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第十八話




「はぁ?」


 思いがけない提案に、恭雪は声を上げた。

 ショーケースを覗き込んでいた二人の客と従業員が、一斉に顔を向ける。恭雪は何でもありませんと、接客スマイルでその場を取り繕った。そう広くない店内だから、普通の話し声でも他人の耳に入ってしまうことを一瞬だけ忘れていた。

 恭雪は接客用の笑顔から普段の面に戻すと、動揺を隠しきれないまま美郷の希望について協議を始める。


「ここで働くって、何言ってんだ」

「修行期間もあと一年くらい残ってるから、本当に働く訳じゃないわよ。ボランティア的な感じで、お給料なしで恭雪のお店に立ってみたいの」

「何でまた」

「だって結婚したら、きっと二人でお店やるでしょ?同じお店で働いてた時もあったけど、その時とは違うと思うのよ。だから、今のうちにシミュレーションしたいって考えたの」


 美郷が提案した理由については、無茶なものではない。

 修行が終わったあとの美郷は、現在籍がある東京の店にまた戻ることになるが、結婚と同時にその店を辞めるつもりだ。勿論、そのまま専業主婦になるつもりはなく、できればこの『パティスリー・ヤス』を恭雪と一緒に切り盛りしていきたいと考えている。

 今から将来のことを念頭に置いてくれているのは、否定しない。しかし恭雪は、店に立つ許可をすんなり出さない。


「シミュレーションはいいが、急過ぎるだろ。何で前もって相談しないんだよ。別に人手は足りてるし、ユニフォームだって予備はないぞ。店に立つのに私服はNGだからな」

「ユニフォーム問題は大丈夫。ちゃんと持って来たから。もし邪魔だと思ったら、買い物でも掃除でも何でもやるわよ」

「それに、泊まるの温泉宿なんだろ?毎日宿から通うつもりかよ」


 恭雪が聞くと、アイスティーを啜る美郷は「宿泊は一泊だけよ」と当然のように答えた。


「一泊?じゃあ、明日から何処に寝泊まりするんだよ。この辺に友達もいないだろ。もしかして、スイーツのはしごのごとく宿もはしごするのか?」

「そんな訳ないでしょ。だったら最初から一ヶ月同じ宿に宿泊するわよ。もし私がブルジョアだったらの話だけど」

「それじゃあ、どこに泊まるんだよ」

「そこで、二つ目の提案なんだけど」


 美郷はピースサインのように二本指を立て、また少女のような笑顔でおねだり作戦に出る。


「有間家に泊まれないかなって」

「うちに!?」

「だって隣、実家なんでしょ?おじさまもおばさまも、お店の移転と一緒に引っ越したのよね。だったら部屋も空いてるでしょ?」

「まぁ、空いてはいるが……」


 将来的に一緒にやっていくことを考え、店に立ちたいと言ってくれることは嬉しい。一度でもそれを体験しておけば、共同で経営するにあたっての問題点が何かしら見えることもあるかもしれない。

 だが、共同生活は話が別だった。今に限っては特に。


「もし家族が使ってた部屋は片付けてないからダメって言うなら、居間でも物置でもいいわ」

「いや。それは流石に……。急に言われても対応ができねぇよ」


 ()()()()()()を敢えて避けて二つ目を提起するなら、清潔面だ。両親が引っ越した際に家具やらの荷物は殆ど持って行ったから、散らかるどころか寧ろ殺風景ではあるが、掃除は時々しかできていない。だから、女性を泊めるには少々猶予がほしいところだった。

 恭雪が立て続けに文句を言うと、少女の面持ちだった美郷は急に黙り込み、眉間に二本の皺を寄せて恭雪の顔を直視する。


「どうした」

「今日の恭雪、何か変じゃない?」

「そ、そうか?」


 普段と何だか違うことに疑念を持った美郷の質問に、恭雪はとぼけた。一色だった心に誤って違う色を落としてしまったことを、見透かされないように。


「普段なら、しょうがねぇなあって何だかんだで許してくれるのに、今日は急に来るなとか急過ぎるとか、何かと渋るわよね。何か、私がここにいちゃいけない理由でもあるの?」

「いや。そんなことはないけど……」

「本当に?」


 問い質す美郷は、更に凝視する。ジュリウスや海貴也に対しては攻勢一方の恭雪も、後ろめたさに負けて視線を逸らしそうになる。取調室のシチュエーションが、ピッタリ合いそうだ。


「本当だ」


 初めての取り調べに席を立ちたくなりながら、なるべく表情筋が動かないように頷いて肯定した。

 すると、懐疑的だった美郷は判定を下し、乗り出した身を引いてくれた。


「まぁ。私も、事前に連絡・相談しなかったのは悪かったと思うわ。だから本当に無理だったら、東京の友達の所に泊めさせてもらうから」


 美郷は自分にも悪いところがあったと認め、有間家での宿泊を諦めかけた。

 それならそうしてくれた方がいいと、恭雪は配慮に賛成しようと思った。けれど彼の中の善心が、それは婚約者に対して殺生だと訴えた。後々になって罪悪感を肥大させることになるぞ、と。


「……わかった。じゃあ……兄貴の部屋でいいなら」

「あら。一緒の部屋じゃないのね」

「シングルベッドだから狭いんだよ。部屋、隣なんだからいいだろ」


 布団はないのかと聞かれて、そこは正直にないと答えると、自分の我が儘で泊めてもらうのだからと美郷は了承した。

 もし無理にでも一緒のベッドで寝るなんて言われた日には、胸中が即バレてしまうこと必至だ。きっと一日でボロが出ていたことだろう。

 話もついたところで恭雪は仕事に戻り、美郷はキャリーケースを引いて今日の宿へと向かって行った。

 その後、恭雪は自宅に戻って休憩を取った。裏の縁側に座りながら、アイスコーヒーを傍らに煙草をふかす。

 夏空には、滲んだように二本の飛行機雲が引かれている。それと交わるように、煙草の煙が昇る。


「……アイツ、何で今回に限ってこのタイミングなんだよ」

〈よりにもよってこんな状況の時に……。いや。逆か。こんな状況になっちまったのか〉


 美郷に会って初めて、自ら作ってしまった煩雑な思いが輪郭を現した。自分の中に芽生えたもう一つの想いに素直になってしまった故の愚行に、今更になって後悔の念が沸き上がる。

 気付かなければ良かった。気付きたくなかった。

 でも、彼を想えることは不幸せだとは思わない。美郷を想うのと同じように。

 しかしこのままでは───二心ふたごころを抱いたままでは、美郷と付き合い続けられない。ましてや、結婚など。

 何故こんな状況にしたのかと自分に問い質しても、「仕方がない」の一点張り。その解答は不正解だ。この煩雑な状況から脱するには、目の前にある一問百点の二択問題を解くしかない。

 本当に大事にしなければならない方はどちらか。


「……クソ気まず」




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