5
四人掛けのテーブル席に、僕たちは座った。
爺さんはカウンターの椅子を持ってきて、そこに座った。無言で灰皿を寄こす。僕はそれを引き寄せ、煙草に火を付けた。口から吐き出された煙がシーリングファンに掻き回されて姿を消した。
「落ち着いたかい?」
「ええ……ありがとう」
彼女はそう言ってコップに残った水を飲みほした。涙で流した分の補充には十分な量だ。
「このお店、私、好きよ。とても落ち着いていて」
「そりゃどうも」
「……それで、どうして僕の所に?」
僕が訊ねると、彼女は一枚のメモ用紙を見せた。そこには僕の名前が書かれていた。
「あなたに守ってもらいなさいって父に言われたの」
「生切、切波城一郎を知ってるのか?」
「いや知らないよ……少なくとも今の僕は」
「どういう意味?」
爺さんが口を開く前にこちらを見る。僕は視線をテーブルに下ろした。別に話しても構わない、という意味で。
「この男は昔のことを忘れちまってるんだ。だからだよ」
「記憶……何かあったの?」
「別に大した事情じゃない」
ここは僕が答える。爺さんにもこのことについては教えていない。
「申し訳ないが、過去に何があったにせよ、今の僕に君を守る理由はない」
「おい、冷たいこと言うなよ。この子は今や天涯孤独の身なんだ」
「関係ない」
「関係ないって……あなたも神矢陣を探しているんでしょ?」
彼女に目を向けた。
「そうか。僕は君のお父さんに会ったことがあるのかもしれないな」
「私はその男についての情報を持ってる。あなたにとっては喉から手が出るほど欲しい情報じゃない?」
「つまり、情報を渡す代わりにボディーガードをやれと? 御免だね」
「……守ってもらおうなんて思ってない」
この時の彼女のような目を僕はこれまで何度も見て来た。報復を願う者特有の黒い輝き。自分の命を復讐のために燃やすことを決意した人間の目だ。
「そんなに人殺しがしたいか?」
僕が訊ねると、彼女は眉を潜めた。
「あなたのような殺し屋が言うセリフじゃないと思うけど」
それもそうだ。僕は笑って同意した。
「あんたみたいな子どもには無理だ。一切手を出さないと誓えるなら、単なる依頼として受けてやってもいい」
「やめとけ、生切」
爺さんは首を掻き、僕を見てため息を付いた。
「爺さん、なぜ止める」
「冷静に考えろ。相手はあの切波城一郎の屋敷を襲い、彼女の家族の命を奪ったんだ。お前一人で何とかなる相手じゃない」
「そんなの、やってみなければ分からない」
「確かにお前は暗殺に関しては優秀だ。一度もしくじったことはない。俺が一番信頼しているジョブパートナーだよ。しかし、今回は止めておけ……嫌な予感がする」
「……ふざけるな。僕が何のためにここにいると思っている」
僕は感情的になるのを我慢できなかった。その場を離れようと立ち上がる。
それを止めたのは、切波命だった。
「離せよ」
「何よ。逃げる気?」
「逃げる? どうして僕が」
抵抗したが、彼女は両手で僕の腕を掴み、絶対に放そうとはしない。
「頼れるのはあなたしかいないの……でも私一人じゃあの男を殺せない。あなただけでも無理」
「……なぜそう言い切れる」
「分かるわよ……だって私は目の前で父が殺されるのを見たんだもの。それに相手だって一人じゃない。真っ向勝負じゃ不可能だわ」
「じゃあ、どうしろと」
「……私も、戦う」
「……嬢ちゃん、そりゃ」
爺さんは言いかけて、途中で口を閉じた。その理由は僕にも分かった。真っすぐと僕を見る瞳。未だ僕を掴んだままの手。今の彼女には何を言っても無駄だ。
しかしそれは憎悪で回りが見えなくなっているからじゃない。むしろ彼女は冷静だった。沸騰している感情に必死に蓋をして、冷静であろうと努めている。
「私は切波家の正統な後継者。魔術だって使える。あなたの足は引っ張らないし、私の力は絶対に役に立つ」
その言葉に思い上がりや驕りは見られなかった。客観的に考えて、そう言っているのだ。家族が殺されてから今に至るまでの短い時間、その間で彼女は覚悟したのだろう。
そう思ったからこそ、僕はこれ以上、反論する気は起こらなかった。
「……いいだろう」
僕は再び椅子に腰を降ろした。彼女の少しほっとした顔。掴んでいた手から力が抜けていくのが分かった。
「……私の依頼、受けてくれるわね」
彼女が訊ねる。僕は少し考えた後、返答した。
「言葉だけでは信頼できない」
「お金なら払うわ。いくら?」
「そうじゃない……そうだな。一度、僕の家に来てもらおうか」
「……もしかして身体目当てじゃないでしょうね」
「おいおい」
僕は指で机を小突いた。
「つまらない冗談は嫌いだ。あんたの力が手を組むに値するかどうか見るんだよ」
「ふうん。つまり依頼を受けるかどうかは私の実力次第ってわけね」
「不服か? 別に断っても構わないけれど」
「まさか。やるわ」
彼女は立ち上がる。それを見て、爺さんがやれやれと首を振った。
「ったく……しょうがねえ野郎だよお前達は。糞ったれ」
「爺さん、悪いけど今回ばかりは」
「うるせえ」
僕の言葉に爺さんは手を振ってよろよろと立ち上がった。
「爺さん……」
「お爺さん、ごめんなさい……でも、私」
「言うな」
切波の言葉をぴりゃりと止め、よろよろとカウンターに戻る。その姿は痛ましかった。しかし、ここで声を掛ける気はない。神矢陣を追いかけるのを止めるつもりはない自分に何が言えるというのか。
僕は切波命に目で合図をした。彼女は爺さんを気遣ってか躊躇する素振りをみせた。しかし、彼女もまた後戻りはできる立場ではない。荷物を手に取り、爺さんの背中に向けて頭を下げる以外にできることはないのだ。僕はミルク代に迷惑料を含めた分の金をテーブルの上に置いた。
「生切っ!」
爺さんが僕に声を掛けたのは、切波が先に店の外に出て、その直後のことだった。
「……とりあえず、そのふざけた実力テストが終わったら、報告してくれ」
「……分かったよ」
僕は振り返らなかった。振り返れなかったと言う方が正しいかもしれない。爺さんの顔を今見て、気持ちが揺らぐのを恐れたのかもしれない。ドアを後ろ手で閉め、まっすぐと階段を上った。
地上の空はすでに白みつつあった。早朝の風が少し肌寒かった。
「あの、ごめんなさい」
切波命は申し訳なさそうに視線を下ろした。他人の気持ちを慮る、優しい性格なのだろう。切波城一郎は優秀な術士であると同時に、よき父親でもあったのかもしれない。
「気にしなくていい。元々、爺さんは僕の復讐には反対だったんだ」
「そうよね。私たちの復讐なんて第三者にとっては何の意味もないもの」
「ああ……そうだな」
彼女は知らない。僕にとっては復讐ですらない。かつての種村生切にとってはそうだったのかもしれないが、それは半年以上も前の話。今の種村生切の中には、復讐するだけの憎しみも怒りも存在しない。本当は僕自身、神矢陣を追う目的を理解していない。
それでも僕は、少なくとも今は、爺さんの願いを叶えるわけにはいかない。僕は知らなければいけない。
「何の意味もないと分かっていても、やらなければいけない」
それ以外に、何も見当たらないから。自分がこの世界にやってきた意味が。
「行きましょう」
「ああ」
向かい風だった。