第二十八話
「We are petals of the diagonals」⑦
喧嘩を聞いていた母親に宥められたケビンは、マリーに酷いことを言ってしまったと後悔した。罪悪感から元気はなくなり、好きなゲームもマンガも手に付かなかった。
何もしなくなった代わりに、毎日、夜八時前になると、携帯を両手で握り締めるようになった。眠る直前まで手放さなかった。
謝りたいけれど、マリーからの電話は途絶えたまま。携帯は沈黙を守り続けている。
着信履歴には、マリーの名前だけが連なる。そこからただリダイヤルすればいいだけなのに、それができない。ケビンにとってそれは、学校の屋根の上から飛び降りるくらいのことだ。
ただただベッドに寝転がる日々。前までは、退屈でも学校にいるよりはましだと思えた。でも今は、苦痛だった。無為な時間が増えた分、余計なことを考えてしまう。
電話したら、酷いと泣かれるかもしれない。怒って、二度とかけてこないでと言われるかもしれない。実は最初から付き合いづらいと思ってた、と言われるかもしれない。それ以前に、着信拒否をされているかもしれない。嫌われて、絶交されてしまったかもしれない。───そんな妄想を繰り返し、毎日不安なまま一日を終える。
そんな日々が続くのが嫌だとも思いながら、勇気が足りなくてずっと悩み苦しんでいる。そして、彼女との時間がどれだけ大切だったのかを、身に沁みて感じた。
この前見た、永遠に赤から変わらない信号で立ち往生する夢のようだ。
嫌われたことを、受け止めたくなかった。
八月も終わりに近付いていた。しかし秋の気配など全くなく、まだあと一ヶ月は夏のような暑さが続きそうだった。
夏休みも残り僅か。課題に手を付けていなかった子供たちが、そろそろやり始めている頃だ。厄介な読書感想文や自由研究を、親に泣き付きながら片っ端からやっているに違いない。
冷房が効く正午間近の作業場で、恭雪はマスカットのゼリーをせっせと作っている。最近の販売ペースは落ちたので急いで作ることもなくなったが、今日はまだ店頭にゼリーを出せていなく、少し製造ペースを上げていた。
一週間くらい前から店の冷蔵庫の調子が悪く、開店前にようやく業者に直してもらったのだ。昨日までは家の冷蔵庫で少量ずつ作っていたから、これでせいせいして作れる。
三十ほど並んだカップに、一番上の層のゼリーを流していく。これを冷やし固めて砂糖コーティングしたマスカット粒を乗せれば、できあがりだ。
「キレイよね。このゼリー」
作業に集中していて、美郷が近付いて来るのに気付かなかった恭雪は、ちょっと驚いた。
「お、おう。そうか」
素っ気なく返し、透明な緑色の液体をまた流し始める。
隠し事に後ろめたさを感じながらも、美郷とは平生で変わらないように努めている。不意を衝かれると今のように小首を傾げたくなる反応になるが、気にしていないのか、美郷は特に何も言ってこない。
「冷蔵庫、直って良かったわね。私もやっと、チョコレート作りを再開できるわ」
気になる店舗のはしごと並行して、店の作業場を借りて自身の作品作りもしている。これまで何度か彼女のチョコレートを試食している恭雪は、進化し続けるその腕に尊敬の念を抱いている。決して口には出さないけれど。
「今度はどういうのを作るんだ?」
「日本ぽい素材を使いたいの。わさびとか柚子胡椒とか。過去に作ったことはあるんだけど、更にアレンジを加えたいのよね」
それをどんな形で。ガナッシュかプラリネか。どんな食材との組み合わせが面白いか。チョコレートへの愛と探求心が尽きない美郷の頭の中に、ポップコーンのようにカカオとの様々な組み合わせが出てくる。
「俺もそろそろ、秋の新作を考えないとな」
「栗にかぼちゃ、柿、秋刀魚……」
「秋刀魚かよ」
指折り数える美郷に恭雪は突っ込む。
「秋の味覚の代名詞でしょ。まぁ、流石にスイーツに取り入れるのは難しいけど。……栗はモンブラン、かぼちゃはプリンやタルト、柿もスイーツにできるわね。でも、ありきたりなものじゃつまらないし、何か面白い食材はないかしら」
「お前は、チョコレートの新作を考えるんじゃなかったのかよ」
自分のことそっちのけで、美郷は腕を組んで「うーん」と唸る。ゼラチンを流し入れ終えた恭雪は、彼女のひらめきを期待しながら少し待った。
「……あ。ねぇ、きのこは?」
「きのこ?しいたけとか、しめじとか、松茸をスイーツにするのか」
「そう。でも、甘さって合うかわからないけど、生クリームを使わないケーキなら良いんじゃないかしら」
「パウンドケーキか……。それなら、さつまいもやかぼちゃを入れて甘みを出せば……」
パウンドケーキは、もう一人のパティシエが作ってくれている。種類は、プレーンとマーブルとドライフルーツの三種。時々リニューアルはしているが、手土産に購入されるくらいで生菓子ほど売れていない。だから、何か新しい種類は出せないかと思っていたところだった。
「良いヒントになった?」
「あぁ。きのこは使ったことないが、作ってみる」
『パティスリー・ヤス』の秋の新作は、彼女のおかげで決まりそうだ。
恭雪はゼリーが乗ったトレーを持ち、業務用冷蔵庫に入れた。
「そのゼリー、全部お店に並べる分なの?」
「いや。後でジュリウスのとこにも少し持ってく」
そう言うと、自分も一緒に行っていいかと同行を求められたので、美郷と二人で行くことになった。
二人は、『パエゼ・ナティーオ』の休憩時間に合わせて向かった。車に乗り込むと、熱が籠っていて蒸し風呂のような暑さで、窓を全開にして走った。
着くと掛け看板は【CLOSED】になっていたが、鍵が開いていると知っている恭雪は躊躇せず扉を引いた。連動してベルが鳴り、読書をしていたジュリウスが顔を上げた。
「おっす、ジュリウス。ゼリーお待たせ」
「こんにちは。ジュリウスさん」
「コンニチハ。恭雪サン、美郷サン」
恭雪からゼリーが入った保冷バッグを受け取り、ジュリウスは早速ショーケースの中にしまった。今日は午後からの販売になるので、何時もより少なめの個数にしてもらった。
そのあと二人に飲み物を出し、美郷にはクルミ入りのガトーショコラをサービスした。
「最近、体調はどうだ?」
「ハイ。比較的、安定してイマス」
「ジュリウスさん、どこか悪いの?」
「あぁ。ちょっとな。でも、前より良くなってきてるんだ」
ドリンクを提供したジュリウスは、一度キッチンに戻って行った。ジュリウスの回復の兆しを口にした恭雪だったが、美郷の「良かったわね」には「どうだかな」と返し、憂慮した面持ちでジュリウスを一瞥した。
彼が洗い物が終わったのを見計らい、テーブルに呼んだ。
「ちゃんと睡眠は取れてるか?」
「ハイ。雨も少ないノデ、問題ないデス」
「無理はしてないか」
「エェ。大丈夫デス」
「一人でやってて、困ってることは?」
「それもありマセン」
「アイツは来てるのか」
「……イイエ。最近は」
普通に恭雪の質問に答えていたジュリウスだったが、最後の問いに答える時だけは、わかるかわからないか程度に目蓋が下りた。それに気付かなくとも、恭雪は昨日より以前にジュリウスの様子を察して心を配っている。
「連絡は?」
「時々、体調を心配してメールをしてくれマス」
「また仕事で来てないのか」
「みたいデス」
「アイツって……この前いた、手伝いの子?」
ガトーショコラを食べていた美郷が尋ねると、「そうデス」とジュリウスは肯定した。二人が既に会っていたことを初めて知った恭雪は「会ったのか?」と美郷に聞くと、ちょこっと挨拶をしただけだと言われた。
美郷の脳裏にあの時見たことが甦ったが、言い触らさない方がいいだろうと思って胸の中にしまった。
「と言うか、社会人だったのね。大学生かと思ったわ。何の仕事してるの?」
「広告作ってんだってさ」
「へぇ。凄いわね」
海貴也に関心がありそうに聞こえるが、今の美郷の優先事項は目の前のケーキ。甘くて苦いガトーショコラとクルミのハーモニーを味わっている。
「アイツの仕事も大変だからな。仕方ないっちゃ仕方ないな」
「私モ、大変だというのは聞いているノデ」
立っていたジュリウスは、恭雪の隣に座った。外光が少し射し込んでいるが、ジュリウスの方までは届いていない。
「───恭雪サン。やっぱり私、一人でお店をやることにシマス」
「前のように一人でか」
「以前ほど体調を崩すこともなくなったし、何時も忙しいという訳でもないノデ。一人だけで十分デス」
海貴也のことを考えたジュリウスは、そう策定した。恭雪を頼る選択はしなかった。それは、最初から選択肢に含まれていなかったから。
ジュリウスの決定に、恭雪は愁眉する。
「だが、症状が完全に良くなった訳じゃないんだろ。また店を休む必要が出てくる。今までもそうだったと思うが、売り上げなんて立たないだろ」
「大丈夫デス。休むことがあってモ、毎日じゃないノデ。恥ずかしい話デスが、養父に頼めば支援はしてもらえマスから」
忘れがちかもしれないが、ジュリウスはイタリアの実業家の令息。養子ではあるが、実子と相違ない立場にある。しかし、独立を願っていたその口から親の金を頼る台詞が出てくるとは、恭雪はとても意外だった。現状からくる彼の心理状態が、そう言わせているのだろうか。
「そうかもしれないけどな……。日本で店開くのが、お前の夢だったんだろ。それなのに、折角叶えた夢をそんないい加減に続けていいのかよ。それが、お前が思い描いてた夢なのか?」
「少し違いマスが、時には方針の変更も必要だと思うノデ」
ジュリウスは眉尻を下げ、薄ら苦笑を浮かべた。
このカフェの店主の彼がそう言うのであれ ば、他店の恭雪が何だかんだ口出しすることはない。だが眉間に皺を寄せる恭雪は、怪訝な顔をジュリウスに向ける。
「……ジュリウス。お前は今、楽しいか?」
「エ?」
「自分で選んだ豆で丁寧に淹れたコーヒーを客に出して、美味しいって言ってもらえて。その顔を見て嬉しいって思ってるか?」
「ソレハ……」
「今のお前に、客の顔は見えてるのか?」
問われたジュリウスは、木目のテーブルに視線を落とす。
「多分、見えてないだろ。だが、この前までは見えてた筈だ。美味しそうにコーヒーを飲んで、ホッと一息着いた表情を」
「……」
重ねて問い掛けられ、ジュリウスは考えた。
春先には、常連の白髪の男性から自宅の庭の桜の木に蕾を見つけたとか、みかん農家を営む女性からは山からウグイスの鳴き声がしたとか聞いた。他にも、孫が小学校に上がる話や、近所の野良猫が子猫を四匹生んでいたとか聞いた。
しかし、ここ一ヶ月くらいのカフェでの出来事はあまり覚えていない。常連客と何かしら会話をしたのは記憶にあるけれど、内容までははっきりと覚えていなかった。どんな表情をして、どんな声音で話していたのか。その時、自分がどんな風に言葉を返したのかも。
「俺たちの仕事はサービス業だ。客が満足のいくサービスを提供して、幸せな気分になってもらうのが目的だ。そして、また来てもらえるように細やかな気配りも必要だ。俺は毎日ケーキを作り、時期ごとに新商品を出して、新しい季節が巡って来たことを目と舌で感じてもらっている。それだけじゃなく、誕生日とか特別な日の為のケーキの注文を承けて、大切な人との記念日を飾る手伝いもしてる。イートインスペースも、買い物や子供を迎えに行った帰りに気軽に立ち寄れるように設置した。……こんな俺でも、客のことを考えて店やってる」
聞いていた美郷は、クスリと笑った。恭雪は彼女の独り笑いに気付かずに、ジュリウスに向けて話を続ける。
「ジュリウス。お前はどうだ。今のお前は、ちゃんと客のことを考えた接客ができてると思うか?」
「………」
正直肯定はできないだろうと、自身でも何となく気付いている。
接客の仕方は、イタリアのレストランにいた時に学んだ。言葉遣い、立ち居振舞い、表情。だから、サービスをする者としての姿勢は問題ないと思う。だが現在は、それを再現しただけのものになっていないだろうか。ただ業務をこなすだけになっていないだろうか。
「お前は何の為にカフェをやってる?自分自身の為だってのは知ってるよ。だが、今でもその理由一つだけなのか。三年近くやってきて、もう他人と接するのは慣れただろ。そろそろ、次の段階に踏み出すべきじゃないか?」
「お客様の為にってことデスか?」
「お前の成長は、ずっと見てきた俺が一番わかる。俺や……」
恭雪は一瞬、言葉を詰まらせる。
「佐野と話すように、客とも自然に接することができる筈だ。客一人一人の顔が見られるようになれば、もう一段階上の接客ができるようになる。そうすれば、カフェをやる理由も一つだけじゃなくなる。いい加減なやり方で続けようなんて考えなくなる筈だ」
ジュリウスの目標である「生まれ変わる」は、達成されつつある。その日が近いと恭雪は感じたから、自分の為ではなく他の誰かの為の方針に変えてみてはと提案した。控えめで、時には頑固な表情を見せるジュリウスだが、本当は頑張り屋で目標に向かって突き進んで行ける強い芯がある。だから、今まで指していた矢印の先をもう少し伸ばせると思った。
しかしジュリウスは。
「……そうデスかね……。私ハ、今のままでもいいと思いマス」
自分が評価されていることに、微塵も気付かない。
「お前……」
「お店の経営ハ、養父を見ていたのがきっかけデシタ。今までやったことのないことをやれバ、生まれ変わることができるんじゃないかっテ。……デモ、私は変わったんでしょうカ。本当に成長できているんでしょうカ……。自分でハ、そんな実感がないんデス」
「お前は十分頑張ってるよ。その体質で単身日本に来て店やってるって、偉いと思う」
最初の印象こそ無愛想で不信感しか抱けなかったが、ジュリウスがここで一人で店をやっている理由を知って、全ての印象が覆った。第一印象が申し訳なく思えるほど、尊敬できる相手だと思った。だから今は、こんなにも優しく鼓吹したいと思える。
二人はまだ話している途中だったが、皿とグラスを空にした美郷は立ち上がった。
「私、先帰るわね。冷蔵庫直ったから、チョコレート作らなきゃ」
「あ、あぁ。わかった」
「あのさ。恭雪って、そんなに優しかったのね」
「どういう意味だ、それは」
ジュリウスにコーヒーとケーキのお礼を言うと、意味ありげな言葉に解釈を付け加えずに美郷は帰って行った。