第四話 やけくそ
前回までのあらすじ!
犬だ、これ……。
鼻の上に縦皺を寄せ、唇をめくって鋭い犬歯を見せ、黒目がちな目を限界までひん剥いて私はうなる。
強靱なる黒色の肉体と、類い稀なる魔力を秘めし地上最強の生物、魔王レギンドルゲインへと向かって。
「――うううぅぅぅぅっ!!」
「怖っ! 柴犬のその顔怖っ!! や、やめよ? 一回やめよ? 落ち着こ?」
エルフの赤ん坊リセルシアを肩にのせた魔王レギンドルゲインが、大げさに一歩後ずさった。
落ち着けるか!
あんた、なんてことしてくれたのよ! シヴァーケンって言ったでしょうが! 誰が柴犬になりたいなんて言ったのよ! さっき一度しか使えない魔法って言ってなかった!? これもう固定なの!?
「がうっ、ごぐぁわう! ごががううううっ!」
あ、だめだわ。言葉にならないわ、これ。
「いや、礼など必要ないぞ、レジー。確かに俺は貴様の命の恩人だが」
「ごぎゃげがあああう! ごふ! がぐぃぃぃ!」
何ほざいとんじゃこンのボケがッ! 私の脳内血管を切るつもりかッ! この表情見てどう連想すればお礼を言ってるように見えるっていうのよ!
「いいって、ほんと。それより頼みがある」
「がががぐう、がうがう、ぐぅるるるるるぐがああ!」
その前に私の姿をどうにかしろバカァ!
「レジー、我が心の友よ。おまえにリセルシアを預かってもらいたい」
「ごふっ!? が、がぅ? ごう……わう?」
一瞬戸惑った。戸惑ってから私は、茶白の頭部をクイっとかしげた。
何言ってんだ、こいつ?
「先も言ったが、俺は逃げた嫁に潔く土下座して家に戻ってきてもらわねばならない。だが、その際にリセルシアを連れて行けば、種族至上主義のハイエルフたちのことだ。リセルシアを俺から引き離し、俺だけ森から追い出されて捨てられてしまいかねんのだ」
「わぉん」
あり得る。ハイエルフは実に偏屈な種族だから、多種族と交友を持とうとしないのだ。
でもそれ以上に、魔王の相変わらずのダメンズっぷりに引くわー……。
それ、要するに嫁に子供を奪われまいとして、とりあえず隠してしまいたいってことよね。もしくはリセルシアを人質にして、嫁に戻ってきてもらいたいか。
まあ、普通に考えればその両方か。
……クソだな、こいつ!
「だから信頼できるおまえにリセルシアを預かってもらいたい」
「ぐるううぅ?」
信頼できる……? おぉん? 勇者として魔王と対峙していたさっきまで以上に、おぉん? あんたに対する殺意が渦巻いてんだけどォ? おぉん?
「部下に預けることも考えたが、正直ろくなもんじゃない。ゴブリン族は不潔だし、スライム族やミミック族はそもそも食文化がまったく違っている。オーク族なんてもっとアレだ。エルフや女騎士と見るや否や、すぐに性的な悪戯をしたがるしな」
絶滅させるべき種族だわ、オーク……。
「ミノタウロスやトロール族は比較的温厚だが、でかすぎて小さなリセルシアを踏み潰してしまいかねん。俺のような魔族も、正直ハイエルフの子となると拒絶されてしまいかねないのだ」
「が~……がうおお……がうあえ……」
「うむ。そうなのだ」
わかるんだ、言葉……。
「ニュアンスだ」
「がおうえ」
「今のは、“でしょうね”であろう?」
「がう」
「うむ」
クソが! 通じ合ってどうする、私ッ!!
「だが人間族ならば生活はそう変わらん。ゆえに、心の友である貴様に預けたい」
「ぐーぁうぉっふ……」
でも私、犬だし。
「犬ではない。貴様は断じて犬などではない。忘れるな、レジー」
そんな優しい言葉をかけられたら、わたし……とことんまで油断させてから、あなたの頸動脈を噛み切りたくなっちゃうじゃない……。
許されたと思うなよ、このゴミ虫がァ!!
ていうか、どう考えても無理だ。心や知識こそ人間だけど、肉体が犬では子育てなんてできるわけがない。
どうにかしてそう伝えようと視線をあげた先に、魔王はすでにいなかった。リセルシアがちょこんと床に座っていただけで。
私は魔王の、ドブ底に溜まった悪臭を放つヘドロのようなダメ男の臭いを追って首を回し、唖然とした。
やつはもう、謁見の間の出口に立っていたのだ。
「じゃ、頼んだぞ?」
「がうっ!?」
「あ、それと、ハイエルフの迷いの森は常に移動しているのだ。俺も現在の場所はわからんから、土地ごとに大まかな魔力探査をかけねばならん。ゆえに少ぉ~しだけ時間がかかると思う」
「ごぇぐあぃ!?」
「心配するな。それほど長くはない。この大陸内ならば、まあ~……せいぜい二十年から三十年もあれば見つけられるはずだ」
あほっっっっっっっっっっっっっっっっか、こいつッ!?
人間にとっては絶望的な長さだし、ましてや柴犬の寿命なんて超えとるわッ!! エルフとか魔族の尺度で語りやがってぇぇぇッ!!
「ではな」
「わぉん!?」
「――転移」
頸動脈に飛びかかって阻止すべく走り出そうとした瞬間、魔王レギンドルゲインの肉体は突如として転移光に包まれ、私の自爆魔法によって破壊された魔王城の天蓋から閃光のように飛び去ってしまった。
半壊してすっかり廃城となってしまった魔王城には、キョトンとするリセルシアと、柴犬になった勇者である私が残されるのみで。
「……」
「……」
「……ぅ」
「……!?」
リセルシアが表情を不安そうにゆがめる。
「……とーたん……」
「ぐうぅ!?」
「……とーたん……とーたん……?」
ようやく立って歩けるようになった頃だろう。危うい足取りで、破壊され、めくれ上がった床の上を歩き、魔王の消えた出口を目指す。
ああ、あああぁぁ、危なっかしいぃぃぃ……。てか、あんな男でも父親って認識はあったのね……。
私は何ができるわけでもないが、リセルシアのあとをついていく。静まりかえった魔王城跡に、肉球の陽気な足音がチャッチャッチャッチャと響いた。
ちくしょう! この音、好きだ!
リセルシアが出口から廊下を覗く。天蓋が破れて陽光こそ差し込んではいるけれど、物音一つしない廊下は不気味だ。
おそらく魔族も魔物も、私と魔王とのあまりに激しい戦闘によって避難したのだろう。その点に関しては運がよかったと言える。
「……かーたん……かーたん? とーーーたんっ!」
幼い声が虚しく響く。当然のように返事はない。
リセルシアの木の実のような丸い瞳に、涙がにじんだ。
あ、泣いちゃう! どうしよう! どうしたらいいの!?
数秒と経たず、リセルシアの瞳から涙がこぼれ落ちた。その場に腰を落とし、両手で目をこすって大声で泣き出す。
あわわわ……あわわわわわわぉん!? ちょ、ど、ど、どうしよう!?
無理よ、無理無理! 預かるなんてできるわけない! 子育てや出産経験どころか、男性と手をつないだこともないし!
「わああぁぁぁぁぁん、あああぁぁぁぁぁん!」
いっそこのまま放って帰ろうかしら……。一応魔王の子だし、魔物たちだってさすがに手を出したりしないだろうし……。
……でも万が一のことがあったら……あぁ……。
この胸のわだかまりは本能的な母性だろうか。
驚いた。私にもあったのだ、母性らしきものが。
何度もきびすを返しては、結局泣いているリセルシアを振り返ってしまう。
「うぅぅ……」
リセルシアが涙で濡れた瞳で私を見た瞬間、私は本能に屈するように、あきらめてその場に四本の足を折った。
リセルシアは抱っこをせがむように、私の背中によじ登る。表情でわかる。心細くて仕方がないのだろう。
「わんわん……わんわん……」
そうよー、わんわんよー。誠に不本意ながら、わんわんにされたのよー。
あなたの腐れヘドロクズなポンコツ親父によってねッ!!
でも……小さいけれど、暖かな体温……。どうしてこんなに胸がうずくの……。
「えぅっ……っ……」
リセルシアの嗚咽だけが響く。
「クゥ~ン……」
「わんわん……」
「わうぅ……」
しばらくそのままにしていると、背中から寝息が聞こえ始めた。けれども、その他にも。
ぴくり、私の耳が動いた。
聞こえる。聞こえるのだ。足音や羽音が。私と魔王の戦いに巻き込まれぬよう、ここから避難していた魔族や魔物たちが戻ってきている。
距離はまだ遠い。
耳の機能が犬のものになっていたおかげで助かったかもしれない。
早くここから逃げなければ。
「ぅぅ~……」
私はリセルシアの服を噛んで一度彼女を背中から下ろす。目を覚ましたリセルシアが、私を見上げて絶望的な表情をした。
「だっこ、だっこ……だっこぉ……」
置いていくの……? お父さんやお母さんみたいに、いなくなるの……?
ぎゅぅ、と胸が締め付けられる。
大丈夫。こればっかりは魔王の言う通りだ。ハイエルフは人類にも魔族にも属さない、排他的な完全独立種族だ。
やっぱり魔王城なんかには置いていけない。不潔そうだし。
転移魔法陣を虚空に書き記すべく、後ろ足ですっくと立ち上がり、ふと気づいた。
やっべ、指が自由に動かんわ、これ! 詠唱の方が早いくらいだけど、あいにくと言葉もアレになっちゃったしね!
それでも前足二本をわちゃわちゃと必死で動かして、魔法陣を描いてゆく。
しかしこの二足で立ち上がることの難しさたるやもう! これだから四足歩行の生物は困る!
ふらつけば記述に失敗する。集中、集中だ。頑張れ私。もう少し、あと少し。
「あ、わんわん。ちんちん! ちんちん、じょうず! ちんちん、じょうず!」
「――ギャオンっ!?」
ちんちんなんて生まれつき付けてないわ! と言い返そうとした瞬間、私はバランスを崩して背中から魔王城の床にコロリと転がった。
「わふぅ~ん……」
当然、転移魔法陣の形成は失敗だ。
いや、わかってるのよ? 犬の芸の呼び方であることはね?
でもね、私まだ男性と手をつないだこともないの! 行き遅れな上にまだ乙女なのよ! 肉体だけは牝犬になったけども、それでも乙女なの! そんな刺激的な言葉を浴びせかけないでほしい!
とか赤ん坊に言っても仕方ないわけで。
そんなことをしている間にも、足音は近づいてきている。すでに外の地面を歩く音ではなく、魔王城の床を踏む音に変化していた。
もう一回――!
だめ、間に合わない! 戦う? 無理無理! 迷い込んだだけの野良犬を装う!? だめだ、その場合、私は助かってもリセルシアを連れ出せない!
状況を感じ取っているのか、再び不安げな視線を私に向けて。
きらきら、きらきら、無垢な瞳で。
「……ッ」
あああぁぁ!
いちいち愛しいな、もぉぉ~~~~~~~うっ!!
仕方ない。仕方のないことだ。だって、生まれつき行き場のなかった母性本能が、ようやく落ち着く地を見つけてしまったのだから。
守りたい。この子を守りたい。他のすべてをなげうってでも。もう何もいらない。神獣も魔術も。
私はリセルシアの服の背中を噛んで、自分の背中に置いた。反射的にだろうか。リセルシアが私の胴体にぎゅっとつかまる。
そう、それでいい。しっかりつかまってなさいよ。
選択肢はもう一つある。走って逃げる。今の私はもう、竜王の呪いに冒された病弱な肉体を無理矢理引きずって歩いていた頃の私ではないのだから。
魔族や魔物には翼を持つ個体もいるから、発見されたら絶望的ではあるのだけれど。
でも――。
できるだけ遠くへ! できるだけ早く! 速く! この子のために!
そんなことを考えた瞬間だった。私とリセルシア、一匹と一人の肉体が魔法陣もないのに転移光に包まれたのは。
「――わうッ!?」
「……ふわ~……」
次の瞬間、私たちは魔王城の失われた天蓋から流星のように飛翔し、さらにその次の瞬間にはもう、静かに流れる小川の畔に立っていた。
北の空に視線を向ければ、私の自爆魔法によって抉られた魔王城が、遠くの方にうっすらと見えている。
「……うぉう……?」
何この肉体。無詠唱で転移魔法が発動した。
犬って、知識さえあれば詠唱も魔法陣も必要なく、思うだけで魔法を使えるの? それじゃあまるで、魔物や魔族みたいじゃない。
はは、ははははは……。
や。魔物だ、これ。
魔物か~。かつては大賢者とまで言われたこの私ともあろうものが、魔物て。
う~ん……ま、いっか! 助かったし! 柴犬バンザイ!
バンザイ言いながら少しだけ泣いたとか。