第十五話
駅の周辺には何軒かホテルが立っており、駅に隣接するように立っているホテルに亨は泊まっている。こっちに来る時に必ず利用していて、十五階にあるラウンジバーで飲むのが好きだ。都会のきらびやかな夜景には見劣るが、地方都市の飾り気のない夜景もたまには悪くないと、多少上から目線で思っている。
今夜もカウンターでウイスキーのロックを頂きながら、安らぎのひとときを過ごしている。何時もは一人だが、今日は隣の席にグラスがある。
そこに、若干おぼつかない足取りで連れが戻って来た。
「お帰り海貴也。トイレちゃんと行けたか?」
「だいじょうぶでしたー」
赤い顔をした海貴也は、迷わず亨の隣の椅子に「よいしょ」と座った。
亨と食事に行った海貴也は、約束通り八時までには『パエゼ・ナティーオ』に行くつもりだった。しかし、亨に捕まった時点でそれは叶わないことだった。
海貴也は何度か切り上げようと試みたが、亨に圧力を掛けられてビールを飲まされまくり、場所を変えようとホテルに連れて来られると更に飲まされ、気付けばこの有り様だ。
「あ。亨さん。ちゃんと子育てはして下さいよ?てゆーか、しないとダメです!」
「またその話かよ」
出産したばかりの妻を、嘘を吐いてまで放ったらかしにしたことが話になると、酔っ払った海貴也は説教モードに入った。一件目で起こったその現象は亨が一方的に終了させたのだが、そのあとも海貴也はふと思い出しては同じように亨を説得しに掛かる。
今ので五回目。亨の耳にはタコができ始めている。
「ちゃんとお父さんして、ちゃんと旦那さんして下さい!でないと、オレは亨さんを嫌いになります!絶交です!」
飲みかけだったソル・クバーノを飲み干して、両目を真っ直ぐ亨に向けた。トロンとした目では、説得力も何もない。ただ酔っ払いが絡んでいるだけだ。
「絶交か。それは嫌だな」
亨は困ったように笑うと、海貴也のカクテルのおかわりをバーテンダーに頼んだ。
「……実はな。アイツが、地元に帰って子育てしたいって言い出したんだ」
「いいじゃないですか」
「ずっと言っているが、俺は子供なんて欲しくなかったし、できることならおろしてほしかった。仕方なく出産させたが、承知していない妊娠をした上に今度は地元で子育てしたいって、勝手過ぎると思わないか」
新たな問題が浮上し、亨の不満は募る一方だった。自分は被害者だ。そう言うように、海貴也の同情をまた誘おうとする。
「賛成しないんですか?」
「する訳ないだろ。あんな自己中な女の言いなりになりたくない」
一口グラスを傾けると、小さくなった丸い氷がカランと鳴った。
ウイスキーは好きでよく飲むが、時々苦味を強く感じる。そういう時は、決まって機嫌が悪い時だ。
「じゃあ、どうするんですか?奥さんの話だと、引っ越すってことですよね?子育てしたくないなら、一緒に行かないんですか?」
「そうだ。俺は一緒に行くつもりはない」
「ということは、別居ですか」
「それか……離婚だな」
海貴也のおかわりのソル・クバーノが、コースターに置かれる。黄色味がかった透明なドリンクに添えられたグレープフルーツが、“キューバの太陽”の名を象徴するようだ。けれど夜の今は、形も相俟って“月”の方が相応しく見える。
「離婚て……。子供が生まれたばかりなのに、ですか?」
「言ってるだろ。子供なんてどうでもいい。子作りも、田舎出産も、全部アイツが勝手にやったことだ。俺は何も関与はしていない。全部、他人事なんだよ」
「そりゃあ、一切相談もないのは問題だと思いますけど……」
流石に離婚は考え過ぎだと思うが、海貴也は意見するどころではなくなってきた。時間の経過と共に目蓋が重くなる。
「海貴也」
亨は海貴也の手を握った。バーテンダーはこちらを見ていない。見ないふりをして、話を聞いていないふりをしている。
「俺は真剣に、お前が好きなんだ。お前が俺のところに戻って来るなら、俺は……」
「亨さん……。そんなこと、言われても……オレは……」
ウトウトし始めた海貴也は自立ができなくなり、亨の肩に寄り掛かった。もう限界が近いようだ。
「海貴也。ここで寝るな」
「オレ……」
〈ちょっと飲ませ過ぎたか〉
「ったく。しょうがないな」
亨は会計をカードで済ませ、ほぼ意識のない海貴也を抱えながらバーを後にした。エレベーターに乗り込み、下の階へと下りる。
「海貴也。ちゃんと歩け」
宿泊している部屋が、エレベーターから近いことが救いだった。自分より小柄とは言え、大の大人を一人で抱えるのは大変だ。しかも酔っ払いは、何時どのタイミングで緊急事態を起こすかわからない。
何とか部屋に着き、ベッドサイドの明かりを点けた。黄昏時を思わせる淡いオレンジ色が、シングルルームの室内を優しく包み込む。
四角い窓の外は太陽が消えた街と、星が恋しくなりそうな灯火たちの世界。物静かに、眠りの時を待っている。
亨は海貴也をベッドに横たわらせた。吐息を漏らしながら、海貴也の荷物を無造作にカーペット貼りの床に置き、酔い潰れた顔を覗き込む。
「海貴也。水、持って来るか?」
頬を軽く叩きながら声を掛けるが、何も反応なし。どうやら、完全に睡魔に襲われてしまったようだ。
海貴也がここまで飲むのは珍しいことだ。二十歳を記念して大学の友人たちと初飲酒をした際にはめを外して飲み過ぎたことはあるが、酔い潰れるのはこれが初めてだ。相手が相手だったというのもあるだろう。
「……お前、警戒しなさ過ぎ」
〈飲ませたの俺だけど〉
「さっきメッセージが来た相手、例の友達か?本当に、ただの友達なんだよな?」
海貴也がトイレで席を外していた時、彼のスマホが鳴った。亨はそれに気付き、スマホを拝借してメッセージを読んだ。どうやら約束があったらしいことを、その文面を見て知った。だからソワソワしていたんだと、そこで理解した。
届いたメッセージを、このまま放っておいてもいいかと思った。しかしその時。自分の中に住む悪魔が囁き、親切めいた悪戯をしてやった。
「俺が好きだって言ってるの、冗談だと思ってないか?お前を脅して復縁を迫ってるのは、一時の気の迷いとか思ってるだろ。……お前は知らないかもしれないが、遊びだったらすぐに手を出すから。俺」
亨はベッドに乗ると、海貴也に覆い被さるように四つん這いになった。体重が掛かると、その分ベッドが沈んだ。
既に現実世界から旅立った海貴也は、刻一刻と変化する状況に微塵も気付かない。
密室。誰も───二人の関係性を知る者は、ここにはいない。
「海貴也。もう一度、お前を……」