第二十九話
彼女にも優しくしたことはあるのに、やきもちでも焼いたのだろうかと若干面倒臭さを嗅ぎ取ったが、ドアベルが鳴り止まないうちに恭雪は話を再開した。
「お前が変わった実感は、俺たちが感じてる。夢叶えようとここまで来たんだ。もっと自分に自信持てよ」
「そうデスよね……。デモやっぱり、お店は一人でやることにシマス。恭雪サンの言う通り、取り組み方は見直すべきデスよね」
「それなら、一人でやろうとするのはやめろ。俺は反対だ」
「それは大丈夫デス。二年以上、一人でやってきたんデスから」
「ジュリウス……」
恭雪の言い分は間違ってはいない。なのに、こんなに意固地になるのは何故なのか。それは、彼が持つ信念うんぬんよりも他に、たった一つの理由があることは恭雪は既にわかっていた。
ジュリウスの内心によるその決心は全く理解できなくもないが、その意見をそのまま通すこともできない。折れないジュリウスに呆れていた恭雪だったが、次第に苛々が募ってくる。
「頑張ろうとする意気込みは否定しないが、頑張り方が違うだろ。店始める前から一人でやろうと決めてたんだと思うが、現実を考えてみろ。一人じゃ無理だって、もうわかってんだろ。本当は誰かの支えが必要だって自覚してんだろ」
「そんなことハ……」
「そんなことあるんだよ。お前は自分のことすらわかんねぇのか。だからお前は質悪いっつってんだよ」
砂時計のように静かに募っていく苛立ちで、言葉も面付きも厳しくなっていく。
「ソノ、質が悪いとはどういう意味なんデスか」
「本当に言わなきゃわかんねぇのかよ。鈍感にも程があるぞ」
「ダカラ、わからないノデはっきりト……」
ジュリウスも眉頭を寄せて不快な面持ちになると、堪らなくなった恭雪はとうとう椅子から立ち上がって言い放つ。
「お前は佐野が好きなんだよ!」
唐突に突き付けられたジュリウスは、まさに鳩が豆鉄砲を食らった表情で見下ろす恭雪を見上げた。
「………エ?私ガ…海貴也サンを…好き……?」
「そうだよ!何で最近のお前の気力がないのか、理由を教えてやろうか。手伝いに来れなくなった佐野が何時の間にか知らない所で違う男と会ってて、そいつが元カレだと知ってきっと元鞘に戻ったんだと自分の中で勝手に完結してんだろ。んで、その理由が自分の体質の所為だと思い込んで、佐野はもう自分には興味がなくなったんだとこれまた勝手に決め付けたんだろ。だからお前は店のことなんてどうでもよくなって、いい加減に考えてんだろ。バカかお前は!何でもかんでもネガティブに考えんな!それで生まれ変わるとかほざいてんのか!そんなんじゃ何年経っても生まれ変われる訳ねぇだろ!まずはそのメンタルを何とかしろ!それがどうにもならないなら、イタリアに帰れ!」
恭雪は、鬱積を晴らすように捲し立てた。苛立ちも抵牾しさも悔しさも、全て詰め込んで。
ジュリウスは口を半開きのまま、呆然と恭雪を見上げる。そんなジュリウスを見て、恭雪はハッと我に返った。
「……あっ。悪い。イタリアに帰れってのは、言い過ぎた」
口が過ぎたことを詫びるが、「つか。何でお前らのことで俺が苛つかなきゃならないんだよ」と愚痴を溢した。
すると、瞬きを繰り返すジュリウスから質問される。
「恭雪サンは、何で私が海貴也サンを好きだって思うんデスか?」
「……人の話を聞いてないのか、お前は」
頑固な上に自分の感情に鈍いジュリウスに、恭雪は風船の空気が一気に抜けていくような気分だった。タイムマシーンがあったら、昔のジュリウスに恋愛の指南をしに行きたいと思った。
興奮という風船が小さくなったところで腰を落ち着け、改めて話した。
「わかりやすいんだよお前。見てればわかるわ」
「そうなんデスか?」
「アイツと話す時だけ笑顔になってるの、自分で気付いてないか?俺や客を相手する時とは違う、自然な笑顔で。そんなんだから自覚ないだろうけど、お前はアイツにだけは本当に心を開いてる」
「そうデスかね……」
自覚の欠片すら持っていないジュリウスは、純粋に首を傾げた。
「そう反応すると思ったよ」
〈てか。何で俺はこんなこと……。このまま引けないんだよ。コイツら見てると苛々して、力ずくでもどうにかしてやりたくなるんだよ〉
自分の想いが届かなかった代わりに、海貴也を応援したくなっている訳じゃない。単なる不器用世話焼きの性だ。なんて悲しい性なのだろう。わかっているのに、やめられない。
「じゃあ聞くけど。俺といるより、アイツといられる方が嬉しいだろ」
「……多分」
「アイツと連絡先を交換しただろ。何で俺には教えてくれないんだよ」
「嫌がらせが多そうだからデス」
〈間違いなくするけどな〉
「じゃあ、究極の質問するぞ。俺とキスするのとアイツとするの、どっちがいい?」
「恭雪サンとはシマセン」
キスしかけたことを思い出したジュリウスはまた眉頭を寄せて、明らかに嫌だと判断できるサインを見せた。
「じゃあ、佐野がいいってことだな」
「そ……」
うっかり口が「そうデス」と言いそうになったのを、ギリギリで止めた。自分が言いかけた言葉に驚く一方で、僅かに頬を赤くする。
「そんなこと……わからないデス」
少し顔を俯けながら、可能性はなくないという台詞に変えた。今のジュリウスの精一杯の抵抗だ。
「……ほんっと、わかりやすいな」
恭雪はジュリウスに流し目をして、無糖のアイスコーヒーを啜った。
残暑の日差しが、木目のテーブルにグラスの影を作る。冷房が効いていても、水滴が細長いグラスを伝って落ちていく。
グラスも中の氷も、太陽の光が反射して輝いている。ジュリウスには、それすら眩しく感じた。今はまだ。
ストローでコーヒーと氷を回しながら、恭雪は諭すように話し出す。
「お前にとってアイツは、もう特別な存在になってる。自分じゃない相手と親しいことに不安になったり、距離が遠くなったことが寂しく感じたり。それは、お前が佐野をただの友達とは思ってない証拠だ。何より、一瞬でもキスの相手に選んだことは、間違いなくそういうことだ」
「……デモ、海貴也サンはもしかしたラ、もう私のことなんテ……」
「わかんねぇだろ。元上司だから、社交辞令で付き合ってるだけかもしれないし」
〈アイツの性格じゃあ、本当のところは微妙かもしれないけど〉
「聞いてみればいいだろ。まだ好きですかって」
「無理に決まってるじゃないデスか!」
ジュリウスの顔面が、また血色が良くなった。もしかしたら、毎日手鏡を持っていれば、海貴也といる時の自分がどんな顔をしているのかわかって、自覚に繋がるんじゃないだろうか。
「でも、聞いてみないことにはわかんねぇぞ。お前が佐野との関係を友達以上にしたくないなら、別にいいんだけど」
世話焼きの恭雪だが、俺が聞いてやろうか?なんて絶対に言わない。そこまで焼いてやる恩義もないし、プライドが許さない。
頬を赤に保つジュリウスだったが、次第に血色が淡くなる。
外からの光は、惜しくもまだジュリウスに届かない。
「……もしもまだ好きでいてくれているとしてモ、きっと私は海貴也サンの負担になってしまいマス。これから、もっと迷惑を掛けてしまうかもしれマセン。そうなってしまうのナラ、この状態が続くのは仕方がないことデス」
「ジュリウス……」
海貴也は優しくしてくれた。だから、その気持ちに甘えた。海貴也の仕事の大変さを知らずに。自分からは何も与えられないと、わかっていたのに。
亨に、海貴也とは釣り合わないと言われた。そんな気はなくても、その通りだと納得してしまった。こんな自分より、他に相応しい人がいる筈だ。
自分は迷惑を掛けてしまう。実際に掛けてしまっている。これが海貴也にとって悪いものなら、彼の夢の妨げになってしまうのなら、もう頼らない。頼れない。
だから海貴也に任せたい。これからも自分と繋がっていてくれるのか、あるいは別の繋がりを求めるのか。
海貴也との関係を半ば諦めているジュリウスを見た恭雪は、身体を彼の方へ方向転換した。
「迷惑を掛けない孤独な人生を歩むのがポリシーだって言うなら、お前は曲げないだろうからそうしろとしか言わないよ。誰と繋がろうが縁を断ち切ろうが、お前の自由だ。だがその選択に、絶対後悔はないと言えるのか?今繋がっているものを手放せるのか?それはお前の人生にとって、損失にならないと言い切れるのか?」
「……」
「ジュリウス。“配慮”と“遠慮”を履き違えるな。もう少し正直になってみろよ」
真剣な声音の恭雪の言葉は、ジュリウスの心底にある隠された希求を揺り起こそうとする。
広がろうとしていたジュリウスの世界は、元の範囲に縮小されようとしている。ジュリウスは、その事実に目を向けないようにしている。
昔のジュリウスの世界は、家の中だけだった。学校や職場は外界という認識で、緊張感が絶えずストレスばかりが溜まった。
そんなジュリウスが日本へ行くのは、異世界に乗り込むようなものだった。行くと決めてからも来てからも、頼れる人のいない世界で不安ばかりだった。心細くなって帰りたくもなった。そんな日々を乗り越えて、環境に馴染めてからは本当に安心していた。
しかし現在のジュリウスの世界は、このカフェの中だけ。振り出しに戻っていることに、見ジュリウスは見て見ぬふりをする。今まで限られた世界にばかりいた所為かそれが当たり前になり、押入れのような狭い世界に安堵してしまっている。「これでいい」と、無意識に思う癖が付いてしまっていた。
ジュリウスはこのまま、自分が決めた世界の中で生き続けるのだろうか。彼が望んでいた未来は、新しい自分になることではなかったのだろうか。こんな自分になりたいと、想像していたのではないだろうか。
夢を抱いたあの時は、一体どういう表情で希望を見出だしていたのだろう……。
ジュリウスはずっと、自分を守る為の壊れかけの籠を大事に持ち続けていた。再生し始めていたその籠を、壊すべき時が来たのかもしれない。




