第二十一話
「今日も、物件を探しに来たんですか?」
「あー。物件探しはやめた」
「独立を諦めたんですか?」
「いや。やっぱ、向こうで決めようと思って」
「それじゃあ、今日は何しに?」
本来の目的がなくなったのなら、こっちに来る必要もなくなった筈。日頃の心労を癒そうと、本当に観光に来たのだろうか。
海貴也の問い掛けに、亨は微笑する。
「海貴也を、デートに誘おうと思ったんだよ」
この場合、普通の女子はときめくだろう。遠く離れた場所まで会いに来てくれたことに自分の価値を見出だし、メロメロになるのだろう。
しかし海貴也の場合は、理性と屈服を戦わせ心中を複雑にさせるしかできない。亨の肩書きに「父親」が追加されても、サーカス団からは抜けられない仕組みなのだ。
それに、亨には他にやることがいくらでもある筈だが、大方また嘘を吐いて来たのだろう。
「坂口に聞いたら今日は休みって言ってたから、自宅を訪ねて連れて行こうかと思ったんだけど、いないしさ。どうしようかと思ったら、カフェの話を思い出したから来てみたんだよ」
「よく場所がわかりましたね。大して情報がないのに」
「白瀬から、写真ももらってたからな」
〈白瀬……〉
最初に来た時に撮った写真が、提供されたようだ。恨みは募るが、白瀬は何も悪くない。
「近所の人に写真見せて、場所教えてもらったんだよ。まさか、こんな所にあるとは思わなかった」
「連絡してみるとか、考えなかったんですか」
「興味があったんだよ。海貴也が行ってるカフェに」
迂闊にしゃべらなければよかったと、海貴也はしてもしょうがない後悔をする。
亨はコップの水を三分の二まで飲むと、キッチンの方に視線を向けた。ジュリウスは、美郷と何やら話している。恭雪のことか、それとも美郷の修行先の話だろうか。微笑を交えて会話が続いている。
「あの外人か?お前が友達になったって言うのは」
「あ、はい。そうです」
「かなり肌の色白いな。出身て何処なんだ?」
「えっと……。イタリアみたいです」
本当の出身地は言わず、嘘の情報を言った。多分いい気はしないだろうと、ジュリウスを気遣っての判断だ。現在の国籍はイタリアだから、一応間違ってはいない。
聞いた亨は、「へぇ。そうなのか」と相槌を打つ。大して興味はないようだ。何となく気になったから、尋ねただけなのだろう。
そのジュリウスが、できあがったアイスコーヒーを持って来た。
「お待たせ致しマシタ。アイスコーヒーデス」
グラスと注文用紙を置いて、二人が座るテーブルから離れようとした時だった。
「あ。そうだ海貴也」
ジュリウスが立ち去る前に、亨は海貴也の手を握ってきた。
「ちょっ…亨さ……」
動揺する海貴也は、気が動転しそうになる。握られた手とジュリウスとを交互に見遣って、どっちを優先して対処していいのか狼狽える。
「一緒に花火大会行こう。来週、近くの観光地であるだろ。俺、その日休暇取ってるから」
「えっ。あ、あの……」
ジュリウスは、重ねられた二つの手を見つめた。目の前のことに固まったように見えたが、静かにその場を離れて行った。海貴也は、何か言いたそうにその背中を見つめた。
「行かないのか?」
「いや。その……」
それは、海貴也がジュリウスを誘おうとしていた花火大会だ。
よりにもよってと思った。もし先にジュリウスを誘って約束を取り付けていたら、亨の誘いは断れた。海貴也がぐずぐずしていたから、先手を取られてしまった。
ここは「行きます」と言っておいた方がいいのだが、ジュリウスがすぐ近くにいる手前はっきりと言い難かった。
キッチン内にいるジュリウスにチラチラ視線をやるが、顔を上げてこちらを見てこない。先程の反応からしても、海貴也と亨の関係を気に掛けているようではない。
答えを言い淀む海貴也の手の甲を亨は親指で撫で、自分の方に引き寄せようとする。
「いいじゃん。海貴也は、俺と行きたくないのか?」
脅迫されている所為で、単なるデートの誘いも脅されているような感覚に惑わされる。でももう、この感覚が恐怖からなのか好意の残骸からなのかわからない。このどっち付かずの状態も、一概に亨の影響だけだと言えなくなってきた。
「………い……行きます」
ジュリウスに聞こえないように回答した。ジャズの音色で届いていないことを願う。
定着してしまった定石の性と言うべきだろうか。海貴也が誘いを断れなかったり流されてしまうのは、ルールが決められているからなのかもしれない。
花火大会に行くのは、来週の土曜日。会場の最寄りの駅前で、待ち合わせて行くことになった。
そのあとも、海貴也は亨に付き合った。仕事の愚痴や、妻への不満。裏道で新しいカレー屋を見つけたことや、新しい腕時計を買おうか迷っていることも。来月の誕生日にその腕時計をプレゼントしてくれと、サプライズが醍醐味なのに要求してきた。
誕生日プレゼントを要求できるのは、海貴也も同じだ。今月、二十六回目の誕生日を迎える。けれど亨は、海貴也の誕生日について何も触れてこない。元カレに祝ってくれと要求するつもりはないが、記念日を忘れるなんて彼にしては珍しいと、頭の片隅で思った。
亨は一時間くらい海貴也と話して、帰って行った。会計まで付き合った海貴也は亨を見送ると、大きい荷物を背負って山の頂上まで登ったような息を吐いた。
「花火大会、行くんデスか?」
「えっ?」
背後から急に話し掛けてきたジュリウスに驚いて、声をうわずらせながら振り返った。
「アノ方と一緒ニ」
気を付けたつもりだったが、ジュリウスの耳に入ってしまったようだ。海貴也は一瞬頭が真っ白になり、思わず「はい」と肯定した。
「すみません。営業中に座っておしゃべりして」
「大丈夫デスよ。気にしないで下サイ」
言葉通り何も気にしていないようだが、海貴也の心情は気にせずにはいられない。二人が座っていたテーブルを片付けるジュリウスの後ろを付いて回り、あの一部始終のことを何とか弁解せねばと考える。
「……あ、あの。ジュリウスさん。……花火、もし良かったら、一緒に行きませんか?」
自分でも何を言っているんだと思う海貴也。元々誘うつもりだったとは言え、この三人が揃ったらややこし過ぎてカオスだ。
「私ガ、お二人ト…デスか?」
ジュリウスも若干、怪訝な表情だ。海貴也はそれに気付かないふりをした。
「いや。あの。男二人だけって、ほら、何か変じゃないですか。だからって、誘うような女の人もいないし。オレも、元上司と二人だけっていうのも気まずいし。だから、ジュリウスさんがいれば楽しくなるかなーって……思ったんですけど……。夜だし……どう、ですか?」
最後まで押し通してみたが、やっぱり流石に無理があるようにしか思えなかった。弱々しい言葉尻は、まるで敗北宣言だ。
「……イイエ。遠慮しておきマス」
「そ…そうですか……」
当然の返事だ。それに、もしもジュリウスが行くと言ったとしても、一人ぼっちにさせてしまう可能性は否めないし、そうなった時に守れるかと言うと、正直なところ肯定し難い。
ジュリウスは二つのグラスを持って、キッチンに入る。海貴也はカウンター越しに対面して、もう少し粘ってみる。
「あ。それじゃあ、別の花火大会に二人で行きますか?オレ、日程調べますよ」
とにかく、亨とは何でもないと思ってほしくて誘い続ける。手を繋いだことやデートの言い訳は、あとでいくらでもできると思った。本当は先に説明をした方がいいのだが、気が動転して順番が逆になってしまっている。
「……スミマセン。暫く、夜はやりたいことがあるノデ」
「そうなんですね……」
それもやんわり断られた。引き下がりそうなところを、海貴也はもう一踏ん張りする。
「あっ。じゃあ、ここの海でどうですか?手持ち花火買って……」
だいぶスケールがこじんまりとしたが、最後の足掻きと提案した。すると、グラスを洗っていたジュリウスは顔を上げて、ふんわりと微笑んだ。
「気を遣って頂かなくても大丈夫デスよ。私に構わないで下サイ」
ネタが尽きた海貴也の口からは、もう何も出て来なかった。構わないでと言われて、大人しく引き下がるしかないと今度こそ諦念を抱いた。
久し振りに手伝いに来られて、ジュリウスとも話ができると思った。けれど互いによそよそしくて、話すきっかけが掴めない。しかも突然亨が現れた上に、ジュリウスの目の前であからさまな行動に出られた。その一連を見てから、ジュリウスは再び一歩引いてしまったように思える。これでは誘いを断られたように、何を話しても聞いてもらえない。
ジュリウスとの関係を深めていきたいのに、海貴也の意思とは逆行していく現実。抵牾しく、焦れったく、後ろめたさが積み重なって罪過と化していくようだった。
「海貴也サン。今日はもうお客さんも殆ど来ないノデ、お手伝いは大丈夫デスよ」
「え。でも……」
「お仕事、忙しかったんデスよね。今日はもう帰っテ、ゆっくり休んで下サイ」
ジュリウスは何時ものように微笑んで、海貴也を気遣った。留まりたかった海貴也だったが、粘ってもうまくいく気がしなかったので帰ることにした。
荷物を取りに、海貴也は二階にへ上がった。海貴也がフロアからいなくなったのを確認すると、美郷はジュリウスに話し掛けた。
「ちょっとびっくりしちゃったー。人目を憚らずに、手を握るんだもの」
近い席に座っていた美郷の視界にも入り、少し驚いたようだ。しかしリアクションはそんなもので、海外生活の中で同性愛者に遭遇したこともある彼女にとっては大したことじゃなかった。
「て言うか。何でお誘い断ったの?」
そっちよりも、海貴也の誘いを断ったことの方が気になったらしい。二人の関係が悪そうに見えなかったから、花火大会くらい一緒に行けばいいのにと普通に思った。もう一人がいるのが嫌なら、二人だけで行けばいいと。
けれどジュリウスは、その問いに何も答えなかった。無心で、亨が使ったグラスを洗っていた。
時間が経ち、店内に客は一人もいなくなった。
外はレモンクリームのような色をしているが、もう夕方の六時を過ぎている。夏は日が長くなるおかげで、時間の感覚が少しズレてしまう。その代わりに、夜が近付くと蜩が鳴き始め、蒸し暑い葉月の夕暮れを風流に飾ってくれる。少しの寂しさを引き連れて。
誰もいなくなった店内で、ジュリウスは本を開いた。栞の代わりに、二つ折りになった白い紙が挟まっている。それを取ると、開いて中を見た。
すると、その紙を持って立ち上がり、レジカウンターの中のゴミ箱の上に紙を差し出した。
「───……」
手放そうとした紙は、ジュリウスの手に留まった。
自分の手元に残ったそれに、力がこもった。
白い紙に、幾つもの皺ができた。
「We are petals of the diagonals」⑤
それは突然のことだった。先週の金曜日を最後に、マリーは来なくなった。
最後に会った日、彼女は
「ケビンは、また学校に行きたいと思わないの?」
と聞いてきた。その時ケビンは俯いて、首を横に振った。どうしてと尋ねられても、「どうせまた独りになるから」と悲観した。
何度か同じ質問をされて、毎回同じように答えていた。そのせいなのかはわからない。しかしその翌日、マリーから電話も来なくなった。
理由が知りたくても、自分から電話もメールもする勇気がなかった。何より怖かった。
会えなくなったマリーのことが気になりながらも、時間は無情に過ぎた。
今日は気分転換にと、母親に連れられて買い物に行って来た。欲しいものがあったら買ってもいいと言われたが、特になかったからマーケットでお菓子を二つ買ってもらった。
その帰り。車の後部座席で、携帯ゲーム機で遊んでいた。信号待ちでふと対抗車線の黒いジープに目がいくと、その隣の歩道を歩く学校帰りのマリーを見かけた。男の子と一緒にいて、何やら楽しそうに話している。
友達なのかな……。
気になって、通り過ぎて行く二人の姿を目線で追いかけた。彼女がケビンに気付く様子はなく、二人は車の窓枠の中からはずれて行き、やがて姿が見えなくなった。
「ケビン。どうかしたの?」
「……何でもない」
母親にそっけなく返事をして、またおとなしくした。
二人の様子を見たケビンは、何だか寂しく思った。けれど、これでいいやとも思った。
自分のような人間と付き合うなんて、煩わしいんだ。これまでずっと、クラスでそういう対応をされてきた。きっと彼女も、こんな自分との付き合いに飽き飽きして、普通の友達との付き合いを優先したんだと思った。
ケビンはつぶやく。
「僕のことは気にしないで、マリー」
一人は平気だから。慣れっこだから。