第三話
七月。ジメジメとした梅雨は、まだ明ける様子はない。しかし今年は、雨季と言うほど雨の日は少なく、ダムの貯水量が五十%を割るなど水不足が懸念されるとニュースで言っていた。
その不安を和らげるように、今日は三日振りに朝から雨が降ってくれている。けれど一日しか降らないらしく、次の雨の日は二日後の予報だ。
海貴也が新しい職場に勤め始めて、五ヶ月目になった。環境や人間関係にも慣れ、案件を任せてもらえるようになったりと順調だった。
「良かったね。クライアントに喜んでてもらえて」
「はい。ありがとうございます」
依頼を受けた企業へのプレゼンを無事終えた帰り。バスの中で同行した坂口に褒めてもらい、改めて海貴也は安堵した。
先輩の河西に少しフォローしてもらいながら納得がいく広告ができ、それがクライアント側にも喜んでもらえる結果になり、また一つ自信がついた。「完成したものを見るのが楽しみです」と言ってもらい、もっと大勢の人に喜んでもらえるようになりたいと向上心が湧いた。
次の停留所がアナウンスされる。地元では有名な神社の近くの、「赤鳥居」という名前のバス停。昔、両親と何度も初詣に来たことがあり、ここで降りてお参りに行った。バス停の前には熱帯魚屋があり、そこで必ず足を止め、人間には無関心に優雅に泳ぐ魚に見入っていたのを覚えている。
バスは赤信号で停車した。アイドリングストップし、エンジンの音が消えて海貴也たちを含めた七人が乗った車内が深閑となる。外の雨音も聞こえず、雨は静かに窓に水玉模様を作っていく。
「ところで佐野くん。今日の夜は用事ある?」
「いいえ。特にないです」
今朝もジュリウスに連絡をしてみると、様子を見て休むかもしれないと言っていたので帰りに寄ってみようと思った。しかし、無理して来なくてもいいと遠慮されてしまったので、予定は空白だ。
「良かったら、食事に行かないか?僕の友人がこっちに来てて、会う約束をしてるんだ」
「友人の方、ですか?」
「僕らの同業者で、関東の会社で働いてるんだ。彼アートディレクターだから佐野くんの仕事にも精通してるし、参考になる話が聞けると思うよ。どう?僕は“ホワイト”だから、断っても雇用に影響はないけど」
今の会社がそんな所ではないことは、十分わかっている。でも坂口の言うように、仕事に関して有益な話が聞けるかもしれない。
アートディレクターに就いている人は、前職がグラフィックデザイナーだった人が多い。その経験を積んでいる人ならば、今後に生かせるアドバイスをもらえる良い機会だと思い、海貴也は誘いを受けることにした。
仕事が終わったあと、坂口と一緒に待ち合わせ場所に指定した駅前広場の銅像前に来た。
わかりやすい目印から、ここはよく待ち合わせ場所になる。雨上がりの夜八時過ぎでも、傘とスマホを手に立っている人がちらほらいる。
中心にそびえる大樹の下にはベンチも設けられ、憩いの場にもなっている。昼間は人だけでなくたくさんの鳩も集まっていて、たまに老年の男性が餌をあげている。
約束の時間の少し前に到着し、坂口は周囲を見回して友人を捜した。
「まだ来てないのかな」
「坂口さん。その人、どんな人なんですか?」
「良い奴だよ。口はちょっと悪いけど、その分顔は悪くない」
「アートディレクターって言ってましたよね」
目を凝らしていた坂口だったが、どうやら友人は見当たらないようで、諦めて力んでいた両目をしばたたかせた。
「そう。最初は佐野くんと同じグラフィックデザイナーだったんだけど、転向したんだ。実のところ、プライベートは難ありの奴だけど、仕事の取り組みは人が違うみたいに真っ直ぐなんだ」
眼鏡の奥の瞳はその友人を称えているが、しっかりディスりを入れるあたりは坂口が完全な善人ではない証拠だ。
以前は、親戚の為に行動する彼はただの善人にしか思えなかったが、仕事終わりの食事の場で違う一面を発見してからは、親近感を覚えている。単純に他人を思い遣れる良い人というだけではないことを知り、信頼できる人だと再確認できた気がする。
〈プライベート難ありって……。他人のオレに、暴露しちゃっていいのかな〉
坂口からの情報を聞いて、海貴也は急に会うのが怖くなってきてしまった。今は完全にプライベートの時間で、そのプライベートに何かしらの問題を抱えている、口が悪い人物……。
坂口には悪いが、嘘を吐いて帰ってしまいたくなった。
「おかしいな。時間はちゃんと伝えた筈なんだけど……。連絡してみるね」
坂口はLINEを開いて、時間になっても現れない友人に連絡をした。その数分後、ようやく坂口の友人は現れた。
「……あ。来た来た」
「おーい、こっち!」と、駅ビルの中から出て来た友人に向かって、坂口は手を挙げた。その声に気付いた友人も、こちらに向かって来る。待ち合わせの時間を十分近く過ぎているというのに、サマージャケットを軽くなびかせながらマイペースに歩いている。
良くない事前情報が印象に残る海貴也は、これから一~ニ時間も一緒の席にいられるだろうかと案じながら坂口の隣にいた。
しかしその不安は、彼の姿がはっきり見えてくると違う感情に変わった。その両眼は見開かれ、顔付きが強張る。
警報を鳴らすように、心臓が大きく脈動する。
〈何で………〉
対面すると、一瞬息が止まった。
「悪い、ぐっちー。時間忘れてたわ」
「また動画に夢中になってたんだろ。何処で時間潰してたの?」
「駅ビルの中のカフェ。何かちょっと変わったな、この辺。つか、この銅像なに?」
「家康公の幼年期の像だよ。向こうには、馴染みのある姿のもあるよ」
坂口が軽く指を差しながら説明すると、彼は「へぇー」と興味がなさそうな反応をした。
二人が話している間、海貴也の口は開いたままだった。信じ難いものを見るように、坂口の友人から目を逸らさない。
そんな海貴也を放置していたことに、坂口はようやく気付いた。
「あ。ごめん佐野くん。彼が僕の友人の、長谷崎亨。亨。彼は僕の会社の子で、佐野海貴也くん」
坂口が海貴也を紹介すると、彼は初めて海貴也に視線をやった。
「あぁ。知ってるよ」
黒淵眼鏡の向こうの垂れた瞳を細くし、口元を緩めた。
「え。面識あったの?」
「面識も何も、俺の元部下だよ。な、佐野?」
一瞬坂口に戻した視線をまた海貴也に向け、「久し振り」とまた微笑んだ。
「そうだったんだ。じゃあ、紹介する必要もなかったな」
「今更だよ。去年まで一緒に働いてたんだからな。コイツのことは、何でも知ってるよ」
亨の語り掛けに、海貴也は一度も相槌を打たない。視線を交わらせても、表情は少しも変わらなかった。微笑まれても、愛想笑いすらできない。
今この瞬間全てが、信じたくないものだった。
「それより腹減った。早く飯食いに行こうぜ」
「そうだね。積もる話は店でしようか。すぐそこだよ」
二人が歩き出したのに気付いて、呆けていた海貴也は遅れて後に付いて歩き出した。
〈何で……何で、亨さんが………〉
話にあった通り、海貴也は亨が働いている広告制作会社『株式会社S&T』にいた。海貴也にとって、亨は元上司にあたる。そして。
会社を辞め、引っ越すきっかけとなった、元交際相手だ。