第二十七話
海貴也が考えていると坂口が「意見していいかな」と発言権を求め、そのまま疑問を口にする。
「もし佐野くんがその人の弱点を握っていて、それと引き換えに今の状況を変えられたとしても、それは本当に解決になるのかな」
「俺は、なるんじゃないかと思ったんですけど……」
突然の坂口の異存に、河西はたじろいだ。坂口は、会話を聞いての感懐を話し始める。
「でもそれって結局、その人とやり方が同じだよね。確かにその方法で終わらせられるなら、楽だと思うよ。けれど、それだとお互いに凝りが残らないかな。脅されたからこっちも脅しで黙らせるって、単純過ぎるし幼稚だと思うよ。そんなんじゃ、関係を解消できても後味が悪い気もするし。僕だったら、その人と同じやり方で終わらせたと思うと、僕自身が嫌な感じが残るような気がする」
坂口の感懐に、海貴也は胸中で同意した。
やられたからやり返すというのは、世界で通用する言わずと知れた常套手段だ。けれど、海貴也はそんな解決方法を求めている訳ではない。そんな勇気もないし、自分には似合わないと思う。だから、こんなにも悩んでしまっているのかもしれない。
「河西くんの作戦は、幼稚なんですって」
藤本にからかわれると、河西は睨み返した。これ以上後輩の前でプライドを傷付けないでくれ、と言わんとする眼差しで。
「あっ。ごめんね。決して河西くんをバカにした訳じゃないんだ」
「いえ。大丈夫です」
失言に気付いた坂口に謝られ、私見を押し通したくてもできない河西。以前穏やかに部下にキレている場面を見てから、なるべく逆らわないことにしている。
「でも坂口さんの言う通り、同じやり方でやり返すっていうのは当たり前の方法なのかもしれないけど、得策とは言えないかもね」
「じゃあ、後腐れがない方法を探るのか?」
鬼が同居する仏に歯向かえない河西は、藤本には強気に「あるのかよそんなの」と口を尖らせる。
「そもそも、脅せるようなネタなんて持ってないですし、オレがはっきりしないのが原因なんで。だから、オレがちゃんとあの人と向き合ってはっきり意思を伝えれば、終わると思うんです」
あたかも問題はもうすぐ解決するという口振りだが、海貴也は現状から抜け出す機会を無駄にしていた。
花火を見たあと、海貴也と亨は駅には向かわず、会場の隣のムーンテラスに足を向けた。
打ち上げが終わった直後で、海上に競り出たテラスに人は二人ほどしかいない。ライトアップされてはいるが、照らされた鳥のモニュメントが若干不気味だ。
亨は海貴也と手を繋ごうとした。しかし海貴也は躊躇うも、顔を逸らし拒んだ。その手を取ってしまったら、戻る道を見失ってしまうと思った。
「海貴也、どうしたんだよ。さっきから元気ないみたいだけど」
「何でもないです」
「……。また二人で何処か行こうな。前みたいにドライブとか。テーマパークでもいいな。海貴也が行きたい所でいいぞ」
「いや。あの……オレは……」
「俺の家族のこと気にしてんのか?」
「いいえ。そうじゃなくて……」
海貴也の脳裏に、さっきのジュリウスの姿が浮かぶ。小さく手を振っていた姿を。
少し寂しそうに浮かべていた笑みを。
罪悪感がドスンと重たい音を立てた。身体の中心に、石が詰め込まれたみたいだった。
残念ながら亨は、今の海貴也の心情を推し量れない。
「……海貴也が好きなの本気だって言っただろ」
「そう、ですけど……」
「脅したの取り消すって言っても、信じないか?」
「えっ……」
驚きと期待の目を亨に向けた。彼の真っ直ぐな眼差しと交わった。
「そうしたら、お前の気持ちは変わるのか?今付き合ってるのは渋々なんだろ?嫌だったら断ればいいのに、じゃあ何で断らないんだよ。期待するだろ」
「そんなつもりは……」
海貴也にそんなつもりはなくても、その言動はジュリウスだけではなく亨にも誤解をさせてしまっている。……いや。誤解と断言するには証拠がない。
「なぁ海貴也。お前が俺の誘いを断らないのは、俺のこと好きだからじゃないのか?」
海貴也は問い掛けられたが、また明言を避けた。
正しくは、明言できなかった。
亨のことは憎いと思っていた。だが、心の底から嫌いではない。けれど、好きでもない。
付き合っているのは、脅迫されたからだ。亨が言い当てた通り渋々だ。だが、脅迫を撥ね除けることもできなくはなかった。
海貴也は、亨の思いのままでい続ける理由をずっと考え続け、未だに答えを掴めない。本懐はとうに半透明。見えなくなるのも時間の問題だろう。
ジュリウスの心情も気掛かりだった。しかし、現状が続けば開いていた彼の心の扉の半分を閉じられてしまうかもしれないことを、海貴也は知らない。
親しくなったとは言え、海貴也はジュリウスの本心を推察し得ない。どんな時、どんな感情の揺さぶられ方をするのかを。優しげで微笑んでいる印象が強いジュリウスが感情を乱したのは、一度しか見たことがない。あの追い出された時の驚きは、今でも忘れられない。
あれは怒った原因が明らかだが、今でも微々たる表情の変化しか感じ取れない。海貴也は、言葉に出るタイプでもなさそうだろうかと思案するが、ジュリウスはよく「気にしないで下サイ」や「大丈夫デス」という言葉を使う。もしかしたら、あれが何かしらのサインだったりするのだろうかとも考えた。
自身を押し込みがちなジュリウスだ。言わないだけで、溜め込んでいるのかもしれない。そう考えると、今の自分に対してどんな所思を抱いているのだろうと不安が芽生える。
花火大会で偶然会った時、「私のことハ、気にしないで下サイ」と何時ものようにジュリウスは言っていた。その台詞には毎回、海貴也への気遣いが含まれている。ところがあの時は、同じ台詞でも何時もとニュアンスが違っているような気がしてならなかった。
〈ジュリウスさんの本音って、どうなんだろ。オレ、ジュリウスさんの気持ち無視してないかな。前よりジュリウスさんのこと気に掛けられてないし、亨さんばかり優先してる〉
ジュリウスとギクシャクし始めたのは、亨と再び繋がり始めてからだ。亨が今の二人の関係に歯止めを掛けた。亨が現れなければ関係性は順調だったのにと、海貴也は思う。
全ての責任を亨に押し付けたかった。だが、二人は共犯だ。
海貴也がジュリウスと上手くいかなくなったのは、亨と逢瀬を重ねる後ろめたさから無意識に避けているのではないだろうか。“脅迫されているから仕方ない”という諦念は、再び抱いた曖昧な感情を誤魔化す為の、都合の良い言い訳なのではないだろうか。
〈そう言えば、有間さんがよく店に行ってるって言ってたっけ。今の状況じゃあ、オレより有間さんの方が頼りになってるんじゃないかな……〉
今の自分は、ジュリウスの役に立っていない。なのに、こんな自分でも彼に必要なのだろうか。それとも、そうでないのか……。
〈ジュリウスさんはオレのこと、どう思ってるのかな〉
「大丈夫か、佐野?」
「えっ?」
心配した河西が、顔を覗くようにして聞いてきた。何時しかだいぶ考え込んでしまっていたらしかった海貴也は、大丈夫だと空笑いを返した。
「まぁ、友達がお前の気遣いを急に拒み始めたのは、何かしらの心境の変化があったからだろうな」
「心境の変化……」
そうだとしたら、ここ数ヶ月のことが要因としか考えられない。
そして。ジュリウスは再び、一人で頑張ろうとしているのだろう。
食事を終え会社に戻る途中で、坂口は海貴也に話し掛けた。
「佐野くん。きみを困らせてるのって、もしかして亨じゃないよね?」
「えっ!?」
びっくりした海貴也は、目を丸くして坂口を見た。なるべく悟られないように話したつもりだったが、坂口には節々でおや?と思える話だったようだ。海貴也の明らかなリアクションで、完全にバレてしまった。
「前話を聞いた時、佐野くんを可愛がってたんだなって思ったけど。本当に、箱入り娘ならぬ箱入り部下だったみたいだね」
「いや。その……」
「亨も意地悪だよね。困ってるの言えないなら、僕から言ってあげようか?」
「いいえ!そんな、坂口さんの手を煩わすことでもないので!」
本当なら、坂口を頼ることだってできる。友達の言うことなら、亨も少しは言動を控えるかもしれない。けれど、やっぱりリスクは考えられるし、私情で坂口に迷惑を掛けたくなかった。
海貴也の必死さが伝わり、坂口も「そうかい?」と引いた。
「……まぁ。心配してる友達のことはさ、案外杞憂かもしれないよ?友達が本当に佐野くんを避けてるかはわからないし、友達も何か思うところがあって大丈夫って言ってるのかもしれないよ。だから、ここは焦らず、一つずつ解決していく方がいいよ」
「……そうですね。そうします」
焦っても結果を得られるどころか、状況の悪化が懸念されるだろう。海貴也には現在のジュリウスの思案はわからないし、亨の問いに明答できなかったのに何かを変えられるとは思えない。 だから今は、自分で招いた有り様をこの時間にちゃんと整理しようと、気持ちを切り替えた。
ジュリウスにすべきこと、できることがあることを、海貴也は忘れてはいない。ジュリウスを、そして自分自身を裏切らない為に、結ばれた縁を繋ぎ直す為に、過去の報いを未来を好転させる糧にすると決めた。