第十二話
少し空気が悪くなり、互いに黙り込んだ。気にもならなかった団体客の騒がしさが際立つ。
ビールがなくなりそうだった亨は、海貴也の分と料理を一品一緒に追加注文する。そのあと、亨の方から会話が再開された。
「……そう言えば、友達ってどんな奴なんだよ。会社の同僚か?」
「え?……いいえ。家の近所の人です」
「近所付き合いしてんの?」
「そういう訳でも……。その人は、偶然見つけたカフェの人なんです」
「カフェの店員?」
海貴也は店を見つけた経緯や、どんな場所にあるのか。そして、ジュリウスのことを簡単に話した。
「外国人なのか。お前、英語しゃべれたっけ?」
「そんなには……。でもその人、日本語ペラペラなので、会話に不自由はしてません」
「どうやって仲良くなったんだよ」
「よくお店に行ってるだけです。最初は日本人じゃなかったので驚きました。でも少しずつ話してみると、自分と似たところがあって親近感が湧いたと言うか。その人から友達になってほしいって言われて、それで」
話しながら、海貴也の表情は段々と解れていった。彼の性格を把握している亨は、その話が存外で不思議だった。海貴也が知らない亨に遭遇したように、亨が初めて知る海貴也だった。
「へぇー……。仕事以外になると控えめなお前が、外国人と友達になってるなんて想像しなかった」
「オレもです。自分が一番驚いてます」
そう言いつつ、嬉しそうに海貴也は話す。気が付けば先程まで鬱々としていたものが、波が拐ったように何処かへ行ってしまった。そんな海貴也を、亨は注意深く見ていた。
「……まぁ。新しい環境にも慣れてきてるみたいだし、安心した。仕事も順調みたいだしな。坂口もお前のこと褒めてた」
「えっ。そうなんですか?」
「この仕事向いてるんじゃないかって言ってた。俺も海貴也は向いてると思うよ。最初は、こいつこの仕事続くのかよって不安だったけど、蓋開けてみたら結構頑張るし、文句一つ言わずに雑用こなしてたから根性あるなって意外だった。だから俺は、お前に手を焼きたくなったんだ」
仕事らしい仕事を与えてもらえず、思い描いていた姿とは違っていた筈なのに、海貴也は言われたことをひたすらやり続けていた。嫌な顔一つ見せずに。その姿に亨は一目置き、目を掛けるようになった。後に、新たな教えを享受するきっかけになるとは知らずに。
そして亨にとって海貴也は、かつてない“意味を持つ存在”となった。
「海貴也なら、これからもグラフィックデザイナーとしてやっていけるよ。俺が保証する」
「亨さん……」
一緒に仕事をしていた頃と同じ、自分を励まし信頼してくれている面差し。優しい眼差しを向けられ、海貴也は胸が熱くなるのを感じる。
彼はずっと海貴也を支えてくれていた。本当は、デザインの仕事ができなくて抵牾しく思っていた時も。やっと与えられた仕事がうまくいかなかった時も。
何時も彼は、
「頑張れよ」
「はい」
海貴也の側にいてくれた。
亨は、今日は泊まらずにこのまま帰る。海貴也は、新幹線の改札口まで見送ることにした。
「今日はありがとな」
「こちらこそ。ごちそうさまでした」
亨と会うのはこれで最後にする。今日はそう決めて来た。
けじめを付ける為には、ちゃんと言った方がいい。自分の為に。亨の為に。
「……あの」
「あのさ海貴也」
言おうとしたが、タイミング悪く亨に遮られてしまった。
「お前、今好きな奴いるの?」
「え?」
純粋に、何故そんなことを聞くのだろうと思った。別の言葉と聞き間違えただろうかと。過去に同じ相手から似たような質問をされているから、デジャヴを感じる。
「な……何でそんなこと聞くんですか」
頭の中の疑問をそのまま言った。けれど、その質問は無意味なものだと頭の片隅で予感していた。
「好きだからだ」
「……え?」
「俺は海貴也が好きだ」
海貴也の耳に、確実にはっきりと告白の言葉が入ってきた。雑踏に紛れることなく、伝えられるべくして伝わるように。
「……ちょっと待って下さい。それは嘘だったんですよね。冗談で言ったんですよね?」
「本当だ。この気持ちは消し去ろうと思ったが、完全に消せなかった。再会しなければ消えたかもしれないけどな」
そう言いながら、亨は運命の悪戯に嘆く面持ちは見せない。寧ろ潔く受け止めている。
「お前はどうなんだ。好きな奴はいるのか。俺のことは、本当にもう忘れたのか?」
「そ…それは……」
質問を繰り返され、数日前と全く同じ状況に立たされる海貴也は再び困惑する。
海貴也には好きな人がいる。支えたいと思う人がいる。ジュリウスという人が。
なのに、はっきり「いる」と言えない。
亨が一歩二歩と近付き、海貴也の背中が広告が掲示された柱に付いた。
「なぁ海貴也。関係を戻さないか。もう隠し事をしたり傷付けたりしない。約束する」
「……で、でも。亨さんには……」
「あれ、言ってもいいのか?」
「……あれ?」
亨は海貴也の耳に顔を近付け、小声で言う。
「お前が不倫してたこと」
「……!」
海貴也は顔面蒼白になりかける。心霊体験をした訳でもないのに、背筋に悪寒が走った気がした。
「信じてくれ。俺は嘘は吐かない。気持ちも。秘密を他言することも」
亨に見つめられる。交わるその目は、あの時見た目の色になっていた。
獲物を捕まえんとする、獣の目に。
そこには、また知らない亨がいた。
「………」
海貴也は言葉が出ない。拒絶、排斥、焦燥、困窮。頭の中で言葉は形成されようとするが、ごちゃ混ぜになって一つも取り出せない。言わなければならない言葉は知っているのに、何かに搔き乱されている。
海貴也が言葉を紡げないでいると、亨は離れた。瞬き一つで獣の影は消えた。
「どうするか考えておいてくれ。海貴也の答え次第で、俺も考えるから」
亨は乗車する新幹線の時間を腕時計で確認すると、また連絡すると言ってホームへ消えて行った。
雑踏の中、取り残された海貴也は一歩も動かず佇んだ。
「………」
〈何で言えなかったんだ……〉
疼きの鍵で開かれた門扉から伸びた手に掴まれた。
まるで、首を絞められかけている感覚。
くっきりしていた感情の輪郭が、ぼやけ始める。まるで、消しゴムで悪戯に消されていくように。
今の感情を、どう言い表したらいいのかわからない。後悔なのか。絶望なのか。
でも多分、一つだけわかるものがある。
〈オレが好きなのは……〉
大切なものを見失いそうだった。それがとても不安で、怖かった。
海貴也は、亨とのやり取りを続けた。
妻が元気な男の子を出産したことも報告があった。彼女の希望で亨も立ち会ったらしく、とても複雑な思いで一部始終を見守ったと言っていた。
これで、亨の意識が少しでも変わってほしいと思っていた。我が子を目にし、父親の自覚が湧き父性に目覚め、心を入れ替えて良き父になってほしいと。
しかし、海貴也の苦悩は簡単には終わらない。何しろ、連絡先の削除という単純な作業すらできないのだから。
それは、同様の出来事に二度も直面したからに他ならず、再びあることが気掛かりになっているからだった。
自分が知らない亨の姿。それがどうしても心に引っ掛かっていた。
とある日。恭雪は、買い物に市街地に来ていた。目的の買い物のついでに、CDショップやキッチン用品を見て回ったり、タルトケーキ専門店に寄ったりした。
用事を済ませ、夕暮れ時の道をコインパーキングに向かって歩く。その手には、ジュエリー店の小さい紙袋を持っている。
〈これで大丈夫だよな?突き返されることはないと思うけど〉
相手の好みは知っている筈だから、喜ばれないことはないと思う。しかし、女性はどんなことに文句を言うかわからない。もしかしたら前と好みが変わっていて、違うデザインのものにしてほしいと交換を希望されるかもしれない。
だが、もし好みが変わっていたとしてもちょっと文句を言うだけで、快くもらってくれるだろう。彼女はそういう人だ。
コインパーキングに着いて、自分の車に乗り込もうとした。その時、幅の広い通りを挟んだ向こう側を歩く知人の姿を発見した。
「あれは……」
〈佐野じゃん。一緒にいるの、会社の人か?〉
どちらも私服だったが、隣にいる人物は海貴也より年上に見えた。海貴也の性質などもろもろを考えて、会社の人だろうと推測した。人通りもあって後ろ姿だからよく見えないが、恐らくそうだ。
〈土曜も仕事か。大変だな〉
この前ジュリウスからも、海貴也は仕事で忙しくなるらしいと聞いていた。だからここ数日、休憩で店に行っても姿を見ていなかった。
すると恭雪の視線の先で、目を見張ることが起きる。
一緒いる男性が、海貴也の肩を抱いた。海貴也はすぐにその手を退かし相手に何やら言うが、相手の男性は懲りずに払われた手を海貴也の腰に回す。
二人はそのまま道を曲がり、ビルの影が落ちる裏道へと入って行った。そっちは、夜になると開く店が多いエリアだ。
「……俺、見ちゃいけないものを見たのか?」
車に乗り込みながら、あることが脳裏を過った。
先日カフェに行った時、ジュリウスと話す海貴也が何時もと様子が違う気がした。どこか、ぎこちなさがあったように見えた。その時は思い過ごしかと思ったが、どうやら直感は当たっていたらしい。
エンジンをかけて、熱が籠った車内にクーラーの風を流した。
〈どうも様子がおかしいと思ったけど、そういうことか……。言い寄られてるのか?でもあの様子は……〉
恭雪はそのまま、考え事を始めた。脳内の画像フォルダをスクロールし、これまでの様々な場面を次々と流していく。
車の走行音がドアの僅かな隙間から入り込んでくるだけの、ほぼ無音の車内。腕組みをする恭雪は、思慮する間全く動かない。
暫くすると、助手席に置いていたジュエリー店の紙袋に目をやった。
そしてそれを、ダッシュボードの中に放り込んだ。
「We are petals of the diagonals」③
マリーと友達になって暫く経った。引きこもってばかりいた日常に、少しの暖かさが差し込んだ気分だった。でもだからと言って、外に出る気にはならない。行動範囲は、相変わらず家の中だけだ。
そんなある日の午後。母親が買い物に出て、ケビンが何時ものように一人で過ごしていると、チャイムが鳴った。出たくないケビンは無視をしたが、何度も鳴らされるから仕方なく一階に下りた。
五回目のチャイムでドアを開けた次の瞬間、「サプライズよ!」という元気いっぱいの第一声にびっくりした。面食らったケビンの前には、少女が立っていた。一瞬誰かと思ったが、写真で見た顔を思い出しマリーだと気付いた。突然現れた彼女に、ケビンはさらに驚いた。
「……マ……マリー?」
「驚いた?電話してたら、直接お話したくなっちゃったの」
「えっ。あ……」
「これからは、時々遊びに来ていいかしら?」
と、目を丸くしたケビンはお願いされた。
電話越しで慣れるのに六日かかったのに、面と向かって話すのに今度はどれだけの時間が必要になるだろう。それを危惧して断りたい気もしたが、好きな子が遊びに来てくれることは素直に嬉しい。断ってしまうのは、もったいない気がした。
少し考えたケビンは、困惑しながらも首を縦に振った。
この日はケビンの母親が不在だったこともあり、マリーは家に入るのを遠慮した。その翌日から週に三日か四日、放課後にケビンに会いに来ては学校での出来事を楽しそうに話した。
金髪のポニーテールとそばかすを気にしない笑顔がチャーミングな彼女は、ケビンが想像していた通りの、真夏の太陽のような女の子だった。そして、人とまともに話せなかった筈なのに、何度も電話で話していたおかげか、三日目にはほぼ普通に話すことができた。
次第に、マリーが来るのが楽しみになった。そんな日々が続き、ケビンはマリーに会うとドキドキするのを止められなくなっていく。