第二十四話
「We are petals of the diagonals」⑥
さらに一週間が経った金曜日の夜。久し振りにケビンの携帯が鳴った。時間は八時。この時間にかけてくる相手は、マリーしかいない。
「電話をしなくてごめんなさい、ケビン」
マリーは第一声で謝った。わざと約束をすっぽかした訳ではなさそうだった。声色では、そう聞こえた。
「……いいよ。マリー」
謝罪の言葉に少し間を空け、ケビンは赦しの一言を呟く。
「ねぇ。明日、遊びに行っていいかしら。お婆ちゃんと一緒にマフィンを焼いて、お土産に持って行くわ」
マリーは気を利かせているようだが、ケビンは再度「いいよ」と言った。今度は「いらない」の意味だった。
どうしても手土産を持って行きたいマリーは「お婆ちゃんのマフィン、とても美味しいのよ。ブルーベリーが入ってるの」と、何時もの太陽のような明るさで勧める。けれど、ケビンは拒み続ける。
「だから、いいって」
「マフィン嫌い?それなら違うお菓子を焼いて……」
「もう来なくていいよ!」
ケビンはつい声を上げてしまった。電話の向こうのマリーは驚いたようで、無音の時間が流れた。
数秒後、「何で?どうして?」と我に返った彼女の困惑した声が聞こえてきた。
「僕、見たんだ。こんな僕より、普通の子と遊んだ方がマリーは楽しいんでしょ?僕のことを忘れるくらい楽しいんでしょ?だから、もう来なくていいよ。普通の子と遊びなよ!」
ケビンはそのまま、一方的に電話を切った。携帯を捨てるように床に投げると、大好きな恐竜のぬいぐるみを強く抱き締め、ふてってベッドに転がった。
いつもそうだ。新しい輪に入る時、初めはうまくいきそうだと思うのに、周りは次第に離れて行く。コミュニケーションが成り立たないから、諦めて去って行く。その背中を見つめては、どうして?と心の中で投げ掛ける。
どうして見放すの?本当は仲良くなりたいのに。どうして、その気持ちに気付いてくれないの?と。
三十分間の打ち上げが終わり、潮が引くように見物客が一斉に会場から去って行く。また来たいねと話しながら、花火大会の余韻を連れて帰って行く。
ジュリウスたちも、来た時と同じように流れに乗りながら会場を後にした。会場を出る時に友達と偶然再会した美郷は、すぐ追い掛けるからと言ってサンデッキに留まった。
ジュリウスと恭雪は、駅までの坂道を上って行く。
「足の痛みはどうだ?」
「もう大丈夫デス。アリガトウゴザイマス」
絆創膏を貼ったおかげで、皮が剥けたところの痛みは引いた。ちょっと痛い思いはしたが、ジュリウスはまた浴衣を着たいと思った。異国の伝統文化に触れるのは楽しい。
「花火はどうだった?」
「こんなに花火を堪能したのは初めてデシタ。また見たいと思いマシタ」
「夏の昼間はお前もあんまり外に出たくないかもしれないけど、夜なら平気だろ?」
「ハイ。浴衣も着せてもらえテ、ちゃんと日本の夏を体験できマシタ」
途中の旅館に吸い込まれるように人が消えていき、少し人影がまばらになる。
地元の人しか通らなそうな、ギリギリ二車線の道。宿泊施設や民家が沿う夜道は防犯灯の数も少なく、先程までの雰囲気とかけ離れた空気が感動の余韻を静かに凪いでいく。
会話が途切れ、黙ってしまったジュリウスを恭雪はちらりと窺った。楽しいと言っていた口は口角が上がっておらず、浮かない表情をしている。
「どうした。やっぱり足痛いか?」
「イイエ。大丈夫デス」
「じゃあ、疲れたか?」
「……少しダケ」
坂道は結構な傾斜がある。それを往復しているのだから、疲れてしまうのは仕方ない。けれど、ジュリウスのその様子は疲れによるものではないと、恭雪は感じていた。
すると、ジュリウスは話し出した。
「────さっき、海貴也サンに会いマシタ」
「さっきって、俺たちが見つける前か?」
「ハイ。ソノ時に偶然……。元上司だと言う方と一緒デシタ」
「元上司?変な組み合わせだな」
「最近再会したらしくテ、仲が良いみたいデス。確かに、そんな感じデシタ」
海貴也のプライベートにはさほど興味ない恭雪は、「へぇー。そうなんだ」と薄く相槌をした。しかし。
「……多分、この前恭雪サンが言っていた人だと思いマス」
「えっ。マジかよ」
それには流石に一驚して、ジュリウスの方を向いた。
「ハイ、恐らく。ソノ方、先日カフェにも来てイマシタ。海貴也サンと話してイテ、花火大会に行く約束をしてイマシタ」
その時の海貴也と亨の様子を見た時、ジュリウスの脳裏には恭雪の話が甦っていた。更には、前に海貴也から聞かされた話も思い出した。
「カフェに来たって……。佐野って他県から来たんだろ?もしかして、足しげくわざわざこっちまで来てるのかよ、そいつ。……ご執心なんだな」
〈……てか。再会ってことは、まさかそいつが佐野が付き合ってたヤツなのか?でも確か、振ったの向こうじゃなかったか?なのに未練タラタラって、どういう了見だよ〉
「……つーか、佐野も佐野だろ。お前を好きになっておきながら元カレに───でいいんだよな?なびきやがって」
ジュリウスに一番近い存在になると啖呵を切っていたくせにと、恭雪は海貴也の振る舞いに腹を立てる。もし今、海貴也と擦れ違うようものなら絶対に不平不満を捲し立て、亨にも飛び火するだろう。
不満を聞いたジュリウスは、暗いおかげで黒く見える褐色の瞳を隣に向けた。
「……アノ。恭雪サン。海貴也サンの気持ちを、知ってたんデスか?」
恭雪はさらっと言ったが、海貴也からわざわざイジりネタを提供するとは思えない。ジュリウスもそんな話は一度もしていないのに、恭雪は海貴也の気持ちを確信を持って言い切った。
「はっきりと聞いた訳じゃないけどな。でもアイツの言葉は、そういうことだと解釈できた。……告白は?されたのか?」
「……エェ。まぁ……」
「で。アイツが普通に接してると言うことは、お前も振ってないんだな?」
状態把握の為に、恭雪は告白した相手に事実確認をした。
何で自分が気恥ずかしくなっているのか不明のジュリウスは、察してくれと無言で伝えた。
流石、観察力のある恭雪だ。もはや驚きを通り越して、脱帽するしかない。
「前に付き合ってたのかもしれないけどよ、告ったヤツがいるくせに再会していい感じになるとか、どうかと思うけどな。それって中途半端過ぎるだろ。お前のこと本気じゃないのかって疑うわ」
自分のことではないのに、恭雪は不満を吐き続ける。しかし当のジュリウスは、自分の鏡のように言い連ねられる了見に相槌も何もしない。
中途半端だと思っている訳ではないが、ジュリウスも最近の海貴也を少し不自然だと思う節がある。
久し振りに会った時の海貴也は、様子がおかしかった。
近頃は体調を崩すことがあまりないから、電話ではなくメッセージのやり取りに変わったり、あまり手伝いに来なくなった。だから、話す機会が少なくなった。でもそれは、仕事の事情もあるからと割り切っていた。
しかし、そのブランクの前後では、素振りに違和感があった。
心が少し離れている……ような気がする。時間を巻き戻されて、心を繋いでいるものが解けようとしている。
気のせいであると思いたい。けれど。
自分に落ち度があるのではと、そんな気がしてならない。
流れる人の中で、ジュリウスは足を止めた。
「────もしかしたラ……アノ人といた方が、楽なんデスかね」
「ジュリウス?」
「私ハ、普通の人と違うカラ……。気を遣ってお店を手伝ってくれたりするケド、本当は面倒臭くテ、もうやめたいと思っているのカモ」
「ジュリウス。何言ってんだよ」
「お仕事もあるノニ、私なんかの心配をしていられなくなっテ、やめ時を探しているのカモ」
「おい」
「アノ人とも、私が見ても親密だと思ったシ……。私ハ、海貴也サンの負担だったんデス。やっぱり、ハンデを持っている私ヨリ、普通の人との付き合いの方ガ……」
「ジュリウス……」
目を伏せるジュリウスの口から、胸中が気泡のように湧き出る。その心に堆積しているのは、海辺のサラサラな砂などではなかった。
見かねた恭雪はジュリウスの手を引っ張り、すぐ横の脇道に入った。
高い石垣とアパートに挟まれた狭い道。アパートの付録みたいな小さな庭には、トーチのようにトリトマが咲いている。
「恭雪サン?」
「……お前は、何でそんなに苦しんでるんだよ」
「エ……」
ジュリウスの頭に、疑問符が浮かぶ。
「アイツのことは好きじゃないんだろ。なら、そんなに辛そうにする必要ないだろ」
「私は辛くなんテ……」
「辛いんだよ!」
恭雪は、険しい顔付きで少し声を荒らげる。
「お前は今、佐野が自分から離れて行くんじゃないかって不安で、苦しんでるんじゃないのかよ!」
「苦しイ……?」
「初めて自分をちゃんと理解しようとしてくれて、寄り添おうとしてくれたヤツだから。そんなアイツが、自分以外のヤツと親しくしてるのを見るのが堪えられないんじゃないのか」
ジュリウスの心中を推察して、恭雪は言い並べた。けれどジュリウスは、首を横に振る。
「……ワカリマセン。言われてモ、よくワカラナイデス」
世間から心を隔絶して生きてきたジュリウスには、現在の自分の心に何が起きているのかが理解し難かった。
「お前……」
「恭雪サン、前に言ってマシタよね。甘えても何にもならないっテ。わかったつもりデシタが、何もわかっていませんデシタ。私はずっと、海貴也サンを頼ってイマシタ。頼り過ぎてイタ。何も言わなくても気を回して助けてくれるト、勘違いしてイマシタ。ソレに気付かずに、マタ同じ間違いを繰り返していたんデス」
〈何か返したいと思っても何もしなかったノハ、自分に何もできないからじゃナイ。海貴也サンが見返りを求めてないト、わかっていたカラ〉
「少しは変わったような気でイマシタが、根本的な考え方が何も変わっていなかったんデス……。私はずっと、ダメな自分のまま。きっとマダ、私には助けはいらないんデス。もう少し一人で生きなけれバ、人の支えの有り難さを理解できないんデスよ」
「ジュリウス……」
ジュリウスは、一人で頑張ってきた期間が長過ぎたのかもしれない。丈夫な籠の中にしまい込んだ心は、そのまま時間の流れすら忘れ、再び解き放たれても何処に向かったらいいのかわからず、立ち尽くしてしまった。
心が未熟なまま、身体だけ成長してしまったのだ。