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第十三話




 七月も下旬に差し掛かった。うるさい蝉の鳴き声も日常の喧騒とすっかり同化した頃で、学生には嬉しい夏休みが始まった。昼間には聞くことがなかった子供たちのキラキラした声が、朝から窓の外で飛び交っている。

 嬉々として迎えた長期休みだが、煩わしいものがおまけで付いてくるのが少々残念だ。海貴也の場合は、最後まで嫌なものを残したくないから早めに終わらせていた。新学期初日に、先生が来るギリギリまで残った宿題を終わらせようとしているクラスメートを見た時は、ああはなるまいと思ったものだ。

 そんなある日。「今度の日曜日は育児セミナーに行かされることになった」と、亨からメッセージが来た。どうやら、新米パパ向けのセミナーに行くよう妻に言われたようだ。

 日曜は、海貴也も大事な約束の日だった。


 近頃ジュリウスに会えず、習慣化していた連絡すら怠っていた。何故そうなったのかは、自分でもよくわかっている。本当は会えないのではなく、会わないようにしているのも。怠っているのではなく、気が向かないのも。

 全く気にしていない訳ではない。ただ、亨と連絡する割合が多くなってきて、たかが文字だけのやり取りでいちいち過去の記憶が自動再生される。

 亨は“過去”で“現在”はジュリウスの筈なのに、逆転なんてさせたくない。そうなりたくないと思っているのに、煩雑な事情が枷になりカフェに足を向かえなくさせていた。

 そんな現状を変えたくても変えられず、鬱積したものの一部を溜め息として吐き出した、ある昼休み。遅い昼食を同席していた河西たちから心配され、だいぶ搔い摘んで状況を説明した。すると、そんなに気に掛かるなら連絡をしてちゃんと話した方がいいとアドバイスをもらったのだ。

 最初はスマホでメッセージを送ろうとしたが、文字を打っている途中で気が変わった。アドバイスの通りちゃんと話した方がいいだろうと考え直し、電話をすることにした。時間を確認すると、まだ店の休憩時間だ。

 目的は、会う約束を取り付けること。ジュリウスに会って、自分の本当の気持ちを確かめる。

 久し振りに電話を掛けるおかげで緊張する。海貴也は一回深呼吸をしてから、受話器のマークを押した。

 ジュリウスのスマホにコールされる。これで運命が決まるんじゃないかとさえ思い込んでしまう、短いようで長い時間。

 五コール目で、音がプツリと途切れた。


「モシモシ?」


 応答する彼の声が、遠い距離を越えて耳に届いた。


「あっ…ジュリウスさん?今、大丈夫ですか?」

「ハイ。大丈夫デスよ」

「あっ、あの。えっと」


 ジュリウスと出会った頃の緊張に似ていた。そんな気がしたが、似て非なるものだと会話をして判別した。

 一時的に初期設定に戻った脳が、発する言葉を選んで繋ぎ合わせる。


「あの……ご飯。前みたいに、また一緒にご飯を食べたいなーって思ったんですけど……」

「ご飯デスか?」

「前に食べたスパゲッティーが美味しかったので、また食べたいなって」


 本当は、あの時の味は緊張していて殆ど覚えていない。だから今度はちゃんと味わいたいが、味覚が集中できるだろうか。


「急ですみません。ジュリウスさんが嫌じゃなければ」

「いいデスよ。海貴也サンがそう言うナラ、また作りマス」

「えっ。いいんですか?」

「ハイ。大丈夫デス」


 声からジュリウスの柔和な笑みを想像した海貴也は、電話の向こうに聞こえないように小さく安堵の息を漏らした。一気に肩の力が抜け、気分も落ち着いてくる。


「ジュリウスさん。最近は全然お店に行けなくて、すみません。手伝うって言い出したのオレなのに」

「大丈夫デスよ。気にしないで下サイ」


 海貴也の謝罪に、ジュリウスは何時もの定型の台詞で返した。


「でも中途半端になっちゃって、何か申し訳なくて。何とか行きたいんですけど……」

「本当に大丈夫デス。海貴也サンのお仕事が大変なノハ、わかってマスから。体調も安定していマスし、海貴也サンに言われた通り無理はしないようにしているノデ」


 海貴也から耳にタコができるくらい言われて、ジュリウスも大人しく言う通りにしている。けれど頑張り過ぎる傾向があるので、海貴也は「本当ですか?」と少しだけ疑う。


「ソレニ、恭雪サンがよく来てくれて気遣って頂いてマス」

〈有間さん、行ってるんだ……。本当に最近よく行ってるよな。自分の店は大丈夫なのかな〉


 カフェに足しげく通っている恭雪を、怪訝に思わずにはいられない。再びジュリウスに嫌がらせをする為に、虎視眈々と機会を狙っているんじゃないかと疑念は絶えない。

 約束は、時間が取れそうな今度の日曜の夜にした。それから、もう少ししたら仕事が一区切りできそうだから、また手伝いに行けそうだと言った。


「では海貴也サン。お身体に気を付けて下サイね」

「ありがとうございます」


 心の中の天秤のことを知らずに労いの言葉を送られ、その心遣いが身に沁みるようだった。

 同時に、ジュリウスを裏切ってはいけないと思わされた。この約束を、本来の約束にしっかり繋げなければと。


〈取り敢えず、お店に行く理由はできた。これで、ジュリウスさんへの気持ちが変わってないことを確かめよう。そしたら亨さんにも、これ以上付き合えないことをちゃんと言おう〉



 どっち付かずの現状を、これで打破できる。胸に積もったものが全て解消されて、また店を手伝ったり、一緒にコーヒーを飲んで他愛のない話をする時間を過ごせる。二人にとっての大切な空間を共有できる。そうしたら、来月の花火大会に誘おうと決めた。

 今回は、亨にも期待したいところだった。自分は現状打破にシフトチェンジするから、亨も新米パパになる為に頑張ってほしい。意図は別々だが、勝手に同盟を結んでいるつもりでいる彼の妻にも。

 きっと、ジュリウスと会えば大丈夫。海貴也は、思い浮かべる近い未来が必ず訪れると確信した。




 そして、やって来た日曜日。休日出勤をした海貴也は、河西たちより一足先にオフィスを出た。

 時刻は午後六時。約束の時間には十分間に合う。仕事が終わる前からソワソワしていた。遠足が楽しみで眠れない子供みたいに落ち着かなくて、走ってしまいそうになる。

 ビルを出ると、太陽はもう見えないけれどまだ明るかった。夏休みともあって、十代の姿がこの時間になっても目に付く。流行りのファッションに身を包み、細く白い手足を惜しげもなく曝け出し、アパレルショップの紙袋を提げ、ヒールのサンダルで闊歩している。

 もうすぐ、街路灯やファッションビルのデジタルサイネージが、夜陰やいんに浮き出る時間になる。彼女たちは、それまでには帰るのだろうか。

 海貴也は駅に向かおうとした。その時、男性の声に呼び止められる。


「海貴也」


 今日ここにいる筈のない声に、まさかそんな筈はないと疑った。その瞬間、海貴也が僅かに抱いていた期待は夏の入相いりあいの空に吸い込まれる。


「……と、亨さん!?」


 何時もと違って前髪が下りているが、ビルの前の街路灯の傍らにいたのは間違いなく亨だった。海貴也の表情に、愕然と落胆が混在する。


「何でここに……」

「だって今朝、今日は出勤するって言ってたから。待ってれば出て来るかと思って」


 それではまるでストーカーじゃないかと、内心でゾッとする。


「そうじゃなくて。今日は育児セミナーに行くって……」

「その予定だったんだけどな。と言うか、子供が生まれたら絶対行ってほしいって前から言われてた」

「行かなくてよかったんですか。今後の為にも……」

「忙しい合間の貴重な休みだぞ?なのに、何で興味もないことを勉強しなきゃならないんだよ。嫌々行ったって意味ないし、時間の無駄だろ。だから、もっと有意義に時間を使うべきだと思ってさ。仕事で急用ができたって言ってさぼった」


 適当な嘘を吐いてまで……と、海貴也は呆れた。

 彼は目の前で、命の誕生を見たんじゃないのだろうか。その神秘的な存在を、その目で見て触れたのではないのだろうか。その台詞は、出産に立ち会った夫の台詞では全くなかった。


〈奥さんや産まれたばかりの赤ちゃんのこと、関心ないのか?〉


 辛うじて保たれていた海貴也の中の亨の偶像が、面白いように崩れ去る。今目の前にいるのは、粘土で作られた同じ姿形の人形にAIが再現した人格をコピーした別人だ。

 そのコピー人形に湧いてきた感情も、軽蔑なのか呆れ果てているのかもはや判断ができない。


「そういう訳だ。行くぞ海貴也」

「行くって、何処に?」

「飯に決まってんだろ」

「えっ。これからですか」

「夕飯時なんだから、おかしくないだろ。何だ。用事でもあるのか?」


 尋ねられたが、海貴也は言い淀んでしまう。


〈どうしよう。ジュリウスさんとの約束があるのに。でも断ったら……〉


 ジュリウスとの約束を優先したいのに、亨を前にするとやはりはっきり言えなくなってしまう。

 脳内を「脅迫」の二文字が独占する。今の亨だったら───海貴也の知らない亨だったら、不倫していたことを言いふらす絵が容易に頭に浮かぶ。経験はないが、リベンジポルノをされるくらい恐ろしい。


「どうした海貴也」


「行くだろ?」と、亨はさも当然とばかりに催促する。手にはバッグを持ち、海貴也がくっ付いて来るのを待っている。


「は……はい。行きます」


 どうすれば利口かという考量が擦り込まれた、調教されたサーカスの動物のごとく返事をした。従うのは仕方がないことだと。


〈しょうがない。少しだけ付き合って、どうにか適当な理由を作って帰ろう〉


 移動中に、仕事の連絡事項があるからと偽ってジュリウスにメッセージを送った。相手は誰だなんて問い詰められて、ジュリウスにまで迷惑を掛けたくない。


 「ジュリウスさん、ごめんなさい。会社の人に捕まってしまって、飲みに誘われてしまいました。でも少し付き合うだけなので、必ず行きます。八時くらいになっちゃうかもしれないんですけど、いいですか?」


 と、半分嘘のメッセージを送った。本当の事情を言えば変に気を回すだろうと、吐きたくない嘘を吐くしかなかった。

 数分後に返信があり、「ワカリマシタ。大丈夫デスよ。お料理を準備して待ってマス」と、海貴也を心待ちにするメッセージが届いた。


〈よし。何としてでも帰ろう〉


 付き合うのは一時間だけと決め、亨と並んで賑やかな繁華街へと紛れ込んだ。




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