Real 4
少女の姿を〈リアルワールド〉の中で初めて見たのは、それからしばらく経ってからのことだった。
普通のユーザーならば、現実では叶えられない夢を〈リアルワールド〉の中で実現する。
広い庭で思う存分土いじりをしたり、動物と戯れたり。時間や場所や騒音を気にせず、物を作ったり、音楽を楽しんだり。または、物理的距離を超えて人と交流したり、恋人を作ったり。
そのどれをも望まない佐山は、相変わらず匂いのない街の中をさまよい続けていた。
メインストリートの人混みでログアウト時間になるまで、ぼんやりとあの少女の姿を探し求める。
いつまでやれば気が済むのか、自分にもよくわからなかった。本村のあのメールが消せないうちは続けようと思っていた。
視界の隅にログアウト十分前の表示がちらつき始めた頃、ふいに彼女は現れた。
見覚えのある制服で、目の前の交差点を横切っていく。
目元を瞬時に拡大表示すると、あの泣きぼくろがあった。
向こうは気づいているのかいないのかわからない。おそらくは気づいていないだろう。
ログアウトまであと八分。
佐山はやっと獲物を見つけた猟犬の喜びで、追跡を始めた。
メインストリートを東に向かう彼女から目を離さないように、早足で追いかける。信号は変わったばかりですぐには向こうに渡れない。
無理に渡ろうとしても、思う存分スピードを楽しみたいユーザーたちが、実在しない車やバイクに乗ってすごい勢いで突っ込んでくる。それとぶつかってしまっても現実にどうなるわけでもなく、即ログアウトになるだけだが、やっと見つけた獲物を逃がすわけにはいかない。
やっと信号が変わる。
少女は三十メートルほど先を歩いている。背後から観察すると、ビジターのちゃちな姿ではなく、ちゃんとしたレジデントのデータだった。
ログアウトまであと五分。
もう時間は残り少ない。佐山はダッシュした。
と、少女はそれに気づいたかのように、ふいに路地に入る。
続いて佐山も路地に飛び込むが、すでに少女の姿はない。遠ざかる足音だけがどこからか響いてくる。
「どこに行った?」
ログアウトまであと三分。
ゴミのない妙に清潔な裏路地はどれも似たり寄ったりで、行きつ戻りつしているうちに自分がどこにいるのかわからなくなる。
マップを確認しようとしたときに、目前に赤く大きなログアウトの文字が表示された。
「ちくしょう!」
ベッドから起きあがった佐山はヘッドセットをむしり取ると、壁に投げつけた。大きな音がしてヘッドセットは壊れたが、どうしても現実だと思えなかった。
それ以来、ログアウトの間近になると、少女はあざ笑うように佐山の前に現れる。
目の前を横切る。ふと見上げたビルの階上からこちらを眺めている。路地の奥の暗がりに消えていく。
追いかけて、しばらくすると強制ログアウトのサインとともに現実に引き戻される。
何度も何度も何度も、ループのように繰り返される追いかけっこを続けるうちに、佐山は少女を夢にまで見るようになった。
いつも目の前でいなくなる。足音だけがどこからか聞こえてくる。そんな夢を見て、疲れ果てて目覚めると、これが現実なのか夢なのか〈リアルワールド〉なのかわからなくなる。
不思議の国のアリスの白ウサギのように、現れては消える死んだはずの少女の悪夢を追いかけているうちに、佐山の現実感覚はどんどん希薄になっていった。
そして、強制ログアウトシステムさえなかったら、と思い詰めるようになっていく。何を使えばいいかはわかっていた。
リミット・ブレーカー。
どうすれば手に入れられるか、既に佐山は知っていた。他のツールも。
わずかに残った理性が止めろと主張するのを、一度だけという、相手もない約束でねじ伏せる。
ホームページに表示されていた口座に金を振り込むと、ダウンロードのサイトアドレスとパスワードを知らせるメールが届いた。
休みの前日を選んだのは、仕事だけが今の佐山を現実と繋いでいることをよくわかっているからだった。他には何もない。
ログインしてもしばらくは接触してこないことはわかっているが、どこから見られているかもわからない。結局、いつもの通り、メインストリートを中心にぶらつくことになる。
仕事か、少女を捜すためか、そのどちらかでしか〈リアルワールド〉に来ることのなかった佐山は初めて、普通のユーザーたちのように暇つぶしのためだけにそぞろ歩くことを楽しんだ。
約五時間五十分後、見覚えのあるシルエットが視界の端をかすめた。
今までさんざんもてあそばれてきた結果、彼女の行動パターンは知りつくしたと言える。必要なのは追跡する時間だけだったのだ。
恒例の追いかけっこのあと、今回も寸止めで逃げられた、という振りをする。もし彼女がこちら側を探知するためのツールを使っているのなら、仕込まれたはずのプログラムはすべて無効化してあるはずだった。
ログアウト予定時間を経過して、姿の見えなくなった佐山に気づいた少女は明らかに油断していた。その彼女を追うのは、違法プログラムを使って透明化と無音化を施していた佐山にとってはたやすいことだった。
〈リアルワールド〉における空間の概念は、現実のものとはもちろん違う。
ドアの向こうが座標として連続しているとも限らないし、ドアの内側がその建物の設計図に見合った大きさをしているとは限らない。圧縮してしまえば、あるいは別の座標につなげてしまえば、いくらでもオブジェクトは詰め込めるのである。
少女が入っていたビルの一室も、一見普通に見えた。しかし、踏み込んでみるとそこは見た目よりもずいぶん広い、圧縮されたほの暗い空間だった。
そこには目を閉じ、あるいは開き、立ったまま静かに並んでいるマネキンの群があった。
いや、人形ではない。人間の、ユーザーのデータだ。
普通はユーザーがログインするとユーザのパソコンから読みとられたデータを元に形成され、ログアウトすると同時にこの世界から消えてしまうはずのユーザーのデータが、なぜ実在しているのか、佐山には理解できなかった。
「死者の家にようこそ」
背後から初めて聞く少女の声がする。
「なんなんだ、これは? 死者の家って?」
「こいつらみんな、死体なんだよ。本人は現実ではもう死んでるの。でもこうやってデータが残ってれば、自分はこっちでは生きていられると思ってるの。バカだよねえ」
くすくすと笑いながら、死者の陰から少女が顔を出した。その彼女も死者なのを佐山は知っている。そしてその身にまとう日本刀のようなぎらりとした空気も知っている。その時はその剣呑さは隠されたはいたものの。
「そういうあんたの本体ももう死んでるんじゃないか。中身は違うんだろうけどね。なんでこんなことするんだ? 秋山課長」
「死にたいやつは死ねばいいんだ。無理して生きている必要はない。そうだろう?」
少女の口から聞き覚えのある男の声がした。
「こんなことで安心して死ねるなら、いくらでも死にたいやつは死ねばいいのさ。現実を見据えて生きない人間は、既に死んでいるのと同じなんだよ」
「だからって、死にたい人間が現実で死にやすくするためにこんなことをやってるのか? そんなことしたって死なないやつは死なないじゃないか」
「人間は簡単に死ぬもんだよ。妹もそうだった。死にたいって言うのを必死で止めて、仕事があっても朝まで話を聞いて。俺は本当に妹を可愛がっていたし、好きだったよ」
その妹の姿で秋山が言う。反吐がでそうだった。
「だけど、妹が死んで俺は思い知ったね。両親にとっては妹がすべてだったのさ。毎晩泣かれて何もできなかった。俺が生きていることなんか、あいつらには何の意味のないことだったんだよ。代わりに俺が死ねばよかったのか? 何度もそう思った。だから妹を恨むことにしたんだ。死にたがってるやつもね」
「とんだお子さまだな。こんなことをして楽しいのか?」
「楽しいよ」
「誰もがみんな死にたがってるわけじゃないよ。本村だって死にたくなんかなかったはずだ。なのにその姿にだまされて、殺されたんじゃないのか」
「君の友だちは死にたかったんだよ。俺の妹が死んでから、ずっと死にたかった。だから死者に惹かれて、追いかけて、死んだんだろう? そうじゃないのか」
「もういいよ。戯言は。俺は現実に帰って、このことを会社に報告する」
「リミット・ブレイカーで捨てた現実に舞い戻るというのか。バカだなお前は。とっくにお前の現実なんてなくなってるっていうのに。周りを見てみろ。もう戻る道なんてない」
いつの間にか入ってきたはずの出口がなくなっていた。
「命が尽きるまで、ここにいるがいい」
秋山の声が響く中、闇が深くなっていった。
気がつくと、携帯電話が震えていた。ぼんやりしたまま出ると、
「佐山、お前、いつまで無断欠勤するつもりだ!」
という野間の怒号が完全に現実へと引き戻してくれた。
長く動かさなかったせいで麻痺したように回らない口で必死に説明すると、野間の声がだんだん真剣になってきた。
「とりあえず、お前は今日病院に行ってこい。後は俺がなんとかするから」
という野間に任せて、佐山は病院に行った。点滴で元気になったところで会社に連絡をいれると、秋山が自宅のマンションで遺体で発見されたという。もう一週間も来ていなかったそうだ。
結局、不正アクセス、データ偽造の罪で、秋山は被疑者死亡のまま書類送検されることになったが、自殺教唆に関しては立証できず、新聞にも数行しか載らないような地味な事件として処理された。
佐山といえば、始末書と多少のお咎めはあったものの、以前の生活に戻った。仕事もなんとか続けている。
あの死者の家で見かけたユーザーたちのように、生きているのに死んだ目をした人間を見かけることがある。現実でも〈リアルワールド〉の中でも。
「現実を見据えて生きない人間は、既に死んでいるのと同じなんだよ」
秋山の言葉がよみがえる。
そのたびに、佐山は自分に問いかける。
俺は本当に生きているのだろうかと。
しかし、それを問い続ける限り、自分は生きているのだとも思うのだ。
《了》