悪魔が来たりてなんかいう朝。
朝食はきちんと摂りましょう。
それはとても、「善いこと」なので。
***
これはこの数年、毎朝繰り広げられる光景だ。
朝、善晴が身支度を整えてリビングに行くと、そこには朝食が並んでいる。
それ自体は、喜ばしいことだ。
しかし。
作ったのが誰か、が問題だ。
「っていうわけで、シエルちゃんの特製朝ごはんですよ〜☆」
「…………」
「なになに、悪魔の作った朝ごはんは不満? でも、このほっかほかピカピカのごはんやこんがり焼いたウィンナーと完璧に黄色い卵焼き、そしてあったかお味噌汁を残すほうが罪深いんじゃないかな、天使クン☆」
きゅぴっ☆と音が出そうなほどの完璧なスマイルで、さらにはウィンクをよこしてくるシエルに、善晴は頭を抱える。
……可愛い。
いや、断じて、好意を寄せているとかそういうのではないのだ。
俺は天使で、こいつは悪魔。
それは、出会った3000年前からまったく変わらないお互いの立場である。
ただ、いわゆる、人間の価値観にーー善晴が長いこと身を置いている世界の価値観に照らし合わせると、シエルはかなり可愛いと、客観的に「判断」しているだけだ。
ごほん、と大きく咳払い。
「ド正論なのが余計に腹がたつな。いいか、俺の部屋に忍び込むな、と何度も言っているだろう。それから、その、つ、罪深い……」
「裸エプロン?」
「そうだ、それをやめろと何回も言ってるだろ!!!」
韮沢善晴は、天使である。
良き存在として、この世で慎ましやかに暮らし、人間世界に良い影響を与えることが神サマから与えられた使命なのだ。
だから、こんなことが。
毎朝、裸エプロンの美女、それも、不倶戴天の敵であるところの悪魔・黒井シエルが作った朝食を食べていることが天界に知られたら大変なことになる。
――更迭ものだ。
善晴は、ピシャリと言い放つ。
「まったく、金輪際こんなことをするのはやめろよ……むぐ、うまいなこの卵焼き」
「そう言いつつ、ちゃんと美味しそうに食べてくれる善晴クンが好きだよ♡」
「俺はまったく好きではない」
「か〜ら〜の〜?」
「まったく好きではない」
「あっはは! ……ふふっ、このやり取りも何回目だろうね〜?」
善晴の塩対応にまったく動じないシエルは、くすくすと笑う。
「さぁな。ずいぶんと長いこと付きまとわれて俺は迷惑しているぞ」
「四千七十八回目」
「はっ?」
「だから、善晴クンに朝ごはんを作るのは、四千七十八回目だよ」
「お前、いちいち数えてたのか!?」
「ちなみに、今日で五十八日連続。記録を更新中♡」
「……熱心なこって」
「ふふ、天使クンを堕とすのがシエルさんの仕事だからね〜」
ダイニングテーブルの向かいに座って、熱い視線を送ってくるシエル。
善晴は最後の一口を大事に頬張りながら、深くため息をついた。
「まったく、なんでお前は俺にばっかり付きまとうんだ……堕落させたいだけなら、ほかの天使でも、人間でも、狙えるところから狙うのが悪魔らしいんじゃないのか?」
「なんで、か……善晴くん、覚えてないんだ」
「あ?」
「ううん、なんでもない☆ さ、さっさとお仕事に行っておいで〜。セコセコ働かなきゃいけないなんて、天使サマは大変だねっ」
「祈り、働け。これが俺たちのやり方だよ」
言って、善晴はスーツのネクタイを締める。
慎ましやかに善良に、「人間として」暮らすこと。
それが善晴に与えられた使命だ。
だから、まるで人間みたいに仕事をするのだ……とは言っても、老人のやっている商店のゆるい手伝いだけれども。
とにかく、スーツを着用した若者がいるだけで、老人は喜んでくれるのだから楽な仕事だ。
そろそろ出かけなくてはいけない。
善晴は、しっしっと犬を追い払うようなジェスチャーでシエルに向かって手を振った。
「ほら、立ち去れ悪魔よ!」
「ふふん、じゃあ今日のところは退散してあげる。まったく、素直じゃないんだから〜。何千年経っても、変わらないね。天使クン♡」
立ち上がったシエル(裸エプロン)が長い黒髪をかきあげる。
途端に、破廉恥な姿から、清楚系のワンピースをまとった姿に変化して玄関へと歩き始める。
いわゆる、擬態というやつらしいが、善晴はこのワンピース姿の方が絶対にシエルに似合うと思っている。……って、何を言っているんだ。悪魔に対して、似合うも似合わないもないだろうが。
善晴は、大人しくドアノブに手をかけたシエルの背中にむかって、もう一度釘をさす。
「二度寝の誘惑も、金輪際いらんからな」
「えーん、イケず!」
「嘘泣きはやめろ。ああ、だが」
「ん?」
「朝食の卵焼き……腕をあげたんじゃないか? 美味かったよ、シエル」
「……っ!」
率直な感想を述べると。
ぽぽぽぽぽぽ、とシエルの顔が赤くなった。
「ぁ、う、急に褒めるなよ、バカ天使っ!」
「お前、何照れてんだ。あんな破廉恥な格好しておいて……」
善晴は、率直に引いた。
「せ、正論ムカつく! じゃ、じゃあねっ!」
走り去る悪魔の背中を見送りつつ、善晴は首をひねる。
――いったいどうして、あいつは俺につきまとうんだ?
***
タワーマンションの1階まで一気に駆け下りたシエルは、あがった息を整えながら天を仰ぐ。
美味しかったよ、シエル。
あんな、屈託のない、あどけない笑顔で、なんのてらいもなく言うなんて。
「善晴の、天使めぇえ……」
胸がドキドキする。
シエルは思い出す。
遠い日。
3000年前の、砂漠の果て。
――おい、大丈夫かよ?
かつての聖者に打ちのめされて、今にも消滅しそうになっていた間抜けな悪魔に手を差し伸べてくれた天使の顔を。