6(挿絵付き)
そこは水道の栓がゆるく、シンクを叩く雫がぽたりぽたりと耳障りに鳴り続けていた。埃と黴臭さと煙草の煙が混じったような匂いがその部屋には充満していて、ここで呼吸をするだけでも寿命が縮まりそうだ。
上半身を起こすとソファのスプリングが軋んだ。
「目が覚めたのか」
その声の主はソファの向こう側、向かい合わせになった六つのデスクの奥にいた。床は無機質な灰色のコンクリートで、スリッパを履くと裏に砂利の感触がした。
「寝てなよ。朝までまだ長い」
部屋の無機質さによく馴染む冷たく乾いた声だった。
「志那さんは……何をしているの?」
声変わり前の僕が訊ねる。彼女の名は志那というらしい。部屋にいたのは僕と彼女の二人だけだった。そして僕は、彼女に対して少し緊張していた。
「……六二点。『異星の客』に比べて遥かに劣る。本当に同じ人間が書いた作品なのかしら」
志那はつまらなそうにそう言い、持っていた本を床に落とした。僕の言葉は無視されたようだ。ショートパンツから伸びた両脚をデスクの上に放り出し、赤い箱から煙草を一本取り出し、火を付ける。
「煙草は体に悪いよ」
「……へえ、初耳ね。誰に聞いたの?」
志那は被っていた黒いキャップを手に取った。帽子に描かれたネコ科の黄色い瞳が、迷路のように入り組んだ天井のパイプに向けられる。
「……おじさん」
僕は恐る恐るといった感じでそう答えた時、僕の頭に“おじさん”の顔が浮かんだ。見たことのある顔だったが、僕とどういう関係にあるのかまでは思い出せない。
「確かに健康に気を遣っていそうな印象だったわね。無味無臭のシリアルを食べて、ジョギングをしている姿が想像付くわ」
志那は人差し指で帽子を回しながら言った。皮肉っぽい言い方だった。僅かに感情が波立つのを感じた。
「おじさんはいい人だ。身寄りのない僕を引き取ってくれて今日まで育ててくれた。迷惑をかけてばかりなのに、優しくしてくれて、いつも僕の味方になってくれた」
「それは素晴らしいおじ様だったのね」
「……うん」
「おばさまも優しかった?」
「まるで母親みたいだった。本当の母親なんて知らないけれど……」
「幸せ、だった?」
「……幸せだった、と思う」
「ふうん……なら、どうして私に付いてきたの?」
「それは……」
そう言われ、僕は言葉に困っていた。といっても、実際に困っているのは少年の種村生切なのだが。
これは夢だ。夢の中で見るこの男の記憶の断片に過ぎない。よって、僕であるこの少年が口を開くまで、映画の観客のように固唾を飲んで見守るしかない。
「答えたくないなら答えなくてもいいわ。そもそも飼い主がペットの言葉に聞く耳を持つなんて不自然だもの」
「……ペット?」
「別にお人形でも奴隷でも呼び方は何でも構わない。何にしても、私が命令をしてあなたがそれに従う。その関係を悲劇的に呼ぶのも、自虐的に例えるのもあなたの自由にすればいいわ」
僕は一瞬、戸惑った。心臓の鼓動が早い。かなり焦っているようだ。
「そんな……約束が違っ」
「約束、何のこと?」
「だって……僕を助けてくれるって」
「何を言ってるの」
志那が僕を睨んだ。
「私がいなければ、あなたはおじさんに食い殺されて死んでいた。それを救った上に、脱出の手助けまでしてあげた。これでもあなたを助けたことにならないと言うのなら、あなたは欲の塊よ」
「……僕は仇を討ちたいんだ」
「仇って誰の? 健康依存のおじさまの仇かしら。だったらあなたの仇は目の前にいるわ」
「ち、違うよっ……僕が許せないのは、村を滅茶苦茶にしたやつらで……」
薄い唇から漏れ出る白い煙。睫毛の奥の濃い色彩。僕を見ている。同情心の欠片もない、死者のような瞳。
「何を考えようと、あなたが取れる選択肢は二つだけ。私の手足として生きていくか、さもなければ今すぐここから逃げ出すか……さあ、どっち?」