悪魔が来たりてなんかいう朝。
「うん、今日もすばらしい朝だ!」
善晴は、カーテンから差し込む朝日に目を細める。
爽やかな風が吹き、空は青々としている。
うーん、と伸びをすると背中の筋肉が気持ちよくほぐれていく。
都心からすこし離れた場所にある便利な駅。
タワーマンションの最上階。
1LDK、築浅物件。
購入価格は5000万円前後だろう。
そして善晴の見た目は、20代後半の男性である。
中肉中背、善人顔。
アニメみたいな青い縞々パジャマがよく似合う。
彼のような、ごく平凡に見える男がなぜこのような住環境を手にしているのかというと――彼の仕事の特殊性によるものだ。
仕事は順風満帆である。
……ある、ひとつの問題をのぞいては。
「よぅし、今日も頑張ろ……って、うがぁああっ!」
爽やかな朝に相応しくない叫びとともに、善晴はいましがた這い出たばかりのベッドに――引きずり込まれた。
「んっふっふ~。善晴クンってば、相変わらずマジメなんだから。そんなんだと、いつか過労死しちゃうぞ~?」
いたずらっぽい声。
この、声!
引きずり込まれたベッドの中から響く、低くも高くもない柔らかい声!
……肘のあたりにふわふわした柔らかいモノが触れている気がするのは気のせいだ、絶対、気のせいだ。
「貴様……シエルか!!」
「大正解♪ あなたの親友、シエルちゃんでーっす」
「誰が親友だ! 不倶戴天の敵とはお前のことだ、この悪魔!」
清潔なブランケットから顔を出したのは、八重歯がチャーミングな女だった。
顔が近い!! と善晴は思った。
「ねぇねぇ、二度寝の誘惑……してもいい?」
潤んだ目で見つめてくるシエルに、善晴はギリリと歯噛みをして、厳かに言い放つ。
「……俺の布団から出ていけ、そんな誘惑には俺は屈しないぞ!」
「えー、つまんないの」
ぷぅ、と頬を膨らませるシエル。
何回も……いや、それこそ何万回も行われてきたやり取りである。
どうにかベッドから脱出すると、ブランケットにくるまって上目遣いで見上げてくるシエルを指さしてキツくお説教を開始する。
このお説教に効果があるかどうかは、かなり疑わしいのだが。
「いいかげんにしてくれよ、シエル。俺の部屋に忍び込むのはやめろって何度も言ってるだろう。こんなことが、俺の会社に知られたら困るんだよ。まったく、この邪悪な小悪魔め!」
「ふーんだ。そっちこそ、堅物の天使野郎じゃない!」
ひとつ、注釈。
「このすっとこどっこい悪魔!」
「べー、だ! 融通のきかない天使野郎!」
なお。
このやりとりは、比喩ではない。
韮沢善晴は天使である。
何を言っているか分からないだろうが、これは100%純粋な真実だ。
神サマによって造られた天使の軍勢のうちのひとりであった彼は、3000年前に地上に遣わされたのだ。
今風に言えば、エージェントといってもいいかもしれない。
地上で人間に交じって善良に暮らし、ごくまれに小さな奇跡を起こしながら人々を善へと導いて暮らしてきた。それが、天から与えられた善晴の仕事である。
その期間、実に勤続3000年。
世紀末のド修羅場デスマーチも乗り越えて、ほっと一安心をしているところである。
3000年。
無遅刻無欠勤で勤め上げてきた。
まあ、その道のりは(おもに、ひとりの小悪魔によって)平坦なものではなかったが、自分でもまぁまぁ頑張ってきたと思う。
この3000年に行われた悪魔シエルの誘惑は苛烈なものだった。
毎朝、二度寝に誘惑されたり。
深夜にアイスクリームを「あーん」と口に運ぶ誘惑をしてきたり。
ダイエットを決意したその日に美味しすぎる手料理で暴食の誘惑をしてきたり。
……まあ、そういう必死なところは悪魔なりに可愛いような気もするが。
とにかく、そんな黒井シエルという悪魔と戦いつつ、日々を善良に過ごす。
それが、彼の仕事である。
住宅ローンも交通費も全額支給されている。
韮沢善晴。
職業:天使。
ちなみに現在の勤務地は――日本である。