまた、性懲りもなく亨と会っていた。ジャケットを纏う亨は夜景を隣に背凭れのクッションに背中を預け、グラスを傾ける。海貴也の前にも水とカクテルが並んでいるが、水しか口を付けていない。
シックなテーブルの上には、マネッチアの切り花が炎のような色を夜に添えている。
「奥さん、帰って来たんですか」
「ちっこいのと一緒にな。……家の中に一人増えただけで、凄い変な気分なんだよ。自分の家じゃないみたいな。生まれた時側にいたけど、まだ家族なんて思えない感じだし……」
亨はグラスの中の丸い氷を転がし、涼しげな音と共にウイスキーをちびりと一口飲んだ。
「育児、手伝ってるんですか?」
「んー。まぁ、主にあやしてる。オムツ交換とかも教えられた」
協力はしているようだが、その心情は表情に表れている。あまりやりたくないらしく、洗濯や掃除を進んでやっていると亨は言う。
「男の子でしたっけ?」
「あぁ」
「かわいいとか、思わないんですか?」
「……どうだろうな。よくわからない」
グラスを回し、自分の意のままに転がる氷を見つめる。氷が動くその度に、琥珀色の液体が波打つ。
「きっとそのうち、自分の子供だって自覚が湧いてきますよ」
どうにかなると海貴也が励ましても、亨は鬱々とした面持ちを消さず、頬杖を突いて眼下の夜景に視線を移した。
「子供がきっかけで、奥さんとも上手くいくかもしれませんよ?今までのことなんかリセットできて円満に……」
「そう簡単にいけばいいけどな。───アイツ、本気で田舎に帰るつもりだ」
「故郷で子育てしたいって言ってたことですか?」
「仕事を辞める時期を考え始めてる。住む家も、借りるか買うかで相談された。俺の仕事もあるって言うのに、どんどん話が進んでく。俺の事情なんて無視なんだよ」
海貴也から話す表情は見えないが、ガラス窓に映る憤った亨の目は少し怖かった。
「本気なんですね。奥さん」
「だから、俺も本気になって考えた」
頬杖をやめた亨は海貴也の方に向き直ると、テーブルの上の海貴也の左手に自分の右手を重ねた。海貴也が亨に視線を送ると、真剣な眼差しが向けられていた。
「海貴也。俺とのことを、真剣に考えてくれないか」
「亨さん……」
「俺は本当に、本気で離婚を考えてる。もうアイツには付いて行けない。仕事を辞められたら、離婚なんて難しくなる。家事調停なんてことになったら面倒だ。その前に俺とよりを戻してくれ、海貴也」
握られた手から熱いものが流れ込んできて、不本意ながら身体の中がまた少し騒ぎ出してしまいそうになる。
しかし、もう流されてはいけない。惑わされないように顔を逸らした。
「ダメだって言ってるじゃないですか。オレにそんなつもりはないです」
「信じられないな。お前は俺の質問に答えられてないだろ」
花火を見たあとに投げ掛けた質問のことを、亨は言及する。
───なぁ海貴也。お前が俺の誘いを断らないのは、俺のこと好きだからじゃないのか?
曖昧な言葉しか生み出せなくて、一言も口にしなかった。誰の為に憚った訳でもない。形があった自分の言葉が、感情が、夢のように淡くなっていたから。
その日から、海貴也が明言できなかった心情と同様に、亨の心境もそれに共鳴して今日まで存在している。
「本当にそう思ってるのか?」
「思ってます」
「俺の目を見て言えよ」
「……本当に思ってます」
海貴也は目を見たが、言い終わってすぐにまた顔を逸らした。
「じゃあ、何でまた来たんだよ。既婚者の俺とは付き合えないって思ってんだろ」
「それは脅されてるからで……」
「なら警察に相談すればいいだろ」
海貴也にそんなことができる訳がない。窮状する事態に助けを乞う為と言えど、自分のセクシュアルマイノリティーを他人に曝すのは抵抗がある。それに証拠がないから、ただ性的指向を知らせるだけという恥曝しになってしまう。
「俺はこのまま期待しててもいいのか?それなら明日にでも離婚に向けて話をする。一ヶ月以内には離婚届を出すよ。だから海貴也。お前の答えを言ってくれ」
亨は想いを込めるように、握る手に力を加える。
〈亨さんは、本当にオレを……?〉
繋がった手から、亨の熱がどんどん流れ込んでくる。もう一度亨の瞳を見ると、脅された時とは全く違う真っ直ぐな想いが光となって灯っている。
亨は本気だ。恐らく、間違いなく。
海貴也の心が再び揺さぶられる。けれど、傾きかけた気持ちを振り切るように頭を振り、自分の目を覚まさせる。自分が繋がっていたい相手は、本当はわかっている。
海貴也は、握られた手を静かに離した。
「やっぱりダメです」
「俺のことは嫌いってことか?」
「嫌い……と言う訳じゃ……。でも、あの頃には戻れないです」
「………」
始めて言葉にされた海貴也の本心に、亨は何も言わずにグラスを傾けた。
交際していた時には「好き」の一言も言わなかったのに、始めて意思をはっきりと口にした。あの頃にはなかったが、そう言わせるものが今の海貴也にはあった。
再び窓外に向いている亨の顔を、海貴也はそろりと見た。苛ついている様子はなく、かと言って落胆も傷心もしている訳でもなさそうだった。
視線を変えないまま、亨は聞く。
「じゃあ、好きな奴がいるのか?」
「……はい」
「あのカフェの外国人か」
言い当てられた海貴也は、驚いて声が出なかった。
見透かしていた瞳を一驚する海貴也に移すと、亨は足を組んで椅子に凭れる。
「図星か」
「何でわかったんですか」
「最初は、そいつの話をしてたお前の表情とか見て何か違うと思った。あと、カフェで手を握っただろ?その時の反応で勘が働いた」
結構早い段階で察知されていたようだ。あの時の海貴也の挙動は誰が見てもあからさまだっただろうが、まるで恭雪のような観察力だ。
「俺が、お前の心の隙間に入る余地ははいのか」
「……はい」
「本当にそいつでいいのか?」
海貴也はもう一度「はい」と答える。
「でもその外国人、ちょっと厄介じゃないのか」
「…?ジュリウスさんは、悪い人じゃないです」
亨が何か勘違いしているんじゃないかと思って言ったが、「そういう意味じゃない」と亨は訂正した。
「身体的なことだ。普通の俺たちとは違うだろ」
「……もしかして、気付いたんですか。アルビニズムだってこと」
ジュリウスとは二回しか会っていないのにそこまで感知していたなんてと、亨の観察力に海貴也は脱帽しそうになる。
「何年か前に、仕事絡みで知る機会があったんだ。だが、本物のアルビノを見たのは初めてだ。お前も、どういうものか調べたんだろ。なら、どういう体質なのか知ってるよな。背負ってるリスクも」
「だから何だって言うんですか」
「付き合ってくの、面倒くせぇだろ」
その一言に、海貴也の面持ちが微々たる変化を見せた。
「紫外線は避けなきゃならない。強い光に気を付けなきゃならない。将来的には皮膚がんの発症もある。一緒にいれば周りから好奇の目で見られて、お前まで余計な注目を浴びることになる。表立つの、お前は苦手だろ。そんな奴と付き合ってたら絶対そのうち疲れて、一緒にいるのが面倒くさくなるぞ。そんな奴より、常人の俺との方がずっとましだろ。デメリットなんて全くないんだからな」
饒舌にしゃべる様は、クライアントにプレゼンをする時や部下に言い諭す時と同じだった。自信があって自分の発言に微塵の疑いも持っていない、時々目にしていた彼だ。
「………それは嘘です」
しかし、その発言に対して尊敬の念は抱かなかった。
「まぁ、この先あり得る話ってだけかもしれないけどな」
「ジュリウスさんより亨さんの方がましなんて、そんなことはありません」
「……え?」
異論を唱えられた亨は、グラスを傾けようとしていた動作を止めた。
「デメリットって何ですか?紫外線は、普通のオレたちにも悪影響です。強い光が苦手なのも、オレたちだって同じじゃないですか。病気も誰だってする。暑くても長袖なんてその人の好みだし、目立つことも気にすることじゃない。寧ろジュリウスさんは、キレイだから注目されるんです」
「だが、俺は健常者だ」
「確かに亨さんは、健康的な人です。でも、ジュリウスさんにはないデメリットがある」
「俺の、デメリット……?」
亨は眉頭を寄せ、怪訝な面付きで海貴也を見遣る。
その視線にハッとなり、勢い任せに反論してしまったことに海貴也は後悔した。だが反論の意思は間違いなくあって、異論を唱えずにはいられなかった。これは、またとない契機だから。
夏の間、ずっと探していた。海に現れる光の道のように揺蕩いながらも、自分の本能が走り出す方向を。
心から守りたい繋がりを。