第二十二話
翌週の土曜日。天気は快晴。空には雲一つない。
時刻は午後夜六時過ぎ。今日の『パエゼ・ナティーオ』は、何時もより早めに掛け看板が【CLOSED】になっていた。照明は一部しか点いてなく、有線の音も消えている。
斜陽が射し込む二階の寝室に、ジュリウスの姿はあった。浴衣姿の美郷と一緒に。
「ジュリウスさん。浴衣は初めて?」
「ハイ。初めてデス」
美郷と恭雪に誘われて、ジュリウスも例の花火大会に行くことになった。だから、カフェの営業時間を短縮したのだ。
姿見の前で、ジュリウスは人形のように大人しく浴衣を着せてもらっている。浴衣は、着たかった美郷がジュリウスの分も一緒にレンタルしてきてくれた。着付けは昔、祖母から教えてもらったらしい。
美郷の浴衣は、白地に細かな市松模様の赤い椿があしらわれている。大きな柄が、少女らしさを残す彼女にぴったりだ。ダークグレーの菱格子模様の帯が、その愛らしさを引き締める。長い髪もアップにし、エメラルドグリーンのガラス玉が付いたかんざしを刺している。
「日本では、夏のお祭りにはこうして浴衣を着るのよ。ユニフォームみたいなものかしら」
「美郷サンの浴衣、キレイデスね」
「あら。浴衣だけ?」
「恭雪サンの婚約者デスから」
ジュリウスの帯を締めながら冗談混じりに言った美郷の台詞に、ジュリウスは真面目に答えた。美郷はそれにクスリと笑った。
「口説かれるかと思ってちょっと期待してたけど、ジュリウスさんて真面目な人ね」
ジュリウスの現在の国籍しか知らない美郷は、イタリア人のイメージ通りの言動を彼にも期待していたようだ。遠距離恋愛中の恭雪だけでは物足りないのか、パリの紳士に憧れているのか。
「期待されてたんデスか?」
「冗談よ」
そんなジョークを交わしながら、ジュリウスの着付けが完了した。
ジュリウスの浴衣は、伝統技術で織り上げられた生地が使われた近江ちぢみの浴衣だ。薄めのグレーの麻生地に、細い白の縦ラインが入っている。帯は乳白色の博多織のもので、紺色の小花が織り込まれている。
鏡に映る見慣れない自分を見つめると、美郷から「ステキ」と褒めてもらった。
支度を終えて、一階のカフェスペースに下りた。そこには、退屈そうにスマホをいじっている恭雪が待っていた。彼は浴衣は着ておらず、Tシャツとジーパン姿だ。美郷から三人で浴衣を着ようとねだられたが、洋服でいいと断った。
「お待たせ、恭雪」
美郷と一緒に現れた浴衣姿のジュリウスを見た恭雪は、「おぉ」と感嘆の声を漏らした。
「似合ってるじゃん」
「そうデスか?」
「様になってるわよね。私、着付けしながら、ジュリウスさんに乗り換えようかと思っちゃったわ」
「おい」
「冗談に決まってるでしょ」
真に受けた恭雪の肩を叩きながら、美郷は笑った。
「本当に似合ってるな。外国人のくせに」
わかりづらい恭雪の褒め言葉に、ジュリウスは「スミマセン」と若干恐縮する。
「てか。髪飾りしたら、女に見えなくないかもな。ナンパされたりして」
「あ。ありそう!試してみる?」
「やめて下サイよ……」
困り顔のジュリウスに恭雪と美郷は冗談だと笑うが、ノリが良いこの二人に言われると、冗談ではなく本当にやりそうな気がする。
「それだけ、キレイだってことだよ」
「……キレイ…デスか?」
「あぁ」
美郷の前だが、恭雪は隠さずに本音を口にした。笑みが浮かぶ面持ちは、偽りがないことの証し。
ジュリウスはほんの少しだけ、心の動きを感じた。海貴也に言われた時と同じように、嫌な感じはしない。けれど、海貴也に言われた時とは、受け止めた心の感覚が少し違った。
準備が整ったところで、花火大会の会場に向かうことにした。
駅から電車に乗ると、五人ほど浴衣を着た人がいた。夜の七時台にしては乗客が多く、恐らく皆、目的は同じなのだろう。
ジュリウスは、電車に乗るのはかなり久し振りだった。記憶では、町に住み始めた頃以来だ。
しかし、乗った途端に乗り心地があまり良くない。照明が眩しいからとか、乗り物酔いしそうだからではない。
他の乗客の視線だ。外国人というだけでも注目されるのに、プラチナブロンドと白い肌という珍しい見目のおかげで好奇の目があちこちから向けられる。気を効かせた恭雪が、扉の前に立つジュリウスに被るように立ってくれるが、どうしても視線は避けられない。
ジュリウスは環境に諦めて乗っていたが、二つ目の駅で観光で来ている外国人が乗車して来た。そのおかげで、視線は分散された。
最寄り駅に到着すると、乗っていた人々が流れ出た。そして川の流れのように、同じ方向に向かって行く。ジュリウスは落ち葉になったように、流れに身を任せて付いて行く。
会場の海岸には、十分強で着いた。開始の三十分前の会場には、多くの人が集まり始めている。
花火が見やすい大階段には既に何組ものカップルが座っていて、砂浜にもレジャーシートを敷いて待ち構える人たちもちらほらいたり、ランウェイのようなコンクリートブロックに座る姿もある。
「結構人がいるわね」
「この辺で一番デカい花火大会だからな。お盆休みだし、観光客がたくさんいるんだろ」
この歴史ある花火大会には、全国から観光客がやって来る。海上に次々と打ち上げられる花火は迫力満点で、山に囲まれた地形が花火の音を反響させ人々を圧倒させる。しかも開催は夏だけではなく、ほぼ一年中楽しむことができるところも魅力だ。
ただし“大会”ではあるが、“祭り”ではないから出店は並んでいない。だからこの時期この時間の付近のコンビニは、飲み物やらを買いに来る見物客の対応で大忙しだ。
恭雪と美郷は歩道のベンチに腰掛ける。ところが、そこにジュリウスの姿はない。
トイレに行くと言ったので、二人はすぐそこの階段を上って下りた所の近辺で場所を取って待っていると伝えた。近くだしきっとすぐ来るだろうと、会場に来る時にコンビニで買ったホットスナックをスタンバイして待った。
そのジュリウスは、一人で彷徨っていた。
慣れない浴衣でのトイレを済ませて出て来ると、まず道路を走る車のライトに目をやられてしまった。ジュリウス自身も迂闊だったが、恭雪が彼の身体的な弱点を知っていて付き添わなかったのも失態だ。
そして、ダメージを受けた視力のまま動こうとしてしまい、そこで見つけた一組の男女を待っていてくれた恭雪と美郷だと勘違いして、赤の他人なのに暫く付いて行ってしまった。
視力が回復してそれに気付くと慌てて踵を返したが、自分が元々何処にいて、そこからどのくらい離れてしまったのか全く見当が付かない。
突如迷子になってしまったジュリウスは、伝えられていた場所も忘れ、二人の姿を必死に捜した。知らない日本人の中で孤立している事態に焦り、とにかく二人を捜さなければと歩く。
〈恭雪サンと美郷サン、何処にいるんでしょうカ……〉
連絡を取るのが一番手っ取り早いが、こんな時に限ってスマホを忘れて来てしまった。公衆電話という手もあるが、どちらにしろ恭雪の番号も美郷の番号もわからない。
頼りは自分の足のみ。花火大会が始まるまで、あと二十分を切った。それまでには何とか見つけて合流したい。
ジュリウスは、海辺の遊歩道を歩き続ける。擦れ違う日本人が時々振り向く。十代の女性二人組は、ジュリウスを見たかと思うとひそひそと何か言葉を交わした。そこに悪意はないけれど、少し居心地が悪かった。
〈早く二人を見つけないト……〉
「痛ッ」
急に、足に小さな痛みが走った。慣れない下駄を履いていた所為で、鼻緒が擦れて指の股の皮が剥けてしまったのだ。頼みの足が、使い物にならなくなってしまった。
座れる場所を探し、まだ人がいないサンデッキの石のベンチに腰掛ける。足を痛めた下駄は脱ぎ、タイルの地面に素足を投げ出した。これが案外気持ち良いことを、初めて知った。
指の股が擦れたのは、右足だけだった。少し血が滲み出ているけれど、絆創膏を貼っておけば大丈夫だ。あとで、美郷に持っているか聞いてみることにした。
空はさっきよりも夜に近付いていた。海岸沿いに建ち並ぶホテルの明かりが、徐々に浮かび上がってきた。
〈花火が上がるノハ、海の上なんデスよね〉
花火は海上に上がると聞いて、何とも不思議なものだなと誘われてからずっと思っている。水ばかりの所からどうやって飛び出して来るのだろうかと、初見のジュリウスは全く想像ができない。実際は、海岸の向かいの防波堤から打ち上げられる。
〈花火をちゃんと見るのは初めてデス〉
ジュリウスは、もうすぐ花火が打ち上げられる空を静かに見上げた。紺色が殆どを占める空には、半分の月がぷかりと浮かんでいる。
花火大会開始の時間は刻々と近付く。防災スピーカーからは、花火観賞に際しての注意と今後の花火大会の予告がアナウンスされる。
浴衣姿の女子高生やカップルや親子連れが、ウキウキを表情に浮かべながら楽しそうな声と共にジュリウスの前を行き交う。
「……」
〈ア……〉
電源を切ったように、周りの音という音が聞こえなくなった。
でもそれは刹那的で、すぐに喧騒はジュリウスの耳に戻って来た。
過去の記憶を引き連れて。
蜩の鳴き声が尻窄まりしていくように、花火への興味が冷めていく。
誰もいない部屋の中、グラスの氷がカランと鳴るみたいに、心が冷えていく。
ジュリウスは、上げていた顔を地面に向けた。
「……海貴也サンは、どうしてるでしょうカ……」
〈そう言えば、海貴也サンも花火大会に行くっテ……〉
あの時話していた花火大会は、この花火大会と同じなのではと思い出した。土曜日とも言っていたから、もしかしたらここにいるのかもしれない。
でも待ち合わせて来ただろうし、もう何処かで場所を取って座っている筈……。
「───ジュリウスさん」
喧騒の中から、親しみのある声が急に現れた。
ジュリウスがぱっと顔を上げると、目の前に海貴也が一人で立っていた。




