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第十九話




 海の向こうに、入道雲が見える。まるで人間みたいに水風呂に浸かっているその白いでかぶつは、『パエゼ・ナティーオ』からもよく目立っている。

 近隣の海水浴場には猛暑の夏を満喫する人々が押し寄せているが、店の前の砂浜には人っ子一人いない。プライベートビーチだからガヤガヤした風景と会うことはなく、景観は年中変わらない。だから訪れる常連客は、落ち着いた空間が居心地が良いと言う。

 今日は日曜日。久し振りに時間が取れた海貴也が、手伝いに来ていた。


「ジュリウスさん。ケーキセットで、アイスコーヒーを一つお願いします」

「ワカリマシタ」


 海貴也は注文用紙にペーパーウエイトを乗せて、キッチンカウンターに置いた。海貴也のオーダーを受け、ジュリウスはアイスコーヒーを作り始める。

 ケーキを用意しようと海貴也がカウンターに入ると、丁度帰る客がいたので会計をして見送った。注文のあったケーキを皿に取ってトレーに乗せ、客が帰ったあとのテーブルを片付ける。


「海貴也サン。アイスコーヒー、お願いシマス」


 ジュリウスがカウンターに置いたグラスを、海貴也は受け取りに行った。たまたま視線が合い「あっ」と思うと、ジュリウスの方から視線を逸らした。


「……アイスカフェオレのおかわり、お願いします」

「ワカリマシタ」


 小さくなった氷が入っただけのグラスを取ると、ジュリウスは視線を逸らしたまま背中を向けた。

 今日のジュリウスは、始終こんな感じだ。湧いて出てきた微妙な空気が、二人の間を漂っている。

 海貴也は最初は何も感じなかったが、店に入って暫くしてジュリウスの様子が少しおかしいような気がした。そして、それがよそよそしさからくる雰囲気だと気付いたが、その理由がわからなくてずっと困惑している。

 海貴也はケーキセットをトレーの乗せ、待たせていた客に持って行く。


〈まさか、また有間さんが何か……。でも、今までのはリハビリだったんだし、そういうのはもうやってないって言ってたもんな。もし続いてたとしても、ジュリウスさんあんな反応しないし……。やっぱり、オレが急に夕食行けなくなったの怒ってるのかな。謝ったけど、誘ったオレがいきなりドタキャンだもんな〉

「……それとも」

〈オレが気まずく思ってるの、気付いてるとか〉


 ドタキャンの翌朝になって、海貴也はジュリウスに電話で謝った。幸い不機嫌にはしておらず、会社の付き合いなら仕方ないと理解を示してくれた。

 怒っていなかったことには胸を撫で下ろしたが、嘘を吐いてしまった事実が安堵を掻き消した。消してしまいたいのは安堵ではなく、現実なのに……。

 ホテルのベッドで目を覚ましたら、亨と一緒にほぼ裸で寝ていた。

 あの日は、飲み過ぎた所為で記憶がない。ホテルのバーにいたことまでは覚えているが、そこから朝になるまでの記憶がすっぽり抜けている。何か説教っぽいことを、亨に言っていたような気はするけれど。

 状況が掴めなくて、亨に恐る恐る説明を求めたが、

「好きな奴が酔って寝てるのを前にして、理性が働く状態じゃなかった。悪いとは思ったが、可愛がらせてもらったよ」

 と、微笑された。落ち度は自分にもあるとは言え、顔面蒼白だった。


〈オレ、本当にしちゃったのかな。亨さんと……〉


 本当は、あの日に気持ちを固める筈だった。繋がっていた糸を結び直す筈だった。だが決意は言葉ばかりで、海貴也の中に潜む種は芽吹き、邪恋の花の蕾は来る日を待ち望むばかり。咲くことを望もうと望むまいと、それは自然の摂理。

 心の機微を感じ取っているのは、海貴也だけではなかった。海貴也が気付いているように、ジュリウスも彼の異変を何となく察していた。

 海貴也が店に入って来て第一声を放った時に、それを感じた。しかし、恭雪ほどの観察力も直感も持ち合わせていないから、どうしたのだろうと疑問に思うばかりだ。


〈海貴也サンも何だか様子がおかしい。……デモ今日は、ソノ方がいいカモ〉


 今日は多少の距離があった方が、ジュリウスにとっては都合が良かった。

 あの日のことがあるから───。




 * * *




 静寂の室内に、肌を叩く音が響いた。


「……アッ……」


 思わず手が出ていたことに、ジュリウスは驚いた。はたかれた恭雪は、赤く染め上がった左頬を軽くさすった。


「……アイツよりも先にされたくないか?」


 少しは逆上してくるかと思ったが、恭雪は意外と冷静さを保っていた。


「……どういうつもりなんデスか」

「さぁ?俺にもわかんねぇ」


 その答えは、恭雪らしくない台詞だった。何時も答えを求め突き進む彼にしては、珍しかった。


「婚約者がいるノニ、他の人を好きになるなナンテ……。許されマセンよ」

「そうかもな。でも、仕方ねぇだろ。気付いちまったんだからよ」

「仕方ないで済ませられることデハ……」

「勿論、美郷には悪いと思うよ。けど、気付いたものはどうしようもない。お前を好きになった気持ちは」


 恭雪は撤回するつもりはなかった。自分の感情も、ジュリウスにしようとしたことも。これも今の自分であると、潔く認めようとしている。ジュリウスには、それが理解できなかった。


「……デスが。言われても私ハ……」


 その想いには絶対に応えられない。当惑するしかできない。


「すぐに答えをくれって訳じゃないんだ。俺自身も、ちょっと戸惑ってる」

「それナラ、考え直す余裕もあるんじゃないんデスか?」


 戸惑っているということは、自分の感情に疑問や打ち消したい思いが少なからずあるということではないのだろうか。強引な行動を取る恭雪にだって、善と悪、正解と間違いの区別はできる。この場合の選択なんて、大した問題ではない筈だ。

 ジュリウスは、道を引き返してほしかった。恭雪はそんなバカな男じゃないと。


「何度かじっくり、自分の本心を確かめてみたさ。だが、お前への想いも、美郷への想いも、拮抗していた。今の俺には、どっちかなんて選べねぇんだよ」

「恭雪サン……」


 ジュリウスの期待は、打ち砕かれた。

 全くもって彼らしくない。猛暑続きだから、その熱にやられてしまったのだろう。きっと、一時的な気の迷いだと思いたかった。


「ジュリウス。一応、俺の気持ちは覚えておいてくれ。本気になったら、俺は多分アイツを……美郷を捨てられる」


 真っ直ぐな気質の彼らしく、想いに偽りはないと込めた真剣な瞳を向けられた。

 真摯な面持ちは、恭雪が持ち合わせるもう一人の彼。正面から受け止めたジュリウスは、拒絶しきることができなかった。

 別の熱にやられて、夏の夜の蒸し暑さなど忘れていた。




 * * *




 その翌日は珍しく別の従業員が配達に来たが、二日後からはまた恭雪になった。彼のことだから、告白して気まずく思った訳ではないだろう。それ以降もこれまで通り顔を合わせているが、告白の答えを求めることもなく、何時もと変わらない振る舞いを続けている。


〈恭雪サンは、本当に本気なんでしょうカ。彼女と別れるなんテ……〉


 泡立たせたスポンジで食器を洗いながら、心に溜まった鬱々したものが息と共に吐き出される。

 あの時は当惑するばかりで何も言えなかったが、恭雪をそういった対象としては見られない。恋なんてしたことがないし、どういう心の状態を恋というのか知らないからはっきりとは言えないけれど、それだけは不正確ながらわかる。

 決して嫌いではない。強引なコミュニケーションのリハビリを含め恭雪には今まで色々と世話になっているし、少しきつめな物言いも、自分を思っているからついそうなってしまうこともわかっている。

 でも、恭雪はビジネスパートナーだ。婚約者がいるのなら、なおのこと彼の想いに応える訳にはいかない。




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