第一話 ポンコツ乙女とロクデナシ魔王
どうしようもない物語が始まるよ!
一話だけでも最後まで読んでみてね!
なあ、シヴァーケンという神獣を知っているか?
それは異形でありながら魔物ではない。とある古代の廃都より出土した遺物書によれば、古竜と並んで信仰の対象であったと記されていた。
ぜひゅぅ――。
灼熱に灼けた空気に喉が鳴った。
私は青白い両の腕を幾度も交差させ、十本の指をすべて使用して虚空に魔法陣を描く。
シヴァーケンを魔狼に近しい亜種だと考える学術師もいる。
けれど、違う。違うはずだ。
艶のある毛並みは光源によって光沢を変え、鋭い牙や骨はドワーフ族の亡き英雄王ワルギスギリスの鍛冶技能を以てしても加工することはかなわなかったというのだから。
嵐のような業炎が迫る。
それは通常の炎のように上空を目指すものではなく、私だけをめがけ、うねり、荒ぶり、橙色の渦を巻きながら――虚空に描いた小さな魔法陣ごと、私の肉体を大蛇のごとく呑み込んで通過した。
「……ッく……ぁぁ……ッ」
対魔法の魔法陣が、かろうじて炎の大蛇を分断する。皮膚や髪の一部を焦がされた私は、足の片方を折って膝をついた。
額から血と汗の混ざった液体が、頬を伝って灼けた石床に落ちる。
じゅっ、と音がして、一瞬で蒸発した。
獣の臓物を煮込んだ鍋を焦がしつけたような臭気が鼻につく。心臓の音がやけにうるさい。呼吸音もだ。
「はー……はー……」
目眩がした。
彼の神獣は竜にも匹敵する体躯を持ち、四肢にて力強く大地を駆け抜け、その跳躍は大陸北方ライギス山脈から、南方のケルビス砂漠まで到達したと伝えられている。
また、世界に満ちたその咆哮は、一説には神のもたらす福音とも、魔のもたらす滅びの凶兆とも伝えられている。
だけど数多の伝承に反し、シヴァーケンはその死骸や化石すら遺してはいない。だから学術師の大半は、神獣の存在を信じるものに嘲りを込めて言うのだ。
シヴァーケンなど存在しない。
そのようなものはお伽噺に過ぎない。
けれど、こうは考えられないだろうか。
存在の証明ができないのは、シヴァーケンが唯一無二、永遠の生命を持つ一個体のみの突然変異種であるからだ、と。
神獣は、今も、この世界のどこかで、生きている。
その方がいい。その方がロマンにあふれている。
胸がわくわくするだろう? 幼い頃のように。
幼かった私は憧れたのだ。伝承の中にしか存在しない神獣シヴァーケンに心を奪われていた。言うなれば恋をしていたのさ。
……バカな初恋だったな、ほんと……。
「どうした、人間の魔術師よ」
臓腑の底、奥深くの魂まで侵蝕するような低い声に、私は意識を取り戻す。どうやら意識を混濁させながら、やつの攻撃をしのいでいたらしい。
魔王城、謁見の間――。
短い夢を見ていた。
幼い頃、母の読み聞かせで知った、永遠の生命を持つと言われる伝説の神獣の夢を。皮肉にも、今にも尽きそうな生命の私がだ。
戦いの最中。それも人類の未来、行く末を決める極めて重要な決戦だ。
けれど、目の前に立つ魔族の王は私の浅はかな想像を超えて、あまりに強大だった。
「続けるならばさっさと立て。俺にはなさねばならぬ用がある。早々に終わらせたい」
人型でありながら、黒き鎧をまとったかのような強固な肌質。大きく盛り上がった大胸筋の前で組まれた丸太のような腕。眼光鋭い赤の瞳は私を刺し貫き、その魔力は伝説の古竜族をも上回る。
生物としての格が違う。そう感じていた。
けれど、そのようなことを今さら悔いても詮無きこと。今は講じられる手段でどうにかやりくりする他ないのだから。
さしあたっては、体力の回復。
会話で時間を稼ぐ。
「……女を相手につれないね。何か用でもあった?」
「貴様が来る直前、女房が実家に帰ると出て行った。俺は追わねばならん。あいつが実家にたどり着いてしまう前にな」
ニヒルに細められた赤の瞳。
私は自身の額に血管が浮き上がるのを感じた。
聞くんじゃなかったよ、このクソ魔王。
全力の私と戦いながら、そのようなことを考えていやがったのか。よく見れば、目がすでに私と出口との間で泳いでいるではないか。そわそわしやがって。
「なんだったら今日だけ見逃してやるぞ、女魔術師よ」
「それは余計なお世話というものよ。魔王レギンドルゲイン」
焦げ臭い髪を振って、私は吐き捨てた。
「いや、察しろ。本当にそれどころではないのだ。貴様が忖度してくれないから言うしかないが、俺は彼女を今でも心から愛しているのだ。なのに彼女は俺から去ると言う。――くっ、なんたる悲劇か!」
なんだこの野郎。唐突にどうでもいいことを語り出しやがって。人類と魔族の頂上決戦まっただ中だぞ。
「あんたの事情なんて知ったこっちゃないわ! こちとら二十六歳独身、お肌の曲がり角で、親からももう孫を抱くことを諦められてるってのに、既婚者の意見なんて聞きたくもないわ! 爆死するがいいわ!」
「む。たしか、人間女性の適齢期は十代中盤から二十歳まで――」
「――黙れ。異界婚姻書によれば、あっちじゃ三十路過ぎくらいまではOKなんだよッ」
「ほう、そうなのか。……いや、待て。それこそ俺の知ったことではないだろ……。はー……、……これだから自分語り大好き女ってやつは……」
筋肉質な黒い肩をすくめ、両手をこれ見よがしに広げて、魔王レギンドルゲインがやれやれと首を振った。
いちいちムカつく! 死ねばいいのに!
でも、強い。息をするように魔法を使う。
詠唱破棄程度であれば私とて可能だ。けれどそれは目の前の魔王とは違って、両手と十本の指を動きに置き換えるというモーションを使って魔法陣を作成し、発動時間を短縮させているだけに過ぎない。
魔王レギンドルゲインは魔法陣すら必要としない。右腕を振れば炎が発生し、左手を振れば風を発生させる。おまけに出力も桁違いときたら、もはや反則だ。
「忖度するのだ、女魔術師よ。さもなくば――殺す」
「忖度忖度うるさいっ! あんたそれ、覚えたての言葉で使いたいだけでしょ!」
「……っ」
どうやら図星をついてしまったらしい。
魔王が頬を染めながら人差し指で頭を掻いて、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「気持ち悪っ。そんなだから嫁に逃げられるのよっ」
「……そ、そんなこと言うなよ……」
蚊の鳴くような細く震えた声だった。
「……“気持ち悪い”は、男が女に言われて一番傷つく言葉なんだからな……」
「そういうところよ! 女々しく予防線を張るな!」
「……う……うぅ……」
私は長衣の袖で踊る残り火を掌で叩き消し、折れていた片膝を震わせながら立ち上がった。歯を食いしばってふらつく足に力を込める。
まともな方法では勝てそうにない。何せ、こちらは満身創痍だが、あちらは無傷どころか息すら乱していないのだから。
ま、でも精神にはダメージを負わせてやった。残念ながら自慢の魔法ではなく、罵詈雑言でだけど。
「それと、私は魔術師じゃない。魔王討伐隊四大勇者が一角、大賢者レイギスアリス・アリステラだ」
「いや、ごめん。まったく興味ない。俺にとってはどちらでもかまわぬ。そのようなことより――」
魔王が真っ赤な瞳をくわっと見開き、拳を握りしめて叫んだ。
「――今すぐ女房を追わねば、我が家が大変なことになってしまうのだぞっ!?」
「いや、それこそまったく興味が湧かないんだけど」
「なんでっ!?」
私、関係ないし。どうせ惨めな独身だし。孤独死だって視野に入れてるし。どうせだったらおまえん家も炎上すればいいとすら思ってるし。
そんなことを口に出せるほど自虐的じゃないけど。
話題変えよ……。
「ふん、さすがね。人類の大賢者程度では歯牙にもかけないってわけ。これでも魔術研究を極めて、魔術師界隈ではもちろんのこと、他の勇者と呼ばれるやつらと比べてすら比類なきと言われるまでになったのだけど」
「――あ、その話もういい? 時間もったいないから貴様のこと括り殺していい?」
「そわそわしてないで聞けよッ、私の話をッ!」
魔王が眉をひそめて唇をとがらせ、困ったような顔をした。
「よく回る口だな、大賢者レイギ――……あー……なんて……?」
「レイギスアリス! 結構きれいな響きの名前だろ!? 一回でおぼえろバァ~カ!」
「無理だ。おまえに興味が湧かない。ノーサンキュー」
二十六歳の行き遅れ、お肌の曲がり角だからか!? それとも顔色が悪いから!?
いや、逃げた嫁とやらをあいつが愛しているからだと信じておこう。そうじゃないと私の心が不安定になってしまう。一応自分では美女の類だと思ってるし。
「じゃあもうレジーでいいよ! 親しい人はそう呼ぶから!」
魔王がはにかむ。
「なんかごめんな。俺たち、大して親しくもないのに」
「謝るな! 余計惨めになるじゃない! ……さっさと続けなさいよ」
「うむ。ならばレジーよ。残りの三匹の勇者とやらは何をしているのだ? 姿が見えぬようだが?」
魔王が会話に乗ってきたことの安堵をひた隠し、私は両の指先を背中に隠しながら激しく動かして新たな魔法陣を作成し始める。
詠唱短縮を使用してすら時間がかかるのだ、この魔法を完成させるのは。
もっとも、大賢者たる私であっても、使うことは初めてだ。
それどころか、未だかつて人類が使用したことのない魔法だ。なぜならばこの魔法は、私自身が創り出した新たなる魔の法なのだから。仮に、もしも太古から存在していたとしても、間違いなく禁術として封印されていただろう。
それほどの威力だ。たとえば目の前に立つ無敵の魔王はおろか、この魔王城ごと近隣魔族都市の一帯を灰燼に帰す程度には。
魔法陣が完成するまでの間、私はしゃべり続ける。決して悟られぬように。
「あいつらなら置いてきたわ。宿屋で一服盛ってね。丸一日は眠っているはずよ」
「なぜだ? 一人で俺に勝てるとでも思ったか?」
レギンドルゲインは、黒い仮面のような顔を困惑にゆがめている。
私は指先で魔法陣を形成しながら続けた。
「そういうわけではないけど。さて、どう話したものか」
「ちょっと待って? その話、長くなる? 俺、早く女房を追わないとで……」
ぶッッッッッッッッ殺ッ!!
「おぉん!?」
「怖っ!? 顔怖っ!?」
頭にきすぎて脳の血管が切れそうだ。
いや、落ち着け私。ここでキレてはいけない。目的は時間稼ぎなのだから。
「いや、そうでもない。だから少し黙って聞いて」
「なる早な」
いちいちムカつく。
「……じゃあちょっと頭で短めにまとめるから……」
「なる早でやれよ」
「うるさい、何度も言うな! わかってるわよ!」
考えるそぶりを見せる。むろん、ただの時間稼ぎだ。
魔王は純粋な瞳でこちらを眺めている。じっと待ってくれているのだ。
私は思った。
お人好しだなー……と。バカだけど。いや、バカだからこそか。
「あー、えっとな、結論から言えば、私はもうすぐ死ぬのよ」
「ふむ? 俺によってか? 別に貴様にその気があるなら、このままお引き取りいただいても一向にかまわんぞ? 俺も逃げた女房を一刻も早く追いたいしな。それはとても素敵な、WIN-WINな関係だと思うぞ」
魔王がニカっといい笑顔を浮かべて、右手の親指を立てた。
こいつなんなのよ、もぉぉぉ……!
「そういうわけにはいかないのよ。人王の命は絶対だから。私たちは、あんたの命を殺るまでは帰ってくるなって命令されてんの」
「へぇ~。怖くてガラの悪い自由業の人みたいだな、おまえらの王」
うわー、興味なさそー……。
「だから実際、戦ってあんたに殺されるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そもそもそれ以前に私はすでに病に冒されていて、余命が区切られているのよ」
魔王の表情が微かに戸惑いを浮かべた。明らかに私を気遣うようにだ。
本当に純粋だ。魔物どもの王だというから、もっと冷徹なものだと思っていたが。
私は魔法陣を創りながら続ける。
「二十六年をともにしたこの肉体も、いよいよ青楼の月までは保たないらしい」
私たちアリステラ一族に対する、竜王の呪いだそうだ。
代々続く魔術師一族の祖が古竜王と戦った際に受けた呪縛。子々孫々に至るまで、一族の女は二十代の前半で病死するのだとか。治療法は未だに見つかっていない。
母も、私を産んだ四年後に亡くなった。
それは、私、つまりレイギスアリス・アリステラも例外じゃなかった。
二十六歳――。
私の寿命はもう尽きているのだ。痛覚を永続的に殺す魔法を自身にかけなければ、本当はまともに歩行することもできなかったのだから。
それでも、母や一族の女に比べれば、私はずいぶんと長生きをした方だ。
そんな人生だ。数年どころか数日で死ぬかもしれないのに、結婚して、ましてや子を授かるなんてことは、私には考えられなかった。
モテなかったわけじゃない。いや、ほんと。ほんとに。むしろ割とモテてた。十代の頃は、だけれど。
「……そうか。大変だったな。寝てなくていいのか?」
優しい……。なんで敵の心配してんの、この魔王……。ついさっきまで、殺すとか言ってたくせに……。
「余計なお世話よ。肉体は衰えた。それでも残る三人よりは、私の方が遙かに強い」
「だとしても、四人そろって挑むべきだったのではないか? ここで俺を倒して生き残れさえすれば、余生もあったであろうに。それが何ヶ月かでも、何日かでも」
魔王がゆっくりと頭を振った。
「――いや、たとえ星が瞬くだけの瞬間しかなかったとしても、伝えられることや、成せることはあるはずだ」
おかしなやつだ。ずいぶんと人道的なことを言う。
だが不覚にも少し好きになった。こいつが人間だったら、胸がキュンってしてたかもしれない。さすがは女の扱いに慣れた既婚者だと言っておこう。
けれど激しく動かす指は止めない。私以外の人類の、未来のために。
そう、そうだとも。私はこの人の好い魔王を殺す。殺すのだ。今から。
なのに、私は。
私は魔王の質問に対し、素直に本音を語っていた。
「……何もない私には、そんな余生に価値なんて見出せない……」
「やり残したことはないのか? 机の引き出しにエッチな魔法書とか隠してないのか? 淫夢とか見られるやつだぞ? そういうのとて、数秒あれば燃やせるだろ? あっ! もしかして、淫魔の召喚書とかまで持ってる上級者っ!?」
クッッッソがぁぁーーーーーーッ!! トキメキかけた乙女心を返せッ!!
乙女()笑
魔王()笑