第五話 犬、しゃべる
前回までのあらすじ!
魔王の人間性たるや、もうね……。
そりゃ嫁エルフも実家に帰るわ。
静かに流れる小川の畔で、私はいろいろ試してみた。
まず柴犬の肉体は、なぜか魔素の伝導率がよいことがわかった。つまり詠唱や魔法陣などで魔力を体内から体外に召喚せずとも、簡単に発動が可能。
たとえば口を開けて息を吸いながら、魔法陣を思うだけで――。
――こおぉぉぉぉぉ…………。
ちりちり、と全身の体毛が逆立つ。
口内に小さな橙色の球体が輝いた直後、私は口から火炎弾を解き放った。
「――ガァッ!」
次の瞬間には小川の向こう岸まで届くほどの大きな火炎が発生していた。
火炎弾というか、もはや火炎ブレスは小川の水面を波打たせ、大量の水蒸気を立ち上らせながら、向こう岸の枯れ木を一瞬にして消し炭へと変えた。
うへぁっ!? 何この威力!?
「ふわあ~」
川岸にちょこんと座ったリセルシアが、ぱちぱちと拍手をしている。
泣き顔は影を潜め、今はもう笑顔でにっこにこだ。
「わんわん。わんわん」
あぁん! 可愛いな、もう!
いや、話を戻して。
魔法の出力を抑えても、これだ。
本気で吐けば、もしかしたらさっき魔王が放った炎の魔法や、亜竜族のドラゴンブレスくらいの威力になるかもしれない。
あきらかに私が大賢者だった頃よりも、発生速度・威力・持続力・操縦性のすべてにおいて勝ってしまっている。
私が二十六年かけた研究の集大成ェ……。意味なし!
最年少で大賢者に抜擢された人生も……。意味なし!
研究が認められ勇者に選出されても……。意味なし!
犬の方が強かったわ、これ。虚しい。
たぶん他の犬が魔法を使わないのは、頭脳の発達がそこまで追いついていないからなのだろう。で、術式をある程度まで理解できる知能を持った犬だけが、上位魔物のフェンリルとかになる。
学術界で発表したら、世界がひっくり返りそうな事実だ。
「うぉぅ~……」
しかし、とんでもないな、柴犬。こんなのが普通にうようよいる異世界って、相当やばくない?
リセルシアが立ち上がり、よろよろと歩いて近づいてきた。
小さなお手々で自分の口を指さして、何かをアピールしている。
何? お腹空いたの?
「うぉう?」
「あ~、あ~……あぁ、……う? か~。……? こう? こう?」
よくわからない。よくわからない私は、リセルシアの口内を覗き込んだ。
「あ~っ」
その瞬間、リセルシアの口から、ぽん、と小さな橙色の閃光が飛び出した。火の玉にすらなりきっていない火花が、私の目の前で弾けて消失する。
「――ッ!? ……ッ!? ~~ッ!?」
私は間抜けにも、あんぐりと口を開けてしまった。
リセルシアはなおも自らの口を指さして、首をかしげている。
「こう? こう?」
「……」
え、ちょ、なんでできるのっ!? エルフって精霊召喚魔法しか使えないはずよね!? 口から火を吐くエルフなんて見たことないんだけどっ!? それもうエルフじゃないわよね!?
「こう? こう?」
「……わ、わふん……」
私は驚きのあまり、ぎこちなくうなずくことしかできなかった。
う~ん、魔族の血かしら……。
でも、幸いといってまったく支障ないことだけど、あのポンコツのアンポンタン魔王と似ている部分は、外見上一欠片もない。
金色の直毛に長い耳、白い肌に空色の瞳。ハイエルフの特徴しか出ていない。超かわいい。
ふと疑問に思った。
本当に魔王とハイエルフのハーフなのかしら。何か違和感があるわ。……もしかして奥さんの連れ子?
ぼーっと見つめていると、リセルシアが突如として、満足げな表情で私の首に両腕を回すように飛びついてきた。
「わんわんっ」
「キャフ!?」
飛びついてきたというよりは、捨て身同然に倒れ込んできたのだけれど。いや、でも、そんなことよりもこれ。
「……スン……スン、スンスン……スンスンスンスンスン!」
正直に言おう。
なんかもうすっげえいい匂いがした。頭から太陽に干したお布団みたいな、そんな匂いに胸がキュンとなった。
もう夢中で嗅いでやったわ。人間同士だったら確実に訴えられていたと思う。
「スンスン、スンスンスン……っ……キュフゥ~ン」
「あうー、わんわんっ。すきー」
そのまま頬を擦り付けるようにぐりぐりして、嬉しそうに瞳を細めるリセルシア。
やだ、この子! もう口から火ィ吹くエルフの謎とかどうでもいいわ! ただひたすら可愛いわ! 魔王に返さない! 私の子にしたい! なんとなく自分がお腹を痛めて産んだような気がしてきたわ! たぶんそうだわ! きっとそうだわ!
いや、錯乱してる場合じゃなかった。これからどうすべきか考えないと。
私は魔法の使える犬だから野宿の狩猟生活でも平気だけれど、リセルシアはエルフだし、赤ん坊なのだからそういうわけにはいかない。ちゃんと屋根のあるところで暮らさなきゃならない。
それに、預かる期間は未定だ。
長くなるのだとしたら、教育もちゃんと受けさせてあげたい。そもそも、人語を話すことすらできないのでは、私は彼女に何も教えてあげることができない。
まずは自分の言葉だ。人語を話す練習をせねばならない。
よし。基本の挨拶からだ。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
「ごあおうごううぃわふ。ごうぃうぃわ。ごうわうわぅ」
あ、だめだわ。絶望的だわ。
「?」
リセルシアが不思議そうな顔でこちらを見ている。
真似しちゃだめよ?
う~ん。攻撃魔法以外はあまり得意な分野じゃないけど、音送りの魔法陣を喉に常駐させてみようかしら。
私は脳内で魔法陣を描く。もちろん固定する場所は、首輪なき喉だ。
「わぅ、わふ、わー、わー、あー、おー……わふわふ、ごごう、ごうばう、ごんばう……んんぅ!」
「……?」
リセルシアは発声練習をする私をじっと見つめている。
「ごー、ごー、こーんばう……こんばんわぅ……こぅばんは……こんばんは」
「わーっ。こんばんわんわん。いいこ、いいこ」
ようやく挨拶を口に出すことができた私の頭を、リセルシアの小さなお手々が撫でてくれた。私はそれだけで胸が詰まり、涙腺が緩む。
もう親を通り越して、孫をかわいがる年寄りな気分だ。
こんにゃろう。同性の分際で私を幸せにしやがって。
あとでた~~~っぷり撫で返してやるぞー。顔とかもうベロンベロンに舐めてあげよかな、うへへ。犬だからセーフよね。
「あぃがとーリェルヒィァ。リー……リエ……リセルスィ……リセルシア」
「あいっ」
リセルシアが右手をいっぱいに挙げて、嬉しそうに笑った。
その仕草に、私は悶え死にそうになった。
も、もうね、すき、すき、すき、すきすきすきすきすきすきすきすきすきぃぃだあああぁぁぁぁいぃぃぃ~~~~~~~~~~ッッッ、落ち着けッ自分ッ!!
律せよ! スタ~~~ップ! 待て! 待てよ? 待て!
よし。落ち着いた。もうちょっとで母性が暴走するところだったわ。
言葉に関しては慣れるまで調整が必要だけど、しゃべれなくもない。たぶん少し調整するだけで、しゃべれるようになるだろう。
大賢者と呼ばれていたのは伊達ではない。今は犬賢者だけど。大犬者か。
さて、と。
ここから王都までの距離は、移動距離五ケレスの転移魔法を百回分、つまり、およそ五〇〇ケレスくらいだ。
魔力操作能力はともかくとして、柴犬の魔力容量はまだわかっていない。転移の途中で魔力切れを起こしたら落っこちちゃうから、無理はできない。
今日中に魔族領域から人類領域にまでたどり着くのは不可能ね。
「リセルシア」
「あい」
反射的にだろうか。名前を呼ぶと、いちいち右手を挙げて返事をしてくれる。
可愛いなあ、もう。
私が四肢を折って背中を下げると、リセルシアは待ってましたとばかりに、私の背中へと倒れ込むようにしがみついてきた。
「ひっかい……し、し、しっかり、とぅかまって」
「……?」
言葉は通じていなさそうだったけれど、リセルシアは私の首を両手でぎゅっとつかんでしがみついてきた。
頭がいいのだ。
言葉が通じてはいなくとも、魔王城から転移した先ほどの経験から、転移を使うであろうことを予測している。
ようやく歩き出しただけの、わずか二歳程度の赤ん坊がだ。
まさに天才ね。それと、かわいい。あと、お日様のようないい匂いがする。それから私を幸せな気分にする。魔法の才能もある。将来は何千人も男を泣かせる。
フフ、さすがは大賢者の娘といわざるを得ない!
…………………………それは違うか……。
とりあえず今のうちに顔面舐めとこ。ぺろりん。
「きゃうーっ!」
すんごい喜んでくれてる。
これなら……く、唇も舐めていいかしら。ハァ、ハァ……。
あああぁぁ、尻尾振っちゃうぅぅぅぅ……!
「わんわん?」
「ハッ!? 落ち着け自分! ……と、飛ぶわン。――転移」
一人と一匹の全身が、転移光に包まれる。
その直後、私は赤ん坊を背中に乗せて、夕暮れ時の空を流星のように駆けていた。
全国の柴犬の飼い主様へ。
あなたの家の犬も、実は魔法が使えます。