第二話
恭雪が自分の店に帰ったあと、夕方からの営業が始まる前に二人は二階のキッチンで片付けを始める。
「海貴也サン。本当に、お仕事の方は大丈夫なんデスか?」
先程の会話の中で恭雪が言っていたのが気になったのか、洗い物をしながらジュリウスは聞いてきた。
「はい。今は丁度、一旦落ち着いてるところで。でも、また来週から忙しくなりそうなので、手伝いに来られないかもしれません」
「気にしないで下サイ。お店は、何日休んでもいいんデスから」
「そういう訳にはいきませんよ。カフェに来てくれる常連さんを、がっかりさせたくないし。何より、ジュリウスさんの思いでできたお店ですから。できるだけ手伝いたいです」
「海貴也サン……」
「あっ」
食器を拭く手を止めて熱く語っていることに気が付くと、ジュリウスとばっちり視線が合っていたのが急に恥ずかしくなる。ほのかに頬を赤らめた海貴也は、ぱっと顔ごと逸らした。告白したからと言っても、初なところはまだそのままだ。
カフェの手伝いは、本当に無理のない範囲でやっている。ジュリウスの力になりたいと考えていても、本職を疎かにしては元も子もない。
仕事の目標を目指しつつ、ジュリウスの助けにもなる。それが両立された時こそ、本当に彼を支えられるような気がしていた。海貴也にとって、仕事も恋もまだ道半ばだ。
「……アノ。海貴也サンに、聞きたいことがあるんデスが」
海貴也が拭き終わった食器を棚にしまっていると、ジュリウスはまた尋ねた。
「何ですか?」
問い返したが、何故か変な間が空いた。
「……休憩時間に食べたいものデ、何かありマスか?」
「お昼ご飯ですか?そうだなぁ……。ピザとかハンバーガーとか。…あ。でもピザは焼くの時間掛かりますかね」
「具材は下準備を前もってしておけるシ、生地も一から作らなくても食パンで代用できマス。ハンバーガーも作れなくはないデスよ」
「それじゃあ、リクエストはその二品で」
「ワカリマシタ。……アト、もう一つ聞きたいことガ……」
水道の栓を締めタオルで手を拭くジュリウスだが、切り出しておきながら質問を投げ掛けてこない。どうしたのだろうと、海貴也は視線を送る。
また少しの間が空いて、蛇口から水がポタリと桶に落ちる。それをきっかけに、ジュリウスは口を開いた。
「……恋をするっテ、どんな感じなんデスか?」
「えっ!?」
突拍子もない質問に、海貴也は持っていた食器を落としそうになった。ジュリウスの様子からして、どうやら一つ目の質問はフェイクだったようだ。
「私、これまでそういった経験をしたことがなかったノデ、誰かを特別に好きになる感覚がわからないというカ……」
「あ……。そうだったんですね」
ジュリウスの過去の境遇を鑑みると、他人は好意を寄せるものというよりも、悪意を抱かれる対象として見てしまいがちになるのだろう。誰かを想うなんてことはジュリウスには難しい心の行動なんだろうと、海貴也は思った。
「ナノデ、ソノ、恥ずかしいんデスが……家族以外と手を繋いだこともなくテ……」
「え。じゃあ、あの時が、家族以外で初めて……?」
「……ハイ」
心恥ずかしさからか、それとも経験がないのを汚点に思っていることを誤魔化す為なのか、ジュリウスははにかんで見せた。
その瞬間、ジュリウスの“初めて”をもらったんだと思うと、海貴也は嬉しくなって口元が緩みそうになってしまう。
「ダカラ、教えてほしいんデス。恋がどんなモノか」
〈どんなって……〉
教えてほしいと言われても、海貴也には流れに身を任せる方法しか身に付いていない。誰かに言って聞かせるほどの人数と付き合っている訳でもないし、交際の内容も夜の営み以外は特に語れることもない。だから自動的に、今現在の状況を説明するしかなくなってしまう。
「えっと。そうですね……。好きな人のことを考えると胸がドキドキしたり、切なくなったり。気が付けばその人を目で追ってたり、一日中考えてたりして。あと、その人のことを知りたくなって、もっと話したいと思ったり……」
〈何だこれ。何か、凄い恥ずかしい!〉
聞かれた上で答えているが、告白した相手に恋とは何ぞやと真面目に説明しているこの状況は、ある意味羞恥プレイだ。
「家族に対する好きとは、違うんデスか?」
「あー。家族は家族で特別な関係性だから、血が繋がってるからそう思うことは当たり前で。でも他人に対する好きは、元々血も繋がってない相手に、何かこう、家族とは違う繋がりを求めるから、また違う感情で……」
〈自分でも、何言ってるかわかんないんだけど!〉
次第に勝手に追い詰められていく海貴也。羞恥心のおかげで、顔面の血色がめちゃくちゃ良い。
「……海貴也サン。何だか顔が赤いデス」
「えっ!?」
ジュリウスに指摘されると、火照る顔面を近くにあったふきんを広げて隠した。
「み、見ないで下さいっ」
思春期の女子かと突っ込みたくなるようなリアクションに、ジュリウスもクスリと笑った。
「……お店、午後は私も立ちマスね」
時刻は夜の六時半。海貴也は二時間ほど前に帰って行った。営業時間の半分を一人で頑張ってもらったので、早めの帰宅をお願いした。
閉店時間まであと三十分。もう店内に客は一人もいないので、持て余した時間は読書にあてていた。有線を止め、オレンジ色の明かりの中、静かに物語の中へと誘われていく。
今読んでいるのは、不登校を繰り返す少年と、ネットで知り合った二つ年上の少女との出会いを描いた恋物語。人見知りが激しくコミュニケーションが苦手な主人公は、自分と似ているなと思いながら読んでいた。
物語の序盤を読み進めていると、ある文章に行き当たった。
《───ケビンがマリーに惹かれるには、十分な時間だった。ケビンは、マリーに恋をした。》
〈恋……〉
その文章を読んだ次の瞬間、海貴也の告白を思い出す。
───……オレ、ジュリウスさんに恋をしたみたいです……。好きになりました。
〈好き……〉
ジュリウスは本を閉じると、見つめた左手に右手を重ねるように添えた。そして、本を枕にして頭を伏せる。
空と海の境目が曖昧になっている、黄昏時。再び太陽を追い掛けに来た夜を眺め、自然と息が漏れる。
以前とは違う、一日の終わり。
日々は過ぎ、六月に入った。中旬になると梅雨に入り、海岸に咲く浜昼顔が雨の滴を纏う。
ある日の朝。今日も雨が降っている。雨季だから仕方がないとはいえ、こうも天気が悪い日が続くと仕事に行くのも億劫になる。けれど、行かなければ進行が滞ってしまう。
仕事に行く前に、海貴也は支度をしながらジュリウスに電話した。
「……あ。ジュリウスさん?おはようございます。今日の体調はどうですか?」
「少し、良くないデス」
電話口の声ははっきりと聞こえたが、言う通り元気がなさそうだった。
「また、夢見たんですか?」
「ハイ。……デモ、以前ほどではないノデ、お昼まで休めバ……」
営業時間を短縮すれば大丈夫だと言うジュリウスに、「本当ですか?」と念の為疑って掛かる。症状が軽くなってきたとは言っても、ジュリウスは無理をしがちだから油断はできない。
「無理したらダメですよ。オレ今日は行けないんで。ちゃんと休んで下さい」
海貴也の危惧察するジュリウスは少し考えて、「ワカリマシタ」と返事をしてくれた。
「……海貴也サン。何時も気遣って頂いテ、アリガトウゴザイマス。何時もお忙しいノニ……」
「気にしないで下さいって、何時も言ってるじゃないですか。オレは、ジュリウスさんの力になりたいだけですから」
ジュリウスの心が、耳からほんわりと温かくなる。
やり取りの最後は、「いってきます」「イッテラッシャイ」と言葉を掛け合って通話を切った。
電話で上半身を起こしていたジュリウスは、もう一度ベッドに入って目を瞑った。
けれど、またすぐに目蓋を開き、ベッドから下りて窓際に近付くと、カーテンを開けた。
雨に支配された世界は、灰色一色だ。雨粒が地面に当たる音と屋根に当たる音が混ざり合い、窓の僅かな隙間を擦り抜け無音の室内にノイズとなって入り込んでくる。
「………」
眺めていたジュリウスは気分が悪くなり、その場にしゃがみ込んだ。自分を落ち着かせるように、深呼吸をゆっくりと繰り返す。
ジュリウスの部屋は、まだ暗いまま。明かりを灯すものは、たった一つ。
欲しくない訳じゃない。ただ、今はまだ、自分から手を伸ばすのは気が引けた。
『We are petals of the diagonals』①
不登校が続いて三ヶ月目。記録は過去最長となった。
ケビンは変わらず、ユニフォームである大好きなヒーローのTシャツを着て、ゲームとマンガとアニメと昼寝の日々。たまに、様子を窺うと思わせて登校を説得する為に担任教師は電話をしてきていたけれど、今週からはしない方向に決めたらしい。受話器越しに担任の声を聞くのが億劫だったから、かえって良かった。
その時間を使って、ネットの掲示板で知り合ったマリーと何度もメールのやり取りをした。担任からの電話がなくなったことを言ったら、
「先生は多分、別の方法であなたを登校させようと考えてるのよ」
と言った。先生も大変ねと、三十も下の小学生から同情されていることが、ケビンにはコミカルな学園ドラマのようだと思えた。勿論、彼女は想像したドラマのヒロインだ。
そんなある日。マリーはこんな提案をしてきた。
「私、ケビンと直接お話がしたいわ。電話をしちゃダメかしら?」
ケビンは躊躇って、キーボードから手を離した。すぐに返事はできなかった。
極度の人見知りで、他人とうまくコミュニケーションが取れないから、ケビンは不登校になった。入学一ヶ月目からクラスメートたちに変な奴と首を傾げられ、相手をされなくなってから、登校と不登校を繰り返した。それでも頑張って行っていたが、もう無理だと思い、この春から頑張るのをやめた。
話せない訳じゃない。でも電話口では、蚊の鳴くような自分の声は聞き取れない。きっとまた、相手にされなくなる。
……けれど、彼女なら大丈夫かもしれない。これまでのやり取りで確信できた訳ではないけれど、彼女と話してみたいと思い、恐る恐るキーボードを叩いた。
初めての電話。一番最初の挨拶の「Hi」は届けられたが、あとは緊張のあまり自分でも聞き取れないくらいの声量で、しかもどもってうまくしゃべれなかった。彼女も何度も聞き返し、十分も経たずに面倒くさがられるだろうと思ったケビンだが、彼女は機転を利かせてスピーカーにして話してくれた。
それから毎日、決まって夜の八時に電話をするようになった。六回目の電話でようやく緊張も解れた。そうすると、マリーの話す声が耳に入ってきた。
ドラマのヒロインを想像したけれど、声色や話し方は近い印象だった。ニつ年上の彼女の声は真夏の太陽のようで、高音で弾けるような声は、聞いているだけで元気を分けてもらえている気がした。
マリーとの電話は、一日一時間。七日で七時間。ケビンがマリーに惹かれるには、十分な時間だった。
ケビンは、マリーに恋をした。