これは天使の取り分です。
夕暮れ。
遠くの空が紫色に染まっている。
今日も、世界は美しい。
「善晴さん、今日もありがとうねえ」
腰の曲がった老人が、曲がった腰をさらに曲げて深々と頭を下げる。
「いやいや、ビールケースなんて重いものは持たせられないですよ。流石に」
「まーあ、優しいことっ!」
老人は、おじいさん、ないしはおばあさんだと思われる。
いやまあそれは当たり前なのだが。
生きてきた年月をそのまま刻んだ、シワシワの風貌からは、目の前の人物の生物学的な性別が、男と女どちらにあたるのかは伺い知ることが難しい。
このおじいさんorおばあさんは、川崎さんと言って、毎週1回、1ダースの瓶ビールを買いに来る。娘夫婦と同居していて、共働きの若夫婦のために、毎週オンボロの白いワゴンを転がして、ビールを買いに来るのである。
1ダース、12本のビール。
次の世代とともに楽しむそのビールが、慎ましやかに暮らしている老人の、ささやかな、善良なる楽しみなのだろう。
日本の年金は、とても少ないという。
わずかな年金から、ビールを買いに来るなんて、いじらしいじゃないか。
さて。
善晴は、勤続3000年の天使である。
こういった、善良なる人間には、どうしても親切にしたくなる。
――というよりも、親切こそが善晴の「仕事」なのである。
「川崎さん。それじゃ、良い夜を……あ、ちょっと待ってください」
そう言って店舗に走って戻ると、昼間に自分が煽っていたのと同じクラフトビールを棚からひょいっと取り出す。
無論、商品である。
でも、まあ、彩乃さんに言って、自分の給料から天引きして貰えばよかろう。
それこそ、天使の取り分だ。
ワゴンの前で目を丸くしている川崎さんに、クラフトビール『木曜のノラネコ』を手渡した。キンキンに冷えている。
「はい、これ」
「あらっ! やだ、ビールを運んでもらったうえに、こんなもん受け取れないよお」
「新商品。こんど、感想教えてくれたら十分だからさ。少ないけど、娘さん夫婦と味見してください」
にっこり、と笑ってみせる。
それは。
文字通り、天使のスマイルである。
善晴は、風貌こそ地味だが、見た目は悪くない……というよりも、誰もが好意を抱くだろう。
イケメン、というわけではないけれど、誰にも嫌われない風貌をしている。
それが、天使というものなのだ。
宗教画に描かれた天使は、総じて麗しいだろう。
「ぽっ」
と、川崎さんの頬が赤くなる。
まじまじと吉晴を見つめて、
「本当に、こんな親切な若者がまだいるんだねぇ……年寄りは嬉しくなっちゃうよ。ほんとうに、ありがとう。ありがたくいただくよ」
そう言って、改めて川崎さんは深々と頭を下げて、白ワゴンを走らせて去っていった。
「さよーならー」
川崎さんの車に手を振る。
これで、今日は店仕舞いだ。
「……今日も、川崎さんの性別はわからなかったな」
すっかり白ワゴンが見えなくなると、吉晴は降っていた手をおろして呟いた。
天使である善晴にとって、男女などというものは、実に瑣末な問題なのだけれど。
「よし、それじゃそろそろ店仕舞い……」
「ちょーーっと、そこの天使野郎っ!」
店に入ろうとすると聞こえてきた、お馴染みの声に呼び止められる。
「……やっぱりきたか、この小悪魔」
「シエルちゃんだよっ! 名前も覚えられないのかなぁ、天使クン?」
「知ってるよ。3000年の仲だろ……って、お前」
やれやれ、と声のした方を見やると、立っている華奢なシルエット。
その旧知の姿に、善晴は驚く。
悪魔に似つかわしくない清楚系お嬢様ファッションに身を包んだシエル(ボンテージとか着ないのか、と前に善晴が聞いたら「そういうのがいいの?」と目を丸くしていた)の両手には。
「なんだその荷物?」
大量の買い物袋がぶら下げられていた。